雪触手と空飛ぶ尻尾

今日のお兄ちゃんはツイナさんの匂い――檜山遥の日記・一


「ただいま」

「おかえりー。お兄ちゃん!」

 夕方、帰ってきたお兄ちゃんに私は勢いよく抱きつきました。胸に顔を埋めて、くんくんとお兄ちゃんの匂いをかぐのは私の日課です。

「……ん? お兄ちゃんから女の人の匂いがする」

「いつもながら、よくわかるな」

「お兄ちゃんの妹だもん。ツイナさんの匂いだよね?」

 ツイナさんはポーニャさんの妹。今朝迎えにきたときに見たけれど、ツインテールの綺麗な女の人でした。匂いはわからないけど、知らない匂いだったから推測です。

「ずっと一緒にいたんだね。じゃないと、こんなに染みつかないよ?」

「そんなにはっきりとわかるのか?」

「ううん。でも、私は妹だよ」

 私は胸を張って自慢します。お兄ちゃんとずっと一緒に暮らしている妹として、お兄ちゃんの匂いの変化に気付けないようでは妹失格です。

「さすが遥だな。ほら」

「……ん」

 お兄ちゃんはご褒美に、私の頭を優しく撫でてくれました。大きくて冷たい手。手袋はしていても、冬の北海道は寒いから当然です。でも、お兄ちゃんの手なら何でも気持ちいいから、私は頬を緩ませていました。

「えへへ、おにいちゃ……んっ」

 つい嬉しくなって、私はもう一回お兄ちゃんに強く抱きつきました。でも、抱きついた瞬間にぴりぴりするものが体中に。

 顔をしかめたのは見えてないと思うけど、私の様子に気付いたお兄ちゃんが声をかけてくれます。

「遥? 大丈夫か?」

「うん。ちょっとぴりって。静電気かな?」

 冬に静電気はつきもの。このぴりぴりする感じは嫌いじゃないけど、今日のぴりぴりはいつもよりちょっとぴりぴりしていて、でも全く痛くない不思議なぴりぴりでした。

「お兄ちゃん、そんなことよりごはんだよ。ほら、早く」

「ああ、すぐに行く」

 今日のごはんは腕によりをかけてつくった、牛ヒレカツと大盛のキャベツ。いっぱい遊んで疲れたお兄ちゃんには、元気の出る食べ物を用意しておきました。

 楽しい食事の時間が終わって、食器を丁寧に洗うお兄ちゃんのお手伝いです。初めの頃は私もお兄ちゃんも家事は下手だったけれど、桜さんと菊花さんに教わって今ではだいぶ上達しました。

 食器洗いを終えたら、今日の家事はおしまいです。私はソファに座るお兄ちゃんの間に挟まるように座って、背中をお兄ちゃんにぴったりくっつけてくつろぎました。

「お兄ちゃん、ツイナさんの家はどうだった?」

「塔だった」

「ふえ?」

 私はお兄ちゃんの顔を見上げます。冗談かなと思ったけれど、お兄ちゃんはいつも真面目で冗談はあまり言いません。匂いもいつもと同じだけど、今日は知らない匂いも混ざっているのでちょっと自信がないです。

「十階もある大きな塔だった」

「へえ」

「やっぱり見ないと信じられないよな」

「信じるよ。でも、想像は難しいかな」

 塔と言われても形は様々です。ぼんやりとテレビでよく見かける札幌のテレビ塔を想像してみたけど、どう考えても居住スペースが足りないので、多分違うと思います。

 他に思いつくのはエッフェル塔やピサの斜塔、時計塔。ピサの斜塔を真っ直ぐにしたり、時計塔を高くしたりしたものに近いのかもしれません。もしかすると、和風な五重塔みたいなのかもしれないです。

「あっ」

 住居と塔の組み合わせといえば、一つ思い当たるものがありました。かつての魔法王の塔もそんな感じの塔だったような気がします。

「あれ?」

「どうした、遥」

「あ、うん。塔について考えていたんだけどね」

「ああ。そうだな、絵にするのは……ちょっと面倒だな」

「それはいいんだけど。お兄ちゃん、魔法王ってなんだっけ?」

「なんだそれ」

 頭に浮かんだけれど、それが何なのかはよくわかりませんでした。でも記憶にあるということは見たことがあるということです。魔法っていうくらいだから、きっとファンタジー世界の何か。となると答えは一つしかありません。お兄ちゃんの持ってるゲームの塔です。

