第三節 星風(一)

章 遺跡の柱に守られし少年


 それは星風の季節が終わる前のことでした。島を歩き回るにしてもまずは洞窟のある森林の地形を把握してからと、遠出はせずに今日もロクシチを捕まえてきたイセカに、サーワが声をかけたのです。

「ルエは慎重なのだな。確かにこの島が危険だとアチは言ったが……」

「世界も違えば慎重になるさ。でもそれだけじゃないよ、僕にとってはこの森林もとても珍しい研究対象だからね。ここに生えている木々の硬さは、僕の世界では見られないものだ。この世界でも特別なのかい?」

 イセカは慣れた手つきでロクシチを処理しながら答えます。

「うむ。竜獣の力に耐えるために成長したのだとアチは推測している」

「それは生物の研究者として?」

「植物も生物だろう? エルカ人とは成長の速度や繁殖生存形態が違うだけだ」

 その間に処理も終わります。まだリアも高い時間で、イセカはこれからどうしようかと考えました。処理した肉を持てば森林の外へ向かうこともできますが、それより先にどれだけの土地が広がっているのかイセカにはわかりません。

「アチはこれから岩を削りに行く。研究に必要な資材も含まれるのでな。採集には数日かかるのだが、ルエもついてくるか?」

「岩? というと、東か西の山かい?」

 イセカは前に見た光景を思い出します。数日かかるということから森林内の洞窟や地面は除外して考えると、岩がありそうなのは東の高い山か西の低い山です。

「アチに登山をするつもりはない。魚にも興味はないな」

「魚? ――ああ、川があるんだね」

 サーワは頷きます。

「となると……。もしかして、あの遺跡に?」

 森林の奥に見えた建物は石で造られているように見えました。遠目に見ただけなので遺跡かどうかはわかりませんが、島に前から研究滞留しているサーワには伝わります。

「ああ、そこも通るが目的地はさらに先だ。どうする?」

「あの日の景色のさらに先……か。うん、興味深いね。是非一緒に行かせてほしい」

「よし。これで予定の倍の資材を確保できるな」

「宿はどうするんだい?」

「岩を運ぼうというのだ、野宿の準備も当然していく。不都合があるか?」

 サーワの言葉に、イセカは大きくゆっくりと首を横に振ります。

「ないようだな。準備をしたらすぐに出よう。ルエにも自身の食糧は持ってもらうが、それよりも優先すべきことがあるのはわかるな?」

「大型の竜獣への対策だね」

「そうだ。研究したい気持ちもあるだろうが、身を守ることを第一に考えろ。アチもいるから滅多なことにはならないにせよ、今回の目的は別にある。運搬が遅れるのは避けたい」

 イセカは頷きます。そして二人は手早く準備を終えるとすぐに出発しました。

 洞窟の外の森林を、食糧と野宿用の道具、運搬用の道具を持って歩きます。何度かロクシチの姿が見えることもありましたが、彼らも一体で二人を相手に飛びかかるような無謀はしません。

 目的地へ向かうために、二人は森林を北へ抜けていきます。途中、複数のロクシチを発見して迂回する場面もありましたが、戦闘になることはなく無事に森林を抜けられました。

 イセカの視界の正面には、森林越しに見た石造りの建物のような何かが、はっきり建物と認識できる大きさで映っています。まさに遺跡と表現するに相応しい偉容ですが、その広さから全貌は見渡せません。

「イセカ」

「ああ、そうだね」

 答えてイセカは前進します。見えた遺跡につい足を止めてしまいましたが、遺跡までの距離はまだまだあります。森林越しでも森林を抜けて広く視界に捉えても、遠くから眺めていることに変わりはないのです。

 遺跡までの道は開けています。木が生えていないわけではありませんが、身を隠し身を守る場所は森林内より遥かに少ない空間です。

 今のところ竜獣の姿は見えませんが、彼らに姿が見えるということは竜獣にも見える位置にあるということです。足を止めて観察するなら、せめて森林内の樹上から行うべきです。

