午後五時。太陽の下に月が見え始める時間に、色倉灯と大岩成、ンレィスの二人と一触は目的地に向けて動き出していた。
「ねえ、合図って本当にそれでいいの?」
尋ねる成の視線の先には、ンレィスが触手の先にくっつけている一枚の葉っぱがある。
「この距離なら、心配無用ですわ」
その葉っぱは近くの木からちぎったものだ。時刻になれば、氷河がこの葉っぱを介して声を届けるという、葉根種の触手に適した特製の集音機である。ただし、その効果は触手にしか及ばず、ここにいる者で聞き取れるのはンレィスだけだ。
「……携帯電話とか、施設の放送機器の方が確実な気がするけど」
「食べるのはわたくしですのよ。直接の方が早いですわ」
「ま、それもそうね。放送機器を使うにしても、放送室に待機する人間が必要だし」
合宿・自由施設の放送室は施設の奥にあり、どの閃穴からもやや遠い場所にある。ただでさえ四手に分かれての行動、そこに割ける人員がいないわけではないが、他の手段でどうにかなるなら五手に増やす必要もない。
彼女たちがふさぐ閃穴の場所は、朝にストップウォッチで時間を計った運動施設の傍である。あのときと同じように、彼女たちは近くのベンチに腰を下ろして時間まで待機する。
「さすがに、この時間だと少し肌寒いわね」
「うん。成ちゃん、くっついて待ってようか?」
「名案ね。でも遠慮しておくわ。私の方が灯より体温が低いし、灯の体を冷やしたくないもの」
「そっか。じゃ、手だけつなごう?」
「ええ。それくらいにしておきましょう」
灯の右手と成の左手がベンチの上、くっつく寸前で隣り合った膝の上でつながれて、その上に葉っぱを乗せたンレィスが待機している。
「ンレィスはここにいて大丈夫?」
「場所はよくわかっていますもの。連絡がきたらすぐに動いて、伸ばせばおしまいですわ」
月が昇っていく姿をぼんやりと眺めながら、彼女たちは予定の時刻まで待機する。月の動きはゆっくりすぎて人の目には動きを捉えにくいけれど、午後六時が近付くと到着時よりも高い場所にあるのは確かに認識できる。
そして、午後六時。
葉っぱが揺れて、ンレィスにしか聞こえない氷河からの合図が届いた。彼の言葉はたった一言、シンプルにして確実な台詞である。
「食べて!」
聞こえた瞬間、ンレィスはつながれた二人の手の上から、ひゅんっ、と風を切る音が聞こえてきそうな速度で閃穴に向かって飛行し、瞬時に伸ばした数本の触手でやや離れた閃穴を瞬きする間に吸収して、消滅させていた。
「早食いは、好きではないのですけれどね」
今までに見たことのない速度で閃穴を処理する彼女の姿に、灯と成が瞬きも忘れて驚きの表情を浮かべる中、彼女は何本かの触手をかわいらしく振り揺らしながら、二人に聞こえるようにそう呟いた。
午後五時半。月の光に照らされる露天風呂の中で、守月鞠帆は一糸纏わぬ姿で本日二度目の温泉を楽しんでいた。月に煌めくお湯が揺れて、屈折した光を通して輝く白い肌、頭の上には濡れた黒髪と美しい姿を月下に晒す月星が鎮座している。
露天風呂の気持ちよさを堪能しながら、予定の時間を待つ。葉っぱは濡らしても問題ないとのことで、月星の足のような触手の先にくっついた葉っぱは湯気でほのかに湿っている。
「なんだか、私だけ悪い気がするわね」
鞠帆はそうは言っているが、無論、本心ではない。別に服を着たままここで待っていても問題はなかったのである。ただ、露天風呂は裸で入るための場所。普通の服とスカートでは、長く待機するのは肌寒いし、湯気や熱気で服が湿る可能性があるのもまた事実である。
頭の上の月星は相変わらずの無口で、楽しそうな雰囲気は見てとれるが、鞠帆の言葉に返事を返すことはない。
彼女が口を開いたのは、それからさらに十数分が経過した頃の、この言葉である。
「……鞠帆、そろそろ一度上がらないと、のぼせる」
「……え? ……もうそんなに?」
ぼんやり答えを返す鞠帆の頭上から、月星はゆっくりと離れて浮かびながら触手を振って頷きの仕草を返す。
まだぼんやりしている鞠帆に、月星は触手を伸ばして引っ張るように立ち上がらせて、彼女がのぼせないようにする。
「ん、ありがとう。……でもまだ入りたい」
「だめ。少し休んだら、合図がくるまで入っていていいから。ね?」
「月星が言うなら、仕方ないわね。……ふう」
