第一話 始まる関係
――新しい風の吹く季節に(執筆者 城家一羽)
春には新しい風が吹く。それは比喩的な意味でも、自然現象という意味でも。けれど、実際に使われるのは前者が多いのだろう。今日においては、僕たちがその新しい風、といえるかもしれない。
夕吹市立夕吹第一高校。第一、と付くだけあって、人口が多いとはいえない夕吹市においても、一、二を争う大きな高校だ。といっても、一学年五クラス四十人。他と比較すると、決して多いとはいえないだろう。
ステージには校長先生が立っていて、新入生に対して色々と話している。初めてだからか、それとも元々そういう人なのか、中学までに出会った校長先生より話は短かった。
そんな入学式があったのは一週間前の事。まだ新しい学校に慣れたわけではないけれど、新しい友人もでき、ある程度は雰囲気というものが掴めるようになった。
「一羽、いる?」
その日の昼休み、姉が教室にやってきた。中学時代にはたまにこういう事もあったが、入学して一週間、高校では初めての事だった。僕の姿を見つけた姉は手招きする。
「上級生?」
「綺麗な人」
「彼女?」
「一羽の奴、幼い顔して意外と……」
そんな声が聞こえてくるが、僕が「姉さん」という一言を発すると一気に収まった。
「綺麗な人、だって」
廊下に出て話を始めた途端、少し照れた表情を見せる姉。腰ほどまでに伸びた長髪をいじりながら、もじもじとする。
「で、何の用?」
「せめて相槌くらい打ってよ」
照れた表情から一転、拗ねたような表情に変わる。照れているのは嘘だとしても、拗ねたのは本当だろう。
「はいはい、家でいくらでも言ってあげるから。用件は?」
「それなんだけどさ、誰か有力な人いない? 新聞部に勧誘したいんだけど」
前に聞いた話だと、今年は新入生の多くが体育系の部活に流れたせいか、文化系の部活はどこも入部数が少ないらしい。それでも人数の必要ない美術部や茶道部などは問題ないのだけれど、吹奏楽部や合唱部においては死活問題らしい。新聞部は前者だと聞いたけれど、何かあったのだろうか。
「人は足りてるんだよね?」
「うん。けどほら、多いに越した事はないから。で、どう?」
「いないと思うよ。うちのクラス、帰宅部が多いみたいだから」
「迷ってる人もいない?」
「いないんじゃないかな。僕の知る限りでは、だけど」
「そっか。ならいいや、それじゃ」
姉さんは早足で次の教室へ向かっていった。僕はちょっとだけそれを見てから教室に戻る。教室内の空気はさっきまでとはちょっと違っていた。
「一羽、頼みがある」
「あ、俺もいいかな?」
「姉さん、人の力を頼る人より、自分の力でどうにかする人の方が好きなんだよね」
何のことかは聞くまでもなかったので、僕は先に答えておいた。姉は恋愛よりも部活な人なので、恋愛に興味がないんだと答えてもよかったけれど、興味ゼロというわけではないので夢は壊さないでおくことにした。
「じゃあ、名前だけでも!」
「それくらいならいいよね?」
「城家一音。数字の一に、音楽の音で一音」
「サンキュ! それじゃ早速いってくるぜ!」
「ラブレターの内容はどうしよう。新聞部だから手は抜けないね」
それぞれの方向に去っていく友人二人。結果はわからないけれど、彼らがちょっと羨ましいと思う。あんな風に人を好きになった事は、まだ僕にはないから。
「恋、か……」
「恋だねえ……」
いつからいたのか、隣でうんうんと頷いている女子がいた。頷くたびに胸にかかる髪が揺れる。あまり大きくはない……なんて言ったら怒られるだろうな。
「羽根さん?」
「名前でいいよ、一羽くん」
「名前って言われても……」
