食事と会話を終えた青年イセカと少女サーワは、すぐに洞窟の外に向かいました。彼女の言った適任に会わせるため、その日のうちの行動です。長い道を抜けて洞窟を出ると、彼らの視界に入ったのは多くの木々でした。
森林の中には光が差し込んでいます。高く高く、真上からの光。しかしその光源は葉っぱに遮られてよく見えません。
「太陽が高い……お昼かな?」
「太陽? エルカはリアと呼んでいる。だが時間は正解だ」
「リアが沈んだら夜はどうなるんだい? 僕らの世界では月が浮いているよ」
「エルカの世界ではイクが浮いている。ルルナの世界と名前は違うが、二つの発光体が昼夜を照らすのは変わらぬようだな」
「名前が違うだけなのか、そもそも世界の作りが違うのか、面白いね。色々尋ねたいことはあるけれど……」
イセカが隣のサーワを見ると、彼女は「答えは必要ないな?」というような表情を返して歩き出します。イセカもそれ以上尋ねる気はなく、二人はほぼ横並びで歩き出しました。サーワが常にイセカを視界の端に入れるのは、竜獣が現れても彼を守るためです。
イセカも気配には気を付けていますが、今の彼には竜獣と戦う力はありません。気付いたところで対応できないのですから、サーワを頼るしかありません。
木々の間をするすると抜けていくサーワに、イセカも遅れずについていきます。縦に並ばないと通れないような細い道はなく、足場の土も若干他より歩きやすくなっていますから、彼女たちがよく通る道であることは彼にもわかります。
しかし初めての彼にとっては、はぐれたら迷うには十分の微妙な差です。道は踏み固められているわけではなく、他より歩きやすい場所を歩いているだけなのです。
「……長いね」
しばらく歩き続けて、イセカは呟きます。
「狭い島ではないからな。森林の外に出れば一望できる場所もあるが、もっと長いぞ」
「鍛えれば安全になるのかな?」
「そうだな……ルエの世界に竜獣はいないか?」
「見聞きしたことはないね」
「ふむ。アチはルエの世界の生物を知らない。だが、危険な生物はいるだろう? 竜獣はそれに類する生物だ。実物を見ればすぐに理解できると思うが……」
「見るだけで終われるようなら危険な生物とは言えないね」
「どうやら、危険な生物の程度は大きく違わないようだな」
サーワは小さく笑って、さらに歩み続けます。それきり目的地に着くまで二人が言葉を交わすことはありませんでした。
「見えたぞ」
サーワの言葉にイセカは反応しますが、視界に映ったものから見えたものを確認するまで少々の時間を必要としました。それは木々の間にひっそりと隠れるように建てられた柱と屋根だけの建物で、彼女の言葉がなければ遠くからでは見つけるのは難しかったでしょう。
「あそこに人がいるのかい?」
「そのはずだ。この時間なら一人はいるだろう」
二人は見えた目的地に向かって歩き続けます。一人はという言葉にイセカは二人以上の人の存在を理解します。それがどんな人物であるのか、もうすぐ会えるのですからサーワに尋ねることはしません。
建物――柱と屋根だけですが――は目の前です。幾本もの木に守られているような道を回り込み、屋根の下にあるものが徐々に二人の視界に入ってきます。
最初にイセカの目に入ったのは、屋根の下で何かを待ち構えるように立つ壮齢の男性の姿でした。建物の外の森林に向けて、彼は視線を向けています。体型は普通ですが、鍛えられた上での普通であることは立ち姿から遠目にもわかります。
「わかっているな?」と言わんばかりのサーワの視線に、イセカも頷いて足を進めます。
「ほう……。それが此方の成果か。我が輩のところに連れてきた理由を伺おう」
壮年の男性は近付くイセカたちに少しだけ視線を向けて、また元の方向に視線を戻してから言葉を続けました。
「食糧にはならないが、食糧確保には役立ちそうだ。ドーギ、鍛えてやってほしい」
サーワの言葉に、壮年ドーギはイセカに視線を集中させました。
「此方の名は?」
「稲荷イセカです。あなたは?」
「我が輩はドギド・ドーギ。サーワら学者船団の護衛としてこの島に滞在している。見たところ、鍛えれば役立つ肉体は備えているようだが……術気〈じゅつき〉の才は如何か?」
ドーギの言葉に、イセカは首を傾げて答えます。
