空に月が昇り始めた頃、六人は睡蓮に示された露天風呂のある場所に向かっていた。出発の前には緑と水樹が最後の抵抗を試みたものの、茜や阿裏奈はともかく、織乃と聖歌にまで賛成されては抵抗も届かない。
木製の屋根が目印という露天風呂まで、彼らは徒歩で進んでいく。林を抜けて小さな湖へ向かう道を途中で逸れて、目的地へ。目印は地面に埋め込まれており、地図がなければ気付かないような場所に露天風呂への道が続いていた。その道も途中でいくつかの分かれ道があり、空から見てもそこに何があるのかわからないよう、巧妙に隠されている。
もっとも、彼らのいる島もそこまで広くはない。本気で探索すれば見つけることも十分に可能だっただろうが、探索は彼らの目的ではない。
そしてようやく、彼らは最後の目印を発見する。木製の屋根と柵で囲まれた、簡素な造りの露天風呂。先頭で指差した茜が駆け出すと、緑もすぐに妹を追いかけ、他の四人はゆっくりと歩いてその後に続く。
茜と一緒に緑は様子を確認。真っ先に気付いたのは、露天風呂には脱衣所が一つしかないということだった。
「……ふむ」
「お兄ちゃん？」
靴を脱いで脱衣所に入り、真っ先に露天風呂への扉を開けていた茜が兄を呼ぶ。緑は脱衣所の入り口で立ち止まったまま動かなかった。
「混浴はともかく、脱衣所も一緒はまずくないか？」
「そう？ 私は気にしないけど」
脱衣所に屋根はついているが、ついたてはない。視界を覆うものは何もなかった。
「俺が気にするよ」
「じゃあ、私とお兄ちゃんが先に入ってる？ ほら、早く！」
「ああ、ちょっと待っててくれ」
露天風呂に入りたくてうずうずしている妹に――話している間にも茜は服を脱いで下着姿になっていて、入る準備は万端だった――緑は一言言ってから、外の四人に事情を説明する。織乃に聖歌、阿裏奈らの反応は鈍かったが、水樹は鋭く反応して大きく頷いていた。
脱衣所に戻った緑は、既に全裸になってタオル片手に仁王立ちする茜に催促されながら、服を脱いでタオルを装備する。すぐに茜が他の四人を呼ぼうとしたので、緑は素早く露天風呂に向かう。茜も追いついてきて、兄妹は揃って露天風呂に足を踏み入れた。
岩の中にたっぷりの温泉が流れ出る、素朴で雅な露天風呂。洗い場は綺麗に輝いていて、低めの柵から見える木々の自然も美しい。
その気になれば覗きも簡単にできそうな露天風呂だが、今の緑たちには関係ない。一緒に露天風呂に浸かるのだから、外から覗く必要などないのである。
「綺麗だね」
「うん。さすが、隠すだけはあるね！」
「はは、それにしても綺麗すぎる気がするけど」
誰が手入れしていたのだろうと緑はやや気になったが、考えを深める時間はない。彼らの暮らす施設と同じように、最新鋭の設備を活用した、自動制御の何かで清潔さを維持しているのだろうと結論付けて、緑はやってくる四人に備える。
「お兄ちゃん、一緒に待ち伏せする？」
「茜もこっちだ」
扉の近くで待機していた妹を引っ張って、兄妹は露天風呂に浸かって四人を待つことにした。自分自身と、妹の暴走という、二つの危険を防ぐための配置である。
露天風呂に流れる温泉は、施設にあるものと同じ澄んだ温泉。茜はやや不満そうな顔をしたものの兄に従い、黙って入り口を見つめていた。それはそれでどうかと思ったが、緑も気になって視線をそちらに向ける。彼女たちも混浴ということはわかっているし、茜みたいに何も隠さずに入ってくることはないだろうとの判断だ。
数十秒後、脱衣所の扉がゆっくりと開けられる。
