その日、イセカとサーワの暮らす洞窟をコーネが訪れました。護衛のドーギなら森林警邏中に時々用がなくても尋ねてくることもありますが、別の研究をしている彼女がサーワを尋ねるのはいつも何かの用事があるときです。
今日も同じ理由でコーネは洞窟にやってきました。しかし、最初に声をかけたのはサーワではなく、入口の近くにいたイセカです。
「おはよう。あなたはいるみたいね。サーワも中にいるかしら?」
「うん。呼びに行こうか?」
「結構よ。自己鍛錬の最中でしょう?」
「そうだけど……」
イセカが続きを言う前に、コーネは洞窟の中に入っていきました。彼が来てから、初めて訪れた彼女の用事に興味はありましたが、彼女の言葉通り今は自己鍛錬の最中です。数分後でも話は続いているかもしれないと、イセカは鍛錬に集中することにしました。
洞窟の中をコーネは慣れた足で進んでいきます。元々は彼女もこの洞窟に暮らしていた身ですから、洞窟の内部は熟知しています。最初の広い部屋――食事をとるための長い机のある部屋にはサーワの姿はありませんでした。
「部屋かしら? それとも……」
小声で言葉にしながらコーネは足も素早く動かします。言葉にした部屋に視線を向けたのは一瞬で、足はまっすぐに地下の部屋を目指して動きます。
イセカが呼び出されて目覚めた部屋に、新たに作られた設備でサーワは竜獣の研究をしていました。道を歩く音と気配で来訪者に気付いていた彼女は、その来訪者が声をかけるよりも先に声を放ちました。
「コーネ、用件はなんだ?」
「あなたたちと一緒に川遊びがしたくてね。どうかしら?」
「ほう……。川か」
短い言葉で話は進みます。少ししてサーワが小さな笑みを零すと、コーネは真面目な表情を崩さずほんの少しだけ口角を上げて返しました。
「いいぞ。イセカも新しい土地へ行くのなら拒むまい」
サーワが承諾したことで、話は全て終わります。
数分後、朝の鍛錬を終えたイセカが様子を見にやってきました。
「来たな」
その一言で、話がもう終わっていることをイセカは理解します。彼はやや残念な表情を見せましたが、その表情は次の一言で興味深げなものに変化します。
「エルカは今より川に向かう。もちろんそこにはルエも含まれているのだが、これはアチの要求ではなくコーネの要請だ。ルエはどうしたい?」
それは質問の形を成してはいますが、答えのわかりきった質問でした。
「川というのは、あの低い山に流れる川で間違いないね?」
「うむ。間違いない」
「だったら答えは決まっているよ。僕も行くさ」
イセカは笑顔で答えます。微笑みながら答えを待っていたサーワは頷き、コーネを一瞥してから出発の支度を始めました。もちろんイセカも彼女を手伝います。
「じゃ、私は外で待ってるわ。急がなくてもいいけど、あまり待たせないでね」
コーネは言って、すたすたと洞窟の外へ歩いていきました。
準備を終えたイセカとサーワが洞窟の外に出ると、背を向けて立っていたコーネが一度振り返りました。それから彼女は前を向くとすぐに歩き出します。迷わず同じ方向に歩き出したサーワに続いて、ほんの少し迷っていたイセカもサーワに促されて歩みを始めます。
低い山へ向かう道は、洞窟の裏側に回って続いています。イセカも近くは通ったことがありますが、森林を抜けた先まで歩いたことはありません。
こちら側にはロクシチも多く姿を見せることはなく、三人は安全かつ迅速に森林を抜けることができました。そしてすぐに目に入るのは低い山です。
イセカにとってここからは未知の領域です。山は低くとも広いのは丘から見ていたので、野宿の危険を考えると単独で準備もなしに向かうのは避けていました。安全に眠れる場所を探している間に大型の竜獣に襲われてはひとたまりもありません。
「アチの知る限りでは、ここにいる竜獣は比較的安全だ。アグラクというのだが、こちらから何かを仕掛けなければあちらから襲ってくることはない」
「知らない竜獣がいる可能性もあるんだよね?」
「もちろんだ。用心に越したことはないが、それより足場に用心すべきだな。浅い川を歩いて渡るから滑りやすいぞ」
「了解。気を付けるよ」
歩きながらサーワとイセカが会話をします。コーネは会話には加わらず、黙って二人を導いていました。サーワにも正確な行き先はわかりませんが、大体の見当はついています。
