まじかるゴースト


一月二十六日 午前十一時四十一分 研究棟一階 食堂


『探検隊ってなんなんだよ』

 昼食のカレーライスを食べながら、俺はふぁいんから実験棟についての報告を受けていた。空いた左手でたまに合図を返しつつ、不自然に思われないように、基本的には聞くだけで対応する。

 もっと落ち着いたところで情報交換を、と最初に合図を返したら、今すぐにした方がいいとふぁいんが勧めてくるので、ここで聞くことになった。幸い、合図を返すのに困ることはなかったが、表情を変えずに彼女の話を聞くのには少し苦労した。特に熾月の過去の話とか、八雲さんの百合全開発言とか、そのあたりで。

 全てを聞き終えたところで、食事も終わる。瑠那が俺のところにやってきたのはちょうどそのときだった。まだふぁいんにこちらの情報を伝えていないのだが、そちらは急ぐことでもないだろう。

「晴人さん、話がありますわ。よろしいですわね?」

「ああ。場所を移そうか」

「話が早くて助かりますわ」

 そりゃ、大体の事情はふぁいんから聞いていたからな、とはさすがに言えない。俺は瑠那と近くの休憩室に移動して、話を続けることにした。沢登さんは不思議そうにこちらを見たけれど、八雲さんに声をかけられて何事かを話していた。当然、樹さんや熾月から送られてくるのは視線だけで、言葉は飛んでこない。

「熾月のことで、あなたに協力してもらいたいのです」

「そうか。話してくれ」

 何も知らない振りを装って、というのはちょっと難しかったので、何となく察しているくらいの感じで対応する。適当に相槌や質問をぶつけながら話を聞いて、最後に瑠那が言った。

「ということで、魔法の練習に付き合ってくださいな」

「構わないが、それ、急がないといけないのか? 瑠那のところなら、実験棟の地下と同じくらいの設備はあるんじゃないか?」

 俺が気になったのはそこだった。熾月のためにも、樹さんのためにも、魔法暴走症の治療に繋がるなら協力はしたい。けれど、今はそれよりも優先すべきことがある。

「ふふ、ご安心を。そちらは八雲が動いていますわ。沢登さんと協力して、脱出の準備を進めておくそうです。確実に成功するかどうかはわからないとのことですが、黙って救出を待つより早い方がいいでしょう?」

「黙っていても救出は来るのか?」

「魔堂家の大事な一人娘と、幾人かの魔法使いが消えた……どう考えても原因は私ですから、魔堂家や学園が動かないはずがありませんわ。でしょう?」

 胸を張って自信満々に言う瑠那。彼女の魔法の実力は、八雲さん以外にも知られているようだ。考えてみれば当然のことだけど。

「魔法の痕跡を探れば時間の問題、か。どれくらいかかるかわからないが」

「どれほど転移したかにもよりますが、少なくとも、一週間はかかるでしょうね。ですけれど、国内ですからかかっても半月くらい……と、八雲が言っておりました」

「ところで、一つ気になったんだが」

「なんですの?」

「一人娘なのか?」

「そうですわ」

「前に、お兄様って言ってたよな?」

 出会ってすぐの頃に彼女はそう言っていた。「お兄様に怒られてしまいますわ」「お兄様に会いたいですわ」と。聞き間違いではないはずだ。

「お兄様はお兄様ですわ」

 瑠那は否定しない。微笑みながら答えて、言葉を続けた。

「でも、最初からこの世には存在しないのですわ。そう、お兄様は私の妄想の中でずっと生き続けているのです」

 まるで死に別れてしまったかのような言い方だけど、言い方だけで誰も死んではいなかった。

「何か問題がありまして?」

「いや、特にないけど」

「ああ、お兄様。目の前の晴人さんが、私を哀れむような目で見ていますわ。これは私に彼の美晴さんへの気持ちを、こっそり本人に伝えてほしいということでしょうか」

「やめてくれ」

「冗談ですわ。しかし、やはり晴人さんに妹萌えや兄萌えはないのですね。本物がいらして?」

「いや、いないけど、言わなきゃだめか?」

 樹さんがいるからな、と言うのはさすがに照れる。瑠那は微笑んで、首を横に振った。

「わかっていますわ。では、練習は今夜です。探索も一通り終わりましたし、夜までにゆっくり休んでいてくださいな」

「ああ、わかった」

 的役というくらいだから、準備は万全にしておかないとな。少々危険かもしれないが、まあ、的というのは八雲さんの比喩だろう。確かに瑠那の魔力量は凄いし、魔法の強さも身に染みてわかっているけど、的を射抜くような練習ではないと思う。多分。