「わあ、大きいね！」
「そうね。それにしても……」
最初に入ってきたのはタオルで全身を隠した水樹と、大事な部分だけを隠して入ってきた織乃の二人だった。
「完全防備ね、水樹」
「あ、当たり前だよ」
織乃の指摘に、水樹は咄嗟に答えを返す。
「……入るときは取らないと駄目よ？」
「絶対に？」
「断るなら今脱がしてもいいけど？」
織乃の言葉に、今度は聞き返さずに頷く水樹。短いタオルも持っているので、大事な部分はそちらで隠すことはできる。
「あと緑、そろそろ視線を外した方がいいわよ？」
そこで織乃は露天風呂から見守る兄妹に視線を向けて、微笑みながら言った。
「え？」
緑が聞き返したのと、織乃が体をどけたのはほぼ同時。露天風呂に姿を現した聖歌と阿裏奈の二人は、タオルを片手に滑らかな白い肌を一切隠すことなく、辺りを眺めていた。
「ふわあ、聖歌さん……それに阿裏奈ちゃんも可愛い。とうっ！」
緑は咄嗟に視線を逸らしながらも、入ってきた二人に飛び込もうとした妹の腕をしっかり掴んで、お湯の中に引き止めた。
「あれ？ チャンスだと思ったのに」
「兄として、妹はしっかり見張らないといけないからね」
緑は茜をしっかり見て言った。とりあえずこうしていれば安全だ。
「むう……じゃあ、私も妹としてー」
力を抜いて兄の拘束が緩むのを待ってから、茜は兄の頭を掴んで強制的に向きを変えてみせた。当然、方向は入り口の方である。
「……美しいですね」
「これが露天風呂……で、あんたのそれ何？ 取りなさいよ」
景色に見とれてぼんやり立ち尽くす聖歌に、阿裏奈は全身にタオルを巻いた水樹の背後に忍び寄り、一気にそれを引きはがそうとしていた。
「わ、駄目、緑が見てるから！」
「距離もそこそこあるし、大丈夫よ」
背後からの奇襲に抵抗もむなしく、タオルを脱がされる水樹。咄嗟に片手のタオルで大事なところは隠したが、妹に頭を固定されている緑は視線を逸らすことはできなかった。
「茜、手をどけてくれ」
「いいよー。でも、妹としてもうひとつ確かめることが！」
妹の手が離れたことで、緑はすぐに視線を逸らす。それでも妹が暴走して飛び出さないように見張るのは忘れないが、茜は兄に微笑んでそっと緑に近づいていた。どかした手を湯に浸して、伸ばしたのは兄の下半身。
「何してるんだ？」
他の四人に聞こえないように小さな声で緑は尋ねた。
「お兄ちゃんが暴走しないように、妹としての確認を」
茜は普通の声で返してきたが、距離はあるので声はよく聞こえないだろう。大事な部分を妹に軽く握られたまま、兄は努めて冷静に、もう一度尋ねる。
「それで？」
「うーん……動かせばお兄ちゃんもさすがに……可愛い妹の手で、お兄ちゃんを」
緑は黙って妹の顔を見つめる。反射的な肉体の反応は止められないが、それを起こさないように止めることはできる。しかし、どんな言葉をかければ今の妹を止められるのかわからなかった。
「水樹、あそこの兄妹が何かしてるわよ」
「え？ ……何かって何？」
茜も兄をじっと見つめ返し、互いに見つめ合う兄妹。そんな彼らの耳に、織乃と水樹の声が聞こえてきた。
「そうね……あれは、ええと……兄の暴走を妹が制御してる？」
「待て織乃、誤解だ！」
咄嗟に緑が叫んだ。ついでに茜の手も離そうとしたが、無理やりやったら手を動かしそうな気配を感じたので途中でやめる。
「ごめんなさい。お楽しみだった？」
「お、お楽しみ……緑と茜ちゃんが」
水樹が目を見開いて緑と茜を交互に見る。
「お楽しみ？」
