第四節 月風(一)

章 不可視の領域と果御神〈はてみかみ〉


 イセカは洞窟の中で思い出していました。バージとヒーラに会いに行ったとき、低い山の西に見えた光景を。あのときに感じた、何かがあるという感覚は気のせいではありません。

 あれから何度か、イセカも一人で低い山に登ったことがあります。そして余裕があるときは、山の西の光景を眺めていました。同じ場所から目にしても、感覚に変わりはありません。別の場所から目にしても、やはり何かがあるように感じました。

 それが三回目のときは、イセカはまだ偶然の可能性を考えていました。五回に達した頃には、気のせいではないという確信に変わります。そして六回目の確認を終えて戻ってきた今日、彼は新たな行動に出ます。

「サーワ、少し頼みがあるんだけど、いいかな?」

「ルエの頼みなら何でも聞くとは言わないが、少し検証に時間がかかりすぎではないか?」

「何もないかもしれない場所に、君を連れていこうと言うんだ。慎重にもなるさ。同じ研究者として、人の研究の邪魔はしたくないからね」

 イセカは洞窟の広い部屋で研究をしていたサーワに声をかけました。彼女は待っていたとばかりにイセカの声に答えると、研究を続けながら言葉を返していきます。

「ならば、今からアチの研究を少し手伝ってもらおうか。大したことではないのだが、術気を使えぬ者の助けがあると早くてな。知っての通り、アチは万能だからな」

「それくらいならお安い御用だよ」

「そうか。――ああ、そこに立ってくれ。研究の詳細だが……」

 それから、イセカはサーワの研究を少し手伝います。術気を使えない彼ゆえの役割が何かは詳しく伝えられませんでしたが、サーワの満足気な表情で無事に役目を果たしていることは理解できます。

 研究の手伝いは半日もかからずに終わりました。サーワの感謝の言葉とともに、頼みの予定日を尋ねられたイセカは、少し悩んでから答えます。

「君がいいなら、明日でお願いするよ」

「ふ、ルエの準備は万端のようだな。では、そうしよう」

 サーワも承諾して、二人の明日の研究予定は決まりました。

 翌朝早くに、リアが昇り始める前に二人は洞窟を出ました。目的地は低い山を越えた先です。暗くなっても探りにくくなるわけではないですが、明るいときと暗いときの比較もできれば正体を見極めるのに役立ちます。

 まずは、低い山の高い場所を目指して、そこから大体の場所を確認します。

「あそこか。ならば……」

 それから、サーワに尋ねてそこへの最短の下山ルートを把握します。低い山とはいえ、山であることに変わりはありません。安全を確保せず、崖を駆け下りていくのは危険が伴います。

 そうして二人が山越えを終えたのは、リアが天高く昇るよりも数時間前のことでした。

「ここからだね。うん、やっぱり何かがあるように感じるよ。ここからだと、まだ少し遠いけれど」

「急いでもいいが、アチにはその場所がはっきりとはわからぬ。ルエの先頭は任せるぞ」

「ああ。ここには竜獣もいないみたいだし、ゆっくり進んでいこう」

 二人は何もない平地を歩いていきます。僅かに木は生えていますし、花も咲いています。しかしそれらも広い平地に点在するだけで、密集しているのは向かう先の反対側か、ずっと向こうの海岸沿いです。