一月二十六日 午後九時十六分 実験棟地下 実験室(中)


 昼間の考えが甘かったと知ったのは、魔法の練習を始めて一分と経たない頃だった。八雲さんに説明を受けて、お試しに軽く放たれた瑠那の魔法は、仮想俺として用意された人形――八雲さんが倉庫から見つけてきたものだ――を一瞬で焼け焦がしてみせた。ちなみに、瑠那が使おうとしていたのは風の魔法である。

 今、実験室にいるのは瑠那一人だけ。俺、樹さん、熾月、八雲さんは測定室でその光景を眺めていた。今度はあの中に俺が入って、あれを受けるのかと思うと、命の危機を感じずにはいられない。

「では、晴人さん。手はずどおりに」

「本当に大丈夫なんですね?」

 的役といっても、的を続けるには簡単に倒れては意味がない。そのための魔法理論や動き方、その他諸々を八雲さんに教わりはしたものの、不安は消えない。

「私が助士課程を一年で卒業したのは、決して魔堂家のメイドだからというわけではありません。信じてもらえると嬉しいのですが」

「晴人さん、よろしくお願いしますね」

「あの、気をつけてください、晴人さん」

 八雲さんや樹さんに、熾月からもこう言われては、もう引き返すわけにはいかない。そもそも最初に断らなかった時点で、この流れは決まっていたのだ。

「信じます。魔力の続く限り、やってやるさ」

 覚悟を決めて、実験室への扉を開ける。瑠那は笑顔でこちらを見て、一言。

「よろしくお願いしますわ」

「ああ。全力で来てくれ」

 そう、全力で。瑠那が全力で魔法を使うことこそが重要なのだ。彼女の魔力量は高すぎて、家での練習では魔力を抑えているのがほとんどらしい。そもそも、そうでなかったら今回のようなハプニングが何度も起こって有名になっている。

 八雲さんと瑠那の話によると、普段なら失敗しても家の中が物凄く荒れる程度で済むらしい。その程度で済むように、八雲さんが使う魔力量を制限している。

 ただ、今回はその制限に失敗して、このようなことになった。瑠那が魔法制御にある程度慣れてきたから、少しステップアップしようとしたのが昨日。それが瑠那には早すぎて、彼女は全力で魔法を使ってしまったという。

 そこで八雲さんが考えたのは、まず全力で使わせてから慣れさせるというもの。自身の魔力量がどれほどなのか、どれほどの魔法が使えるのか、限界を知ることで制御も上手くいく。学園の術士課程で学ぶ内容と同じ、基本的な魔法の練習方法だ。ただ、瑠那ほどの魔力量で同じことを普通にやれば、街ひとつくらいは簡単に吹き飛ぶ。

 それをどうにかする策を八雲さんは日頃から考えていたものの、実行するにはどうしても危険が伴うため、諦めていたという。だが昨日、俺があっさり三式の防寒魔法を使いこなしたのを見て、もしかしたらと思ったらしい。

 そして翌日。熾月の魔法暴走を止めたことを知って、それは確信となった。元々は脱出してから頼むつもりだったそうだが、今日ちょうどいい場所を見つけたので、試しに提案してみたのだとか。

 ちなみに、得意の料理魔法なら失敗の危険はないが、瑠那が全力で料理魔法を使えば、小さな海一つ分のカレーが簡単にできてしまう。処理の問題ですぐに諦めたのは言うまでもない。

「晴人くん、大丈夫だとは思うけど……注意はしておいてね」

『もちろんだ』

 心配そうな声で、はっきりと言ったふぁいんに合図を返す。この状況で死の危険があるのは俺だけで、ふぁいんの知る、樹さんだけが生き残った末来には繋がらないと思うが、彼女の魔力量を考えると万が一もありえる。