いつの間にか二人の会話に阿裏奈が加わっていた。聖歌は未だに入り口から動かず、扉だけを閉めて景色を眺めている。もちろん何も隠していないが、綺麗な体で立つ姿は美しく神秘的で、緑もそういった気持ちを抱くことはなかった。
「ええ、具体的には……」
「ふむふむ」
阿裏奈に説明しようとする織乃を、緑は祈るような目で見続ける。話し出す直前、彼女はちらりと緑を見ると、小さく肩をすくめてみせた。
「ま、それはおいといて、緑」
今度ははっきり緑を見て、織乃は言葉を続ける。
「せっかくの露天風呂、目を逸らしてばっかりじゃ楽しめないでしょ？ 慣れなさい」
「慣れなさいって……」
「慣れないなら、限界以上に出させれば落ち着く？ 緑のために、私も協力するけど」
首を小さく傾けて、言葉を口にした織乃。緑はほんの少しだけ考えてから、彼女にはっきりと言葉を返す。
「わかった。慣れるよ。だからそういうことはもうやめてくれ」
苦笑して肩をすくめた緑に、織乃は大きく頷いて答えた。
「あと、茜も」
「はーい」
ついでに妹にも声をかけると、茜はあっさりと手を離した。そして微かな笑みを顔に浮かべて、兄を見つめて一言。
「お兄ちゃんは複数に反応、と……えへ」
緑はここで何を言っても墓穴を掘るだけと判断して、黙っていることにした。
六人が露天風呂に入って二十分ほど。緑もこの状況に慣れて、それに数分遅れて水樹も慣れてからは、彼らも普段と変わらない様子で温泉を楽しんでいた。
もちろん、じっくり見つめるようなことはできないし、双方ともにある程度の配慮はしているが、普通に露天風呂を楽しむだけならそれだけでも十分だ。茜も大人しく聖歌と背中を流し合っていて、とりあえずは緑も安心である。
問題があるとすれば、阿裏奈だけは遠慮なく歩き回っていることくらいだが、髪を洗っている最中に何かをされることはないだろうと緑は気楽に過ごしていた。
洗髪を終えて緑が目を開いたとき、彼の背後には阿裏奈が一人で立っていた。
「……何か用かな？」
黙って背後に立つ阿裏奈に、緑は尋ねる。自分の体で半分以上隠れているとはいえ、鏡に映る少女はタオル片手に動かないまま。無表情で何を考えているのかわからず、敵意こそ感じないものの何となく立ち上がれない。
「そうよ。もういいの？」
阿裏奈からの質問に、緑は不思議そうな顔を見せる。
「何が？」
「あんた、鏡越しにあたしの胸を凝視してたから」
その言葉で緑は理解する。確かに目を開いたら鏡に映っていた阿裏奈を、そのまま動かないので見ていたのは事実だった。
「凝視はしてないよ」
今は彼の近くに阿裏奈しかいない。水樹と織乃は露天風呂の奥でゆっくり温泉を楽しんでいて、茜と聖歌は未だに洗いっこの最中。だが、本人の誤解は解いておきたい。
「そう？ だったらついてきて。ここじゃ寒いでしょ？」
「ああ、そうだね」
阿裏奈が振り向くのを待って、緑は彼女についていく。行き先はもちろんお湯の中で、とりあえず近くの岩場に腰を下ろそうとしていたら、阿裏奈はお湯の中をさらに進んでいた。
「阿裏奈？」
「こっち」
その行き先に少々の不安を感じながらも、有無を言わせぬ阿裏奈の声に黙ってついていく。
「み、緑が来た！」
「大胆な覗きね」
果たして、阿裏奈が緑を連れてきたのは水樹と織乃の傍。驚いた顔で彼を見つめる水樹に、織乃は冷静に言葉を発していた。緑は苦笑してその言葉に答える。
「あんたたちに話があるの」
阿裏奈が言って、二人の間に滑り込む。緑は端に移動しようとしたが、織乃が二人分のスペースを開けて、阿裏奈が織乃の隣に入って緑に視線を送り続けたため、彼も二人の間に滑り込むことにした。
