第二話 先輩と後輩
――風が一陣、吹き抜けた後に(執筆者 羽根瑠美奈)
「え? あの、いきなりそんな、困るよ」
「本人の前で二股宣言か。面白そう」
「良かったね朱通。それじゃ、私はそろそろ帰るから」
「ああ、掃除が終わったら帰っていいぞ。君たち、彼女が逃げないようにそこにいて」
夜。私はベッドに倒れ込み、四人の先輩方から返ってきた言葉を思い出していた。それだけ返した後は、隙を見て逃げ出そうとした一人の先輩をもう一人の先輩が追いかけて、残りの二人はクラスメイトに呼び戻されて掃除をすることになった。
私と一羽くんはというと、一羽くんは終わるまで待っていようと言っていたけれど、恥ずかしくてまともに話せそうもない、という私の言葉で帰宅する事になった。
ひとつため息をつく。恋への憧れにちょっとした勢いが加わったとはいえ、あんなことを叫ぶなんて何度思い出しても恥ずかしい。それに、いきなりの二股宣言。軽い女だって思われたかもしれない。だけど言ってしまった言葉は取り消せない。
どうやって彼らに会ったらいいんだろう。私は考えを巡らせていた。幸い、先輩と後輩の間柄。クラスも違うから、明日すぐに出会うということは避けられると思う。考える時間ならたっぷりあるし、そういうのが苦手な私でもきっと大丈夫。
「でも、インパクトはあったかな」
とりあえず、これは認めてもいいんじゃないかと思う。少なくとも、「君、誰だっけ?」などと忘れ去られるようなことはないはずだ。さすがに、一年二年ともなればわからないけど。
「……うん。寝よう。わかんないときは寝るのが一番! きっと何とかなるよ!」
そう言って自分を励まし、布団を捲り上げてその中に潜り込む。まだ時間はあるんだし、大丈夫。もう一度念を押して、私は深い眠りに落ちていった。
翌日。空は明るく、雲ひとつない青空だった。春ならではの陽気と、心地よい風、それだけでなんだか元気が出てくるような気がした。
「よし! これならきっと何か思いつくよ!」
ベッドから飛び起きながら、私はそう口にした。朝食や着替えも軽快に済ませる。親からは何かいいことでもあったのかと聞かれてちょっと困ったけど、それ以外は何も問題はなく、清々しい気分のまま外へ出た。
軽快な気分で歩きながら、昨日の続きを考える。家から数分、新しい案は特に思いつかない。けど、まだ時間はあるし大丈夫。再び思索に耽ろうかと思っていたら、何かにぶつかった。どうやら、角から出てきた人にぶつかったらしい。
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて。怪我してませんか?」
ぶつかった相手がよろめいていたので、私は手を差しだす。私より相手の身長が高いけど、よろめいているおかげで、ちょうど手に取りやすい位置に手が届いた。
「うん。大丈夫。――ありがと」
握り返した手は小さくて柔らかかった。見ると、私と同じ制服を着ている。ネクタイの色から二年生のようだ。髪は腰近くまで伸びていて、可愛らしい顔立ちをしている。胸も私と同じくらい控えめだ。けど、なんだろう、どこかで見たことがあるような。気のせいかな?