 それでも、魔法を使った本人である瑠那まで巻き込まれる事態は想定しにくいが、ここは魔法研究施設だ。研究棟で見かけた魔法資材と反応して、魔法が増幅され、施設ごと爆発する、ということもなくはないかもしれない。

 瑠那の魔力量はこの施設にいる中で一番。熾月よりも多いのだ。無論、暴走して制限なく放たれる魔法と、失敗しやすいとはいえ失敗で収まる魔法では、前者の方が危険性は高い。だが、転移魔法以上の大失敗をしたとしたなら、どれほどの事態が起きても不思議ではない。

「意識して出すのは幼い頃以来ですわ。えい」

 軽い掛け声とともに、瑠那の伸ばした右手から魔法が放たれる。風の魔法。測定室で見たのと同じ、本来は切り刻むための風。彼女がどう失敗したのかはわからないが、その風は焼け焦がすほどの熱風となった。

 ともかく重要なのは、瑠那が使っているのは風の魔法だということ。本質さえ変わらなければ、防ぐための魔法も変わらない。

 俺は風を弱める魔法を前面に展開して、彼女の魔法を防ぐ。その裏には風を逸らす魔法を同時に展開。弱めて逸らし、彼女の魔法は俺の肌すれすれを抜けていった。

 背後から軽い衝撃音が聞こえてきた。対魔法素材であれば、普通は音もなく吸収するものだが、彼女の魔法は吸収できる範囲を越えている。弱めていなければ壁が削れる可能性もあったかもしれない。

「どんどん行きますわ!」

 炎、雷、氷、水。瑠那は様々な魔法を使い、俺はそれを全て同じように弱めて逸らして受け流す。一瞬の見極めと素早い判断は必要だが、それさえあれば防ぎきれる。

 ある程度したところで、俺は瑠那の周囲を歩き出す。中央の瑠那を中心に、周囲を回る俺。ゆっくりと動く的を目がけて放たれる魔法を、同じように防いでいく。相手の狙いが正確なら簡単なことだが、相手は魔法練習中の瑠那だ。

 彼女も狙っているが、狙いは甘く、頭や腕、脚など様々なところに魔法が飛んでくる。中には俺から狙いを外し、直接壁に届こうとするものもあり、俺はその全てを正確に受け止めていく。この程度の防御魔法なら少し離れた場所にもすぐに展開できる。

 彼女の全力の魔法が何度も壁に直撃したら、さすがにこの実験室も無事では済まない。崩れた壁を防ぎながら、彼女の魔法を受ける余裕は今の俺にはない。

 しばらくして、瑠那の魔法が止まる。俺も足を止めて、大きく息をつく。一時休憩。それは同時に、練習が半分終了したことも意味する。

「お疲れさまです。お嬢様、晴人さん」

 測定室から八雲さんが中に入ってくる。後からやってきた樹さんと熾月からタオルを受け取り、俺と瑠那は汗を拭う。汗だくになるほどの運動はしていないが、これだけの魔法を使えば多少の汗は出る。魔法は魔力だけで構成されているとはいえ、正確に狙うには頭も使うし、精神的な疲労や緊張感は並の運動を遥かに上回る。

