第四節 月風(一)

章 船と騎士と幼き女


 竜獣の暮らすこの島には、桟橋が一つだけあります。いつの時代に作られたものかはわかりません。ですがサーワたちを乗せた学者船団の船数隻を、全て係留できる立派な桟橋です。その船が全て大陸に戻った今、新たにその桟橋から出る船はありません。

 しかし、桟橋には今も一隻の大きく立派な船が係留しています。その船はサーワたちを乗せた学者船団の船の一隻ではなく、また別の目的でやってきた船の一隻です。

 ふとした会話でサーワからその船の話を聞いたイセカは、月風の季節に桟橋と船を見に行くことにしました。その船には、ターユとフーニが言っていた彼女もいるとサーワは話していました。

「高山と岩山の間を抜けると、草原が広がっている。そこを抜ければ桟橋と船が見えてくるだろう。ルエはこの世界の船を見るのは、初めてだったな」

「うん。けれど、家や遺跡の建築様式から、形は大きく変わらないと推察するよ」

「アチはルエの世界の船を知らぬから答えは返せぬが、とにかく立派な船だから一目でわかるだろう。エルカを乗せた船も立派なものだったが、あれはそれ以上だった。初めて目にしたときは、何者がこの島を訪れたのかとアチも驚いたくらいだ」

 思い出して語るサーワも、具体的に彼女については話してくれません。しかし、それはイセカが聞かなかったからでもあります。

「草原にいる竜獣は?」

「ああ、厄介な竜獣がいる。マクガラと名付けたものでな、アチも行ければいいのだが……」

「君の研究もあるんだろう? 同じ研究者として、僕の研究のために、君の研究を邪魔するわけにはいかないね」

「ならばルエに一つ教えておこう。マクガラに襲われたら、船まで逃げることだ。戦って勝てない相手ではないと思うが、怪我をしたり疲労を溜めたりで、研究する力を失いたくなければな」

「了解」

 イセカは一人で目的の場所へと向かっています。しかし、岩山を越えた先は未知の領域。逃げるのも簡単ではないでしょう。なので彼もより確実に到着するため、途中で休息をとることにしました。

 一晩、体を休めるのはビーダの領域である遺跡です。桟橋へ向かうとイセカが言うと、彼は快く一晩の宿を提供してくれました。

 明けてすぐ、イセカは岩山を目指して歩きます。草原は岩山と高い山の間を抜けた先です。途中で方向を少し変えて、イセカは二つの山の間をどんどん進んでいきました。この場所にも竜獣が現れる可能性があるので、警戒しつつ迅速な進行です。

 道が細くなっては、また開けて、再び細くなり……しばらく進んでいくと、大きく道が広がって緑が視界に広がりました。

「これが草原……思ったよりも広いね」

 イセカは広がる草原の手前で、足を止めて向かう先を見回します。ずっと遠くに見える小さな何かが船であることはわかりますが、長い草に阻まれて桟橋は見えません。

「ここに竜獣がいるのかな? 見たところ、大きな生物の姿は見えないけれど……」

 生えている草は短くはないですが、よく茂った場所でもイセカの膝の上くらいまでの長さです。竜獣が身を潜めているにしても、大きな竜獣ならその背中くらいは見えていてもおかしくないでしょう。

 だからといって、イセカは油断しません。彼の世界にいる生物にも、そういった場所に隠れている生物はいるのです。

「保護色ってやつかな。いや、擬態と言うべきかな? どちらもの可能性もあるけれど、サーワの研究知識は信頼できる」

 たとえ大型の生物でも、生えている草と同じ色をしていれば遠くからでは見分けがつきません。色だけでなく、姿まで草に似せていたらもっと見分けがつかないでしょう。

 イセカは警戒をさらに強めて、目指す桟橋へと歩みを再開します。草原の草は膝上までしかないとはいえ、それがずっと続いているのですから歩きやすい場所ではありません。草は柔らかく土もしっかりしていますが、たまに柔らかめの土があって僅かにバランスが崩れます。

