「はい。あーん、ですわ。お兄ちゃん!」
「あ、あーん」
そして翌朝。俺はなぜか瑠那にカレーを口に運ばれていた。なんでこんなことになっているのかは、よくわかっている。彼女にお兄ちゃんと呼ばせたのはこの俺だ。
「なあ、瑠那」
「ふふ。なんですの? 晴人さんには、しばらくはお兄ちゃんでいてもらいますわよ?」
「そうだな、うん、わかってるんだが」
正直に言ってかなり恥ずかしい。彼女の魔法をこれからも成功させるため、熾月ちゃんの魔法暴走症を治療するため、そのためにがんばる樹さんのため。この関係が重要であることはわかっているのだが、やはりとても恥ずかしい。
「お兄様にあーん……夢のようですわ。でも、お兄ちゃんなのが残念ですわね」
「むすー」
そしてもうひとつ気になるのが、後ろでふよふよしているゴーストの少女だ。
「むっすー」
俺にしか聞こえないのをいいことに、不満をはっきり声に出すふぁいん。始まったのは瑠那のあーんが始まってからだったので、話を聞くことができない。あーんという恥ずかしい状況の中、冷静に合図を返せるほど俺の精神は強くない。
今日は昨日の夜に見つけた、壁の向こうにあるものを調べたいのだが、その前にふぁいんをどうにかしないといけない。
「瑠那ちゃん、場所を考えた方が……」
「あら、熾月? この場にいる方なら事情は知っているでしょう?」
樹さんたちには昨日の帰りに、沢登さんには今朝、事情の説明はしてある。沢登さんはすぐに理解を示してくれたが、女性陣はあれで納得してくれたのかどうかわからない。八雲さんはまあいいとして、問題は樹さんだ。
「ふふ、熾月もやりますか?」
「あ、じゃあ、いいですか?」
「……ええと」
「あーん」
「……ん」
迷っている間にスプーンを差し出す熾月。彼女のわくわくした笑顔を見ては、これを受け取らないわけにはいかない。
「ふーん……へー……」
ふぁいんの声が変わったけれど、意味することは変わっていない。しかし、今はそれよりも他の二人が問題だ。
瑠那と熾月に挟まれる俺は、反対側に座る樹さんと八雲さんを見る。沢登さんはさっさと朝食を済ませて、調べることがあると資料室に向かっていた。
樹さんはいつもと変わらない表情で俺たちを見ている。多分、誤解はされてないと思いたいが、食事を終えたら直接尋ねたいところだ。もう一人、樹さんとは別の意味で心配な八雲さんは、無表情でぼんやりと俺を見つめていた。何を考えているのかはわからないけれど、おそらくこちらは彼女から接触してくると思う。
食事を終えて、俺は真っ先に樹さんのところへ向かった。
「樹さん」
「はい、なんですか?」
「瑠那のことなんだけど」
「はい。仲良くなれて良かったですね」
微笑みながら、いつもと変わらない様子の樹さん。
「昨日も説明したけど、お兄ちゃんっていうのは……」
「もちろん、わかっていますよ。誤解なんてしていませんから、ご安心ください」
「ああ、それならいいんだが……」
「まだなにか?」
ただ、なんだろう。どこか樹さんの態度がよそよそしいような、そんな気がしないでもない。気のせいだろうか、しかし、そこまで踏み込む勇気は今の俺にはなかった。
「晴人くんのシスコン」
……後ろのふぁいんは非常にわかりやすくて助かる。
「今日は地下のことを調べようと思うんだが、樹さんは?」
そして俺は別の話題に変える。こっちも重要なことだ。範囲は広くないので全員で調べる必要はない。俺は探索に参加する予定だが、他で確認がとれているのは、今日一日、資料室にこもるという沢登さんだけだ。現状、危険は少ないとはいえ、個人が勝手に行動して居場所がわからなくなるのはなるべく避けたい。
「そう……ですね。私はのちほど、午後に一人で調べたいと思います。それと、妹さんと熾月もお借りします」
「樹さん?」
「冗談です。晴人さん、お二人とあまりにも仲がいいから、ちょっとからかってみたくなったの。それより……」
「ああ、治療の話をするんだろ? わかった、じゃあ午前中は俺が調べておくよ。危ないものがあったら樹さんに伝える」
「よろしくお願いします」
「では、私もご同行しましょう」
待ち構えていたように――実際、待ち構えていたのだろう――八雲さんが言った。
「あなたには話しておきたいこともありますし、二人きりで調べましょう」
「はい。わかりました」
笑顔の八雲さんの提案を断る理由はなかった。ふぁいんのことも気になるが、まあこちらは後でもどうにかなるだろう。探索を追えてから、少し休みたいとでも言って一人になればいいだけだ。
「晴人くん、八雲さんにまで手を出すんだ……」
『までってなんだ、までって』
それでもしっかり合図は返しておく。
昨日、瑠那の魔法で壊れた壁の先にあった実験室。ゆきだるまは動き出す危険はなさそうだったので置いといて、俺と八雲さんは手分けして左右にある扉の先を調べた。