同じクラスだ。面識はあるけれど、こうして会話したのは初めてだった。元々女子と話すのは苦手なのに、いきなり名前で呼ぶなんてできるわけがない。
「うん、名前。あ、もしかして忘れちゃった?」
「そういうわけじゃないけど」
「恥ずかしい?」
僕が小さく頷くと、羽根さんは少し悩むような表情を見せてから、はっきりと言った。
「はい。瑠美奈ちゃん。りぴーとあふたーみー」
「ちょっと待って」
「わかった妥協する。瑠美奈さん。はい、どうぞ!」
「だ、だから、えっと……る、瑠美奈、さん」
蚊の鳴くような声で僕は名前を呼んだ。彼女は満足したように頷くと、笑顔を見せた。可愛らしい笑顔に心を奪われる。これが恋かな、と一瞬思ったけれど、何となくそれは違うような気がした。
「一羽くん、あの人の弟なんだ」
「姉さんを知ってるの?」
「一度だけ会ったことがある程度だけどね。去年の冬だったかな」
「ああ、もしかして、何か質問された?」
「うん。『人生についてどう思いますか?』って聞かれた」
「そっか。それで、何の用?」
簡潔すぎるかなと思ったけれど、あまり長い言葉で話すのはちょっと照れる。彼女はそれを気にする様子はなく、爽やかな笑みを浮かべていた。
「一羽くん、恋に興味あるの?」
「否定はしない」
「じゃあさ、同盟組まない?」
「同盟?」
「そう。恋愛してみたいんでしょ? ううん、そうじゃなくてもいい。興味があるだけでも。私もちょっと興味があるんだけど、一人だとちょっと恥ずかしいんだよね。だから、同盟」
「同盟……」
恋に興味がある、というのは嘘ではない。けれど、彼女ほど強い気持ちではないと思う。
「遠慮しとくよ」
だから僕はそう答えた。彼女は「そっか」と軽く返事をして、自分の席に戻っていった。突然やってきた彼女は、帰るときも突然だった。
放課後、僕は瑠美奈さんと一緒に二階――二年生の教室のある階――の階段前にいた。彼女の目的は先輩の中からいい人を探すこと、らしい。一緒にいるのは偶然だ。姉に用があって待っていたところ、彼女がやってきた。
「姉さん、遅いな」
授業はもう終わっている。掃除当番でもなかったはずだから、クラスメイトと話でもしているのだろう。部活が休みの日にはよくあることだ。
「呼びに行かないの?」
「急ぎじゃないからね」
用は単純だった。帰り、スーパーへの買い物に付き合って欲しいというだけだ。今日の特売は一人あたりの個数限定品なので、人が多い方がたくさん買える。いつもなら朝のうちに言っておくのだけれど、帰る直前まですっかり忘れていたので放課後に訪れる事になった。
「ねえ、一羽くん。一音さんって、胸大きいよね」
「そう? 普通じゃないのかな」
姉は特別に胸が大きいわけじゃない。そうはいっても、小さいというわけでもないのでそう答えた。しかし、それが失敗だったことをすぐに知ることになる。
「けんか売ってるのかな、それ」
瑠美奈さんは引きつった笑みを浮かべていた。彼女の旨はお世辞にも大きいとはいえない。いや、はっきりいってかなり小さい。カップにしてAがせいぜいだろう。
「一羽くん。どこ見てるの? 何考えてるの?」
「ごめん」
僕は一言そう謝ると、無意識で彼女の胸に向けられていた視線を外す。
「まあいいけどさ、それより、一羽くんは何か知らない? 胸が大きくなる秘訣」
「僕に聞かれても……小さくてもいいんじゃないの?」
「小さいのと、小さすぎるのは別だよ。それに、一羽くんだって悩んでないの?」
何について、とは言わなかったけれど、推測はできる。身長のことだろう。確かに、僕は背が低い。最近計ったときでも一メートル五十センチに届かず、目の前の瑠美奈さんの方がちょっと高いくらいだ。