「っと」

 転ぶようなことはありませんが、これを予想して待ち構えている竜獣が近くにいたら危険です。イセカは足場と周囲に常に気を配りながら、草原を慎重に歩いていきます。

 急ぐ必要はありません。草の下と隠れているかもしれない竜獣は見つけられませんが、草の上は開けているので遠くにも他の竜獣がいないことはわかります。もちろん空にだって竜獣はいません。ハネオモやタメダメが不意に襲いかかってくるようなことはないでしょう。

「……さて。どうしたものかな」

 順調に歩みを進めていたイセカですが、ある地点で足を止めました。

「何か気配はする。けれど、どこにいるのやら」

 目を凝らしてみても、竜獣の姿は彼の目には映りません。いえ、映っていても竜獣とは認識できないのかもしれません。それでも、何かがいるという気配だけは辛うじて察知することができました。

 桟橋まではまだ距離があります。気付いていないふりをして駆け抜けるにしても、イセカの足ではすぐには辿り着けません。隠れた竜獣は大きくは動けないはずですが、正面から突撃したら先制されておしまいです。

 逆に、上手く遠くを抜けることができれば、隠れている竜獣に襲われないで済むかもしれません。擬態して待ち構えるような竜獣です。瞬発力は高いかもしれませんが、持久力や最高速度はさほど高くはないでしょう。

 一歩、二歩、とイセカは慎重に進みます。もちろん、すぐに駆け出せるような体勢です。

「そこだっ!」

 イセカは威勢よく叫ぶと、拾っておいた石を進行方向に投げます。反応はなく、石は草原に吸い込まれていきました。

「この声に反応して襲いかかるわけでもない、と。いくつか用意しておいたけれど、虱潰しにやるわけにはいかないね」

 イセカは進行方向だけに向けて、岩山周辺で拾っておいた石を投げて様子を見ます。竜獣に当たったところで痛みもなく、反応しない可能性の方が高いですが、吸い込まれていく様子は少し変化するとの考えです。

 投げた石がしっかり草に吸い込まれていくのを確認しながら、イセカは二歩、三歩と進んでいきます。

「よっ、と!」

 慣れた様子で、けれど警戒は一切緩めることなく石を投げます。今度も同じように石は草原に吸い込まれていき、変化がないのを確認したイセカが、もう一歩足を踏み出します。

 しかし、そこでイセカは自分の考えが間違っていたことを悟ります。踏み込んだ足は、草原の土を踏むことはなく、少し高い場所に乗り上げていました。

「……はは、そういう隠れ方なんだね。うっかりしていたよ」

 イセカが踏んだのは、竜獣の背中でした。踏んだ感触から硬い殻のように感じた背中には、草原に生えているものと同じ草がたっぷり生えています。石が吸い込まれる姿に変化がないはずです。

 そして、イセカの接触に反応した竜獣の巨体は、土を巻き上げながら姿を現しました。イセカは踏み込んだ足に力を入れて、咄嗟に飛び退いて距離をとりつつ全貌を確認します。

 現れた巨体は横に大きな姿を持ち、全貌を見せても高さは草の長さの倍しかありません。それゆえに、半身を土の中に隠せば接触するまで姿を隠すことができたのです。

 横の大きさはイセカの何倍もあり、洞窟の一部屋に丸ごと収まるくらいの大きさです。さすがに食事をする机がある部屋ほどではありませんが、イセカが目覚めた部屋と同じくらいはあるでしょう。

 これが――マクガラです。

 イセカは踏み込んだときの感触を思い出して、マクガラの正面は避けて駆け出します。あの殻に生えている草は、ただ擬態するためだけのものではありません。生命を捉える草の罠――イセカは感触でそう判断しました。