「……術気? それはどういうものかな?」
隣のサーワに尋ねるようにイセカは言いましたが、サーワからの答えはドーギに向けられたものでした。
「聞いたことがないようだ。彼の世界には術気は存在しないのかもしれぬな。鍛える上で問題はあるか?」
「最初の50日――基礎を鍛える上では問題ない。此方にはその間に理解してもらえばよかろう。だが……」
「食事の心配は要らない。骨付き肉一つで足りるそうだ」
「了解した。稲荷イセカはこのドーギが鍛えよう」
サーワとドーギ、二人の会話が終わったところで、サーワはイセカに答えます。
「術気についてはまた明日にでも説明してやる。アチも一旦戻らねばならん。借りるだけの寝所はあるが、ドーギらの食糧の備蓄を消費させるわけにはいかん」
「そうか。わかったよ。150日もあるんだ、僕も急がないさ」
「ああ。ところでドーギ、コーネはいつ戻る?」
「彼女なら遅くとも明日には戻る。彼にはその際に紹介しよう。此方もいてくれれば面倒がなくて助かるが……」
「朝は無理だぞ? 昼でいいなら何とかしよう」
「では、そうしてもらおう」
再びの二人の会話が終わり、サーワは言葉通りに元来た道を戻っていきました。残されたイセカは、ドーギの顔を見て尋ねます。
「僕はどうしたらいいかな? いや、えーと……」
「我が輩は言葉遣いなど気にはせぬ。話しやすいようにするがいい」
「助かるよ。堅苦しいのは苦手でね」
「そうであろうな。此方にはサーワら学者に近い雰囲気を感じる。だが、鍛える際に容赦はせぬぞ。……まずは寝所に案内しよう」
ドーギは踵を返して、建物の奥に向かいます。そこには六つのベッドが並んでおり、屋根に守られているため雨も防げます。柱だけで壁がないため風は防げませんが、周囲に巡る森林が天然の壁となって強い風は防いでくれます。
ベッドの周囲を見回すと、机や椅子に、大きな塊がいくつか置いてあります。イセカは見たことのない生物の死骸のようですが、肉には新鮮さがあることから食糧の備蓄なのでしょう。
「我が輩が此方を鍛えるのは、主にここで行う。他の建物も近くにあるが、今の此方に用はなかろう」
ドーギは静かに言い切ると、一番奥にあるベッドを指し示します。
「此方はあれを。体力気力が十分なら今すぐに鍛えてもよいが、休息が必要なら明日まで休むがよかろう。どうだ?」
「十分とは言えないけど、八分九分なら。それでは足りないかな?」
「時間もやや遅い。本日に限れば問題なかろう。ただし明日以降は、起きたら常に十分の状態であるべきだ。我が輩も疲労を溜めるような無茶な鍛え方はせぬ。此方は黙って我が輩の言葉に従えばよい。文句はないな?」
「それがこの世界で生きるために必要なら、僕からもお願いするよ。是非鍛えてほしい」
「よかろう。此方の能力を確かめるような無駄な時間はとらぬ。まずは軽く腕立てと腹筋と背筋を百回、行うがいい」
ドーギに指示された内容を、イセカは黙って実行します。彼には決して楽なものではありませんが、とりわけ困難なものでもありません。困難であるとすれば一人で背筋を行うことですが、もちろん背筋を行う際はドーギが足を押さえて補助します。
「うむ。疲労は? まだ続けられるか?」
「うん。このくらいの負荷なら、日課より少し多いくらいだよ」
「ふむ……。まあいい、まずは役目を全うするとしよう」
それからさらに少しの鍛錬を終えて、イセカとドーギはベッドで休み夜を越します。朝を迎えたら軽く調理された食事をとります。サーワと同じく三十食分は食べたドーギにイセカはまだ驚きを示しますが、ドーギにとって一食分にも満たない肉一つで十分というイセカに、ドーギもまた驚きを示していました。
朝の鍛錬を終えて昼になって、二人が休んでいるところにサーワがやってきました。
「コーネはまだ戻っていないようだな。休憩中か?」
「うむ。此方がそろそろ来るだろうと思ってな。少し多めに鍛えておいたから、話をしても鍛錬に影響はない」
「そうか。さすがドーギだな」
サーワは小さく笑ってそれだけ言いました。普段ならもう少し言葉を続けるのですが、今日はイセカに説明することがあります。
「さて、術気について説明すると言ったな。まず実際に見てもらうとしよう」