「緑が隣に！」
「いつものことじゃない」
「いつもは裸じゃないよ！」
彼を挟んで繰り広げられるそんな会話を耳にしながら、緑は阿裏奈に聞いた。
「それで、話って？」
「まずひとつは、あんたたちがあっさりをあたしを受け入れたこと。あんな戦いをしたんだから、あたしが内部からどうこうすると思わないのは自然だけど、それにしても少しは怪しむものじゃない？ 大丈夫なの、それで？」
阿裏奈の質問に、緑たちは少し考えてから答える。
「大丈夫だよ。阿裏奈だからさ」
緑が言った。
「俺は阿裏奈と融和できた。それは俺たちがそうしようとしたというのもあるけど、もちろんそれだけじゃ融和は成功しない。阿裏奈が完全に俺たちを敵としてしか見てないなら、ね」
「そう。ま、あたしは面倒くさいから手を抜いてただけなんだけど」
「でも、一対一のときは少し協力してくれたよね？」
緑は微笑んで、隣の阿裏奈を見る。
「根源様の考えを推測して、無意識にそうなっていたかもしれないわね」
阿裏奈は答えて、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「次。その融和って、どうやるの？ ぶつけ合うだけじゃないんでしょ？」
「仲良くなるのが一番、だそうよ」
答えたのは織乃だった。
「こうしていることもその一つになるかな？」
水樹が笑顔で続ける。
阿裏奈は三人の顔をゆっくりと、順番に見てから言った。
「仲良く……その割には、混浴には動揺するのね」
「ん？」
「そんなの当たり前……」
「そうね。夜とそれ以外では違うってことかしら。今も夜だけど」
怪訝そうな顔を見せる緑や水樹と違って、月夜の下、織乃は平然と答えを返していた。
「ふーん。そういうもの？」
「そういうものよ」
会話をする二人を見ながら、緑と水樹は顔を見合わせてから、緑が代表して口を開いた。
「織乃」
「冗談よ。でも、緑と水樹はそのうち冗談じゃなくなるかもしれないわね」
「う」
「ええと」
言葉を詰まらせる水樹に、困った顔で誰かの言葉を待つ緑。
「……冗談？ じゃあどうしてるの？」
そして数秒後、沈黙を破って阿裏奈が素朴な疑問を口にした。
「その前に、あなた、根源様に何を教えられたの？」
織乃が真面目な顔で尋ねる。
「何って、仲良くなるには体を重ねるのが一番で効率的だって」
「……へえ」
「信じてるの？」
どう言葉にしていいかわからない様子の二人に代わって、織乃が再び尋ねる。
「初めて聞いたときは幼かったから信じてたけど、その後に色々教えられて気付いたわ。体だけを重ねても意味がない。大事なのは心を重ねることだって」
「影の根源って、阿裏奈にそんなこと教えてどうするつもりだったのかな？」
「もしかして、繁殖させて……そんなわけないよね」
影の塊と融合した阿裏奈の子供は、普通の人間ではないかもしれないが、彼女と同じ力を持てるとは考えにくい。仮にそうだったとしても、影には根源だけでなく領主や兵士もいるのだから、そんな回りくどい手段を取る必要もないだろう。
「ま、いいんだけど……緑、する？」
「しないよ」
顔を見て問いかけてきた阿裏奈に、緑は咄嗟に答えた。阿裏奈は小さく頷いて、会話はそこで途切れることになる。
それから、茜と聖歌が混ざるまでは数分。それによりやや騒がしくなる六人だったが、温泉の、露天風呂の効果で茜もすぐに落ち着いて、彼らはのんびりと戦い終えた憩いの時間を楽しむのだった。