彼女が島に研究滞留して150日が経ちました。
光に包まれた部屋には一人の少女がいました。前に伸ばした二本の腕の先、少女の開いた空間から光は溢れ、溢れ出した光は集まって形を成していきます。光が消えた時、そこには一人の青年が立っていました。
青年の開かれた目に映るのは岩の壁です。それから少女を見下ろして、再び視線を巡らせます。部屋の壁全体が岩でできていることから、ここは洞窟であること。自分の立っている場所と少女の立っている場所の高さを比べて、少女より自分の背が高いこと。少女の背中のずっと先には、長く緩やかな道が一つだけあり、どうやらそこが出口であるらしいこと。
一巡りさせた視線で青年はその全てを把握して、もう一度目の前の少女に視線を向けます。
「僕をここに呼んだのは君かい?」
微笑み青年は尋ねます。声色は優しく、かつ興味深そうに。少女は引き締まったスレンダーな体型に、化粧で飾らない美しい容姿を兼ね備えていました。しかし彼は、その美しさに心を惹かれたわけではありません。
「ふむ。理解が早いな。確かにアチがルエをここに呼んだ」
少女の声は淡白ですが、視線は青年に興味を示しています。細身の体に含まれる筋肉と脂肪の割合を、露出している肌と、服の上から観察して推測します。
「ここはどこかな? なぜ僕を呼んだんだい?」
青年は冷静に質問を繰り出します。そこには強い興味だけがあり、驚きで動揺している様子は欠片も見られません。
「ここは数秒前までルエのいた世界とは異なる世界。アチは呼びかけに気付いた者を呼び寄せた。ルエを選んで呼んだわけではないが、呼んだ目的はある。しかし、その目的に適うかどうかの判断に迷っている」
少女も冷静に質問に答えていきます。
「この会話もその判断のために?」
「ああ。ルエは優秀だな」
「ありがとう。でも僕より君の方が優秀じゃないかな。僕が理論を組み立て研究を深めても見つけられなかった世界を、君は見つけられたんだから」
「ふむ。アチとルエの世界の違いもあるだろうが、素直に称賛は受けとっておこう」
「どうやら、互いに気質は近いみたいだね」
「そのようだな。アチにはまだルエと友好を深める気はないが、名は聞いておこう」
「僕は稲荷イセカ〈いなりいせか〉さ。君は……アチ?」
「アチはサーワだ」
少女サーワの答えに青年イセカは少しばかりの沈黙を返します。けれど、すぐに理解して話を続けました。
「君の世界での一人称ということかな。それとも方言の類かな? こうして僕たちは自国の言葉で話ができている。それについて君は何かしたかな?」
イセカの言葉には独白と質問が混ざり合っています。
「アチは何もしていない」
サーワは的確に、自分に向けられた質問にだけ答えました。
「となると、元々僕の世界とこの世界の言語が酷似しているのか、それとも異なる世界に移動する際に自動で翻訳されるのか……。方言までは変換しきれないことから推察すると、いやまだ情報が足りないね」
「さて、アチからルエに言っておくことが二つある」
イセカの独白が終わるのに合わせて、サーワが大事な言葉を声にします。
「アチはルエを呼び寄せた。しかしルエを元の世界に返す方法は知らない。これが一つ」
サーワは一瞬言葉を止めます。次の言葉こそがより大事なものであると、イセカも感覚的に理解します。
「アチがルエを呼んだ理由は食糧確保だ。だがルエは小さかった。話しながら観察を続けていたが、やはり小さい。食糧としては不適格だが、適切な調理法は考えたい」
今度の言葉には、さすがのイセカ青年でも動揺せずにはいられませんでした。
「今回はどれだけの食糧が確保できるかの実験だ。結果はルエも知っての通りだな。ルエは話のできる人間だ。可能な調理法であれば選ばせてやりたい。用意していた夕食を見せるから、ルエが選ぶといい。拒否して逃げるのも構わないが……この島は危険だぞ。洞窟から一人で外に出るのは竜獣〈りゅうじゅう〉の餌になる可能性が高いから、十分気を付けるといい」
サーワは振り返って、洞窟の中にある長く緩やかな道へと歩いていきます。イセカは告げられた少女の目的に動揺しつつも、その背中を追いかけることにしました。温和しく食べられるにしても、拒否して逃げるにしても、洞窟の最奥らしきここからでは無理なことです。
二人が歩く洞窟の道は人が何人も並んで歩けるくらいの広さで、高さもイセカの身長の三倍はあります。壁や天井は崩れないように多くの木で補強されていました。道も綺麗に螺旋を描くように、斜め上に向かって伸びています。自然のものではなく人の手で掘られたものであるのは明らかです。
イセカは歩きながら、とても一人で掘れる規模の洞窟ではないと感じていました。目の前を歩く少女が一人で掘ったにしては、大きすぎる規模です。
でも同時に、もしかすると一人で掘れたのではないかとも考えます。ここは彼にとっての異世界。彼がいた世界では大変な労力を必要とする行動でも、この世界では誰にでもできる簡単な行動かもしれないのです。サーワがどのような方法で、どのような力で、イセカをこの世界に呼んだのかはまだ彼にはわかりません。
洞窟の道を抜けると、岩の壁に囲まれた大きな部屋に着きました。イセカが目覚めた部屋より高さはありませんが、床は広くどこかへ続くいくつかの道も見えます。特に強い光が漏れている道は外へ続くものだとわかりますが、光の漏れない他の道はどこへ続くのでしょう。どの道も今まで通ってきた道と同じく、木で補強されているのは見て取れます。