サーワは地面に落ちていた大きめの石を一つ拾うと、掌に乗せてぎゅっと握ります。すると石は外側からひびが入り砕け散って、一瞬のうちに粉々になってしまいました。
「こういうことだ。ルエにはできなかったようだが、その顔を見るに、得意な術気の性質の違いではなかったようだな」
サーワが言っているのはこの前の、骨付き肉の骨を投げつけたときのことです。
「握力や手品ではないんだね?」
驚いた表情のまま、念のためにイセカが確認します。握力だけでできるものでないことは彼もわかっていますが、手品のようなものを術気と呼んでいる可能性は否定できません。
「握るのに握力は使っているが、石が砕けたのは術気によるものだ。手品ではないから種も仕掛けもない」
「まるで魔法だね。いや、魔法でもそうそうそんなことはできないけど」
苦笑するイセカに、小さく首を傾げたのはサーワでした。
「魔法? ルエの世界にも術気に近いものはあるのだな」
「はいと答えるには、もう少し情報が必要だね。得意な術気の性質というのは?」
「術気にはスイ〈水〉、ヨウ〈葉〉、ネン〈燃〉の三つの才能がある。通常、個人が得意とするのはそのいずれかだ。さっきのようなことを行うには、主にネン〈燃〉の術気の才が必要になるな」
「我が輩が得意とするヨウ〈葉〉の術気では、あのように一瞬で破壊するのは不可能だ」
「術気の才は生まれつき。ルエは知らずとも才能を確かめることはできる。ドーギ、今までの鍛錬のうちに終えているか?」
サーワの問いに、ドーギはゆっくりと首を横に振りました。
「そうか。ならばアチが確かめたいところだが……ふむ」
サーワが言葉を止めた理由はイセカも理解しています。彼らの近くで木々が大きく擦れ合う音がしたかと思うと、遠く視界の先に一人の少女と、見たことのない動物が現れたのです。
「彼女はコネコ・コーネ。それから、小さいがあれが竜獣だ。遠いがよく見ているといい。ネン〈燃〉の術気を使えばどれだけのことができるのかを」
見たことのない動物――小型の竜獣は六本の足で素早く地を駆けていました。強靭そうな尻尾が生えているのはここからでもよく見えます。
対する少女コーネも、四足で地面を駆けて対峙しています。よく慣れた動きにイセカは目を瞠りますが、それ以上に対峙する竜獣の姿と動きに驚愕していました。
竜獣は強靭な尻尾を地面に叩き付けると、反動で高く跳んで上空からコーネに襲いかかります。それをコーネは待っていたかのように微笑むと、四足のうちの一つ――右腕を瞬時に振り上げて落下体当たりを仕掛けてきた竜獣を受け止めます。
直後に激しい爆発音が轟きました。竜獣は高く吹き飛ばされて、背中から地面に落ちそうになりますが、素早く回した尻尾で近くの木を叩いて体勢を整えます。
衝撃を受けても倒れることのない丈夫な樹木です。地面を叩いた時と同じように反動は勢いとなり、六本の足で的確に地面を捉えて再び駆け出しますが、竜獣が上空にいる間にコーネも四足走行で移動していました。
竜獣が全速になる前に、今度振り上げたのは左腕です。握った拳は竜獣の背中に振り下ろされて、刺突のような衝撃が体を貫通して地面まで届きます。
それでもなお、竜獣は尻尾を地面に叩きつけて、コーネより二本多い足で反撃を試みますが、それより早くコーネは竜獣の上に跳躍していました。
そして、跳び上がる瞬間を待っていたかのように、四足のうちの二本――両脚を揃えたキックを竜獣に加えます。広がる衝撃波は竜獣の体だけを伝播し、今度は地面に逃れる力などありません。
着地したコーネは二本の足で立ち、動かなくなった竜獣を見下ろします。視線を上げてイセカたちの方を見て、普段はここにいない人物と見たことのない人物の姿を見てとると怪訝な顔になりましたが、とにかく仕留めた獲物を運ばなければ仕留めた意味がないと、仕留めた竜獣を引きずって彼らの方に歩き出しました。
「どうだ? あれが戦いにおけるネン〈燃〉の術気だ。ルエが鍛えて殴ったとしても、あそこまでのことはできまい?」
「そうだね。魔法が使えてもあんなことは無理だよ」
「そうか。さて、彼女が戻る前にルエの才能を確かめてやるとしよう。イセカ、アチの手を握っていろ」
「うん。ずっとかい?」