 水分補給もしてから、再開するのは十分後。短い休憩時間だが、やることは大きく変わらないから問題ない。全力の魔法を受け切る、それだけなのだから。

「さてお嬢様、ついでに晴人さん。ここで練習内容の変更をお伝えします」

「はい?」

「なんですの?」

 俺と瑠那が同時に言った。しかし、その声は全く違うものである。気楽に返事をした瑠那と違って、俺の声には驚きが混じっていた……というか、ほとんどが驚きだった。

「お嬢様、全力で魔法を使ってみた感覚はいかがですか?」

「悪くないですわ。ただ、失敗してばかりなのは申し訳ないですが」

「いえ、今はそれでよろしいですよ。ですが、次は成功してもらいます」

「あの、八雲さん、それって」

「はい。本日の最終目標は、お嬢様が全力の魔法を一度でも成功させること。やることは基本的に同じですよ。少々ハードになって、延長もあるかもしれない、というだけです」

「かもしれない……ですか」

 どう考えても延長は確実だと思うのだけど、そのことは八雲さんは当然、瑠那も理解しているだろうから口にはしないでおく。

「少々ハードというのは?」

「お嬢様、次は傷つける魔法ではなく、破壊する魔法でお願いします」

「破壊、ですの? でも、それは……」

「問題ありませんよ。晴人さんなら、必ず防げます」

「そうですわね。わかりましたわ」

「……まあ、そのつもりだけどさ」

 傷つける魔法といえど瑠那の魔法はとんでもない威力だから、確実に守るつもりではいたが、万が一にも直撃した場合を考えると、傷つける魔法と破壊する魔法では大違いだ。具体的には、咄嗟の治療魔法が間に合うか間に合わないか。単純ゆえに危険な差。

「晴人さん、大丈夫ですか?」

 樹さんが心配そうな顔で尋ねてくる。俺は苦笑しながらも、はっきりと頷いてみせた。

「問題ないさ。学園に行けなくて鈍りそうな体も動かせるしな」

 本音の全てではないが、それも確かに本音の一つだ。魔法は理論で使うもの。身体能力は不要だが、魔法を使って戦闘することになれば身体能力も重要になる。それでなくとも俺は魔力量が少ないから、魔法で足りない部分は身体能力で補わなくてはならない。逆も然りで、なるべく体は鈍らせたくない。

 休憩時間が終わり、再び実験室には俺と瑠那の二人が残される。今回はすぐに動くことはなく、彼女は八雲さんに指定された魔法を使うために魔力を練っていた。破壊する魔法というだけなら何となくでも使えるが、彼女の魔力量でなんとなくで使われたら俺などひとたまりもない。

 守るための魔法は先ほどと変わらない。弱める魔法よりも逸らす魔法を重視して、展開する位置を少し変えるだけ。俺にとってはこれくらい簡単なことだ。

 魔力量の少なさを補うのは、身体能力だけでは全然足りない。その程度でどうにかなるなら、ここまで魔法が発達するはずもない。魔法を補えるのは魔法だけ。魔法理論を素早く理解し、知識を蓄え、必要とあらば応用する。そうすることで俺はこれまで学園を生き抜いてきた。

 同期入学生のうち、十分の一しか無事に卒業できない術士課程。通い続けて才能や実力を認められ卒業するには、これくらいの努力は必然だ。

 もっとも、俺一人ではそこまでのやる気は起きなかっただろう。魔法を学んで何をしたいのか――それさえ未だに決められない自分に、魔法への特別なこだわりはない。原動力はたった一つ。樹さんとずっと一緒にいたいがためだ。

「準備、できましたわ。晴人さんもよろしいですね?」

「ああ。いつでもいいぞ」

「はい。では!」

 瑠那の手から風の魔法が放たれる。対象を切り刻むものではなく、圧し潰すための凄まじい風――成功していれば、の話だが。瞬時に展開した魔法でそれを防ぎ、俺は彼女の周囲をゆっくり歩き出す。

 移動しながら魔法を防ぎ、徐々に速度を上げていく。慣れてきたのか瑠那の狙いは正確になってきたが、成功というには段階を一つ乗り越えただけ。

 冷たい炎、凍らせる雷、石のように硬い水――彼女の魔法はことごとく失敗している。一応、狙いが正確になっただけでも、樹さんから聞いた最低限の条件――強い魔法に強い魔法をぶつける――は満たしているが、八雲さんは認めてくれないだろうし、何よりこれでは根本の治療にはつながらない。

 昨晩のように、暴走したのを収めるのがせいぜいだ。魔法暴走症の治療法が存在しない以上、必要なのは試行錯誤。対症療法だけでは意味がない。

 当然ながら、そのための練習を今日だけで終えるのは不可能だ。だが、大きな第一歩を踏み出すまでは進めなくてはならない。というか、進めるまで八雲さんがやめさせてくれない。

