カゲカケラ

第五話 影の塊


「織乃の目って、手も見えるのかな?」

「ええ。でも最善手を判断するのに、知識と経験を要するのは同じよ」

 娯楽室で二人きり。緑と織乃は将棋を指していた。斧の領主との戦いを終えた翌日、激しい戦いでの疲れと報告の内容を考慮して、彼らには一日以上の休日が与えられていた。

「そうか」緑は軽く桂馬を跳ねる。「それじゃあ、終盤の詰めは完璧だね。気をつけないと」

「気をつけなさい。もっとも、普段は使わないし、今の緑には使うまでもないけど」

 銀を上がって、桂跳ねを咎める。初心者でもわかるような初歩的なミスである。

「はは、容赦ないね」

 もちろん勝負は緑の負け。しかし、緑に将棋を勧めたのは織乃の方。勝敗よりも彼の様子を確かめるための対局で、成果は上々だった。

 次の対局――三局目になる――を始めようとしていたところで、娯楽室の扉が開いて、茜が入ってきた。

「あ、いた!」

 織乃の姿を見つけて、茜は早足で駆け寄ってくる。

「私に何か用?」

「何って、それはもちろん」茜はちらりと兄の顔を見た。「約束のえっちなことを、静かな場所で始めようと思っていたんですけど、お兄ちゃんの前でというのも興奮しますね」

「私は構わないけど、緑が手を出さないか心配ね」

「俺は気にしないよ」

 即座に返ってきた緑の答えに、二人の少女の視線が集まる。

「あなたね」

「お兄ちゃん……うーん、まずはこっちですね」

 呆れと心配。二人にそんな視線を向けられながらも、緑は小首を傾げるだけだった。

「織乃さん、今回はえっちなことは諦めます。お兄ちゃんをしっかりさせるのに最後まで付き合ってください」

「仕方ないわね。約束だもの」

 織乃は面倒くさそうな顔をしながらも、小さく肩をすくめて頷いた。様子を確認だけして、対処は他のみんなに任せるつもりだったが、茜に頼まれてしまっては断れない。

「で、どうするの?」

 織乃に問われて、茜はじっと兄の顔を見つめる。

「お兄ちゃん、次の敵のことなんだけど」

「ああ、なにかな?」

「気になる?」

「そうだね。影の領主とは違う、影の塊と融合した――俺たちと同じ人間なんだから」

 緑の答えに、茜は小さく頷く。とりあえずは、自分の勘違いでないことの確認。

「戦える?」

「茜はどうなんだ?」

 妹からの質問に、兄は尋ね返す。すぐに答えられないという時点で考えがまとまっていないのは明らかで、茜は少し考える仕草を見せてから――もちろん兄に考える時間を与えるためである――決まっていた答えを口にする。

「美少女なら捕まえて、それ以外なら倒すかな?」

「捕まえるって……」

 妹の口から出てきた、予想もしなかった答えに緑は苦笑する。

「そうね。それも選択肢の一つとして考えてもいいと思うわ」

 対して、真剣な表情で同意を示したのは織乃だった。緑は驚いた顔で彼女を見る。

「織乃、もしかして」

「違うわよ」

 織乃は即座に否定する。それから微かな笑みを浮かべて、表情はすぐに戻しながらも、優しい声で言葉を続けた。

「私にとって影は復讐する敵。でも、影と融合した人間は影そのものじゃない。それでも、私たちの敵となるなら私はあなたみたいに迷わない。けど、敵だからって問答無用で倒す気もないってだけ。問答が通じる相手なら、ね」

「問答……そうか。そうだよね」緑は納得の表情を浮かべる。「領主だって話せるんだ。影の塊と融合した人間だって、話ができても不思議じゃない」

「ええ。でも、選択肢の一つよ? 話が通じない相手でも、緑は倒せる?」

 織乃の問いに、緑はやや悩んだ顔を見せつつも、はっきりと答えを口にした。

「倒すさ。でも、殺すのは難しいかな。まずは無力化して、それからだ」

「うん。美少女だったら、捕まえて……」

 茜が同意する。最後の言葉は濁したが、恍惚とした表情を見れば何を考えているのかは大体わかる。

「そういう意味じゃないけどね」

 緑は苦笑して、すかさず否定する。

「好きにするといいわ。それができる相手ならね。でも、もしそうじゃなかったら……」

「もちろん。俺だって、新たな英雄を目指してるんだ。影を追い払う前に倒されるつもりはないよ」

 緑の答えに、織乃は顔に笑みを浮かべて小さく頷いた。

「それじゃ、そのために訓練はしっかりとね。今すぐでもいいわよ?」

「はは、それもいいけど、俺としてはこれでリベンジしたいね」

 緑は駒を広げたままの将棋盤を指差して、言った。

「いいわよ。手を抜いてはあげないから、三連敗でも文句は言わないでね」

「織乃さん。お兄ちゃんが勝ったら服を一枚脱いでくださいね」

 あまりにも自然な流れで口から出てきた台詞に、織乃は黙って茜の顔を見た。緑は二人の顔を交互に見て、様子を窺う。

「あなたが私に勝てば、一枚と言わず全部でもいいわよ」

「それは……お兄ちゃん」

 茜は織乃から視線を外して、兄を困ったような目で見つめる。

「これが終わったらね」

 緑は笑顔で答えて、並べかけていた駒を最初から並べ直す。将棋に関して、織乃と緑の実力は拮抗している。しかし、二人と茜の差は開いていて、茜が勝負になるのは同じくあまり強くない水樹くらいだ。それをちょっとした時間で通じるようにするのは不可能だが、急戦を仕掛けられてあっさり負けないように、アドバイスするくらいなら十分にできる。