 イセカは巨体の横をすり抜けようと駆け出します。マクガラはそれを阻むように横に動きはしますが、積極的に攻めてくることはありません。桟橋を目指すイセカにとって、厄介な動きではありますが危険は少ない動きです。

 イセカが殻に拳を叩き込むと、マクガラは一瞬動きを止めます。しかし殻には傷一つ付くことはなく、それでもイセカが半歩抜け出すには十分な時間です。

「これは、確かに倒すとなると怪我しそうだね」

 再びイセカが拳を当てると、マクガラはまた一瞬動きを止めて、その隙にイセカは半歩抜け出します。同じ行動を彼は何度も繰り返して、少しずつ桟橋に近付いていきます。

 相手は竜獣です。まだ油断はできないとイセカは気を抜きませんでしたが、しばらく続けているとマクガラの動きが遅くなり、仕舞いには全く動かなくなってしまいました。なおも警戒を続けていたイセカですが、マクガラはそれ以上追ってくることはありません。

 ふと見ると、桟橋はもうすぐそこに見えていました。大きな船もここからなら、その大きさがはっきりとわかります。マクガラの何十倍もの大きさを持つ巨大な船に、恐れをなしたのでしょうか。

「違うね。恐れるとしたら、乗客か」

 イセカは小さく首を横に振って、マクガラが追わなくなった理由をそう結論付けます。これ以上近付くと、彼女が現れてしまうから。マクガラはその彼女に恐れをなしたのです。

 ただ、もしかすると別の理由かもしれません。マクガラは再び土に身体をうずめることはなく、あの場に待機しています。背中を見せると不意に動くかもしれません。イセカはマクガラを正面に捉えつつ、後退りで桟橋を目指すことにしました。

 次第にマクガラは姿を小さくしていき、土に身体をうずめずとも姿が見えにくくなっていきます。イセカは時折背後を確認しながら距離を測り、桟橋が迫ってきたところでもう安全と判断し、マクガラに背を向けて船を眺めました。

 イセカは大きく息を吐きます。それはマクガラの危険が去った安堵から出たものと、目の前の物体を目にした感嘆から出たものが、曖昧に混じった溜め息です。

 桟橋に係留されているのは、一隻の大きく立派な船です。

「タラップは、と……」

 桟橋を歩きながら、イセカは船から下ろされているであろうタラップを探します。とても大きな船ですが、船が係留されている側に回り込むとすぐにそれは見つかりました。

「常に出しているってことは、人がいるのは間違いないね。問題は、どうやってその人を探すか、だけど……」

 タラップから船に乗り込むことはできても、呼び鈴の類は見当たりません。これだけの大きな船です。少人数なら使っていない場所もあるでしょうし、歩いて探すのも大変です。

 イセカはタラップに足を踏み出しながら、まずは地図や設計図がないかを探してみることにしました。よく人が通りそうな場所がわかれば、あとはそこで待つだけです。

 船に足を踏み入れると、地面の上では感じられなかった揺れがイセカの体に伝わります。海は穏やかですが、全く波がないわけでもありません。久々に感じる揺れの感覚に、イセカは新鮮さを味わいながらも目的は忘れません。

「まずは甲板、にしても広そうだ。十階建てはありそうだね。船室も百や二百じゃないだろうし、五百――千室あっても不思議じゃないね」

 呟きながらイセカは船を歩いて、甲板へ上る階段を探します。あるいはエレベーターでもあればいいのですが、この世界のものがどのように動いているのかはわかりません。術気に反応する仕組みなら、イセカでは動かせない可能性も高いでしょう。

 しばらく船の外周にある通路を歩いていくと、広い場所に出ます。そこには地図もありましたが、その雰囲気にイセカは首を傾げます。

「不思議な船だね。一見すると豪華客船のようにも見えたけど、にしては設備が質素だ。かといって軍艦としての装備も見当たらないし、これだけ広いのに、これじゃあまるで……」