「ふう。うまくいきませんわね」

「だな。瑠那、少し話を聞いていいか?」

 瑠那が魔法を止めて、俺は足を止める。このまま続けていても進展はない。根気だけでどうにかなるほど魔法は簡単ではない。

 基本の方針は八雲さんが決めているが、細かい対応は俺に一任されている。測定室で彼女たちも魔法を測定しているとはいえ、測定できるのは発現した魔法の力のみ。瑠那自身の状態について、一番詳しいのは直接相手をしている俺に他ならない。

「制御はどうだ?」

「だいぶ慣れてきましたわ。細かい調整は難しいですが、ええと、試しても?」

「ああ。いいぞ」

 瑠那が俺に向かって三発の魔法を放つ。大きな炎、中くらいの炎、小さな炎。見た目通りの熱い炎はひとつもなかったが、炎の大きさは明確に違っていた。

「大雑把な調整はできるようになりましたわ」

「ふむ……」

 確かに調整はできている。少なくともこれで、うっかり全力の魔法を使ってしまうような失敗はなくなったと見ていいが……問題はここからどうするかだ。

「魔法理論についてはどれくらい知ってるんだ?」

「私、頭は良い方でしてよ。幼い頃から色々学んでいますわ」

「よし。じゃあいくつか質問するぞ」

「ええ。お答えしますわ」

 俺は魔法理論に関する知識を瑠那に問う。初歩的なものから、高度なものまで順番に。最終的には講義で習う内容以上の、俺が独自に学んだ知識を尋ねてみたのだが、それさえも瑠那は即答してみせた。

「知識不足ではない、か。じゃあ、なんなんだ?」

 魔法の失敗には大きく分けて二つが考えられる。一つは制御の失敗。もう一つは知識不足による、魔法理論の間違い。彼女の失敗傾向からすると、後者の可能性が高いと思っていたのだが……彼女の知識は十分だ。

 知識が十分だからといって、実践で使えるかどうかはまた別なのだが、どこをどう間違えたら彼女ほどの大きな失敗に繋がるのか。それがわからない。

 理論ではないとすれば、やはり感覚か。彼女は理論を理解しながらも、感覚だけで魔法を使っている? それでこれほどの魔法が使えるとは普通では考えにくいが、彼女は魔力量からして普通ではない。常識で考えていてはいけないのかもしれない。

 ただ、その程度の問題なら、八雲さんも気付いているはずだ。もっと他の何か、彼女ならではの特別な理由があると考えるべきだ。瑠那にしかない、特別な何か。

「……お兄様?」

「あら、お兄様がどうかしまして?」

 つい口からこぼれた言葉に、瑠那は耳聡く反応する。いやいや、まさかそんなことはないだろう。そもそも、これだって八雲さんも知っているはず――と、そこまで考えて彼女の趣味を思い出す。もしかして、ひょっとするとだが、百合好きの彼女にとっては、瑠那の妄想の中のお兄様も、普通のこととして認識している可能性もある。

「八雲さん、聞こえてますか?」

 実験室と測定室は遮られているが、指示連絡用のスピーカーもついている。小さな音を集められるほどの性能はないみたいだが、はっきりと口にすれば声は届く。

「はい。私に何か?」

 スピーカー越しに、マイクの前に立った八雲さんの声が聞こえてくる。

「瑠那のお兄様について、何か言ったことはありますか?」

「お嬢様の? そうですね、お姉様や妹に興味はないですかと提案したことなら」

「ありがとうございます。よくわかりました」

 こんな回答が返ってくる時点で、答えは明白だ。とすると、俺がやることはひとつしかない。ガラスの向こうで首を傾げる樹さんや熾月も気になるが、誤解を解くのは瑠那の魔法を成功させてからでも遅くないだろう。

「瑠那にとって、お兄様は大事な人なんだよな」

「愚問ですわね。私のことを一番理解してくださっているのは、お兄様なのです。そしてまた、お兄様のことを一番理解しているのもこの私!」

「その、お兄様のために魔法を使ってみる気はないか?」

「なにを仰っていますの? 私、妄想と現実の区別はつきましてよ」

 とてもついさっき妄想全開の台詞を口にした少女の言葉とは思えないが、ここまでの反応は予想通りだ。区別がついていないのなら、彼女の魔法はとっくの昔に成功していてもおかしくないのだから。

