カゲカケラ

第十二話 希望


 その日、緑は若い女性の声に目を覚ました。

「緑くん、朝ですよ。ゆっくり休めましたか?」

 聞こえてきたのは睡蓮の声。部屋のモニターから聞こえているのだろうと視線を向けようとして、声が近くから聞こえてきたことに気付いて顔を横に向ける。

 するとそこには、いつもの落ち着いた服装、左はロングサイドテールで右はショートといういつもの髪型、そしていつもの微笑みを浮かべる女性が、いつもとは違う――モニター越しではなく――生身で彼の眠るベッドの横に立っていた。

「睡蓮、さん?」

「はい」

 寝ぼけているのかと思って体を起こし、睡蓮の体を眺めてみる。髪型も、体型も、その全てがモニター越しに見た睡蓮そのもので、本物としか思えなかった。

「あの、なんで? ここは俺の部屋ですよね?」

「ふふ、そうですね。緑くんには特別に、お姉さんの秘密を先に教えてあげちゃいます。でも、まずは顔を洗って、しっかり目を覚ましておいてくださいね」

「……はあ」

 寝起きで頭がはっきりしていないのも事実。緑は睡蓮の言葉に従って部屋にある洗面所で顔を洗い、今まで彼の寝ていたベッドに腰を下ろして待っていた睡蓮の前にやってくる。

「秘密ってなんですか?」

「お姉さんはこの島、この施設の設備を全て掌握しているので、侵入するなんてその気になればいつでもできるんですよ!」

「はあ」

 少年少女の乱れを防ぐため……とやらで、彼女にそれだけの権限があることは緑も理解している。問題は、なぜ睡蓮がここにいるのかということで、彼は相槌を打って睡蓮からの次の言葉を待った。

「ふふ、今回は影の力で侵入したんですけどね。そう、今緑くんの目の前にいる、とっても美人で麗しいお姉さんこそが、みなさんにとって最大の敵――影の根源です!」

「ええ、と」

 緑は困惑した表情で睡蓮を見る。念のために影を察知してはみたが、睡蓮から影の力は一切感じられない。

「あー、信じてませんね。お姉さんは凄いから、普段はみなさんに察知なんてできないんですよ。まあいいです、とりあえず朝食を食べてからお話を続けましょう」

 さっさと歩いていく睡蓮の後ろ姿を見送って、緑も準備をしてから食堂へ向かう。途中で睡蓮が扉を開けて回ったらしく、女の子たちに緑が侵入しようとしたと疑われながらも、五つも開けただけという状況の不自然さに少女たちは納得する。

 その後、廊下を歩きながら睡蓮の話を緑が切り出すと、再び彼に若干の疑いの目が向けられたが、食堂で待っていた睡蓮の姿を見るとその疑いはすぐに晴れた。

「遅いですよー。睡蓮とっておき自慢のお手製ハンバーグモーニング、冷めてもおいしいですけど……」

 中身は以前のハンバーグランチと全く同じだったが、味は保証済み。睡蓮がお話をするのは朝食を食べてからということもあり、彼らは豪華な朝食を頂いてからそれを待つことにした。

 食事を終えて、彼らが食器を片付けようとしたとき、睡蓮が立ち上がった。

「あ、食器はいいですよー。私が洗っておきますから。ふふ、みなさんとお食事。いつもは一人でしたから、楽しいですね」

 睡蓮が舞うように軽く手を振ると、食堂にあった汚れた食器は一瞬で綺麗になり、ふわふわと空を浮かんで食器入れに戻っていった。

「はい、おしまいです。ふふん、これで緑くん――それにみなさんも信じざるを得ないでしょう。この私が影の根源であることを!」

「ええと」

「……そうね」

 緑や水樹、数人が困惑する中、織乃はおもむろに睡蓮に近寄り、素早く生み出した漆黒の剣を頭上に振り上げていた。

「あ、駄目ですよー。まずはお話の時間です。ね?」

 睡蓮はいつもの微笑みで左手を上げて、振り下ろされた漆黒の剣を受け止める。彼女に手に傷がつくことはなく、織乃は黙って剣を収めることにした。

「それじゃ、場所を移動しましょうか?」

 そう言って睡蓮が移動したのは娯楽室。六人は黙って彼女についていき、そこでお話を聞くことにした。

「まず私がどこから現れたのかですが、実はこの施設には地下に隠し部屋がありまして。その気になれば私はいつでもここに来られたんですよ。ふふ、みなさんの中には、まだ半信半疑の方もいらっしゃるようですけど」

「それは……」

「見た目は兵士や領主と違うし、ね?」

 緑と水樹の言葉に、睡蓮は笑顔を見せてから言葉を続けた。

「そうそう、阿裏奈ちゃん。私の経験についてお伝えしていませんでしたよね。何を隠そう、影の根源としてこの世界を侵略するための経験――それが私の経験です。まあ、私の力を持ってすれば、みなさんに抵抗の余地なくこの世界を影に染めることも可能だったんですけど、それでは面白くないので、十年かけてゆっくり侵略することにしたんですよ。

 人々の希望を、絶望に変えて――武器が通じるという希望を与え、その武器の大半を失うという絶望を。そして影の兵士を倒せる英雄という虚構を生み出し、英雄は姿を消して人々はまた絶望を」

「ちょっと待ってくれ」

 最後の言葉に反応した緑が、慌てて言葉を止める。睡蓮はわかっていますよとばかりに笑顔を浮かべて彼を見つめると、詳しく説明した。

「不思議だとは思いませんでしたか? 影の兵士を追い払う――それほどの力を持った英雄が忽然と姿を消したのに、知識だけはちゃんと残ってるなんて。でも、英雄なんていなかった、全て影の根源が作った、架空の伝説だった――そう考えれば自然ですよね?