「監獄のよう。貴方にはそう見えますか?」

 不意に後ろからかけられた声に、イセカは素早く振り向きます。

「自分はムクム・ムーク。貴方のことは船に乗る前から見ていました。ターユとフーニから話は聞いていますよ」

 振り向いた先に立っていたのは、スレンダーな美しい女性でした。美しいというのは容姿を表すだけの言葉ではありません。流麗な立ち姿と、一切の隙のない雰囲気からも、彼女の美しさは伝わってきます。

 綺麗な大人の女性、と一言で表現できるような人間ではありません。装束は動きやすそうなこと以外、これといった特徴はありませんが、そのシンプルさもまた不思議です。

 イセカがこれまで出会ってきた人たちも、特別に派手な服装をしてはいませんでした。島で暮らす上では派手で動きにくい服は邪魔になるだけです。しかし、全く装飾がないわけではありませんでした。

「この服装も気になりますか? これは自分の所属を示すものです。わかりますか?」

「騎士が鎧の下に着る服には過度な装飾は不要――そういうことかな?」

 ムークの質問に、イセカは瞬時に答えを返します。ここまで装束に装飾が少ない理由を考えると、さらに上に着るものがあるからと考えるのが自然です。

「僕は稲荷イセカ。ムークさん、初めまして。早速だけど、色々聞いてもいいかな?」

 イセカが問うと、ムークは表情を崩すことなく大きく頷きました。

「まずは、座って話せる場所が知りたいんだけど、どこがいいと思う?」

「自分も同じ考えです。それなら、こちらです」

 答えたムークは小さな笑顔を見せて、イセカを椅子のある場所まで案内します。場所は声をかけた場所から少し歩いたところです。そこには小さな椅子と机がいくつか並んでいました。

「ここならちょうどいいでしょう」

「海も見えるし、吹き抜けから空も見える。それでいて、屋根もあるから雨が降っても安心だ。いい場所だね」

「嵐のときは使えませんけれどね。吹き抜けの上にはもっと広い甲板もあって、そちらの方が見晴らしは勝りますが……」

「階段を何段上ればいいのか、聞かなくても想像はつくね」

 話しながら椅子に腰を落ち着けて、イセカはムークに色々な質問を始めます。

「ターユとフーニからはどこまで聞いているんだい?」

「貴方にどこまで話したのか、簡単には聞いています。彗隕精についての説明は任せる、とも言われました」

「任されてくれたのかい?」

「はい。確かに、一番詳しいのは自分です。聞きたいと言うのなら拒む理由はありません」

「是非聞かせてもらえるかな」

 イセカが笑顔ではっきり言うと、ムークは小さく頷いて、彼女の知る彗隕精についての語りを始めました。

「自分が彗隕精と遭遇したのは、境界大陸でした。彗隕精はこの船よりも大きな生命です。監視中に接近を察知した自分たちは、隊長に率いられて境界大陸の防衛にあたりました。隊長以下百数名、誰もが訓練された腕の立つ騎士隊です」

「いつもそれくらい配備されているのかい?」

「二連大陸に彗隕精の姿が確認されてからは、平常の人数です。確認される前はその半分もいませんでしたが、大大陸から精鋭が増員されました」

「君もその一人?」

「いいえ、自分は元々境界大陸にいました。誰と戦うでもない、万が一に備えての私たち騎士でしたが……残念ながら、人の備えは彗隕精には全く通じませんでした」

 ムークの悔やむような表情に、イセカは黙って彼女の言葉の続きを待ちます。

「彗隕精に立ち向かった騎士隊はほぼ全滅――。生き残ったのはただ一人、自分だけでした」

「君一人……。助かった理由は?」

「助かった、というのは正確ではありませんね。自分は彗隕精に、捕らえられたのです。それに公式には、自分も彗隕精に殺されたことになっています。救出に来た神たちならともかく、人間には自分が生きていると知るものはほとんどいないでしょう」