 元々植物の少ない場所だったので、山の上から見たときははっきりとはわかりませんでしたが、こうして下りて近付いて見るとその不思議さはサーワにも理解できます。

「植物も避けているのか?」

「そうみたいだけど、そうじゃないみたいでもあるよ。何かがありそうな場所にも、木は生えているね。花だって咲いている」

「ふむ。植物の生え方でアチが見抜くのは難しそうか」

 しばらく歩いたところで、イセカが足を止めます。ここまでは何もありませんでした。しかし、ここからは何があるかはわかりません。

「そこからか?」

「うん」

 イセカはそっと足を踏み入れます。サーワもそれに続いて足を踏み入れますが、二人とも特に変化は感じません。

「サーワは何か感じないかな?」

「術気の気配は全くないぞ。ルエも感じないのだな?」

「うん。もっと進んでみよう」

 危険がないことは既に伝わっています。範囲内の全てが安全とは限りませんが、地面も目の前の空気も、外の空間と全く変わりないように感じられました。

 さらにイセカは歩き続けて、またある場所で足を止めます。

「何かあったか?」

「何もないよ。何もないけど……何もないまま越えたみたいだ」

「ふむ。どこまでだ?」

「僕の隣まで。サーワがいるところは、まだ何かがありそうな場所だね」

「そうか……。白円錐は使えるが、アチには何もわからぬ。ルエの指示を待とう」

「そうだね……」

 サーワの言葉に、イセカは考え込みます。その間に彼の隣まで彼女も歩き、範囲の外に出ておきました。当然、それで何かが起こることはありません。

 何かがありそうだけど、何もない。何かがあるはずなのに、何もない。きっと存在するはずなのに、何もない。この感覚は、彼にとってはよく知っていたものでした。

「異世界……。異なる世界、異なる場所、だとすると、サーワ」

 考えをまとめたイセカは、彼女の名前を呼びます。自らをこの世界に呼んだ少女に、呼ばれた青年としての立場としてです。

「君が僕を呼んだときと同じことを、ここでもできるかい? 明確に何かを呼ぶ必要はない。呼ぶための条件さえ整えてくれればいいさ」

「それはまた、大変な要求をしてくれるな。だがいいだろう。非常に範囲は狭くてもいいのだな? 白円錐を目印にしてできるのはそこまでだ。それ以上は、より多くの準備が必要になるぞ」

「構わないよ。場所は、そうだね……そこがいい」

「了解だ」

 イセカに指定された場所に、サーワは白円錐を置きます。そこは何かがありそうな場所と、何もない場所のちょうど境目でした。

 白円錐に、光が集まっていきます。サーワの術気――スイ〈水〉と、ヨウ〈葉〉と、ネン〈燃〉の術気が、白円錐に力を与えて、異世界との繋がりを生み出します。何かを呼ぶには細すぎる道ですが、それは確かに異世界との繋がりを示しているのです。

「ほう……。これは、おかしいな」

 力を維持しながら、サーワは呟きます。微笑みを感じさせる声ですが、表情には真剣さだけが見えています。

「やはりそうかい? 僕の世界とは別の世界、いや、そもそもどこの世界とも繋がってはいないんじゃないかな?」

「うむ。アチの実験では、こんなことは一度もなかった。このまま続ければいいのか?」

「お願いするよ。あとは……」

 イセカは白円錐の上で輝いている小さな光に手を伸ばします。別の世界に繋がっているのであっても、触れたところでイセカはこの道を通れません。しかし、別の世界に繋がっていないのであれば、どれだけの危険があるかは不明です。

「だからといって、迷っていたら研究者はやっていられないね」

 イセカは微笑むと、その光に拳を叩き込みました。術気の凝縮された光には全く変化はありませんが、光の周囲にはほんの少しの変化がありました。

 空気が変わった――文字通り、何か別の空気がその場に突然現れました。暖かくもなく冷たくもない、まるで温度を感じさせない空気が、イセカの拳を包み込んでいます。その感覚がなくなる前に、イセカは再び、一歩を何かがありそうな場所に踏み入れます。

 すると、変わった空気はイセカの全身を包みました。その大きな変化は、白円錐に術気を流し込み続けているサーワにも、目立った変化として認識されます。

「……さて。これだけ送れば維持は十分だろう」

 サーワはイセカにも聞こえるように言って、術気を放つのをやめます。元々、一定の術気を与えれば異世界との繋がりは長く維持できるものです。とはいえ、一日二日と維持できるものでもありませんので、必要ならすぐに再開できるように声として伝えました。

 イセカの耳にもしっかりその声は言葉として届いていますが、彼はその身を包む空気についての対応に集中しています。これ以上の維持が必要なのか、それもまだわかりません。

 ふと、イセカは無意識に構えていたことに気付きます。僅かしかないとはいえ、彼にも使える術気はあります。それが彼の身を守るように見えない無数の粒として漂っていたのです。

 イセカは術気の扱い方について教わったことを思い出します。簡単なものではありますが、サーワに僅かな術気でもできることは教わっていたのです。実際にどうやったら使えるのかも、何度か試したことがあります。

 思い出して彼が行ったのは、術気を遮断することです。無意識に出ていた術気を出ないようにして、術気のない世界の住人としての、異世界人の稲荷イセカとして変わった空気に包まれます。

 その瞬間、彼の身だけを包んでいた空気は大きな広がりを見せました。

 広がる空気はイセカが何かがあると思っていた範囲全てに流れていきます。そこまで大きくなると、空気がこの場をまるごと変えてしまったかのようです。

「……ほう」

「これは、成功みたいだね」

 僅かな間に、その空気は浸透しました。まるでそれが元々そこにあったかのように、それは彼らの目の前に姿を現します。

 いいえ、実際にそれはそこにあったのです。なぜなら、崩れた城のような建物も、小さく立派な堅城のような住処も、その住処に住む一人の住人も、それが元からそこにあったことを自ら証明したのですから。