低い山には木も生えていますが、洞窟のある森林に比べれば本数も少なく視界は開けています。しかし低くはあっても山は山。森林よりも起伏は大きく坂が体力を奪っていきます。さらに歩けば見えてくるのは広い川。滑らず流されないようにするには気力も消耗します。
ですがイセカも鍛えは十分です。サーワやコーネももちろん、この程度で体力と気力を消費し尽くしてしまうことはありません。とはいえ、休む宿もなしに移動し続けるには限度もあります。
川には魚が泳いでいました。イセカが見たところ、竜獣ではなくただの魚のようです。念のためサーワたちにも確認しましたが、彼女たちの答えもただの魚でした。
浅く広い川は流れも速くはないため、彼らは無事に川を越えることができました。しかしコーネが足を止めることはなく、速度も変わりません。脚が濡れる川を先に渡っただけで、目的地はまだまだ先なのです。
ちなみに、島の環境に合わせて、靴は水に強い素材で作られています。イセカも150日の鍛錬の間に手に入れているので、靴が濡れて歩行に支障が出ることはありません。
コーネは川沿いに下流へ向かって歩いていきます。川は蛇行しているのでまっすぐ歩いているわけではありませんが、大体北の方に向かって歩いているのはイセカにもわかります。低い山の山頂は南側にあるので、リアを見ずとも、緩やかな川の下流に歩いているというだけで方角は掴めます。
歩き続けてそろそろリアも低くなってきた頃、目的の小屋が目に入ります。川沿いは木々も少ないため、それははっきりと彼らの視界に映りました。
周囲の木々を切って作られたであろう簡素な小屋です。それでもちゃんと屋根と壁は綺麗に整えられていて、丸太と板が絶妙に組み合わされています。そのデザインや雰囲気から、サーワの洞窟やドーギのいる建物とは別の感性で作られているのは明らかです。
小屋はどんどん大きくなっていきますが、近付いても周囲に人の姿は見当たりません。
「私は裏を見てくるわ。あなたたちはノックでもしておいて」
「無駄なことをするな。だが、イセカは気になるだろうな」
コーネの指示に、サーワは苦笑しながら従います。彼女の言葉通り、イセカは中にいるのではないかと思っていたので、その行動は言われなければ自分から提案していた行動でした。
サーワとイセカは扉の前に立って、サーワに促されたイセカがノックをします。
軽く一回。
続いて、音が響くように少し強めに二回。
合わせて三回のノックに対して、中からの返事はありませんでした。
「やはりいないみたいだな。あちらも見つからなかったようだし、さて、今日はどこにいることやら」
サーワの視線の先では、コーネが小さく肩をすくめて戻ってきていました。コーネとサーワの二人には予想していた展開ですが、初めてのイセカにはやや不思議な光景です。
「ま、待っていれば彼女は戻ってくるでしょう。彼は……呼びに行かなければ、何日か帰って来ない可能性もあるわね」
「ここにいるのは二人だけなのかい?」
「ええ。兄と妹の兄妹よ。用があるのは兄の方だから、どうしようかしら」
「待てばいいではないか」
何気ない言葉ですが、サーワは小さく笑って言いました。
「あまり彼女には会いたくないんだけど……はあ。仕方ないわね」
「バージの行き先ならヒーラが詳しいだろうし、アチは待つのが得策に思うぞ」
「ま、いいわ。どうせあなたも似たようなものだし、待ちましょう」
コーネに似たようなものと言われたサーワは、含み笑いをしながらイセカに視線を送りました。その瞳からは、わからないだろうが説明する気はないという意志も受け取れます。
コーネは小屋の入口の扉に背を預けて、サーワは小屋の側面にあった低い丸太の柵に腰を下ろします。イセカもどこかに腰を預けようかと思いましたが、異世界の小屋の建築様式にも興味があったためしばらく小屋を観察しながら待つことにしました。
帰還が遅いか早いかに関わらず、分析をするのはあとです。一見したところ遺跡のような複雑な構造はなさそうですが、この世界には術気があります。さらに竜獣も暮らす島ですから、簡素に見えてもじっくり分析する必要があるでしょう。
リアも完全に沈み、イクが木々の間を縫って空に見えてきた頃、その少女は小屋に戻ってきました。