「それは……いや、順を追って聞かせてくれるかな?」

「よい判断です。そうですね、まずは捕らえられた自分がどのような目に合ったのか、話すとしましょう。少々、貴方には刺激が強い話かもしれませんが」

 そう言ってくすりと笑うムークに、イセカも微笑みで返します。どんな話をされるのかはわかりませんが、彼も研究者です。少々のことでは驚かない自信がありました。

「自分は彗隕精の体内のような場所に捕らわれました。自分だけがなぜ生かされたのか、最初のうちはわかりませんでした。戦いの中で受けた怪我の治癒を待つ間は、ずっとそのことを考えていたのです」

「彗隕精が治療を?」

「はい。それの理由も全くわからなかったのですが……。ふと、触手と言えばいいのでしょうか、それが自分に迫ってきました。それはすっかり傷の癒えた自分の衣服を脱がし、少しの躊躇も見せずに私の体内に入りました。自分も無論、知識はありましたが、あれも性行為というものなのでしょうね。その瞬間、自分だけが生かされた理由も理解できました。彼は自分に子種を宿すために捕らえたのです。

 それから、自分が救出されるまでの1500日以上の間、特定の時期を除いてほぼ休まずに彗隕精に性行為をされました」

「それは……、僕の世界でいうと四年以上になるね。どれほどの恐怖と辛さなのか、想像もできないよ」

「ええ、よく言われます。貴方だけでなく、サーワさんや他の方にもそのように言われましたが、実際にはそこまで辛くはなかったのですよ。最初の数日は確かにそういった気持ちもありましたが、次第に自分も性行為に慣れてきましたので。たとえ相手が彗隕精といえど、これに関しては自分の方が一枚上手だったようですね。

 娘が産まれてからは、なおさらです。とはいえ、内部から篭絡できるような存在でもありません。彗隕精に捕らわれ続けていたという事実に変わりはありませんよ」

「娘? ええと、その……」

 予想外の答えに、イセカはどう言葉を返していいのかわからなくなります。

「刺激が強すぎましたか?」

「君の強さに驚いているところだよ」

「そう、ですね。自分は強いです。だからこそ彗隕精も、子種を残す相手として自分を選んだのです。普通の女性であれば、肉体的にも精神的にも耐えられたものではないでしょう」

 答える中に僅かな間があり、ほんの少しだけ声が重くなったことにイセカは気付きます。しかし、その理由が何かを考えても、今の彼にははっきりとわかりませんでした。

「さて、このまま話を続けてもいいのですが……娘に会いたくありませんか? その方が、これからの話もより理解できると思いますよ」

「そうだね。いくつなんだい?」

「四つです」

「へえ……。って、四つ? じゃあその、彗隕精と君は、娘の見ている前で?」

「もちろん、自分は捕らえられていましたから。僅かな期間の子育てが終わり、我慢できなくなった彼は構わずに襲ってきました。しかし、成長した娘も遊んでほしくて彼のものを千切るようになったので、邪魔をされないように彼が遠ざけていました」

「千切るとは豪快だね。協力して脱出することはできなかったのかい?」

「娘にとっての母は自分ですが、父は彗隕精です。彼も娘と遊んでいましたし、愛してくれている両親から逃げようとする娘がいますか?」

「……なんだか、話を聞いていると、彗隕精がいい父親のように聞こえてくるね」

「あながち間違ってはいませんよ。……あながち、ね」

 また、ほんの少しだけ声が重くなります。その理由を知るために、イセカは立ち上がって彼女が案内する娘の元へと向かいました。

 ムークは船の中を迷うことなく歩いていきます。彼女が住んでいる場所なのですから当然です。しかし、あまりにも迷いなく曲がり角も曲がっていくため、イセカも彼女の後を追うのがやっとでした。

 階段を上って、角を曲がると、今度は階段を下ってムークは進みます。地図を覚えていないイセカには不思議な道筋でしたが、どんどん船の奥深くに向かっているのは何となくわかります。