右の両開きの扉の先には通路があり、繋がっていたのは研究棟の地下。ちょうど、昨日怪しんだ壁の裏である。短い廊下の先には壁がある行き止まり。どう考えても、後から壁が作られたのは間違いない。
もう一方、八雲さんが調べた左の扉の先も同じ状況だった。ガラスの先に見えた測定室へと繋がる扉の奥、そこにあったのは廊下。左には壁、右には小さなトイレ。こちらの壁も、最初からあったものと考えるにはおかしな位置である。
つまり、元々地下には同じ大きさの測定室と実験室が二つあり、何らかの事情で片方を封鎖した――俺と八雲さんの意見はすぐに一致した。
そして便宜上、封鎖されていた実験室は旧実験室、通路は旧通路と呼ぶことにする。トイレや測定室は特に重要そうでもなかったので、呼び名は決めなかった。
「原因はやっぱり、これですかね?」
「でしょうね」
旧実験室のゆきだるま。双頭の不思議なゆきだるまだが、溶けていないことから普通のゆきだるまでないのは明白だ。ゆきだるま型の魔法人形。ということは調べてすぐにわかったのだが、何のために作られたものかはわからなかった。
魔法人形というからには、動力は魔法。動かしてみればわかることもあるだろうが、制御の仕方もわからないものを試しに動かすのは危険である。
「とりあえず、これは詳細がわかるまで触れないようにしましょう。資料室に手がかりがあるかもしれません。もっとも、ある程度の推測はできますが……」
「そうですね。あれほどの魔法でしか壊れない場所に隠す以上、考えられるのは戦闘用の魔法人形、もしくは……」
「軍事用、ですね」
万が一に動きだしても安全なように、または、偶然訪れた何者かに見つけられないように、あるいは両方の理由でここに隠したのだろう。もしかすると他の意図があるのかもしれないが、ここで重要なのはただひとつ。この魔法人形は人を傷つける危険性が高いということ。それだけだ。
「樹さんにも伝えておきます」
「ええ、そうしてください。調べるのは結構ですが、決して魔法は使わないようにと」
魔法人形といってもタイプは様々だ。動力が魔法ということは共通しているが、僅かな魔力でも動くものから、大量の魔力を必要とするものもある。戦闘用や軍事用なら、複数の動力を組み合わせている可能性もあるだろう。
「さて、それでは別の話を致しましょうか」
「じゃあ、場所を移しましょう」
「そうですね。せっかくですから、壁、壊しておきましょうか?」
「崩れる心配はないと思いますけど……やるの、俺ですよね?」
「もちろんです。必要な魔法はお教えします」
そうして、今後の移動を楽にするために、俺たちは見つけた二つの壁を壊しておいた。測定室や旧通路への扉に対魔法素材を使っているためか、壁自体は脆く、壊してもいいものだと知っていれば壊すのは簡単だった。
そのまま俺たちは研究棟の階段を上り、他に人がいない仮眠室へと場所を移す。樹さんと瑠那、熾月の三人は一階、玄関から見て左奥の研究室で話をしている。
簡素なベッドの並んだ仮眠室で、綺麗なメイドさんと二人きり。シチュエーション的にはなかなかのものだ。といっても、実際は俺と八雲さんの他にも、ゴーストのふぁいんもいるから二人きりではないのだが。
「熾月さんだけでなく、お嬢様とも仲がよくなったようですね」
「ええ、まあ、そうですね」
「私が百合をこよなく愛する者であることはご承知の通りですが……」
これが女の子同士の恋愛を意味する百合ではなく、花の百合だったら可愛らしい話で済むのだが、当然そんなことにはならない。
「私は百合の世界に男は不要、と考える一派でないことをお伝えしておきます」
「なるほど」
「もっとも、男が中心となるのは否定させていただきますが、あなたがあくまでも棒に徹するというのであれば、お嬢様と熾月さんの愛を育むのに協力していただきたいと思っています」
「棒?」
なんかよくわからない単語が出てきたので、他の部分は無視して聞き返す。
「あなたの下半身についてる棒です。言わせるんですか? 別に構わないですが」
「いやいいです、よくわかりました」
「ご理解頂けたようで。それでですね……」
「まだあるんですか?」
「ええ。ここからが重要なのですが……あなたがお嬢様や熾月さんに手を出すようなことがあれば、相応の覚悟をしてもらうことになりますので、よろしいですね?」
「ああ、はい。それなら大丈夫ですよ」
「お二人が成長しても、同じことが言えますか?」
「はい。ええと、その、俺には昔から好きな人がいますから」
八雲さんの質問に、俺は少し戸惑いながらもはっきりと答える。
「その方に振られたとしても、同じことが言えますか?」
「一度振られたくらいで諦める気はないですよ。完全に嫌われたら、ちょっと自信はないですけど」
「なるほど。わかりました。では、私も応援させてもらいましょう。あなたと美晴さんの恋が実りますように」