 サーワはまっすぐ遺跡に向かって歩いていきます。イセカも彼女に従い、まっすぐに遺跡を目指します。決して急がず、警戒は緩めず、遺跡に向かって二人は歩き続けます。

「遺跡に到着したら安全なのかい?」

「そうだな……。竜獣が現れることもあるだろうが、あの遺跡はビーダの領域だ。到着さえすれば安全と言えるだろう。ルエが竜獣と戦おうとしない限りはな」

「それはどういう意味かな?」

「なに、会えばわかる。遺跡はビーダの領域だからな」

 サーワがくすくすと笑う意味はイセカには理解できませんでしたが、今は到着さえすれば安全ということがわかれば十分です。以後は彼も到着するまで口を開くことなく、決して急がず、警戒は緩めず、遺跡に向かって二人は歩き続けました。

 そうして彼らは遺跡の目の前まで到着します。そして、イセカが遺跡の領域内と思しき地面に足を踏み入れた時でした。

「ここは僕の領域だ。お前は何者だ?」

 少年のような声は上から聞こえてきました。イセカは声の主を探しますが、まだ遺跡の建物は少し先にあります。この場で彼らより高い場所といえば、何本か並べて建てられている四角い柱だけです。

 果たして、声の主は一本の柱の上に立っていました。

「君は……。いや、僕は稲荷イセカ」

「いなり……不思議な名前だな」

 質問に答えたイセカの声に、柱の上から声が返ってきます。先程と同じ少年のような声です。声の主は柱の上に立つ少年でした。幼すぎず大人すぎない見た目に言葉のような威圧感はありませんが、柱の上に登る力があることは示されています。

「僕はビダビ・ビーダだ。普通ならお前に直接訪ねるところだが、そこでくすくすしている後ろの! 事情を説明しろ、サワサ・サーワ」

「エルカは岩山へ向かっている。遺跡への用件は宿の確保だ。それから、イセカにはビーダに会ってもらおうと思ってな。ルエなら足を踏み入れたら呼ばずとも、声をかけてくれると思ったぞ」

 サーワは質問に答えていますが、全ての答えでないことはイセカもよくわかっています。柱の上で聞いていたビーダも納得はしつつも物足りない様子で、次の質問をします。

「お前はそいつをどこから連れてきた?」

「異世界だな。食糧にする予定だったが、今は研究仲間の一人だ」

「そうか。イセカだったな。この島が危険なことは理解しているな? ここは僕の領域だ。遺跡を研究したいというなら止めはしないが、遺跡に侵入した竜獣は僕の獲物だ。勝手に狩ろうとしたらお前ごと容赦なく竜獣を倒させてもらう。それだけは覚えておけ」

 ビーダはそれだけ言い切ると、柱の上に立ったまま空を見上げました。何かを探しているのか待っているのか、イセカには判断がつきません。

「相変わらずだな。ともかくイセカ、ビーダの言葉は覚えておけよ。彼の言っていることは本当だ。以前に――不幸な偶然ではあるのだが――アチの研究仲間が巻き添えにやられた。石ころのように扱われただけで、大きな怪我はなかったがな」

 サーワの声は風に乗ってビーダにも聞こえていますが、彼はもう会話に加わる気はないようです。

「彼が配慮したのかい?」

「いや、あいつの戦い方に無駄がないだけだ。脚の骨の一本はやられていたぞ」

 笑って答えるサーワに、イセカは小さな疑問を顔に浮かべます。

「それって、十分大きな怪我なんじゃ……」

「うん?」

 今度はサーワが小さな疑問を顔に浮かべていました。しかし、二人とも大きな疑問ではなかったので、どちらも次の言葉を口にすることはありませんでした。

「さて、宿の場所だが……」

 サーワの言葉をきっかけに、話題は今夜の過ごし方に移り変わります。ずっと柱の上に立っているビーダを横目に、尻目に、二人は適当な遺跡の一部屋を借りて、一晩を過ごすことにしました。

 二人が泊まる遺跡部屋は広くて天井も高い一部屋です。高く広く扉のない入口を潜ると、綺麗な石の壁面が広がっています。イセカは遺跡の内部にも興味を惹かれましたが、遺跡内に強い明かりはありません。入口から差し込む光だけでは調査するには心許なく、何より今回の遠歩きの目的は別にあります。