 どこまで行くのかと尋ねたくなるイセカでしたが、聞いても早く着くわけではないため、黙ってムークについていきました。

 そして、彼女が最後に開けた扉は、船の乗組員の頂点に立つ船長室の扉でした。

 扉を開けると、中にいた小さな女の子が振り向きます。小さくて可愛くて、とても愛らしい幼い姿でしたが、その幼さに似合わないはっきりした声で母の名前を呼びます。

「あ、ムーク! スーイにごよう? ……ん?」

 けれど、無邪気な笑顔と、ころころ変わる表情には、幼い女の子が感じられます。

「あなた、だれ? スーイはスイス・スーイだよ。おなまえ、おしえて?」 

「僕は稲荷イセカだよ。初めまして、スーイちゃん」

「イセカ? スーイ、おぼえたよ。イセカも、ちゃんとなまえおぼえて? スーイはスーイ。スーイチャンじゃないよ?」

「ふむ。それが君たちの文化なのかな? 覚えたよ、スーイ」

 イセカは小声で、しかしちゃんとムークにも聞こえるように呟いてから、スーイに笑顔で答えます。ちゃんと覚えたことが伝わると、スーイは満面の笑みを浮かべて返しました。

「自分たちのではなく、彗隕精の文化でしょうか。スーイは自分のことも、ムークとしか呼びたがらないのです」

「母という概念を知らない、ってわけじゃなさそうだね」

 話している間に、スーイはムークに抱きついていました。ムークが優しく頭を撫でてあげると、スーイは嬉しそうに顔を押しつけて、より強く抱きつきます。

「はい。……自分は、彗隕精を倒した神に救われました。しかし、スーイの姿を見た神は自分たちの存在を隠しました。境界大陸を守っていた騎士たちは全滅した、生き残った者はいないと大陸の者たちには伝えられたのです」

 話の続きを始めたムークに、イセカは思考をその話に戻します。

「それは、スーイが彗隕精の血を引いているから?」

「神は明言しませんでしたが、そういうことでしょう」

「君たちは今こうしてここにいる。命までは取らなかったのは、神の慈悲ゆえかい?」

 ムークは首を横に振ります。

「それが、少し違うようなのです。神はスーイを恐れているように見えました。この島は神の世界から最も遠い場所にあります。

『この子に手を出すと何が起こるかわからない、ならば遠き場所に送るとしよう』

 そんな会話も自分の耳には聞こえていました。もっとも、神も隠す気はなかったようです。続けてこちらにやってきて、同じような言葉をかけられましたから。

『その子の危険性はお主も理解していよう。船は我らで用意する。世界の果てに近しき島へ送らせてもらう』

 と神は言ったのです」

「スーイもきいてたよ。かみさまって、へんなせいめいだよね。スーイ、なにもしないのに」

「変な生命って、難しい言葉を使うんだね」

「かみさまはひとじゃないんでしょ? でも、スーイたちとおなじでいきているいのち。イセカには、むずかしい?」

「いや、理解できるよ。年齢からは想像できない知力があるみたいだね」

 イセカはスーイを見つめながら、続く言葉はムークにも向けます。

「そのようですね。ですから、自分も神の言葉には従いました。そしてこの島に到着したのが、雪風〈ゆきかぜ〉の季節。20日ほど経った日のことです」

「雪風、というと……、淡風の季節の前だね。僕が来るより30日くらい前ってことは、僕が来るまでは一番新しい住民だったのかい?」

「その通りです。貴方の噂は、長い鍛錬の間に届いていましたよ」

 抱きついていたスーイが離れます。それから、彼女はイセカの手を引っ張ると、ムークに声をかけました。

「ムーク! イセカはスーイがあんないしてあげるね。とまっていくんでしょ?」

「ええ。スーイに任せます。まだマクガラもいるでしょうし、明日の出立は?」

「早めに出ようと思うよ。マクガラの様子を見ながらね」

 会話が終わると、イセカはスーイに引っ張られて船長室の近くの一般船室に案内されました。ベッドもあり調度品も整えられた部屋です。

 案内したスーイはにっこり笑うと、とたとたと駆けて戻っていきました。その姿に脅威になるようなものは全く感じられません。イセカは彗隕精や神についてもっと知りたい気持ちもありましたが、聞ける相手はもう他にいません。