もう少し身長があったらなと思うときもある。けれど、悩んでいるかと問われると、そういうわけではないと答えるだろう。だけれど、全く気にしていないと言えば嘘になる。
「あったらいいかなってくらいだけどね」
「その程度なんだ。いいよね、男の子は」
どこか遠い目をする瑠美奈さん。どうやら彼女にとって胸の大きさはそれなりの悩みであるらしい。今後はうかつに胸の事を口にしないようにしよう。
そんなやりとりをしていると、教室から姉さんが出てくるのが見えた。僕たちの方に早足で向かってくる。声をかけると、足を止めずに早口で聞いてきた。
「用件は? 重大なこと?」
「ううん。違うよ」
「そう。じゃあ私、急ぐから」
そう言って姉さんは階段を上っていった。三階には一年生の教室がある。普段、二年生である姉さんが訪れる事はない場所だ。あのあと、他に勧誘相手が見つかったのか、何か記事にしたいネタが見つかったのか、いずれにせよ、新聞部関連のことに変わりはないだろう。
「良かったの?」
「うん。買い物に付き合って欲しいだけだったから」
「特売?」
「そう。ティッシュが安いんだ。けど、一人三個までだから」
僕が答えると、瑠美奈さんはちょっと迷うような表情を見せてから、質問をしてきた。
「両親はどうしてるの?」
「旅行中。結婚記念日なんだ」
「そうなんだ」
答えは素っ気なかったけど、彼女はほっとしたような表情を見せた。それからすぐに表情を笑顔に変える。何度見てもかわいらしい笑顔だ。
「瑠美奈さんはまだいるの?」
「そうだね。もう少し……」
そこで言葉が途切れる。瑠美奈さんの視線の先には、四人の男女の姿があった。
一人は穏やかそうな雰囲気で、微笑みを浮かべている男子。
もう一人はどこか退屈そうにあくびをしている女子。
三人目は背の高い女子で、涼しげな雰囲気で二人を見ている。
最後の男子はほうきを持っていて、それを退屈そうな女子に渡そうとしている。
なぜか、僕も彼らから目を離せなかった。顔立ちは整っているものの、誰もが目を見張るほどの美形というほどではない。ただ、雰囲気が他の生徒とはちょっとだけ違うような、そんな気がした。
それは個人の発するものではなく、二人以上いないと生まれないもの。彼らに似た雰囲気を纏っている人たちを僕は知っていた。僕の父と母だ。長年一緒にいるからこそ生まれる独特の雰囲気が、彼らからもかすかに伝わってくる。
「一羽くん!」
「うん」
瑠美奈さんの呼びかけに、僕は反射的に答えていた。彼女が駆け出す後を追う。廊下は走らない、という忠告も今は無視させてもらう。近づくにつれて、四人の会話が聞こえてくる。
「私一人くらい、いなくても大丈夫だよね。私、朱通のこと信じてるから」
「掃除当番に信じるも信じないもない」
「同じ班として、僕もそう思うよ。ほら、文月も」
「実際、一人いなくても何とかなるけど、一応同意しとくね」
廊下はそれほど長くはないので、僕たちが四人のところに着くまで時間はかからなかった。僕たちに気付いたのか、四人は話をやめてこちらに視線を向ける。何となく走ってきたものの、何を言えばいいのかわからない。僕が言葉に迷っていると、瑠美奈さんが大きな声でとんでもない言葉を口にした。
「あの、二股してもいいですか?」
思わず彼女の方を見てしまった。その言葉をかけられた四人――言葉からすると二人が正確かもしれない――も驚いている様子だった。
そんな唐突で意味のわからない一言が、僕、瑠美奈さん、優弥先輩、文月先輩、沙由先輩、朱通先輩、六人の、関係の始まりとなる大きな一言だった。
***
――その日、確かに新しい風が吹き抜けた。力強く、激しい、一陣の風が。