「サーワにコーネに……ええと、キミは誰? 何をしているのかな?」
小屋の近くで待っていた顔馴染みの二人と、小屋をつぶさに観察している見知らぬ青年の姿が少女の目に入っていました。
「ああ、ごめん。僕は付き添いのようなもので……」
声に気付いてイセカは振り返ります。観察に集中していたので声をかけられるまで気が付きませんでした。質問に答えながら、イセカは小屋から観察する対象を少女に変えます。
「僕は稲荷イセカ。今は小屋を観察していたんだ。異世界のものは興味深くてね」
少女は肩に中くらいの獣の肉を担いでいました。体格は普通ですが、鍛えられているのは一目でわかります。もしかすると担いでいるのは獣ではなく竜獣の肉かもしれませんが、イセカに尋ねる時間はありません。
「キミのことは噂には聞いてるよ。ボクはヒラヒ・ヒーラ。初めまして」
「ああ、初めまして」
朗らかな笑顔を見せるヒーラに、イセカも笑って挨拶を返します。
「挨拶は済んだわね。それじゃヒーラ、早速話をしたいんだけど」
「いいけど……、コーネ、ボクはキミにも挨拶したいな」
「こんばんは。バージはどこ?」
「うん。こんばんは。兄さんの場所ははっきりとわからないけど、行き先は確かあっちだよ」
待ち構えていたコーネの質問に、ヒーラは苦笑することなくすらすらと答えていきます。最後に指を差した方向は、下流の川から少し離れた林のある方向でした。
「そう。じゃ、私は行くから」
「行くって……。もう夜も遅いよ? 兄さんなら明日でも、そんなに急ぎなの?」
「別にそういうわけじゃないけど、サーワ」
「アチは白円錐を持っているから野宿もしやすい。貸してやってもいいが、アチは小屋で休みたいな」
「……はあ。あなた、私に使えないのわかって言ってるでしょ」
「なら、ヒーラに頼んではどうだ? 彼女なら快く引き受けてくれるだろう」
サーワが視線を向けると、ヒーラはにこにこと頷きました。視線は視線を向けられたサーワを一瞬捉えてから、顔はまっすぐにコーネに向けられています。
「結局ヒーラと一緒にいるのは同じじゃない。だったら、小屋の方が安全ね。そこの誰かさんも中を見てみたそうにこっちを見てるし、仕方ないわね」
そんな視線を送っていたかな? とイセカがサーワの方を見ると、サーワはその通りだと言うように大きく頷きました。
「決まったね。それじゃあ、どうぞ」
ヒーラは楽しそうな声で、肉を担ぎながら小屋の扉を開けて中に入ります。先に入ったサーワとコーネに続いてイセカが入ったときには、担いでいた肉は調理場らしき場所の近くに置かれていました。その隣にある小さな肉はイセカも見覚えのあるロクシチの肉です。
小屋の中は外からの見た目通りの広さです。寝室への入口のような場所も見えますが、外から見た広さの通りならベッドは多くて三つか四つといったところでしょう。
「これだけ泊められる寝場所はあるのかな?」
「大丈夫だよ。前にコーネの仲間がいっぱいいたときに、兄さんがはりきって作った来客用のベッドがあるんだ。部屋は一つしかないから一緒に寝ることになるけど……」
「アチは当然気にしないぞ」
「僕も気にしないよ」
「私もいいわよ。泊まると決めた時点でもう諦めているわ」
「じゃあ用意しておくね。明日は三人とも兄さんに会いに行くの?」
「そうね……。私はもちろん行くとして、彼も多分会いたいと思うわ。サーワ」
「アチは別に行く必要はなかろう。ルエが良ければここでのんびりしていたいが、問題はあるか?」
サーワの質問にヒーラは首を横に振ります。家の主の許諾が得られたことで、サーワの明日の予定も決まりました。
それから、イセカたちは夕食を終えると早めに就寝して、明日の朝に備えます。早朝から急いで会いに行くわけではありませんが、人を探すのは低いとはいえ山の中です。体力も気力も万全にしておかないといけません。
翌朝、しっかり体力をつけるための朝食を食べてから、コーネを先頭にイセカとコーネの二人はヒーラから聞いた〈兄さんが今いそうな場所〉へと歩いていきます。
「コーネ。ヒーラについて聞いていいかな?」
「あら? あなたはそういうのに興味がないと思っていたけど、好みなのかしら?」
「僕が聞きたいのは君とヒーラの関係だよ」