差し出されたサーワの左手を、イセカも左手を伸ばして優しく握ります。
「もう少し強く。コーネが戻る前には終わる」
「了解。これくらいかな?」
サーワは頷きませんでしたが、無言を正解と受け取ってイセカは握り続けます。少ししてサーワの顔に疑問の表情が浮かびましたが、それもすぐに納得の表情に変化しました。
竜獣を引きずったコーネはゆっくりと歩いています。彼女の姿が大きくなってきますが、到着するまでは今少しかかるでしょう。そのとき、サーワは握っていたイセカの手を離して口を開きました。
「イセカ。ルエに術気の才能はほとんどない。全てが最低ではないが、全てが同じだけとても低い。竜獣との戦闘に使えるものではないな」
「ふむ。問題はあるのかい?」
「此方に合った鍛え方もある。我が輩が鍛えれば問題ない」
イセカの質問にドーギが答えたところで、コーネが竜獣を引きずって彼らの傍に到着しました。
「私がロクシチを相手にしていた間に、あなたたちは何をしていたの? 処理をしている間に教えてもらえるかしら、サーワ」
小型の竜獣――ロクシチを数日食べられるように保存する処理です。大きな手間がかかる作業ではありませんが、話を聞きながらやれるくらいの時間はかかります。
「アチもそのつもりだ。こいつは稲荷イセカ。アチが食糧にしようと異世界から呼んだ青年だ……」
ロクシチの処理をしながら、サーワがやったこと、イセカの身にこれまで起きたこと、これからのイセカの立場もコーネに伝えられます。最後に名前だけの簡単な自己紹介が行われ、終わる頃にはロクシチの処理も終了していました。
「サーワに食べられなくてよかったわね、イセカ。一つ教えておくけれど、私はあなたを食べようとは思わないわ。この世界の文化ではないのよ」
「アチも人間を食べる文化に染まった覚えはないぞ。ただ、呼んだ責任は果たさねばと思っただけだ。戻せないからといって野に放るわけにもいくまい」
「いや、それで食べるって発想をすること自体が……本当、天才の考えることは予想できないわね」
コーネの言葉に皮肉の感情は一切込められていません。ただ素直に、ほんの少しの憧れとともにその言葉は声にされました。
「ま、あなたもよく理解しておくことね。サーワ――いえ、この島にいる人、この世界において普通に分類される人たちじゃないわ。そもそもこの島が普通じゃないのだけど、あなたに説明するのはサーワに任せればいいわよね」
「それは気が合いそうだね。僕もあっちの世界じゃ普通なんて呼ばれることはなかったよ。異世界の研究なんて、異端中の異端だからね」
「……そう。類は友を呼ぶとでも言うのかしら。ま、それもそうよね。あなたが普通の人間なら、いきなり呼ばれて食べられると伝えられた時点で、慌てて逃げて竜獣の餌になっていたかもしれないもの」
「アチが思うに、優れた研究者とはそういうものだろう。普通の思考で普通の研究などしていては、世界を変えるような発見はできん。そんなエルカに船団を用意し、ドーギのような強力な護衛もつけてくれたのだ、大陸に優れた指導者がいるのは幸せなことだな」
「否定はしないわね」
「どうやら、僕の世界より研究への理解があるようだね」
「ルエも研究はできていたのだろう? 多少の理解者はいたのではないか?」
サーワの言葉にイセカはささやかな笑みを浮かべて、小さく首を横に振って答えました。
「いたかもしれないね。だけど考えるべきことじゃないよ。僕には僕のやりたいことがある。そしてそれは、何としてでも元の世界に戻ることじゃない。だろう?」
「……そうだな。アチも聞かないことにしよう」
サーワは柔らかな笑みを浮かべて、ほんの少しだけ瞳に申し訳なさそうな色を混ぜて言いました。イセカも同じような笑みを浮かべます。そこでふと、思いついたことを尋ねました。
「ところでこの島に普通の人はいないなら、コーネ、君もそうなのかい?」
「それはそうでしょう。普通ならあの日に大陸へ帰還しているわ。もっとも、普通じゃないことと天才であることは同じ意味じゃない。もちろん変人という意味でもないわよ」
とコーネが答えたところで、黙って会話を聞いていたドーギが声を大きく呼びかけます。
「そこまでだ! イセカ、興味深いのはわかるが、此方にはその前にやるべきことがある。――再開の時間だ」