 そして始まった対局。織乃と緑の戦いは一進一退の攻防の末、辛うじて緑が勝利を収めた。こちらの約束はしていないので織乃が服を脱ぐことはなく、緑からアドバイスを受けた茜との対局が始まる。織乃も同じ部屋にいたのでそれを逆手に取ることもできたが、彼女は正々堂々と力戦で挑んできた茜の相手をし、いつもと同じく圧勝してみせた。

「さて、みなさん。来るべき次の戦いについてですが……」

 翌日、訓練再開の初日。モニターの前には五人が集まって、睡蓮の話を聞いていた。

「影の塊と融合した人間。実力は不明ですが、ひとつだけわかっていることがあります。敵が影そのものではない以上、今の支援部隊に正確な観測は不可能です。もっとも、聖歌ちゃんがいたとしても」

 睡蓮に視線を向けられた聖歌は頷いてみせる。

「槍の領主のように、一度遭遇したら話は別ですけれど」

「ということです。島に近づいても察知できない可能性もあります。みなさん、不意討ちには気をつけてくださいね」

 睡蓮の言葉に、五人は大きく頷いた。彼らの倒した二体の領主、これまでの傾向からすると不意討ちで勝負をつけようとするとは思えないし、よほどの力の差がなければ今の彼らが一撃で倒されることはない。だが、先手を打たれれば不利になるのは明白だ。

 その強敵との戦いに備えて、彼らはさらに融和を高めるための訓練を開始する。斧の領主との戦いを経て、五人での融和も高まったがまだまだ力は高められる。

 斧の領主の言葉に嘘がなければ――嘘をつくような相手には見えなかったが――次の相手はもっと強い。そしておそらく、彼らが最後に倒すべき相手――影の根源は次の敵よりも強いはずだ。強敵である影の領主を二体倒したからといって、影との戦いは終わりではない。

 五人は施設内での訓練を終え、昼食と多少の休憩を挟んでから外での訓練を行う。場所は二日前に、斧の領主との激しい戦いのあった、島の外れの荒れ地。戦いのことを思い出しながらの模擬戦闘や、融和の確認。そのためには戦いの記憶の残るこの場所が一番だ。

 彼らが歩いて荒れ地に到着したとき、そこには先客の姿があった。

 お嬢様のようなドレスを着た、ロングツインテールの少女。身長は一メートル四十九センチで、胸の膨らみも薄い色々と小さな女の子である。柔らかそうなほんわかした顔立ちに幼さは残っているが、纏う雰囲気はやや大人びている。彼女は無表情で、荒れ地にやってきた五人を見つめていた。

「あれは……」

 緑が呟く。

「美少女だよ。やったね、お兄ちゃん!」

 茜は笑顔で。

「喜んでいるのはあなたでしょう」

 織乃は冷静に。

「あはは、随分と……」

 水樹は苦笑し。

「早いですね」

 そして聖歌が最後の一言を、普段通りの澄んだ声で。

 この距離まで近づけば彼らも気付く。荒れ地で待っていた少女こそが、斧の領主の言っていた影の塊と融合した人間。彼らと同じく、影と融合した少年少女。

「……敵……殲滅……」

 よく聞きとれないほどの、小さな声で。影の塊と融合した少女は、両手に短い銀の剣を生み出すと、ゆっくりと彼らに近づいていった。

「待ってくれ! 戦う前に、君と話がしたい!」

 緑が一歩前に出て、大きな声で呼びかけた。茜も兄に続いて一歩踏み出し、武器を構え、妄想の翼を広げて戦いの準備を整える三人の壁になる。水樹は空を飛べるし、織乃や聖歌も彼らを無視して前に出ることは可能だ。しかし、三人とも今は彼らに任せることにした。

「……二人……倒す……」

 少女は微妙に長さの違う双剣を構えて、なおも前進を続ける。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