「特別な関係ではないわよ。私にとって、彼女も私には真似できない天才の一人。ただ、少し私の研究対象と、彼女の行動目的が近いからよく会うだけ」
予想された場所に歩きながら、二人は会話します。150日の鍛錬が終わって以来、こうして二人になることは今日が初めてでしたが、話の内容は直球です。
「君の研究対象は戦闘技術だったね。彼女の行動目的は?」
「獣や竜獣の狩りよ。バージ――彼の兄は釣りが好きなの。それも川釣りよ。異世界のあなたなら魚だけでも空腹は満たせるでしょうけど、私たちはそうはいかない。彼、魚しか釣ってこないから、大量だったとしても食糧としてはせいぜい一日分よ」
「なるほど。僕の目にはそれだけの関係には見えなかったけど、どうかな?」
「そうかもしれないわね。けど、あなたはそれを私の言葉だけで聞いて納得するかしら? 私の知るあなたなら、納得するとは思えないわね」
「はは。確かにその通りだ。ゆっくり知っていくことにするよ」
「それがいいわ。私も、今日の用事に集中したいもの」
二人の会話はそこでおしまいです。予想された場所まではもう少しですが、あくまでも妹のした〈兄さんが今いそうな場所〉の予想です。大体の方向は当たっているでしょうが、その場所にぴったりいる可能性が低いとはヒーラ自身も言っていました。
つまり、聞いた場所に到着してもヒーラの兄――バージを見つけるまでは、目的地に到着したことにはならないのです。
「ここまで来たんだもの、早く見つけたいものね。待っていた方が早かったのなら徒労だわ」
「そうだね。ところで僕は探し人の顔も知らないのだけど……」
「釣り竿を持った筋骨隆々――マッチョな男なんて、この島には彼しかいないわ。顔がわからなくてもその人がバージよ」
「了解。わかりやすい目印だね」
川沿いから少し外れた林にイセカとコーネは到着します。予定では今回はここを拠点に釣りをしているとのことで、一晩過ごしているならここだね、とヒーラが予想した場所です。
「土や草の様子を見ると、今朝まで人がいた形跡はあるね」
「そうね。荷物の一つでもあれば簡単だったのだけど」
ここに戻ってくる可能性はないと見た二人は、この場に留まることはせずに別の場所の捜索を開始します。
「二手に分かれようか?」
「あなたが見つけた場合、どうやって教えてくれるのかしら?」
「声が届く範囲で離れて探すのはどうかな? ここの竜獣は声に反応して襲いかかってくることもあるのかい?」
「魚が逃げるからとバージが嫌がるくらいね。そうしましょう」
イセカの提案にコーネが納得したところで、二人はバージを探して再び歩き始めます。
「あなたは川沿いね。私は林の中を探すわ。川沿いの方がいる可能性は高いけれど、私が見つけた場合は術気で知らせるわね」
「便利なものだね」
「私じゃ遠距離は難しいけれどね。声が届く範囲ならいけるわ」
その会話を最後に、二人は離れて捜索を再開します。声が届く範囲で離れていますが、届く声は大きな叫び声です。途中で位置確認をすることもしませんが、ヒーラの予想が当たっていればその前に見つかるという判断です。
イセカには初めての土地なので少しの心配はありましたが、ここまでに歩いた中でもロクシチのような小型の竜獣にも、大型の竜獣にも出会っていません。見かけるのは川を泳いでいる多くの魚たちばかりです。
その魚たちを眺めて歩いていると、遠く下流の方に人影のようなものが見えました。釣り竿を持ったマッチョな男――聞いていた風貌と同じかどうかはこの距離では断定できません。
もう少し近付くと、まず手に持っているものがはっきりしてきました。手に持っている長い木の棒は、そのしなり具合と先から垂らされた糸から釣り竿と断定できます。その釣り竿を持っている腕はよく鍛えられていて、さらに少し近付くと全身が鍛えられたマッチョな男であると明らかになりました。
声が届く距離まで近付いて、イセカは声をかけようとします。
「俺に何の用があるんだ? 悪いけど今は釣りの最中だ、いきなり大声はやめてくれよ」
「君がバージで間違いないかな?」
すぐにコーネを呼ぶことはせずに、イセカは確認します。釣り人の言葉に従ったという面もありますが、それ以上に話してみたいという彼の好奇心が勝りました。