「はい。研究を始めるのはまた今度だね」
話を終えて再び、イセカはドーギに鍛えられます。同じ場所に暮らしているコーネは休息しながらずっと眺めていましたが、サーワは少し眺めただけで元の洞窟に戻っていきました。
そして鍛錬は10日、20日と続き、30日と過ぎていき……季節は淡風の季節から花風の季節へと移り変わります。新たな季節の50日の始まりです。その花風の季節の中で、基礎を鍛える最初の50日が経過しました。
次の50日は通常であれば術気を鍛える期間ですが、イセカに術気の才能はありません。代わりに他の戦闘技術を学び鍛える期間となり、その鍛錬にはドーギだけでなくコーネも加わることになりました。
「ありがたいけど、コーネはいいのかい? ドーギからは君は護衛じゃないと聞いているよ」
「そうね。私も立場はサーワと同じ、研究者よ。だけど私の研究内容は、竜獣を相手にしてより高みを目指す戦闘技術。あなたを鍛えることも研究の無駄になることはないわ」
イセカも納得したところで、さらに鍛錬は続いていきます。花風の季節の50日は実戦的な戦闘技術を鍛えられるため、イセカも日に日に自分が強くなっていることを実感できました。けれどそれも彼の世界での強さです。あの日に見た竜獣を相手にできるかと問われると、イセカは否と即答できることでしょう。
花風の季節は終わり、天風の季節が始まります。150日の鍛錬の残りの50日は、竜獣を相手にするための戦闘技術を学び鍛える期間です。天風の季節の鍛錬には、ドーギとコーネの二人に加え、サーワも加わります。
「いつかルエにも話したと思うが、アチの研究対象はこの島の生物だ。つまり竜獣についてはアチが一番詳しい。もっとも当然のことだが、その全てを知っているわけではない」
その話は鍛錬を始めて何十日か経った頃に、ふとやってきたサーワがイセカに話したことでした。その生物の詳細は尋ねられませんでしたが、含まれているのではないかとはイセカも予想していたことです。
「ます教えるべきは、この森林に棲んでいるロクシチだな。ルエも何度か見かけただろう?」
「そうだね。ロクシチだけは何度も見かけたよ」
「うむ。ここには大型の竜獣は入ってこられない。ここに生えている木々は存外に丈夫なものでな。例えばドーギ」
サーワの呼びかけに、ドーギは懐から一本の木の剣を取り出します。
「この剣は我が輩が樹木を削って作ったものだ。ヨウ〈葉〉の術気で時間をかけて鍛え上げたのだ」
「あの剣を使えば、戦闘で直接術気を使わずとも竜獣を倒すことはできる。ルエでも扱えるだろうが、元の世界で剣を扱ったことはあるか?」
「本物は触ったこともないね」
「ならば剣術の鍛錬も少し行うとしよう。基本は素手での戦いとなるが、弱った竜獣に突き刺せるだけでも役には立つだろう」
ドーギは剣を懐に収めて、イセカの視線が戻ったところでサーワも続きを話します。
「ここの木は術気を使わねば削れぬほど丈夫なものだ。大型の竜獣でもこの森林で自由に動くとなると多くの力を必要とするだろう。不要な力を消費してまで、餌を確保するために奥まで入ってくることはないと言っていい。だが、ロクシチは別だ。そんな竜獣から身を守ることができ、比較的安全に動物を狩れる場がここなのだ。
だから外の竜獣と違い、ロクシチは滅多に森林の外に出ることはない。エルカも同じように地形を活かして暮らしている仲間だが、弱き者が食われる戦いの相手でもある」
「洞窟の中なら安全なのかい?」
「そうだな。洞窟の奥まで深追いしてくることはほぼないし、万が一のためにロクシチに対して有利に戦える部屋も用意してある。何度かそこに連れてきた者を命は奪わず逃がしたこともあるから、彼らの中には警戒して洞窟の傍にも近寄らない集団もあるだろう」
「それを破るだけの知性は?」
「アチの研究ではないと判断している。エルカが滞在している間に急激な進化が起こる可能性も低いだろう。だが、こと森林内の戦闘においては油断できる相手ではない。小型だがエルカよりは大きな体躯が、洞窟内での戦闘を困難にしているだけなのだからな」
「なるほど……理解したよ」
「言葉の説明はここまでだ。では鍛錬を始めるとしよう」