 今回はその目的を果たすために、イセカたちはイクが浮かび始める頃には就寝しました。そして空にリアが浮かび始める頃には起床して、岩山に向けて出発します。

 ビーダの姿は見えませんでしたが、サーワは「気にしなくてもいい」と言ったので、イセカは気にせずに遺跡を出ることにしました。

 遺跡を出発してすぐに、目的地の岩山は視界に入ってきます。

「思ったよりも大きいね」

「そうか。だが頂上までは登らない。裏に回ると掘りやすい場所があるから、そこに宿を準備するぞ」

 森林の南から見た景色では高い山に遮られていましたが、その岩山はとても大きなものでした。西に見えた低い山より広さはありませんが、頂上の高さは勝っているかもしれません。

 岩山をぐるりと回り、サーワは足を止めた場所で荷物から小さな物体を取り出します。白い透明な板が組み合わされた円錐型の物体です。初めて見る謎の物体に、イセカは興味津々の視線をそれに送ります。

 サーワは白い円錐状の物体を静かに地面に置きます。円錐の底面が地面に接するように、場所は彼女とイセカの間の地面です。彼女はそれに開いた両の掌を近付けて、彼の興味の視線に答えるように簡単に説明をします。

「これは白円錐〈はくえんすい〉と言う。この島に暮らすある者が作った発明芸術作品の一つでな、こうして術気を注ぎ込むことで様々なことができるのだ」

 彼女の両手から注がれた術気は白円錐の内部に一旦留まると、柔らかい光となって上面から放出されて、彼らの周囲をほわほわの光で包みます。

「これでこの周囲にいる限り、二日は竜獣から見つかりにくくなった。見つかったら知らせが来るようにも施しておいた。エルカも安心して岩を削れるな」

「便利なものだね。僕にも使えるのかい?」

「ルエには無理だな。この白円錐は便利なものだが、汎用性には欠けていてな。詳しいことはいずれ本人に聞くといいが、ルエの知り合った中では使えるのはアチだけだ」

「覚えておくよ」

 いずれがいつかはわかりませんが、この島に暮らしているならいずれ会う機会は訪れるでしょう。イセカは理解すると、ここへ来た本来の目的を果たすことにしました。

 といっても彼は集める資材が何かは聞いていません。サーワに確認しながら最初はゆっくり岩山を掘っていましたが、集めるべき資材を全て確認してからは迅速に作業が進みます。到着してから一晩、休みながらも岩山を掘り続けて、二人は集めるべき資材を集め終えました。

 帰りも長い道のりでしたが、資材を運ぶための道具は持ってきています。遠くに姿が見えた竜獣を警戒して足を止める場面もありましたが、接近することはなく遺跡に辿り着き、それから森林までの道のりも大きな危険はなく、二人は無事に洞窟に帰還しました。

 集めた資材を使ってサーワは洞窟内で何かをしています。使っている資材は全体の一割に満たない量ですが、作業の完了には数日かかるとのことです。

 研究のために必要なものだとは理解しましたが、術気を使う作業なのでイセカに手伝えることはありません。森林内のロクシチも十分に狩っているので、しばらくは食糧確保に時間をかける必要もありません。

「じゃあ、ビーダのところに行ってみるよ」

「そうか。くれぐれもあいつの領域で竜獣を狩ろうとするなよ。戦うなら身を守るだけにしておけ」

「ゆめゆめ忘れないでおくよ」

 イセカはサーワとそれだけの会話を交わして、森林を抜けてビーダのいる遺跡を訪れることにしました。とても広い遺跡も、柱の上に立っていた少年も、イセカにとっては興味深い異世界の研究対象です。

 遺跡までの道のりは前回より安全なものでした。一人より二人の方が戦闘では心強くなりますが、二人より一人の方が身を隠して移動するには適しています。森林の外に出てからはロクシチ以外の竜獣もいるので気は抜けませんが、幸いにして今日は大型の竜獣と遭遇することはありませんでした。

 遺跡に近付いたところでイセカが空を見上げると、今日もビーダは柱の上に立って空を見上げていました。地上には注意を払っていないように見えますが、イセカが彼の領域内に足を踏み入れると声が上から落ちてきます。