「じろじろ見られても困るんだけど」
「あ、ごめんなさい」
私は慌てて目を逸らす。思い出そうとしてついじっくり見てしまったようだ。軽く会釈してその場を立ち去ろうと歩き出すと、背中から先輩の声が聞こえた。
「ところで、考え事ってやっぱり昨日のこと?」
私は素早くに振り返った。昨日のこと、と言えばひとつしかない。他にもあるかもしれないけど、きっと先輩が言っているのはその事に違いない。
「……驚いた顔してどうしたの?」
あくびを噛み殺しながら先輩は答える。その気だるそうな態度を見て思い出した。昨日、私があんな告白をしたときにいた四人の一人だ。
どうしよう。まだ心の準備が。それに、何を言ったらいいのかわからないし、そもそも何か言うべき事があるんだろうか。いや待てよ、もしかして先輩はあの場にいた男の先輩の彼女さんで、二股宣言なんかした私に報復でもしにきたんじゃないだろうか。
「そ、掃除はどうなりました?」
色々迷った挙句、私の口から出たのはその一言だった。無難な一言だけど、聞いちゃいけないような事でもないはずだ。
「戻ったら終わってた。それで、私だけじゃなくて朱通もサボりになった」
「朱通?」
「あなたが告白した先輩の一人。んと、私にほうき渡そうとしてた人」
「ああ、あの人ですね。私が告白……になるんですよね、やっぱり」
「うん。見事な二股宣言だったよね」
報復だ。やっぱり報復なんだ。優しい声で油断させて、報復する気なんだ。きっとこのまま私は先輩に路地裏に連れられて、口では言えないようなお仕置きをされるんだ。いや、むしろこの場で羞恥プレイを強要されたりするのかもしれない。今すぐ逃げなきゃ危ない。
身の危険を感じて振り返ろうとしたところ、先輩が私の腕を掴んだ。
「た、助けて……」
私は誰にともなく助けを求める。けれど、人通りはなく答えてくれる相手はいない。
「あのさ、何考えてるのか知らないけど、私、別に襲わないから」
「そう言って油断させて、私を食べる気なんじゃ……」
「そういうのが好きならやってあげてもいいけど」
先輩はもう片方の手で私の胸に優しく触れてみせる。同性の手とはいえ、胸を触られるとなんかちょっとドキドキする。
「あの、優しくお願いします」
もうどうせ逃げられないんだ。ここは受け入れるしかない。ちょっと怖いけど、女の子同士なら加減も知ってるし、きっと優しく愛撫してくれるはずだ。
「冗談だって。興味がないわけじゃないけど、そういう趣味はないから」
先輩は私の胸に触れていた手を放す。けれど、もう片方の腕を握っている手はそのままだ。
「本当ですか?」
「うん」
「でも興味はあるんですよね」
「うん」
同じトーンで答える先輩。なんだか答えるのも面倒くさそうな様子だ。落ち着いて状況を確認すると、先輩は優しく腕を掴んでいるだけで、絶対に逃がさないと強く掴んでいるわけでもない。その気になれば逃げるのも難しくないだろう。
「落ち着いた?」
「はい。すみません、お騒がせして」
「ん、別にいいよ」
今度は噛み殺さずあくびをする先輩。掴んでいた腕を離し、さっさと歩き出す。私は慌てて先輩を追いかける。速度は速くないので、追いつくのは容易かった。
「あ、あの」
「話をするなら歩きながら。遅刻するよ?」
「そうですね。えっと、その」
先輩と一緒に歩きながら、私は何かを言おうとする。しかし、特に何も思いつかず、言葉が続かない。そうしていると、先輩の方から口を開いてくれた。
「宮内沙由」
「え?」
「名前。不便でしょ?」
そういえば、自己紹介もまだだった事を思い出す。私は一度深呼吸してから名乗る。
「羽根瑠美奈です」
「何か困ってるなら、相談に乗るよ?」
私は驚いて足を止める。宮内先輩もそれに合わせて足を止めた。
「どうしたの?」
「いえ、沙由先輩の口からそんな言葉が出ると思わなくて」
「ま、この態度じゃそう思われても仕方ないのは理解してるけど、何ならさっきの続き、ここでやってもいいんだけど」
沙由先輩の腕が私の胸に伸びる。私が身じろぎしたのを見ると、その腕は引っ込められた。
「冗談だよ。そんなことしてたら遅刻しちゃうもの」
それはつまり、遅刻しないくらいの時間があったら、私は襲われていたということになるんだろうか。沙由先輩の表情や態度から真意は読み取れない。そうして考えていると、沙由先輩は再び歩き出した。私も遅れないようにそれに続く。