初日はサーワの指導で対ロクシチの戦闘技術が教えられます。二日目以降はドーギが中心となり、数日に一回サーワもやってきて彼女も加わります。十日が過ぎた頃には、外にいる大型の竜獣を想定した戦闘鍛錬も始まりました。
そして予告された150日の期間の最終日を一日前にして、イセカにロクシチと戦う機会が訪れました。
「本来は明日の予定だったが、ルエには基礎がある。アチは問題ないと判断したが、ドーギとコーネも異論はないな?」
「我が輩の目には昨日の午後には完成していたように見えた。此方ならやれるだろう」
「私も異論はないわ。ああ、でも一つだけ。護衛はあなたがやるのよね? 私は私で研究したいことがあるの。150日の最終日で想定していたから、今日の予定は空けていないわ」
「うむ。だろうと思ってアチが予定を空けておいた。それに、無事にロクシチを倒せたらイセカに見せたいものもあるのだ。今後についても話すことがあるだろう。アチが護衛についた方が都合がいい」
話は決まりました。イセカはロクシチと戦うため、サーワと一緒に柱と屋根だけの建物から外の森林へ向かいます。
「そうそう、護衛とは言ったが……あまり頼るなよ?」
「わかっているよ。基本は僕が一人で相手にする。君を頼るのは、想定外の竜獣がいた場合だね?」
「その通りだ。ロクシチも群れていることがあるから、数によっては二人で戦う。だが、その場合でもアチがルエを優先して助けることはない。ルエに多くのロクシチが向かわぬように制御するだけだ。ルエはそれだけの鍛錬は積んだのだからな」
「はは……。コーネみたいにやれる自信はないけど、僕にできる戦い方でやってみせるよ。彼女よりちょっとだけ、攻撃の回数が増えるだけさ」
イセカはちょっとと言いますが、実際はコーネの五倍は打撃を加えないとロクシチを倒すことはできないでしょう。もちろんそれだけの打撃を加える間に、身を守る回数も五倍です。しかしながら、148日の鍛錬でそれを行えるだけの体力も気力も身に付いています。
建物から離れて、建物が見えなくなるまで歩きました。木々に隠れるので距離にして長いものではありませんが、遮蔽物があるならロクシチがいつ現れてもおかしくありません。
イセカとサーワの二人は警戒して歩きますが、二人の様子は違います。初めてのため全ての場所に注意を払っているイセカは、慣れた様子で必要な場所にだけ注意を払っているサーワよりも気力を多く消耗しています。
「空にまで注意を払う必要はないぞ。ロクシチは木の上に棲んでいるわけではない。戦いになる前に空から急襲してくることはない」
「その情報、先に伝えてはくれないんだね」
「ルエなら言わずともわかると思ったが、緊張しすぎていないか? 油断は禁物だが、常に緊張していてはこの島では暮らしていけないぞ」
「……緊張、か。そうだね。僕の役目は索敵だけじゃない」
イセカの答えにサーワは小さく頷きます。それから、視線を森林の向こう側に向けて彼の反応を待っていました。
サーワが気付いた少しあとに、イセカも気配に気付きました。そして気付いたと思った直後、木々の間を縫って現れたロクシチが彼らに飛びかかってきます。
「任せたぞ」
「うん」
食糧確保はイセカの役目です。彼がここで生きていくために、鍛えて教えられた技術と知識。それを今彼は振るいます。
飛びかかってきたロクシチの攻撃を半身で受け止めていなし、すぐさま反転して体勢を崩したロクシチの側面に拳を叩き込みます。拳に、蹴りに、ときには掴んで投げ飛ばし、相手の力と自分の力を最大限に活用した戦い方です。
イセカの一撃は決して重くないものです。対するロクシチの一撃は、イセカの体に当たれば骨を折るのも容易い一撃ですから、一度でも無防備に受けたら彼は大きく不利になってしまうでしょう。
しかし、彼は油断しません。ロクシチの動きを的確に読み、特に尻尾の動きには敏感に注意を払います。ロクシチの機動力と安定した地面を踏む力は六本の足によるものですが、ロクシチの突進力と急速な方向転換で意表を突く動きは一本の尻尾によるものです。つまり、一本の尻尾の動きを見逃さなければ――たとえ相手が竜獣といえども――イセカの世界にいた猛獣と大きく変わりはないのです。