鞠帆は露天風呂の端に寄って、お湯を囲んでいる岩に腰を下ろして、屋根の上をぼんやり眺めながら体を冷ます。
そしてそろそろのぼせる心配もなくなり、もう一度入ろうかと彼女が足を動かした矢先に、氷河からの合図が葉っぱに届いた。月星は頭の上に乗っかっていたため、葉っぱは鞠帆の耳元の近くにあったが、彼女にはその声は聞こえない。
「食べて!」
月星はふわりと、しかしとても素早い動きで、露天風呂の屋根と同じ高さまで飛びあがり、体を倒して太い足のような触手を一気に閃穴へと伸ばす。下からは屋根に阻まれて、見える角度でも見えない場所にある閃穴は、それらの触手で一気に吸収され、消滅した。
時刻は午後六時。予定通りの時間に、予定通りに閃穴はふさがれた。
「月星」
「……なに、鞠帆?」
屋根の上と下で、姿が見えないまま二人は声を交わす。閃穴を食べた月星はそのまま屋根の上に乗り、栄養豊富な閃穴を食べたあとの余韻に浸っている。その姿が見えなくとも、今の鞠帆には月星がそうしているであろう姿がありありと目に浮かんだ。
「まだ入りたい」
「……くす。のぼせそうになったら、おしまいだよ」
予定の午後六時は過ぎて、目的も果たした。それでも、守月鞠帆が裸でこの場所にいることに変わりはない。
露天風呂の岩場から、そっと足を下ろして、腰を浮かせて、鞠帆は再びお湯に体を浸からせる。幸せで心地のよい、最高の温泉をもう一度楽しむために。
このあと、合流に遅れた理由を尋ねられて、素直に答えた彼女たちに、灯らからの羨む視線が送られることになるのだが……。それはもう少しだけ先の話である。
「かわいさ満天、うるやかに、テンタクル・ンリァス!」
午後四時。兜鋭刃とンリァスの一人と一触しかいない管理人室で、大きな声が響いた。
「あたしがきたからには、もう事件は解決したも同然! さあ、覚悟して、悪さをする閃穴さんたち!」
「大体正五さんのおかげだと思うけど、それに、まだ二時間も前だよ」
「えー。だったら、次は鋭刃の番! ヒーローの前口上と、変身と、それからかっこいいおもちゃを宣伝するコマーシャルを挟めば、二時間なんてすぐだよ!」
「いや、あれは今だと、ヒロインからヒーローまで見ても一時間半で……それにコマーシャルって」
鋭刃とンリァスの会話を聞く者は、彼らの他には誰一人としていない。微かに盛り上がった液体の上に浮かんでいる葉っぱは氷河の声を受け取るだけで、氷河に声を伝えることはできない、集音専用の葉っぱなのである。
「だったら、里湖に連絡してお話でもしてる? 鋭刃、そろそろ声が聞きたいでしょ?」
「そんな用事で、里湖さんを煩わせるわけにはいかないよ」
「なによー。好きな人なんだから、そんなこと気にせず、『君の声が聞きたいから電話をかけたんだ、結婚しよう』くらい、言っちゃえばいいのに。それが愛ってやつなんだよ、あたしにはよくわからないけど、きっと!」
「……一応言っておくけど、僕も里湖さんも、まだ結婚できる年齢じゃないからね」
それと告白する勇気のあるなしは全く別の問題ではあるが、それを重々承知の上で鋭刃は細かい指摘をした。鋭刃は高等部の一年生で、神尾塚里湖は高等部の二年生。日本の結婚制度は今や男女ともに十八歳以上を求められるから、同意があっても結婚することはできない。
もっとも、『結婚しよう!』というのが婚約を意味するのであれば、婚姻ではないから何ら問題はない。つまりこの指摘は、どうやっても話を逸らすだけの効果しか生まないのである。
「む。そっかー。ちょっと前なら、女の子は十六歳でよかったのにね」
しかし、その効果は、ヒロインたるンリァスには絶大な効果を発揮する。
「男の子はだいぶ前から十八歳だから、僕と里湖さんには関係がないけどね」
「もっとずっと昔なら、問題ないのにねー。十五で元服、だったっけ?」
「庶民の間でどうだったかまでは知らないけど、昔は医療も未発達で、寿命も今ほど長くはなかったからね。出産も考えると、また違った観点で考える必要があるだろうけど……」
そこまでの詳しい知識は、鋭刃にはない。もちろん、触手であるンリァスにも、そんな知識はない。
「里湖に聞いてみる?」
「それは、声が聞きたい以上の迷惑でしかないね」