「スカートめくってみせて!」

 再び呼びかける緑の隣で、茜が笑顔でとんでもない要求をしていた。緑は聞き間違いかと耳を疑ったが、茜なら言いそうなことだとその可能性をすぐに排除する。

「……撃破……殲滅……」

「お兄ちゃん、聞こえてないよ!」

「操られて……意思がないのか?」

 無表情のまま、近づいてくる少女。一気に距離を詰めてきた少女の攻撃を、兄妹は左右に分かれて回避する。少女は振り返って、再び兄妹に近づいてきた。

「織乃!」

「好きにしたら? 少しの間なら、許可するわ」

 返ってきた答えに緑は笑顔で頷く。

「君は! どうして! 戦ってるんだ!」

 連撃を回避することに徹しながら、緑は必死に呼びかける。

「……敵……」

 攻撃は速いが、一撃は軽い。少女がまだ本気を出していないのは明らかだが、話をするにはちょうどいい。

「スカート!」

 背後から接近してスカートに手をかけようとする茜。少女は彼女の動きを完璧に読み、紙一重で回避しつつ、振り向きざまに反撃を加える。

「茜、なにしてるんだ?」

「羞恥心に訴えればいいかなー、って!」

 後方に退避しつつ、茜は兄の質問に答える。

「……殲滅……」

 少女は二本の剣を兄妹に向けて投げつける。今まで以上に鋭く、速い一撃。緑は特別な装飾の小さな盾で受け流し、茜は妄想したふわふわした雲で受け止める。

「聞こえてないなら、聞こえるまで続ける!」

「操られてるなら、恥ずかしいことして解いてあげる!」

 口から出た言葉は全く違うが、兄妹の息はぴったり合っていた。少女は再び剣を生み出すことはなく、武器のない隙を狙って兄妹は左右から接近する。武器はなく、少女を捕らえて無力化しようとする動き。

 少女は兄妹をぎりぎりまで引きつけてから、後方へと軽やかに回避する。織乃や水樹、聖歌らもすぐには追撃できない位置で、視線は兄妹へ。

「……あー……」

 少女は交互に兄弟の顔を見ていた。表情も微かに変化していて、困ったような色がほんの僅かだが見てとれる。

「お兄ちゃん!」

 茜は微笑を浮かべて兄を呼ぶ。緑も妹に小さく頷いてから、再び少女に呼びかけた。

「聞こえてるなら、話を聞いてくれ!」

「スカートめくってみせて!」

 少女は攻撃する意思を見せずに、黙って兄妹を見つめていた。そして数秒の沈黙。反応を待つ兄妹に、少女はようやく反応を返した。

「……あー、もう、面倒くさい。うっさいのよさっきから、操られてるだのスカートめくれだの、あたしは操られてなんかいないしスカートもめくらない」

「……え?」

「あれ?」

 突然の少女の変化に、緑は目を見開き、茜は呆然と少女を見つめる。後ろの三人も驚いた顔で少女を見ていた。

「まったく、根源様がやれっていうからやってたけど、こんなことになるならやってらんないわよ。いい? あたしはあたしの意思でここにいる。あんたたち、影の欠片と融合した人間を倒すためにね」

 少女は気怠げな態度で自身の状況を説明する。言葉は途切れ途切れではなく、はっきりとした声で。緑たちが落ち着くのを待ってから、少女は言葉を続けた。

「影の塊と融合したあたしに、影の欠片と融合したあんたたちは勝てない。あんたたちが小さなマッチの火だとしたら、あたしは山をも焼き尽くす大きな炎。束になったって勝てるわけないんだから、諦めるといいわ」

 笑みを浮かべることもなく、淡々と告げる少女。攻撃する様子は見えないが、構えに隙はなく、この距離では奇襲をしても効果はない。

「話が通じるなら、頼みがある」

「頼み?」

 緑の言葉に、少女は聞き返す。

「君も同じ影と融合した人間なんだよね? 影の根源を倒すため、協力してほしい」

「ふう……あんた、なに言ってるの?」

 少女はため息をついてから、微かな笑みを浮かべて口を開いた。

「いい? あんたたちが小川だとしたら、あたしはその源泉となる大きな湖、そして根源様はとっても広い太平洋なのよ。勝ち目のない戦いをする気はないし、あたしは命令通りあんたたちを倒させてもらうわ。

 それと、あたしとあんたは同じじゃない。あたしはね、影の欠片じゃなくて、影の塊と融合した唯一の、特別な人間なのよ」

「とく、べつ?」

 その言葉に、緑が敏感に反応する。

「聞き捨てならないね。この〈特別〉な欠片の力で、新たな英雄になる俺を差し置いて、特別を名乗るなんて」

「知ってるわよ。それがあんたの欠片の力。でも、あんたは新たな英雄にはなれない。影の塊と融合したあたしの圧倒的な力の前に、ここで果てるんだから。もちろん、後ろの四人もね。ええと、〈翼〉に〈目〉、それと〈妄想〉に〈力〉だったかしら。なかなか強いみたいだけど、所詮は欠片の力。五つ集めて融和したからって、どうせ塊の力には届かないのよ」

「そうかな? 融和の力、甘く見てないか?」

 不敵な笑みを浮かべる緑に、少女は余裕の笑みを浮かべて返す。

「挑発したつもりはないけど、面倒くさいからさっさと始めましょう」

 少女は五人の顔を順番に、ゆっくりと眺める。腰を落とした構えは守りの構えのようでいて、すぐにでも攻撃に転じれるような構え。そして、少女は言った。

「あたしは有倉阿裏奈〈ありくらありな〉。あたしの塊の力、〈光〉であんたたちを消し去ってあげる」


第六話へ
第四話へ

カゲカケラ目次へ
夕暮れの冷風トップへ