そんな猛獣を相手にした経験なら、イセカにも何度もありました。彼の研究は孤独な研究です。仲間もなく、一人で世界を研究するには身を守る力は必須でした。
「これで!」
大きな声とともに、力を込めた蹴りをロクシチの尻尾に叩き込みます。地面を叩いて高く跳ねようとしたロクシチは狙った動きができず、跳ぶ準備をしていた六本の足も不安定な状態で地面に接しています。そこへ続けざまに蹴りを放つと、ロクシチの体は横になって地面に倒れ込みました。
あとはもう簡単です。首の横に振り下ろされた手刀がロクシチの意識を奪い、完全に守る力を失った竜獣の息の根を止めるのは造作もないことでした。
「……ふう」
「最後の処理が甘いな。アチならもっと早く終えられる。そいつの急所はもう少し左だ」
「あれ? でも教えられた場所は……いや、個体差か。勝ちが決したとはいえ三度も突く必要はなかったね」
「ああ。見た目でわからずとも、今後は一度目で気付け。今回は一体しかいないから良かったが、複数体を相手にする場合は一撃の差は大きいぞ」
「了解だよ」
答えてイセカは命を奪ったロクシチを抱えて、元の建物へと駆け戻ります。ロクシチの戦いに勝利しても、食糧確保は持ち帰らないと失敗です。途中で他のロクシチに襲われないように細心の注意を払いながら、彼らは迅速に帰還しました。
処理はドーギらに任せたところで、イセカとサーワは再び森林に戻ります。先導するのはもちろんサーワです。目的地は彼の呼ばれた洞窟だとイセカは思っていましたが、サーワが向かったのは森林の外でした。
何があるのか、イセカは尋ねません。彼女は見せたいものがあると言いました。ならば聞いてわかるものではなく、見ないとわからないものであると考えられます。
「ここを抜けると、少し高い場所がある。島の全部を見渡せるわけではないが……」
大きく強い光の先に、坂が見えます。先を歩くサーワに続いて、イセカもそこへ到達しました。二人は並んで坂を上っていきます。
その上った先に広がっていたのは、広い海でした。空に輝くリアが海の上からイセカたちを照らしています。
「振り返ってみろ。海など見ていても仕方ないぞ」
サーワの言葉にイセカは振り返ります。すると、そこには広い大地が広がっていました。眼下には先程まで彼らがいた森林が広がり、そのずっと遠くには建物のような石造りの何かが見えます。左には低い山がありました。この高さからでも山の向こうの海が見える低さですが、とても広く全貌は見渡せません。右を見ると山肌ばかりが視界に入る高い山があります。
「広い島だね」
「ルエの想像以上か?」
「うん」
「この世界はもっと広い。だが、アチもルエもすぐには島の外には出られない。エルカは5000日の研究滞留のためにここにいるのだ」
「残りは何日あるんだい?」
「4702日だな」
その期間がどれくらいかイセカは考えます。しかし、この世界でもその計算が正しいかは尋ねてみないとわかりません。
「この世界で一年は何日なのかな?」
「……年? そんな単位は存在しないな」
「じゃあ、季節が一巡りする期間は? 今は確か星風の季節だったよね」
「その通りだ。七つの季節が50日で移り変わり、350日で一巡りする」
「長いね。九十四回も季節が変わらないといけない」
「研究とはそういうものだろう?」
「違いないね。――歳は?」
「一巡りすれば一つ」
「そうか。僕はどうなるんだろうね」
「ルエの世界での一年とやらは何日なのだ?」
「365日だよ。まあ、いいか。これだけ長いんだ、誤差の範疇だよ」
そこで会話が少し止まります。会話を再開したのはサーワでした。
「ルエには食糧確保でアチの研究に協力してもらった。今後は、ルエがしたいならこの世界についても研究するといい。島で生き抜く最低限の力を得た以上、アチとルエの立場は同じだ。アチの住む洞窟には部屋もベッドもある。そこで共に暮らしてもいいし、勝手に島を歩き回っても構わない」
「鍛錬の期間と確保した食糧が合わないね。あれだけでいいのかい?」
「ふ。ルエには竜獣は大きすぎるだろう? 分け前はアチに頼むぞ」
「はは、確かに。しばらくは一緒に暮らすことにするよ」
サーワの笑みにつられて、イセカも笑みを顔に浮かべます。とても広い島が見渡せる場所で、青年イセカのこれからは決まったのでした。