「今日は一人か。遺跡に興味があるのか?」

 声だけで視線は空に向けたままのビーダに、イセカは答えを返します。

「そうだね。それに君のことも知りたい。話せるかな?」

「このままでいいなら構わない。竜獣を待っているのは……わかるか?」

「……空にも竜獣が?」

 その反応でイセカの知識は伝わります。サーワからは大型の竜獣との戦い方についても教わりましたが、個別の竜獣に関する知識はありませんでした。

「ああ。聞くか?」

「いや、見た方が早そうだし、やめておくよ」

 イセカは首を横に振ります。もちろんイセカも竜獣に興味はありますが、彼の研究内容は異世界――この世界そのものです。いつ現れるかわからない竜獣よりも、目の前の柱の上にいるビーダと話をした方が研究は進みます。

「君はいつからここにいるんだい?」

「生まれたときからずっとだ」

「一人で?」

「今は、な。僕たちは古い時代からこの島に住んでいた」

「先住民ということだね。だから〈僕の領域〉なのかな」

「ああ。だが僕たちは外から来た者を敵とみなすわけではない。僕たちの領域を侵さなければ好きに暮らせばいいと、僕たちは判断してきた」

 ビーダはそこで言葉を止めました。まだ言葉がありそうな雰囲気を察知して、イセカは黙って次の言葉を待ちます。

「そうして仲良くなる者もいたが、外から来た者は竜獣を知らない。だから彼らの多くは僕たちのように長く生きることはできなかった」

「ビーダが一人になった理由は?」

「お前はどこまで知りたい?」

「竜獣以外に減った理由があるのなら、確かめておきたいね」

「天災に、子孫の減少、それから寿命が主だな。元々、数が多かったわけではないと聞いている」

「それでもビーダはここに残ろうと? 島の外に出ようとは思わなかったのかい?」

「……お前」

 次のイセカの質問には、ビーダも即答しませんでした。空を見上げる視線を一瞬落としかけましたが、それはイセカを視界に捉える前に空に戻ります。

「お前はこの世界についてどれだけ知っている? 島の外のことは何も知らないのか?」

 やや驚きのこもった声に、イセカは即答します。彼に答えられることは僅かなのですから、迷う必要も思い出す必要もありません。

「大陸があることは知っているよ」

「それだけか。もっとも、僕も外の世界については詳しくないが……。この島は世界の果てを臨む場所にある。大陸はどれも遠く離れたところにある。訪れるだけでも大変な場所だ」

「世界に果てがあるのかい? 地平線や水平線があるから、この世界も球体であると思っていたけど……いや、とても大きな半球であれば、球体でなくとも水平線は存在できる。ビーダは知っているかな?」

「知らんな。果ては果てだ。その先には何もないし、船で向かえば命を落とす。そこを調べようとした旅人は誰も帰って来なかったらしい」

「どっちだい?」

「あっちだな」

 ビーダが指さした方向は西でした。西の海の先に世界の果てがあるのです。

「北や南は? 東の先には何があるのかな?」

「東の海には小さな島々が浮かぶ小列島がある。食糧が少なくてとても住める場所ではないそうだ。それ以上のことは、サーワに聞いた方がいいだろう。僕が知っているのは名前だけだ」

「重要な情報だね。尋ねるために聞かせてくれるかい?」

「北は雪の海、南は草生えの岸辺、東は輝きの海がある。輝きの海を越えれば神の世界に繋がっている」

「へえ……それぞれ違った名前があるんだね。非常に気になるけど、まずは感謝だ。ありがとう、ビーダ。まだ聞いてもいいかな?」

「なんだ?」

「この遺跡はビーダたちが作ったのかい?」

「いや、僕たちが住み始めた頃にはもうあったものだ。かつて島に住んでいて、滅んだ人間たちが作ったものだろう」

「ビーダも全ては知らないのかい?」

「僕たちが居住空間として使っていた区域以外は知らないな。安全確保もしていない」

「だったら、調べるのはやめた方がよさそうだね。準備が必要だ」

「僕の寝所も含まれるから、調べるなら許可もとってもらおう」

「許可は簡単かい?」

「破壊が含まれないなら難しくない、とは言っておこう」

 イセカは笑顔で頷きます。ビーダにその表情と行動は見えませんが、彼が納得した雰囲気は風に乗って伝わっています。

 それからしばらくの間、イセカもビーダと同じように空を見上げていました。言葉もなく黙って見上げるだけでしたが、イセカにとっては異世界の空と雲を眺めているだけでも多少は興味深いものです。雲の形が少し違うだけでも、世界の違いが影響しているかもしれないのですから。