「はい……って、あれ?」
「なにか?」
小首を傾げる俺に、八雲さんは平然と答える。
「なんでそれを」
俺は樹さんの名前を口にしてはいないはずだ。なのに、なんでこの人はそれを知っているのだろう。
「なんで、と言われましても……あなたの様子を観察していればすぐに気付けるかと。むしろ、気付かれていないとでも思っていたのですか? まあ、誰かさんのように、幼女にしか興味がない方なら気付かないかもしれませんが……」
「そんなにわかりやすいですか?」
「ええ、それはもう、とても」
瑠那だけでなく八雲さんにも、俺の気持ちを気付かれていた。ひょっとして、熾月も気付いているのだろうか。気にはなるが、わざわざ確かめようという気にはならない。
「一途だよねー、晴人くんは。少し安心したけど、浮気はだめだよー」
『機嫌は直ったのか?』
「さあ? 少しは直ったかも?」
合図を返すと、ふぁいんは俺の前に出てきて、微笑んでみせた。八雲さんのおかげなのだが、ふぁいんのことを知るのは俺だけなので、素直に感謝の言葉は口にできない。
「ああ、それともうひとつ」
「え?」
さすがにもう話は終わりだろうと思っていたら、彼女の話はまだ続いていた。
「脱出の準備についてですが、順調にいけば今日中には。明日には実行予定です。皆さんの協力が必要となりますので、よろしければお願いしますね」
「脱出……」
瑠那の言っていた、確実に成功するかはわからない、というあれのことか。
「失敗の可能性はあるんですよね? 危険は?」
「多少はあります。無理せずに救出を待っていた方が安全ですから、強要はしません。一人でも反対者がいれば行わない――そう、ロリコン伯爵とは話をつけています」
最後の呼び方が気になったが、沢登さんのことだとはわかったので黙っておく。
「わかりました。考えておきます」
ふぁいんがまだいる以上、樹さん以外の全員に死の危機が迫っているのは変わらない。少しでも危険があるなら避けるべきだが、脱出できれば全てが解決するのも事実。すぐには決められないので、俺は個室に戻ってじっくり考えることにした。
ふぁいんにもしっかり相談する必要がある。さすがにこれだけのことを、片手間の合図だけで済ませるのは難しかった。
「ふぁいん、どうする?」
「うーん……私に聞かれても困るんだけど」
ふよふよ、ふわふわ。俺に聞かれたゴーストの少女は、苦笑いを浮かべるだけだった。
「やっぱり、何か思い出したり、気付いたりしたこともないのか?」
「ごめんね、頼りにならなくて」
「そうか」
その言葉だけで、何も手がかりがないのはわかりきっている。ここでの俺の選択は、樹さん以外の全員――俺、瑠那、熾月、八雲さん、沢登さんの生死を分ける、重要な選択なのかもしれない。俺一人でも反対すれば、明日の計画は実行されないのだから。
計画の詳細については、目処が立ったら話すとのことだったが、魔法連絡塔を利用するということだけは決まっているという。魔法連絡塔は研究施設ではなく、雪原にある。だとすれば、研究室で生き残ったのは樹さん一人という末来には繋がらないが……施設の周囲に広がるのは雪山。雪崩一つで研究施設まで流される可能性もある。
「わかった。話を聞いてからもう一度、だな」
そして、夜になって伝えられた詳細は、魔法連絡塔を起動して救助を求める信号を送るというもの。魔法連絡塔に向かうのは沢登さん、八雲さん、俺。三式の防寒魔法を使える三人だ。
実行するかどうかは明日の朝に尋ねるとのことで、俺たちは各々の個室に戻って考えることになった。といっても、おそらく俺以外の全員は賛成することだろう。
樹さん以外に死の危機が迫っていると知るのは、俺とふぁいんだけなのだから。
「ふぁいん、君はどう思う?」
「わからない。けど、試す価値はあると思う」
「同感だな。俺も賛成しようと思う。それで、ふぁいん」
「うん。私はここに残るよ。何かあったら、美晴に何となく伝えて、君にも伝える」
「ああ、頼むぞ」
こうして俺たちの意思は決まった。危険はあっても、黙っていれば必ず助けがくるとしても、それが必ず間に合うとは限らない。途中で設備に不具合が起きて、ここでの生活が難しくなれば、それでおしまいということもありえるのだ。明らかな故障の危険はないとはいえ、全ての設備について隅々まで調べ尽くしたわけではない。突発的な故障もありえるし、慣れない設備で操作を間違える可能性もある。
どちらの危険性が高いかというと微妙なところだが、滞在日数が長くなるほど後者の危険は高まっていく。早く脱出できる可能性があるなら試すべきなのだ。
登場人物
一ノ木晴人:いちのき はると
ふぁいん:ゴースト
魔堂瑠那:まどう るな
樹美晴:いつき みはる
降谷熾月:ふるや しづき
沢登鋭一郎:さわのぼり えいいちろう
八雲妹:やくも まい