歩きながら、私は昨日あんなことを言った経緯や理由、今度会ったらなんて話そうか悩んでいたことなどを自然と話していた。話している間、沙由先輩は気だるそうにしながらも、無言でそれに耳を傾けていた。
「なるほどね。大体わかった。つまり、恋に憧れてるだけで、本気で二股する気はないと」
「はい」
「とりあえず、軽い女だなんて思われてないから安心して。朱通はそういう奴じゃないし、文月はそういうの見抜くのが趣味みたいなものだから。優弥はまだ詳しく知らないけど、朱通の友達だから大丈夫。もちろん、私もね」
疑う気持ちは微塵も見せずに、沙由先輩は断言する。それだけで、四人の間には信頼関係が生まれていることがはっきりとわかった。
「あ、でも私、ちょっとそっちの気があるのかもとは思ってるけど」
微笑を浮かべながらそう言う沙由先輩。「その言葉、そのままお返しします」とでも言いたいところだけど、そんなことを言ったら、「じゃあ試してみる?」などと言われて本当に試されかねない。ここは他の対応をとった方がいい。
「な、ないですよ!」
私は声を大きくして否定した。その頃にはもう学校付近まで着いていて、遠くにいる他の生徒の何人かがこちらを見た。けど、よほどの聴力でもない限り、沙由先輩の言葉は聞こえないくらい離れているから問題ない。
「それじゃ、続きはまた後で。昼休みに迎えに行くから、昨日一緒にいた男の子も捕まえといて。あ、お弁当は残しといてね。一緒にお昼でも食べながら話した方が楽だし」
「今日、ですか?」
玄関での別れ際、沙由先輩にそんな事を言われて私はちょっと動揺する。沙由先輩の言葉は信じられるけど、いきなりとなるとやっぱり心の準備ができていない。明日に遅らせてもらえないかと声を出そうとしたが、沙由先輩の方が早かった。
「こういうのは早いに越したことはないと思う。どうしてもっていうなら無理強いはしないけどね。じゃ、またね」
返事も聞かずに、沙由先輩は背向きに手を振って、二年生の下駄箱へと向かっていってしまった。追いかけようかと思ったけど、万が一そこで他のあの場にいた先輩に出会ったらと思うと、不安が勝ったのでそれはやめておいた。
午前の授業を終え、昼休みになった。
前の授業が体育だったということもあり、クラスにはジャージの生徒と制服の生徒が混在している。私は中学時代から体育後の昼休みはジャージ姿でいることにしているので、今日もジャージを着ていた。このまま先輩方に会うかもしれないと思うとちょっとどうかなとは思ったけど、どうせ同じ学校にいるんだからいずれジャージで出会うこともあるだろうと、そのままでいても問題ないという結論に達した。
「一羽くん、ちょっといいかな」
お弁当の入った包みを開き、今にもフタを開けようとしている一羽くんに声をかける。
「構わないけど、何?」
一羽くんもジャージ姿だ。一羽くんだけでなく男子の多くがジャージ姿なのは、男子の体育がちょっと長引いたのが大きな原因だろう。
「昨日の先輩が迎えにくるから、一緒にいて」
「ああ、そういうこと。わかったよ」
フタを開けようとしていた手を止め、再びお弁当を包みにくるむ一羽くん。声をかけたタイミングだけでそれを察知してくれたので、説明をする手間が省けた。
「昨日の、というと迎えに来るのは優弥先輩?」
「ううん。迎えに来るって言ったのは沙由先輩だよ」
「ああ。じゃあ朱通先輩かな」
「……ねえ、一羽くんは何で知ってるの?」
一羽くんも昨日が四人との初対面のはずだ。なのに、なんで名前を知っているのか不思議だった。その上、先輩同士の交友関係も少し理解しているようだ。
「姉さんが同じクラスだから、帰ってから聞いたんだ」
「そっか。同じクラスだったんだ」
一羽くんのお姉さんが二年生ということは知っていたけど、クラスまでは知らなかった。それより僕は瑠美奈さんが知っているのが不思議なんだけど、と一羽くんが理由を聞こうとしたそのとき、教室の入り口から私たちを呼ぶ声が聞こえた。
「羽根瑠美奈と城家一羽の教室はここか? 迎えに来たぞー」
そこにいたのは肩にかかるほどの髪を持つ、長身の先輩――土岐朱通先輩だった。
朱通先輩に連れられて私たちが着いたのは中庭だった。
春の陽気で暖かいとはいえ、やはりまだ若干の肌寒さも残っているため、中庭で昼食をとろうとする生徒はまばらだった。それだけに、あまり人に聞かれたくない話をするにはちょうどいい場所でもある。
「遅い、朱通」
着いて早々、沙由先輩が不満を口にする。
「教室がわからなかったんだから仕方ないだろう」