「おう。俺がバージだ。お前とは初めましてだな、魚の噂で聞いているぞ――えーと、名前は忘れたが」
バージは釣り糸を垂らしたまま、イセカに視線だけを送って答えます。
「稲荷イセカだよ。初めましてだね。用があるのは僕じゃなくて、コーネなんだけど……」
「ここにはいないし、気配もないな。どうやって呼ぶかは察しがつくが、少しだけ待ってもらおうか。もうそろそろ……。――来た」
バージはイセカに視線を送り続けたまま、腕に伝わる振動だけで魚が引っかかったことを知覚して、最後に視線を戻した一瞬でかかった魚を釣り上げます。
「よし。いい魚だ!」
釣れた魚は大きな魚でした。見事な釣りの腕前にイセカは感服しますが、いくら釣りが得意でも腕の感覚だけで釣りが成立するものなのかと疑問も持ちます。
「ああ、聞きたいこともあるだろうが、呼ぶなら今にしてくれ。到着するまでに話せることは話そう」
「そうしよう。コーネー!」
イセカは大きな声でバージを見つけたことを教えます。離れたコーネにも声は届いているでしょうが、彼の言葉通りに到着までにはしばしの時間がかかります。
「俺の釣りの秘訣が聞きたいんだろう? いいぜ、教えてやる。といっても、ちょっと特別な才能が必要だから簡単には真似できないが、それでもいいか、なんて尋ねる気もない」
「お見通し……いや、性格かな?」
イセカの言葉に、バージは小さく笑うだけでそれ以上の反応は示しません。釣った魚を大事に籠に入れると、釣り竿を片手に持ったままイセカに顔と体の正面を向けます。
「秘訣は簡単だ。術気を釣りに利用しているんだ。スイ〈水〉の術気は流れを操ることに長けている。ま、俺はあいつみたいに空を飛ぶことはできないが、川の流れは術気を纏わせたこの腕一本でも知覚できるってわけだ。もっとも、釣りの醍醐味は視覚にもある。特に釣り上げる瞬間は、毎回この目でしっかり捉えたいな」
バージは明朗に釣りの秘訣を語ります。イセカはその秘訣をしっかり記憶しましたが、それは術気とこの世界を理解するためです。簡単には真似できないの中に、術気を扱えないイセカも入っているのですから。
「もちろん、術気を使わない釣りもできるが……これはちょっと言葉だけでは理解が難しくなるな。実践も入るから、そんな時間はなさそうだ」
「機会があれば教えてもらいたいね。釣りの技術は同じなのか、魚の種類がどう違うのか、色々興味は尽きないよ」
「ああ。生きている限り、機会ならいくらでもあるさ」
「そうだね。――そろそろ到着するみたいだ」
イセカの視線の先から、コーネがゆっくりと歩いてきます。術気を使わない釣りの秘訣を学ぶのは、またの機会にお預けです。彼の言う通り、生きている限り機会ならはいくらでもあるのです。
もっとも、この竜獣が暮らす島では、生きるだけでも簡単ではありませんが……異世界の研究のために必要であれば、危険に怯んでなどいられません。
「じゃあ、僕は少し山を歩いてみようかな。この近くで高い場所はあるかい?」
「そうだな……。ここからだと、あっちだ。ただしアグラクの狩り場でもあるから、命が惜しければ決して刺激するなよ。お前には倒せないと言うわけじゃあないが、時間をかけていたらもう一体のアグラクが現れた――なんてなったら、俺でも絶体絶命だ」
「戦ったこともあるのかい?」
「島に来たばかりの頃にな。どちらが釣り場を確保するかの争いだ。今は、争わなくても魅力的な釣り場が他にもあるとわかったから……と」
「バージ、ここ数日の釣果を教えてもらえるかしら?」
二人の会話が終わりかけた頃、やってきたコーネが単刀直入に話を切り出します。イセカも聞きたいことは聞けたので、軽く手を振って挨拶をしてからあっちに歩き出します。
「気を付けろよー! ……さて、釣果ならすぐに教えられるが、どこまで詳しく話す? 一匹ずつ全てのサイズまで教えても俺は構わないぞ」
「だったら当然、釣れた場所まで教えてもらえるわね? どこまでも詳しくお願いするわ」
後ろから聞こえる始まったコーネとバージの会話を耳にしながら、イセカは川沿いから林の中に入ります。林に入ったところで声は全く聞こえなくなり、急に静かになりましたが、イセカは聞こえる音に注意を向け続けます。