 それから、私は各地を影に染めながら、影の欠片を少年少女に与えることにしました。同時に世界各国の政府――多くは暫定政府でしたけど――を影から操り、英雄の知識を元に欠片の力の扱いを学ばせ、ゆっくり育ててみたのです。ふふ、その中でちょっとだけ、予想外のことも起こったんですけど」

 そこで睡蓮は阿裏奈に視線を送り、小さな声で笑ってみせる。

「だから、あたしを助けた――ううん、面白いから育ててみたってこと?」

「はい。まさか、影の塊と融合する人間が現れるなんて思ってもいませんでした。そのおかげで、思ったよりも早く侵略計画は進行して……こうして、成長したみなさんの前に現れたというわけです。人類にとって最大の希望となったあなたたちに」

 睡蓮が話を終えて、僅かな沈黙が部屋を包む。それをすぐに破ったのは織乃だった。

「話は終わり? 影の根源さん」

「織乃ちゃん、もう麗しの睡蓮お姉様って呼んでくれないんですか?」

「そんな呼び方したことはないけど……まあいいわ。睡蓮さん、斬りにくいからもうちょっとそれっぽい雰囲気出してくれない?」

 言葉にはやや呆れを混じらせながらも、その手に握った漆黒の剣は鋭く輝き、視界に捉えた敵の姿を逃さぬよう構えは万全。

「もちろんですよ。変身!」

 睡蓮の体が光に包まれて、彼女の衣服が形を変えていく。光が消えたときに睡蓮の身を包んでいたのは、落ち着いた雰囲気の影の鎧。美しい装飾鎧のようで、強度は抜群。鎧に込められた影の力の量から、緑たちがそれを理解するのは一瞬だった。

「どうですか? この日のために考えていたんですよ!」

「そうじゃなくて、その、話し方」

 きょとんとして首を傾げる睡蓮に、織乃は言葉を続ける。

「いつもと変わらないから斬りにくい。ないの? 影の根源らしい威圧感みたいなの」

「そう言われましても……」

 睡蓮は困った顔で、それでも微笑んだまま彼女に答えた。

「私は普段からこれですし、やりにくいですか?」

「そう。なら、そのままでいいわ。斬らせてもらう」

 距離を詰めて漆黒の剣を振った織乃だったが、その剣は空を切る。

「ふふ、駄目ですよー。みなさんの役目は私と戦うことじゃないんですから」

 織乃が踏み込むと同時に、睡蓮も退いて攻撃を避けていた。広くない部屋ではいずれ壁際に追い詰められるだけだが、織乃は追いかけない。最初は剣を受けられ、今度は避けられた。油断しているなら今のうちにとの行動だったが、睡蓮に油断はないようだった。

「希望を絶望に――それが私の計画なんですよ。ふふ、みなさんは大きな希望。でももし、そのみなさんが、影を倒す英雄ではなくなって、人々を襲う影の仲間になったら、それは一転して大きな絶望になりますよね。みなさんと融合しているのは、私の影。塊であろうと、欠片であろうと、元々は私の一部です」

 睡蓮は目を瞑って、笑みを浮かべたまま語り続ける。その姿に隙はなく、攻撃をしても簡単に防がれるだけだろう。

「ですから……みなさんには、こちらに来てもらいます。影の根源たる私の力で、操り人形として動いてください。大丈夫ですよ、意思は奪いませんから。その方がいいといっても、駄目ですよ?」

 手を差し伸べるように。睡蓮は緑たちに影を伸ばす。その影は彼らと融合した影の塊や欠片に到達すると、仄かな輝きを放って消えていった。

「おしまいです。さあ、まずは麗しき睡蓮お姉様、大好きですという言葉を!」

 睡蓮は両手を広げて、彼らに指示を出す。しかし、声が返ってきたのは一人だけだった。

「麗しき睡蓮お姉様、とりあえずえっちなことしていいですか? いっぱいえっちなことしていいんですよね? 任せてくださいなんでもやります! ごめんなさいお兄ちゃん、私操られてるから止められないの、だから!」

「させないよ」

「うー」

 睡蓮に突進しようとする妹の腕を掴んで、兄が暴走を止める。

「でも、駄目なの、命令で」

「操られてないよね?」

「うー……そ、そうだけど」

 いつもと変わらない兄妹の様子を、睡蓮はぽかんとしたまま黙って見つめていた。

「あれ? ええと……」

 他の四人を見ても様子は変わらない。睡蓮は顎に手を当てて視線を下ろしてから、少しして顔を上げると笑顔を見せた。

「わかりました。みなさんは影と深く融合しているんですね。それは既に、私とは違う別の存在で……なるほど」

「睡蓮、計画が甘いですよ」

 聖歌からの冷静な指摘に、睡蓮は頬を膨らませて反論する。

「む。失礼ですね。確かにこの可能性は考えていなかったですけど、大きな計画には支障はありません。影の根源として、みなさんに圧倒的な力を見せつけて、従わせればいいんです」

 最後は微笑んで、睡蓮は言った。

 彼らが訓練を続けた施設、その島で――最後の戦いが始まる。


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