 イセカよりもサーワよりも背が高く、しかし体型は彼らに近いスレンダーなもので、それでいて彼とも彼女とも違う世界の人間のような、不思議な人物がそこに立っていました。

「異世界の者には、ワタシの不可視の領域も不可視にはならぬ、か。キサマのことを褒めてやろう。ワタシはリランリラ・リーラーン。かねてよりこの地に住まう、果御神だ」

「果御神……」

 イセカが視線を向けると、サーワは首を横に振ります。

「アチも知らぬな。果御神とは何だ?」

「ここで話すか? ワタシの住処で座って話した方が、人には気楽であろう」

 微笑むリーラーンは、小さく立派で堅牢な城を視線で示して告げます。

「そうだね。僕はそうしたいよ」

「アチも城内での話を願おう。この島にいる存在なら、アチにとっても大事な研究対象だ」

 二人は迷うことなく承諾すると、彼あるいは彼女の後について、城へと歩いていきます。城としては小さめですが普通の家と比べると大きい扉を開けて、小さくとも天井の高いエントランスを抜けて、半螺旋状に端から中央へ続く階段を上り、小さくも大きくもない細長い部屋に辿り着きます。

 二階へと続く階段は、二つありました。同じ広さと長さを持った左右対称の階段です。そのうち、リーラーンが上ってイセカとサーワも上った階段は左の階段です。

「こういう階段は初めて上ったよ。新鮮なものだね」

「アチも上るのは初めてだ。見たこともないが、物語では聞いたことがある」

「僕も絵本で見たくらいだね。二つある利点が気になるところだけど、どういったものがあるかな?」

「逃げ道の確保と、摩耗の分散、曲線になっていることは直線的な進軍を避ける意味もありそうだな」

「これはワタシの趣味だ。摩耗などはせぬし、攻められることもない。それよりキサマら、さっさと扉の中に入ったらどうだ?」

 そんな会話は、三人が最後の部屋に入る前に交わされたものです。リーラーンの声は好意的なものではありませんでしたが、嫌悪を感じさせるものでもありませんでした。二人が意外なところで足を止めたことを、ただ不思議に思っての声かけです。

 その様子にどこか常人離れしたものを感じたイセカとサーワですが、彼あるいは彼女が常人でないことは既に自ら口にしています。果御神――そこに神の名がついているのですから。

 中には洒落た白いテーブルと、長い背もたれの小さくも立派で、さらに座り心地の抜群にいいチェアが揃っていました。向かい合って六人は座れそうなテーブルに、二人と一人、イセカとサーワの向かいに、リーラーンが座っています。

 右のサーワと、左のイセカ、ちょうど二人の間の向かい中央です。座っている椅子は同じものですが、余った椅子は全てテーブルの側面から差し込まれたため、リーラーンの隣に椅子は一つもありません。

「これは……この島の素材には見えないね」

「そのようだな。アチも見たことがない。しかし、近いものなら……」

「神大陸で見たことがあるか? それとも、神の世界で見たか?」

「ああ。そうなるとやはり、ルエは神なのか?」

 質問の中心となるのはサーワです。イセカも聞きたいことはありますが、この世界の神についての知識をより多く持ち、接触した経験もあるのはサーワです。彼女の方がより的確な質問ができることは、考えずともわかることでした。

「ワタシは神ではない。しかし、神であったものとは言える。キサマは彗隕精と神の関係を知っているか?」

「アチは知らぬな。神の研究は専門外だ」

「であろうな。念のために聞くが、キサマは? この世界に興味があるのだろう?」

「よく知ってるね。僕も知らないよ」

「そうか。知識量に差がないのであれば、一から説明してもよいだろう。もっとも、非常に簡単な話だ。彗隕精は世界を食らう存在。そして神は、世界そのもの。ただそれだけのことよ」