 二人の見上げる空に、大きな鳥のような姿が現れました。イセカはこんなに大きな鳥もいるのだなと暢気に眺めていましたが、ビーダの様子は違いました。目的の姿を発見した彼は、すぐに臨戦態勢を整えたのです。

 柱の下から見上げているイセカには、その変化も目に入ります。ビーダの様子からあれは大きな鳥ではなく、大きな竜獣であると理解するのに時間は必要ありませんでした。

 空を飛ぶ大きな竜獣は、どんどんその姿を大きくしていきます。遺跡で空を見上げる彼らを見つけて、餌にしようと急降下しているのは明らかです。しかしその降下も途中で終わり、空の竜獣は嘴や爪で襲いかかってくる気配は見せません。

 竜獣は羽毛に覆われた体を見せつけるように、空をゆっくりと旋回しています。イセカとビーダを見下ろすように飛び続ける竜獣からは粉が振りまかれていて、それらはゆっくりと地面に到達していきます。

 毒でもあるのかと警戒するイセカでしたが、ビーダは平然としています。そして粉がイセカのところまで届いたときに、彼もその粉の効果を理解しました。

 ばらばらに散っている粉はその一粒一粒が非常に重く、イセカは体を動かすのにも苦労します。これで動きを遅くしてから襲ってくるつもりなのかと、それでもイセカは何とか構えましたが、竜獣の動きは違ったものでした。

 上空で羽ばたいた羽から、何本もの羽根が地面に放たれていきます。鋭く硬い羽根であることは受け止めた腕の感触からも、遺跡の石に落ちた音からも伝わってきます。

「ビーダ! これって……」

「一撃は重くないだろう? あれがやつのやり方だ」

 柱の上から声が返ってきます。視線も少しだけイセカの方を向いて、彼の表情がイセカにも伝わります。ビーダは真剣な表情でしたが、ほんの少しだけ口角が上がっていました。

 ビーダは再び視線を上空に――空を飛び続ける竜獣に戻してから、次の言葉を口にします。

「だが心配するな。ここは僕の領域だ。それは空でも同じ――お前に倒す術が思い浮かばずとも、僕には獲物を捕らえる術がある」

 言い切ったビーダが柱の上から飛び降りると、彼の後ろから風が吹いたように見えました。上空だけに吹く風かとイセカは思いましたが、すぐに違うと理解します。

 その風は上昇気流となってビーダの体を空高くに運び、重い粉の中でも飛ばされる何百もの羽根をかわしながらビーダは空を飛びます。その速度も驚くものですが、空を飛ぶ竜獣も負けてはいません。ビーダが追いかけようとすると竜獣も同じ速度で離れていくため、彼我の距離は一向に縮まりません。

 やや心配しかけるイセカでしたが、ふと体が軽くなったことに気付きます。同時に、ビーダが何をしているのかも理解しました。

 重い粉は竜獣の体から振りまかれているもの。彼らの頭上を制圧している間は常に重粉が二人に降りかかりますが、逃げて移動すればその粉も風に流されて広範囲に散ってしまいます。いくら一粒一粒が重いとはいえ、僅かな量では行動を大きく制限するには足りないのです。

 徐々に速度を増していくビーダは、途中で追いかけるのをやめて反対側に飛行します。気付いた竜獣も反転しますが、そのときには既に重粉の範囲外にビーダの姿はありました。

 重粉の重さから解放されたビーダは一気に速度を上げて、急上昇します。竜獣より高い空に到達した彼は、そのまま竜獣の上をとって背中から連続で攻撃を加えていきます。飛ばした羽根の元となる身を守る羽毛も硬いものですが、どうやら竜獣は頭上への強い反撃手段は持っていないようです。