林の中ではたまに虫の声が聞こえてきます。遠くでは鳥が鳴くこともあります。竜獣にもそれぞれの鳴き声がありますが、イセカには判別できる経験はありません。しかし、多くの竜獣は鳴き声で存在を知らせるようなことはない――そう、サーワからは聞いています。
しばらく林を歩いていくと、歩いてきた方向とは別の方向から水のせせらぎが聞こえてきます。広く浅い川に合流する前の、あるいは合流してから分かれた支流の一つでしょう。これだけ大きな低い山ですから、川の流れは何本もあって当然です。
そちらの方向も気になりましたが、バージに案内された高い場所は別の方向です。少しだけ林の間から川の方を覗いてみると、川の上流に大きな何かの姿が見えました。
「熊かな? いや、それにしては大きすぎるね」
道を逸れない程度にさらにほんの少し近付いて見ると、その熊のような生物は胡坐をかいて川の上に居座っていました。巨体は浅い川の流れに流されることなく、大きく太い隻腕を振るって川を泳いでいる魚を捕えています。
「あれがアグラクかな? アグラクの狩り場――気にはなるけど、確認は戻ってからサーワにしよう」
アグラクでなかったとしても、大型の竜獣であることは間違いないのです。イセカは振り返ると、目的地の高い場所に向かって再び歩みを始めました。
歩き続けると次第に水の流れる音は小さくなり、川の上流よりさらに上の高い場所に登っているのが耳からも伝わります。それ以上に、足から感じる感覚が強く、上り坂は急になり歩くのもどんどん大変になってきます。
高い山であればこれがもっと続きますが、この山は低い山です。木々に阻まれて頂上は見えませんが、森林の外の丘から見た景色から推定すると、もうそろそろ高い場所には到達できることでしょう。
一本の木を回り込むと、大きく視界が開けました。生えている木も少なく、ほぼ平らな広い地面が視界の先には広がっています。
「どうやら無事に到着したみたいだね。ここからなら……」
イセカはさらに歩きます。広く平らな高い場所の西側へ向かって。低い山に阻まれて見えなかった島の西側を見るために、イセカは場所を聞いてここまで登ってきたのです。
そして、到着した場所でイセカは景色を目に入れます。
眼下には何もない広い平原が広がり、その先に見えるのは広い海です。低い山の西側からは、島の西の果てが見えました。
イセカが見た景色は、不思議なものでした。これだけの広い場所なのに、どこにも竜獣の姿は見えないのです。山の西には餌がないのかもしれないとつぶさに地平を見下ろしますが、やはり竜獣の姿はどこにもありません。
「不思議だね。竜獣の姿どころか、動物の姿も……」
そこでふと、イセカは何かがあるような感覚に気付きます。しかし、視界に映るのは何もない平らな地面だけです。草や植物は生えていますが、この距離では珍しい植物があったとしても、小さすぎて認識できるものではありません。
「何かがある? でも、何もない……いや、けれど」
イセカは疑問を覚えましたが、このままずっとここから眺めているわけにもいきません。山を下りて調べるにしても、以前から滞在しているサーワたちの知識を吸収してからでも遅くはないのです。
イセカは海や崖の位置から、何かがあると感じた大体の場所を記憶します。把握してみるとその範囲は一定で、かなり広い領域であることは確認できましたが、そこに確かに何かがあると証明できるものは何一つ見つかりませんでした。
「よし、戻ろう」
しかし、それを調べるのはまた今度です。場所さえ覚えていれば、次に調べるときの材料としては十分です。次に見たときに同じ感覚を覚えなかったとしても、常に固定されているのではなく移動しているのか、時間帯によって変化するのか、推測できる材料は得られます。
帰り道は下山になるため、軽い足取りでバージとヒーラの家に戻ったイセカは、早速のんびりしていたサーワに尋ねてみました。
「ほう。何かがあるかもしれないが、証拠はないと。気のせいではないのか?」
「どうだろう。山登りで疲れたせいでそう感じた可能性は否定できないね」
「アチも見たことはあるが、一度もルエのように感じたことはないな。ヒーラはどうだ?」
サーワと同じく、小屋でのんびりしていたヒーラに話が振られます。
「ボク? ボクはキミたちよりよく見ているけど、その場所には何もなかったと思うよ? でも、気のせいにしては範囲が具体的だよね」