 魔法を使うのに一番重要なことは、魔法理論を理解することでも、実践で使いこなす感覚を把握することでもない。何のために魔法を使うのか。その強い気持ちこそが、魔法の力となるのだ。俺にとっての樹さんがそうであるように、瑠那にとってのお兄様もそうでなくてはならない。

 凄まじい妄想力を持ちながら、中途半端に妄想と現実の区別をつけるのなら――現実にもお兄様を作り出してしまえばいい。

「提案がある。瑠那、俺のことをお兄様と呼んでみる気はないか?」

 瑠那の目をじっと見つめて、俺は言った。ガラスの向こうの樹さんや熾月、八雲さんの方は、反応が怖くて見られない。

「晴人さん、そんな趣味が……」

「いや、そういうわけじゃ」

「でも、歓迎しますわ。私も人のことは言えませんもの。ただ、お兄様はさすがに、ちょっと……お兄ちゃんなら呼んでもいいですわ」

 俺が説明をする暇もなく、多少の妥協はありながらも、瑠那は認めてくれた。それ自体はいいのだが、この誤解は簡単に解けないかもしれない。

「お兄ちゃんは私に何を求めているんですの?」

「俺のために魔法を使ってほしい。それだけだよ」

「それだけで? そうですか……ふふ」

 最後に微笑を浮かべる瑠那。何の笑みだろうと疑問に思ったのは一瞬。答えは彼女自身が示してくれた。

「成功したら当然、ご褒美はいただけますね? お兄ちゃんですもの」

「おい、瑠那」

「なんですの、お兄ちゃん?」

 ことさらにお兄ちゃんと連呼する瑠那。少し動いたらガラスの向こうが目に入った。ぽかんとした表情の樹さんと熾月に、微笑みならが俺を見据える八雲さん。目が怖い。後ろにいるはずのふぁいんが何も言わずにじっとしているのも気になるが、こちらは見ないようにしよう。

「魔法、いいな?」

「わかりましたわ」

 からかうような表情から、真剣な顔に。側にいても魔力の高まりを感じる。彼女の魔力量からすると不思議ではないが、今日一番の魔法が飛んでくる予感がする。失敗しなければ――の話だが。

「お兄ちゃんのため……つまり、晴人さんのことを考えればよいのですね」

 呟きながら精神を研ぎ澄ます瑠那。彼女が何を考えているのかはわからないが、俺から助言することはもう何もない。ただ彼女の、お兄様への愛を信じるのみだ。

「風よ、氷よ、雷よ……水が流れるように、熱き炎となって高まりなさい」

「ちょっと待て、瑠那、それって」

 普通、魔法に詠唱は必要ない。ここでわざわざ彼女が口にしたのは、自らの使おうとしている魔法を俺に伝えるため。

「ふふ。どうしましたの? お兄ちゃんのためですもの、私の知りうる最強の魔法をお見せするのは当然ですわ」

「……はは。わかったよ、見せてくれ。瑠那の全力」

 俺は諦めて、彼女のやりたいようにやらせることにした。頭の中では対応する魔法理論を素早く構築する。同時に立ち位置も確認。正面に瑠那、右手には樹さんたちのいる測定室。あれだけの魔法、今までのように力を弱めて、後ろに逸らすだけでは防ぎ切れない。

 とすると逸らす方向は斜め後ろになるが、実験室の壁より、測定室のガラスや扉の方が若干ではあるが脆い。逸らす方向は左斜め後ろ。魔法を展開する場所を瞬時に計算。

「さあ、行きますわよ! 受け止めてくださいな、晴人お兄ちゃん!」

「ああ、かかってこい!」

 受け止めるのではなく逸らすことになるのだが、瑠那もそれはわかっているはずだ。ここは彼女に乗っておこう。気持ちの強さが魔法の力の源。成功する確率は可能な限り高めるべきだ。

 瑠那の手から細い魔法の光が放たれる。熱く、冷たく、輝き、暗い、純粋で複雑な、魔法の力が凝縮された高度な魔法。失敗したら爆発してもおかしくない魔法だが、その気配はない。