 イセカは少ししてからベッドで休んで、明日に備えることにしました。もしかすると、マクガラとの再戦があるかもしれないのです。

 リアが空に昇る時間になりました。

 イセカが船室を出て、見かけたスーイに挨拶をします。ムークは外で待っていると伝えられたので、彼は桟橋に繋がるタラップを目指します。船内の通路や部屋や設備の配置は、昨日のうちに船室にあった地図で確認しています。

 タラップが見えてくると、桟橋も目に入ります。桟橋の上には、金属の剣を手にしたムークが立っていました。

「おはようございます」

「おはよう。その剣は?」

 尋ねながらも、イセカは草原を確認します。すると、桟橋のすぐ近くにマクガラらしき姿が見えていました。

「答えは必要ですか?」

「理解したよ。あれを倒すためだね。僕も協力するよ」

「その必要はありません。貴方はそこで見ていてください。すぐ終わらせますから」

「すぐって……」

 イセカが驚いている間に、ムークはゆっくりとマクガラに歩いていきます。マクガラは姿を隠さずとも桟橋まではやってこないようで、草原の端で待ち構えています。昨日のイセカとの戦いを経て、逃げた彼を獲物として認識したのでしょう。

 マクガラの強さは彼も知っています。イセカは慌てて追いかけようとしましたが、彼女の言葉通りにその必要はありませんでした。

「自分の大事な客人を傷付けさせはしませんよ。道を通します」

 軽い言葉とともにムークは跳躍すると、正面からマクガラの殻に剣を振り下ろします。その剣はマクガラの殻をいとも簡単に割り、その下にある柔らかい膜まで到達します。衝撃を吸収するマクガラの膜ですが、ムークの一撃はその膜までも一刀両断にしました。

「貴方の敵は排除しました。草原にはまだいるはずなので、気を付けてくださいね」

「……うん。君、強いんだね」

 あまりにも凄まじい一撃に、正面から真っ二つにされたマクガラを目にしながらイセカは驚きを隠しません。隠しませんが、驚きすぎて表情も上手く作れず、言葉も上手く出ませんでした。

 追いついた思考で、あれでも勝てない彗隕精の強さを想像しながら、イセカは桟橋を歩きます。草原の前に立っていたムークの隣に着いた頃には、ある程度の冷静さは取り戻しました。

「この島で一番強いのかい? それに、あんな大きい竜獣を真っ二つにするなんて、術気も使っているんだろうね」

「その通りです。この剣は、身を守るためにと神の世界の金属で作られたものですから、術気を流し込むには適しているのです。研ぐ必要がないこと以外は、特別な力を持った剣ではありませんけれどね」

 ムークは剣を見せながら微笑みます。確かに、イセカの目にも普通の剣にしか見えませんでした。試しに握らせてももらいましたが、重さもただの金属の剣と変わりません。

 ともかく、話している間に完全に冷静さを取り戻したイセカは、イクが浮かぶ前に戻るためにすぐに草原へ向かいました。マクガラには気を付けつつ遺跡に辿り着き、そのまま森林を抜けようかとも思いましたが、念のためにもう一晩遺跡で休んでから、洞窟に戻ります。

 その途中、ドーギのところに寄って、ムークの剣についての情報を尋ねます。帰ってきた答えは、「非常に珍しい武器ではあるが、人が使うための武器であることに変わりはない。振るうだけなら此方にも扱えるものであろう」、というものでした。

 詳しいであろう人から情報を聞き終えたイセカは、満足してそのまま洞窟へ戻りました。


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