朱通先輩は肩をすくめてそう答える。沙由先輩も本気で怒っているわけではないようで、二人の会話はそれだけで終了した。
「まずは自己紹介だね。文月、お願い」
沙由先輩に促されて、先輩方が順番に名乗る。
「そうね。私は柳文月」
彼女の胸に届くほどの髪が風でなびく。胸は私や沙由先輩より大きい。……ちょっと羨ましいな。
「崎坂優弥です」
微笑みながら優弥先輩は名乗る。耳を隠す髪をいじって、どこかそわそわした様子だ。
「土岐朱通」
草むらに座りながら、さらりと流すように言うのは朱通先輩。
先輩方の自己紹介――とは名ばかりで、単に名前を名乗っただけだけど――が終わり、今度は後輩である私たちの番になる。
「羽根瑠美奈です。その、昨日は突然あんなことを言って失礼しました」
私は名乗ってから、小さく礼をして昨日の事に軽く触れる。続いて一羽くんが口を開く。
「城家一羽です。いつも姉が迷惑をかけてすみません」
昨日の事には触れず、姉のことについて謝る一羽くん。その礼儀正しい様子に、先輩方か口々に驚きの声を洩らす。
「本当に一音の弟?」
「あの姉にしてと思ったが、弟はちゃんとしてるんだな」
「むしろ、あの姉だからこそ、というのもあるかもね」
「反面教師?」
どうやら一羽くんのお姉さんである一音さんは相当な変わり者として認識されているらしい。私も一度だけ話したことがあるけど、そこまでとは思わなかった。普段から近くで見ているからより強調されているのかもしれない。
最後に口を開いた優弥先輩はまだそわそわした様子だ。私が不思議に思って見つめていると、それに気付いた先輩は慌てて目を逸らした。
「沙由先輩。優弥先輩、どうしたんですか?」
小声で沙由先輩に尋ねると、先輩はお弁当のフタを開けながら答えた。
「照れてるだけだと思う」
「優弥はあんまり告白されたことないから、例え二股でも照れる単純な生き物なの」
少し離れたところで優弥先輩をじと目で見ながら、答えたのは文月先輩だ。聞こえないように小声で話したはずなのに、どうやら文月先輩は耳がいいらしい。
「単純って……ひどいな、文月」
そうは言うものの、強く否定する事はしないあたり、照れているというのは嘘ではないようだ。そこに文月先輩の追撃が入る。
「それが例え勢いで言ったものだとわかっても照れるんだから、単純でしょ?」
「それを言われると弱いけど、仕方ないじゃないか」
「でも朱通は照れてないよ?」
「そ、それは……」
ことごとく反論を封じる文月先輩。優弥先輩は助けを求めるように視線を泳がせる。
「朱通はそもそもそういうのに興味ないだけだから」
おかずを口に運びながら、フォローを入れたのは沙由先輩だ。朱通先輩は笑うだけで何も言わないが、この状況ではそれだけで肯定の意味になる。
「気にしてないみたいだね、瑠美奈さん」
隣で食事を進めている一羽くんが声をかけてきたので、私は頷くことでそれに答える。いつの間にか、昨日からの不安はすっかりなくなっていた。
その後、私たちは軽く談笑しながら昼食を済ませ、それぞれの教室に戻ることになった。階段まで一緒に向かい、別れ際、私はちょっと気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば沙由先輩、朝に比べて口数が少なかったですけど、何かあったんですか?」
優弥先輩と文月先輩は既に教室へ向かっていて、階段の側にいるのは私、一羽くん、沙由先輩、朱通先輩の四人だけだ。
「朱通がいるからね。面倒な事は朱通に任せる事にしてるの」
「沙由はこういうやつだからな。頼れる相手がいるとすぐ頼る面倒くさがりなんだ」
二人は同時にそう答えた。口にした言葉は別々だけど、言っている内容はほぼ同じで息もぴったりと合っていた。そして、それがさも当然とでもいうように、二人はそれぞれ異なる別れの言葉を、これまた同時に口にして教室へ戻っていった。
そんな二人を見送り、私と一羽くんは階段を登りながら言葉を交わした。
「一羽くん、私もああいう相手が欲しいな」
「恋人、ではないみたいだけどいいの?」
「恋人だったら嬉しいけど、それでなくても羨ましいと思うよ」
「そうだね。それには僕も同意見だよ」
私たちは階段の途中で足を止め、一瞬だけ顔を見合わせてから再び足を踏み出す。
「これって息が合ってるってことかな?」
「だとしても、先輩方の域には程遠いよね」
***
――吹き抜けた風。一度回った風車は回り続ける。風が止んでも少しずつ。