中央には木から削られた広い長方形の机が一つ、周りには同じく木の椅子も綺麗に十個並んでいます。机の上には肉や木の実、野草などの様々な食材が調理された料理が乗っています。イセカの目から見て、三十人前はあろうかという多くの量です。
「これが夕食だ。ルエはどうやって食べられたい? 焼くか煮るかそれとも蒸すか、生でもいいが意識を残したまま食べられるのはおすすめしないぞ」
並んだ食事を前にサーワが言います。
「調理したら君が全部食べてくれるのかな。それとも他の人にも食べられるのかい? どうせ食べられるなら、顔くらいは見ておきたいね」
イセカは冷静に答えます。その言葉の真意をサーワはすぐに理解して、彼の望む答えを即座に返しました。
「ここにいるのはアチ一人だ。洞窟の外、島には他にも住んでいる者はいるが……彼らを呼ぶほどの食糧は確保できなかった。ルエはアチが全て食べてやろう」
「君一人?」
返ってきた答えにイセカは視線を料理に向けます。それは彼が食べられたい調理法を選ぶためではなく、大きく外れた推測の疑問を確かめるためです。
「この夕食も君一人で食べるのかい?」
「……ん? 当然だろう? ルエも食べたいなら、少しくらいは分けてやるぞ」
サーワは一本の太い骨付き肉を手に取って、イセカに差し出しました。
「一口だけかい?」
「少しと言っただろう? 一本くらいは遠慮せずに食べてもいい」
強く差し出されて、イセカは一本の太い骨付き肉を受け取ります。サーワが少しと言った一本ですが、彼にとっては一食にも足りる量です。
「じゃあ遠慮なく頂くよ」
イセカは微笑んで骨付き肉を口に運びます。食べたことのない肉の味でしたが、美味しい肉であることは一口でわかりました。
それを見てサーワも椅子に座り、三十食分から一食分ほど減った料理を口に運んでいきます。イセカにとっては大量に見えた食事も、サーワにとっては普通の量なのか流れるように減っていきます。
「君はよく食べるんだね」
「ルエには目の毒だったか?」
サーワは食事の手を止めて、まじまじと見つめているイセカを見返します。
「いや、僕にはこれだけでも十分だよ。そんなに多くは食べられない」
「多いだと? 不思議な感想だな。……いや、もしかすると。ルエの感想はルエが少食だからか? それとも、ルエの世界ではそれが普通か?」
「これが普通だね。中には君と同じくらいの量を平らげる人もいるけど、彼らは大食らいや力士といった特別な人たちだよ」
「そうか。ならばアチが食べている間、準備運動をしておけ。少し試させてもらう」
「試す? ――わかったよ」
それきりサーワは声を発しませんでした。彼女が食事を終えるまで、イセカも黙って準備運動をしておきます。準備運動をさせて試すことが何なのか、言葉にされずともある程度は想像ができます。
サーワが食事を終えてすぐに、その試しは始まりました。椅子に座ったまま彼女は腕を伸ばして一本の骨――肉を食べ尽くされた骨付き肉です――を手に取って、力を込めます。
「受け取るか砕くか、どちらでもいい」
言葉とともに、イセカに向けて一本の骨が投げ飛ばされます。彼もさきほど手にした骨と同じものです。高速で飛来するそれを、イセカは左手で掴み取り、硬く揃えた右手の手刀で叩き折ります。
「……ほう」
「折ってはいけなかったかな? 一撃で砕けるほどの力はなくてね」
感嘆とも驚嘆ともとれる反応をサーワが示したので、イセカは誇張なく言葉でも自分の力を示します。
「いや、問題ない。あの速度に反応できれば十分だ」
サーワは小さく笑うと、椅子から立ち上がってイセカの前に歩み寄ります。
「稲荷イセカ――ルエにはもう一つの選択肢をやろう。食糧確保でアチの研究に協力するという選択肢だ。ルエ自身が食糧になるという選択肢と好きな方を選ぶといい」
「随分魅力的な選択肢だね。理由を聞いてもいいかい?」
「選んでから聞くがいい。ルエはアチの食糧になるという選択肢は選ぶまい?」
「君一人しかいないなら、逃げるという第三の選択をするかもしれないよ?」
「ああ、それは困るな。今のルエでは竜獣に食い殺される可能性が非常に高い。だが、今は事情が変わった。アチはルエを逃がさない。どんな形にせよ、食糧確保には役立ってもらうぞ」
「今のままでは食糧確保も難しい人間を生かすということは、君が僕を鍛えてくれるのかい?」
「それにはアチより適任がいる。150日もあればルエは食糧確保に役立つ。ほんの少しの食料を与えれば、多くの食糧を手に入れてもらえる。もっとも、ルエの選択次第ではあるがな」
「君は見た目は僕と同じ人間だけど、異世界の人間だから必要な食事量も違うようだね。他の人もいるなら、是非研究してみたいね」
「したいなら選ぶのだな。他にも理由はあるが、ルエならもう全て理解しただろう?」
「もちろんだよ。食糧確保で君の研究に協力する。立場は君の部下、それともペットかな?」
イセカは笑って答えます。するとサーワも大きく笑って、質問に答えました。
「ルエが好きに選ぶといい。それをアチが認めるかは、ルエの能力次第だ」
「君の見立てが間違っていないことを証明させてもらうよ」
「そうしてくれると嬉しいな。アチの見立ても完璧ではないが、ルエもアチも同じ人間だ。些細な違いであることを祈ろう」