 地上のイセカにはどのような攻撃を加えているのかはよく見えませんでしたが、少しして空の竜獣が大きな音を響かせて地面に落ちてきたことで、ビーダが無事に仕留めたのだと理解します。

「一つお前に聞いておこう」

 倒した竜獣を運ぼうとするビーダでしたが、その前にイセカに声をかけます。

「お前ならどうやって戦うつもりだった?」

「いつかは羽根も尽きる。それを待っての持久戦かな」

 イセカの答えに、ビーダは納得した様子で頷いてから忠告します。

「もしそれしかできないなら、今度出会ったときは逃げるんだな。確かにあの羽根は無限ではないが、あいつの羽は新たなものがすぐに生える。一日で済むと思うなよ」

「それはまた……危ない相手だね。弱点はあるのかい?」

「見ていたならわかるだろう? 他にはない」

「弱点は上だけなのかい?」

「僕の知る限りではな。けれど空を飛べれば簡単だ。スイ〈水〉の術気が扱えるなら、お前にもできるだろう」

「はは……。スイ〈水〉の術気か。今度は全力で逃げることにするよ」

 イセカはそう答えるしかありません。その答えでビーダも彼の実力と才能を理解して、小さく頷きました。

「僕はこれの処理をする。お前はどうする? 処理の方法だけでも覚えていくか?」

「いや、やめておくよ。倒せるようになってからでも遅くはないさ」

「そうか」

 ビーダは空を飛んでいた大型の竜獣をかついで運びます。彼の背中を少しだけ眺めたあと、イセカは踵を返して森林に、その先の洞窟へと戻るのでした。

「ほう、ハネオモに出会ったのか。今のルエには倒せないだろう?」

 洞窟に戻ってきたイセカの話を聞いて、サーワはそんな言葉を返しました。

「あの竜獣、ハネオモって言うのかい?」

「アチが名付けた名前だ」

「ビーダの戦い方以外でも倒せるのかな?」

「術気を使えるなら手は他にもあるが、アチもあまり試したことはないな。ハネオモはあいつの領域によく現れる。なかなか試させてもらえんのでな」

 その答えは術気を使えないイセカにとって、倒せないという答えと同じでした。

「心配するな。そもそも、大型の竜獣は一人で相手にするものではない。いざというとき一人で戦えるに越したことはないが、無理と感じたら逃げればいい。素早く、全力でな」

「はは……逃げるのも大変だね」

「それが竜獣というものだ」

 これで空を飛ぶ大型の竜獣――ハネオモについての会話はおしまいです。しかし、イセカにはまだ聞きたいことがありました。

「世界の果てや、雪の海、草生えの岸辺、輝きの海、という言葉を知ったのだけど、よければ教えてくれるかな?」

「構わんが……全てを説明するのは面倒だな。それに、それを聞くならこの世界の大陸についても知っておくべきではないか?」

「じゃあそれも。……面倒かな?」

「語って教えるのはな。だが書物の場所を教えるだけなら簡単だ。案内するから勝手に読んでおくといい。5000日も島に滞在する以上、資料も十分に持ってきているからな」

 それからイセカは、案内された書物からこの世界についての知識を深めていきます。最初は文字をきちんと読めるかも心配でしたが、何の問題もなく全ての文字を理解することができました。神についての解釈など読むだけでは理解できない内容もありましたが、世界を知るために確認したい資料は一つではありません。理解できない部分は今は置いておき、まずは全体像について理解するのを彼は優先しました。

 そして翌朝には、彼もこの世界についての一定の知識を得たのでした。といっても、存在する大陸の名前や、世界におけるこの島の位置、世界全域の地図など、ごく基本的なものばかりですが……世界の果て、雪の海、草生えの岸辺、輝きの海、の四つを理解するには十分な知識です。

 その知識収集の中で、イセカは彗隕精〈すいいんせい〉という見慣れぬ単語も目にしましたが……。それについて彼が深く関わることになるのは、また別のお話です。


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