「魔法王なあ……んー、いや、記憶には、んん?」

「覚えてる? お兄ちゃん」

 予想的中です。ラスボスの住む塔、もしくは主人公か何かの拠点の塔と見ました。

「魔法王……魔法王か……」

「そう、魔法王」

 名前はわからないけど、その名称だけははっきり覚えています。ゲームのキャラクターにはそういう役職だけのボスも結構いるので、そうに違いないです。

「何のゲームだったか、いや、現実? いやいや、そんなわけないよな。けどなあ」

「わからない?」

「ああ、やったゲームのことは大体覚えてるから、一つ一つ思い出してみたんだが、魔法王という名前は出てきてないな」

「じゃあ、塔は?」

 私の記憶が間違っているだけかもしれないので、別の質問をしてみます。

「ああ、それならいくつかあるけど、低い塔だぞ? 遥が安土塔を想像して考えたのなら、ちょっと違うな?」

「安土塔?」

「ああ、ツイナの家だよ。学校では安土ツイナって名乗ってるんだ」

「そうなんだ」

「幸い、学校では大人しいみたいだけどな。代わりに、外ではそうでもないみたいだが。今日もクーリと張り合ってたよ」

 お兄ちゃんからクーリさんのことは聞いています。会ったのはツイナさんと同じく、今日の朝が初めてだけど、白いうさぎさんのぬいぐるみに入っていたので中身はわかりません。くりぐるみというそうです。

 地下深くに住む触手族のお姫様。そう、かつて人間と――魔法王と争った触手族の末裔。人間族として強すぎる力を持った魔法王は触手族を制圧し、自らを世界の覇者であると示そうとしました。けれど、側近数名で挑んだ過信と慢心が彼の最大の失敗。百手程度しかいないとはいえ、力を合わせて戦った触手族に敗北し、魔法王の力は封印されてしまいました。

「……あれ」

「また何かあったのか?」

「うん」

 私は力なく返事をします。なんだろう、この記憶、それとも知識? 私の頭にまたはっきりと浮かんだのは、魔法王と触手族の争いの歴史でした。

「お兄ちゃん、抱きしめてほしいな」

「どうしたんだ?」

「なんかね、ちょっと確かめたくて」

 確かめたくて? 普通、こういうときはちょっと怖くて、というせりふを言うべきです。でも、私の口から自然に出てきたのは、そんな一言でした。

 お兄ちゃんは不思議な顔をしながらも、私をぎゅっと抱きしめてくれました。

「これでいいか?」

「うん……うん……そっか、えへへ」

 私は微笑みます。お兄ちゃんに抱きしめてもらって、ようやく理解できました。

「遥?」

「ええと……こう、かな? お兄ちゃん、ちょっとぴりぴりするよ?」

「ぴりぴり? ――む」

 いつもより強いけど、全く痛くない不思議なぴりぴり。その正体も判明しました。

「ねえ、お兄ちゃん」

 私はお兄ちゃんを見上げて、一つの頼みごとを口にします。やっぱり彼女に会わないと、今の私にはぴりぴりが限界みたいです。

「私、クーリさんに会いたいな」

「クーリに? 会おうと思えば明日にでも会えると思うが」

「明日……あ、でも、ツイナさんとポーニャさんにも会いたい」

「あいつらにも? その二人は家も遠いし、電話番号も知らない……というか、電話を持ってるかどうかもわからん。月曜日なら話せるから、どうする?」

「じゃあ、その日の放課後で。ありがとう、お兄ちゃん」

 わたしはお兄ちゃんの抱きしめる手にそっと手を添えて、お礼を言います。

「ああ。で、そのときには色々話してくれるんだな」

「うん。お兄ちゃん、大好き」

 さすがお兄ちゃんです。私の様子がおかしいことにちゃんと気付いていました。本当は今すぐにでも話したいところだけど、そうするとお兄ちゃんはクーリさんに会わせてくれないかもしれません。

 一人で会いに行くこともできるけど、やっぱりお兄ちゃんと一緒がいいから、今はだんまりです。私も女の子。お兄ちゃんにだってすぐに言えない乙女の秘密があります。

 それから、その日はいつものようにお兄ちゃんと一緒にお風呂に入って、同じベッドで眠りました。その間、お兄ちゃんはなにも聞かずにいつものまま、優しいお兄ちゃんでした。


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