ンリァスの言葉に、鋭刃は苦笑して答える。ンリァスも液体を揺らして、微笑みの感情を鋭刃に返した。さすがにンリァスといえども、これは本気ではなく冗談である。
そんなこんなで、午後六時。
「食べて!」
単純にして明快な、葉っぱに氷河の声が届く。
管理人室には時計もあるため、数分前に開けられた窓の上にンリァスは張り付いていて、そこから液体を波打たせて、波が数十本の細い触手に変わり、屋根の下に開いた閃穴を水の槍が貫くようにふさいでいく。
「ふっ、あたしの前には、造作もないことだね」
形を崩して飛び散った液体が、ンリァスの体を構成する大きな液体に吸い込まれるように集まっていく。窓の上、屋根の下にあった閃穴は跡形もなく消えていて、その豊富な栄養は元気なヒロインに全て吸収されたのである。
刈霧正五と氷河の前には、数千の葉を重ね擦らせて静かな音を奏でる大木があった。
時刻は午後五時五十五分を示している。予定の時間まで残り五分、重なり合う木の葉の中に紛れて輝きを放つものがある。同時にふさぐ四つの閃穴のうちの一つ、葉と葉の間を縫うように、葉っぱのような氷河の触手が伸びてその閃穴を包み込むように待機していた。
根っこは樹木の下にいる正五の首筋についていて、一本離れた根の先にはやや大きな葉っぱがくっついている。ここに氷河が声を伝えることで、同じ形の遠くにある三つの葉っぱにその声が届くようになっている。
特に形にこだわりはなく、別に葉っぱでなくとも問題はないのだが、彼は葉根種の触手――その方が“らしい”ということで、この形を彼らは好んでいる。
午後五時五十七分。
「正五、残り三分だね。我は君の推理を信頼しているけど、どうだい?」
予定の時刻まで、もうあと僅かになった頃、氷河が正五だけに聞こえるように声を響かせた。この声は、葉っぱを通して他の場所にいる三触に届くことはない。
「生憎、俺は名探偵ではない。だから間違った推理を披露することもあるし、情報が揃っていても瞬時に真実に辿り着けないこともある。だが、俺も氷河の調査は信頼している。全ての情報が揃っているなら、俺の推理が違うことはない」
正五は大木を背に、正面を見据えたまま質問に答える。彼の近くに葉っぱがあるが、もちろんそれを通して遠くの葉っぱに声が伝わることはない。
「信頼してくれて光栄だね。ただ、閃穴の事件は少し複雑なこともある。それは正五も重々承知のはずだよ」
「なに、間違っていたら再び調べ直せばいいだけだ。それが名探偵ではない、ただの探偵のやり方さ」
午後五時五十九分。正五がそう言って微笑んだのは、残り一分を迎えた頃だった。
午後六時。
閃穴の周囲を囲う葉っぱ触手を動かす前動作と同時に、氷河は声を響かせる。
「食べて!」
言い終えると同時に、前動作を終えた触手が閃穴を包み込み、数多の葉っぱに包まれ切り裂かれるように閃穴は光を失っていく。閃穴を生み出す力は全て、栄養となり触手の先から氷河に吸収されていった。
「どうかな?」
「三十分だ。結果は待つしかないだろう」
ストップウォッチで計測した時間。吸収の仕方によって誤差が発生する可能性は、ない。第一生物部の彼らがくる前に、正五たちは吸収した閃穴が復活する事実には気付いていた。ならば、復活するまでの時間がどれくらいかも、続けて調査するのを怠るはずはない。
例外はいくつでもあるが、そのうちの一つ――他の触手が食べた場合の復活時間についても、すべからく三十分であることは本日の調査で証明された。
午後六時二十五分。
「正五。残りは……」
「五分だ」
氷河の正五の声が響く。他の場所にいる者たちがその場にいるか、目的を終えて食堂に戻っているかはわからない。彼らが伝えたのは集合場所だけで、閃穴を処理したあとの行動については決まった指示は出していない。
午後六時三十分。
正五と氷河が固唾を飲んで見守る中、閃穴が復活する兆しはない。
午後六時三十五分。
木々の間から、再び光が漏れることはなかった。五分も待てば、吸収にかかった僅かな時間の誤差も完全に吸収される。つまり……。
「……無事、成功か」
「みたいだね。正五、おめでとう」
こうして、四つの閃穴は同時にふさがれ、もう二度と同じ閃穴が復活することはなくなった。探偵、刈霧正五の推理は見事に的中したのである。
全ての閃穴を同時に、光を吸収してふさぐ――それが厄介だが栄養豊富な閃穴の正しい食べ方であった。