 言葉通り、リーラーンの話はとても簡単なものでした。

「それはまた、随分単純なものだな」

「神は世界が彗隕精から身を守るための存在だ。それ以外の意志は持たぬ、とても単純な存在なのだ」

「……ふむ」

 簡単で単純な話ですが、二人にとって初耳の知識です。その知識が何を意味するのかは、二人ともそれぞれの考えで理解しようとして、ほぼ同じ結論に達します。

「果御神とはなんだ?」

「君は神とは違うのかい?」

 サーワとイセカ、二人の質問が同時にリーラーンに投げかけられます。それに驚くでもなく、リーラーンは冷静に、少しばかりの笑みを浮かべて答えます。

「ワタシは世界の果ての先に暮らす者。彗隕精に食われた世界の、意志を持ってしまった神の変化体だ。それゆえに、ワタシは神ではなく、世界からも分かたれている」

 その説明も簡単なものでした。しかしこれの理解には、二人とも少しの時間を要します。

「ああ、もちろん、果御神はワタシだけではない。だが、この島にいるのはワタシだけだ。他の者たちは世界の果ての先で暮らしている。私が物好きとも言えるが、果御神の多くが近しい性質を持っている。もっとも、キサマら人と同じように、程度に大きな差は存在しよう」

「程度が大きいのが、君ってわけだね?」

「うむ。この島に暮らす者は興味深いのでな。この住処のように、以前から身を隠して観察している。よもや、異世界の人間を呼び寄せるとまでは思わなかったが、おかげでこうして話せるのは楽しいものだ」

「君からは接触できないのかい?」

「できぬはずがなかろう。だが、する理由がない」

「では、ルエは再び身を隠すつもりか?」

「隠すつもりでなくとも、自然と隠れてしまうさ。ワタシはそういう存在だ。しかし、キサマらに見つかってしまった以上、隠れて観察するのはやめにした」

 リーラーンがどういう存在なのか、まだイセカもサーワも完全には理解していません。けれども、彼女の言葉に嘘がないことは感覚で理解できます。

「ところで、一つ聞きたいのだけど、君は男なのかな? それとも女なのかな?」

「ワタシに人と同じ性別はない。ワタシからも、一つキサマらに聞いておこう」

 リーラーンからの初めての質問です。イセカとサーワはどんな質問がされるのか、唾を飲み込んで待ち構えました。

「キサマらの名を、そろそろ教えてもらおう」

 その質問は、二人の予想外のものでした。けれど考えれば当然の質問で、イセカとサーワは顔を見合わせて小さく笑うと、最後に自己紹介をしたのでした。

「アチはサワサ・サーワだ」

「僕は稲荷イセカだよ」

 二人の返事にリーラーンも笑顔を見せて、その日の彼らの会話は終わったのです。

 不可視の領域に住むリーラーンを見つけてから二日後のことです。サーワが洞窟の外でリアの光を浴びていると、彼女の前にリーラーンが現れました。

「サーワ、中を見せてもらってもいいか?」

「わざわざアチの許可を取らずとも、入れるのではないのか?」

「ワタシにも配慮というものがある。気付かれぬからといって、あまり踏み込みすぎてはいけぬからな。キサマらが来るずっと前からこの島にいるのだ。人の生活も理解しているさ」

「なるほど。ビーダのことは?」

 気軽で的確なサーワの質問に、リーラーンは小さく笑って答えます。

「少しは、幼い頃のことならな。あのときはワタシも学んでいる途中だった」

 答えにサーワも笑みを返すと、洞窟を指さします。

「アチはまだしばらくここにいる。イセカも出かけているが、それでもいいなら好きに見ていくといい。触れたいものがあるなら、扉であってもアチに許可を願おう」

「了解した。触れずとも、ワタシなら多くを理解できると思うがな」

 リーラーンは洞窟の中に入っていきます。入り口の坂を下っていく足は軽やかで、まるで洞窟内部の全てを熟知している足取りです。

 実際に、途中までは彼女は多くを知っていました。サーワら多くの学者たちが来る前に、この洞窟の中も見たことがあったのです。危険な竜獣もいる島ですが、身を隠せるリーラーンにとっては狙われる心配はありません。

 身を隠していなかったとしても、並の竜獣であればリーラーンの存在を脅威に感じて、無闇に襲ったりはしません。ただし、並でない竜獣もこの島には棲息しています。

「ほう……ふむ、なるほど。やはりなかなか、よく整っている。この島に生き続けられるだけの力があるのも納得だ。それに……、ワタシの知らない竜獣の香りもする。あとでサーワに聞いてみるとするか」