「そうだな。何か理由があると思うが、アチの研究対象ではない」
「この世界については僕の研究対象だね。山の西にいる竜獣について教えてもらえるかな?」
「あっちには竜獣なんていなかったと思うけど……」
「アチも見たことはないな」
「動物だって、ボクも見たことがないよ。不毛の土地ってやつかな?」
「虫くらいは生息しているはずだが、確かに大型の動物はいないようだな」
「僕の見た通りだね」
竜獣がいないなら住むにも安全な場所ですが、竜獣もいなければ動物もいないのでは、食糧確保もできません。
その他にも細かい情報を確かめていると、小屋の扉が開いてバージとコーネが戻ってきました。バージの背には多くの魚が入った籠が背負われています。
「イセカ! 俺の魚料理を食わせてやろう。俺たちに比べて、お前は少食なんだろう? 魚だけで腹を満たせるなんて羨ましいな。俺も毎日それくらいの魚を釣って食べたいものだが、いくら釣りの腕があっても魚がいなくなるまで釣るわけにもいかないからな」
「ここ数日の釣果を聞いた限りだと、とてもそこまでの腕があるようには思えないけど?」
「そうだなぁ。アグラクの狩り場にお邪魔すればもっと釣れると思うが、あいつを倒すならそれだけでも食糧は十分だし、運べる量にも限界がある。で、どうする?」
「ありがたく頂戴するよ。久々に魚も食べたかったところだしね」
「よし! じゃあ俺が腕を振るってやろう! といっても、新鮮な川魚だ。焼くなんてもったいないことはしないし、刺身にするだけだけどな」
「ここの魚に臭みはないのかい?」
籠を置いて早速、調理を始めたバージにイセカは尋ねます。
「ああ、今日の魚なら問題ないな。こいつらは上手くやれば、術気を使ってその場で調理して生でかぶりつけるくらいの魚で、だから昨日は帰らなくても大丈夫だったってわけだ」
「それでも兄さん、お腹は空いてるでしょ? ボクの料理は用意してあるよ」
「俺は魚だけでもいいんだが、ヒーラが用意したなら仕方ないな」
小さく肩をすくめてバージは答えます。渋々といった表情ですが、声色からは魚以外を食べることも満更ではないという気持ちも伝わってきます。
「キミも一口くらいは食べられるかな? 初めての人の感想も聞いてみたいんだ」
「うん。君たち兄妹の手料理、まとめて頂くとするよ。僕も異世界の料理にはとても興味があるからね」
その日、イセカが食べた魚料理は淡白ながらもしっかりとした食感で、何度も噛むと繊細な味が舌から伝わってくるものでした。ヒーラの作った料理も、サーワが作るものとは全く違うもので、もしかすると国や生まれた土地が違うのではないかと思うほどでした。
実際にそうなのかもしれませんが、その日のイセカにそれ以上の質問をする気力は残っていませんでした。低い山とはいえ、高い場所まで登って下りてきたのです。その疲労は彼の思考にも影響を与えるもので、食事を終えた頃には、体を休めたいという気持ちが強くなっていました。
「アチはのんびりしていたから、今日帰ってもよいのだが……そうだな。ルエと一緒に泊まっていくことにしよう」
「そう。私は今日のうちに戻るわね。色々とあちらで調べたいことも残っているし、今日もヒーラと一緒に寝るつもりはないわ」
「残念だね。ボクはいいんだけどなあ」
「生きている限り、機会なんていくらでもあるわよ。私だって別に、あなたのことを嫌いなわけではないんだから。一緒にいたくない理由は、もう何度か言ったでしょ?」
「そうだけど……。ボクはやっぱり、大げさだと思うんだよね。なんて言ったら、またそういうところが気に食わないのよ、って言われちゃうかな?」
「わかってるじゃない。天才には天才の自覚を持ってもらいたいものね。自覚をしたら力を発揮できなくなる天才なんていないのよ。自覚があろうとなかろうと、力を発揮できてしまうのが天才なのだから」
コーネはそれだけ言い残すと、さっさと小屋の外へ出ていきました。二人の短い会話を聞いて、イセカは二人の関係の一端を知ることができましたが、全てを知るには二人ともっと関係を深める必要があるでしょう。
イセカは洞窟に戻ったらまず何から研究を深めていくべきか、ぼんやり考えながらその日の眠りについたのでした。