 ――魔法の成功。ならば、今度は俺の番だ。

 瞬時に何層にも展開した魔法で、瑠那の魔法を少しずつ、確実に左斜め後ろに逸らしていく。少しでも魔法の位置がずれて、僅かでも力が足りなければ魔法は俺に直撃する。

 魔法は俺の首筋を掠めるように抜けていった。

 直後、後ろから激しい衝撃音が響く。

「……やったな、瑠那」

「で、できましたの?」

 驚いた顔で俺を見つめる瑠那。彼女に俺は微笑みを返す。

「ああ。もう一度やってみるか?」

「はい。軽くでいいですわね?」

 次に瑠那が放った風の魔法は、俺ではなく壁を狙ったもの。後ろの壁に直撃した魔法は圧し潰すための風の魔法。ここから見てもわかる。――成功だ。といっても……。

「精度は甘いから、もっと練習は必要だけどな」

 最初の一撃こそ完璧だったが、さすがに何度も同じことはできないようだ。それでもたった一日で、ここまで上達できたのは成果として十分。八雲さんも認めてくれるだろう。

「そう、ですわね。ありがとうございます、晴人さん。あ、お兄ちゃん」

「いや、それは――」

 俺が最後まで言い切る前に、再び衝撃音が響いた。今度の音もさっきと同じ壁から。彼女の魔法が直撃した壁が、音を立てて崩れていた。

 冷気、もしくは地下水などが流れ込む可能性を考慮して、咄嗟に魔法の準備をする。しかし、幸いにもというか、意外にもというか、予想通りというか、その魔法を使う機会は訪れなかった。

 崩れた先にあったのは、もう一つの実験室。形も同じ、崩れた壁の向こう、左側には測定室らしきものも見える。右の奥には扉。そして、中央には巨大な物体があった。

 真っ白な丸い胴体。その上に乗った二つの小さな球体には、黒い鉱石の瞳。

「なんだ、あれ?」

「ゆきだるま、みたいですわね」

「頭、二つあるぞ」

「双頭のゆきだるまですわね」

 随分と格好いいゆきだるまである。しかし、今の俺には調べている余裕はなかった。

「ふむ。これは面白いですね」

「な、なんですか、あれ?」

「晴人さん、大丈夫ですか?」

 いつの間にか実験室に入って来ていた八雲さん、熾月、そして樹さんが各々の言葉を口にする。そして最後はふぁいん。

「あ、そうだ」

『なんだ?』

 簡単な合図で済むので、反射的に返す。

「お別れだよ……晴人くん。お別れ……お別れ……んー」

 今度は何も合図を返さない。彼女の声を聞くだけでも、お別れでないのはよくわかる。

 とりあえず、だ。

「八雲さん。練習は終わりで、いいですよね?」

「はい。非常に気になるものもありますが……明日にしましょうか」

「ありがとうございます」

 俺の魔力は、さっきの魔法を防ぐので殆ど使い切ってしまった。精神的な疲労もかなりのもので、目の前に現れた気になるものを調べる気力は残っていない。

「晴人さん、歩けますか?」

「ありがとう、樹さん」

 差し伸べてくれた彼女の手をとって、俺はゆっくりと歩き出した。癒しの魔法が流れ込んできて、疲れも幾分か和らぐが、全回復には彼女の負担も大きい。無事に帰れるだけの癒しさえあれば、今の俺には十分だ。

 ちなみに、瑠那は元気に一人で歩いていた。あれだけの魔法を使っても、彼女の魔力量ではほんの一部を消費したに過ぎない――その証拠を見せつけられて、俺は改めて彼女の凄さを実感する。

 これでもまだ、熾月の魔法暴走症を治療するには遠い。それでも、大きな一歩は無事に踏み出せた。他にも色々と解決すべき事態は残っているが、今はゆっくり休むとしよう。魔法が使えない魔法使いなど、ただの人に過ぎないのだから。


登場人物

一ノ木晴人:いちのき はると

ふぁいん:ゴースト

魔堂瑠那:まどう るな

樹美晴:いつき みはる

降谷熾月:ふるや しづき

沢登鋭一郎:さわのぼり えいいちろう

八雲妹:やくも まい


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