 しばらくして、リーラーンが洞窟内を一通り歩き回った頃に、サーワが洞窟内に戻ってきました。早速リーラーンは、気になったことを質問します。

「この竜獣の香りについて、説明をしてほしい」

「香り? ふむ、それはアチにはわからぬが、最近研究している竜獣はゴセンテと名付けたものだ。体の一部は持ってきているが、少し待て」

 リーラーンのいた部屋にある棚から、サーワは小さな触手の欠片のようなものを取り出します。それを持って彼女はリーラーンに近付くと、リーラーンは小さく頷きました。

「こいつを集めるのにはなかなか苦労してな。ゴセンテとの遭遇自体は、だいぶ前にしているのだが……」

 それから、サーワの始めた説明に、リーラーンは耳を傾けます。その姿形から行動範囲まで、今の彼女が知りうる限りの情報は全て伝えられました。

 話を終えて、サーワは感心した表情と声で言葉を告げます。

「よく最後まで聞けたな。ルエは研究者ではないのだろう?」

「ん? この程度の時間、ワタシには有り余る時間のほんの一部だ。キサマの何十倍も長いというわけではないが……いや、その可能性は否定できぬか」

「ふ、確かにその通りだな。だが、アチも長生きはするつもりだ。せめてこの島を無事に出られるくらいまではな」

 二人の笑い声は、洞窟の中に静かに響き渡りました。

 それから、また二日後のことです。森林を南に抜けて、海を眺めていたイセカの背後にリーラーンが立っていました。

「キサマは海が好きなのか?」

 イセカは振り返って、彼の肩越しにぼんやりと海を見ているリーラーンに答えます。

「君は世界の果ての先から来たんだよね?」

「ああ。ワタシが来たのはこちら側の海ではないが」

「どうやって海を越えてきたんだい?」

 その質問に、リーラーンは西の低い山に視線をやって答えます。

「泳いで来たに決まっている。船を用意できぬわけではないが、ワタシは果御神だ。生身でも海を渡るくらいは造作もない」

「じゃあ、大陸までも行けるのかい?」

「行けなくはないが、船がほしいな。ワタシも泳ぎ続けるのは飽きるし、時間もかかる。キサマは海の先が気になるのか?」

「そうだね。けど、この世界の人にも越えられない場所なのもよく知っているよ。僕が努力して目指すより、他の人に任せて同行を願うのが得策だと考えるね」

「懸命だな。ワタシが手伝えば連れていくことは可能だが、どうする?」

 リーラーンの試すような声に、イセカは即座に首を横に振ります。

「行けたとしても、命の保証はできない。違うかい?」

「少し違うな。必ず行けるが、越える前に必ずキサマは死ぬ。今のキサマでは、それ以外にはありえない」

 断言したリーラーンに、イセカは笑って返します。彼につられてリーラーンも微笑みを浮かべて、再び海へと振り向いたイセカと一緒に海を眺めていました。

 彼女に会う前の一日と、彼女と彼に会う間の一日、リーラーンは低い山と高い山の頂上に、それぞれ登って島を眺めていました。不可視の領域から出てこんなに動くのは、久しぶりのことです。

 二つの山から眺められるのは、広い川に、遺跡に、岩山に、湖に、桟橋に係留された大きな船です。どの人物も、彼あるいは彼女にとって興味深い存在でした。

「ワタシを見つける異世界人、か。それに、この島には……さて、神もまさかワタシのような者がこの島にいるとは考えてはいまい。彗隕精の子には興味深いものがあるが……」

 そこでふと、くすりと笑ってリーラーンは視線を空に向けます。

「果御神は世界から分かたれし存在。神の――世界の判断がどう転ぶか、じっくり見守らせてもらおう」

 視線を落として、山を跳躍するように不可視の領域へと戻りながら、リーラーンは優しく呟きます。

「何ができるわけでもないし、何を起こせるわけでもないけれど、な」

 その言葉は、彼あるいは彼女の真実を言い表していました。リーラーンは果御神。既に彗隕精に食われた、神だったもの。彗隕精を倒す力もなければ、彗隕精に襲われる心配もなく恐れる必要もありません。

 そして神に対して、怒りがあるわけでもないのです。それが神であることは、かつての彼あるいは彼女が同じ存在だったことで、よく理解しているのですから。

「神でもなければ、彗隕精でもない、全てを観て測り、知って覚える女神であれば、また違うのやもしれぬが……世界から分かたれた果御神といえど、こちらから観測して知覚できる存在ではない、か」

 ……。

 世界から分かたれても、術気の力は扱えます。果御神のリーラーンは、空を飛翔するように大きく跳躍して、滑空するように空を駆け抜けると、あっという間に不可視の領域へと到着しました。

 不可視の領域に入れば、彼女が自ら見えるようにしない限り誰にも見えることはありません。それがたとえ、一度見つけたイセカたちであっても、神や彗隕精であっても同じです。

 世界の果ての先に住む、果御神。世界から分かたれた存在、果御神。その力と存在はこの世界のものであり、この世界のものではありません。異世界人のイセカと違い、とても近しい存在ではありますが、それでも確かに、分かたれているのです。


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