「影の兵士とは違う、喋る影ですか」
帰還した三人から報告を受けて、睡蓮はモニター越しに冷静に状況をまとめていた。
「ああ。それに恐ろしく強かったよ。槍の一突きを見せられただけだったけど……」
「そう、ね。私たちが命を懸けたとしても、勝てる相手じゃない」
「なるほど。少なくとも、影の兵士より上位の存在であるのは間違いないですね。兵士を束ねる主、といったところでしょうか」
「主……かあ。言葉遣いもなんか、凄そうな雰囲気だったね」
睡蓮の言葉に水樹が答える。緑も小さく頷いて同意を示すが、織乃は黙ってモニター越しの相手を見つめるだけだった。
「情報は?」
「ないですね」
「そう。じゃ、私は部屋に戻るわ。他に兵士の姿はないんでしょ?」
「はい。今のところは」
織乃は小さく頷いて、そのままさっさと部屋に戻っていった。モニター越しに彼女の後ろ姿を少し眺めてから、残った二人に向けて睡蓮が言う。
「みなさんお疲れのようですし、明日は休日にしましょうか」
「はは、ありがたい提案だけど、自由行動ってことにしてくれないかな? あれだけの相手がいるとわかったんだ。俺ももっと強くならないと」
「あたしは正直、自信をなくしちゃったんだけど……緑、本気なんだよね?」
「もちろん。俺たちの融和もまだまだ高められる。なら、勝てない理由はないさ」
はっきりと言った緑に、水樹は苦笑する。二人を眺める睡蓮は優しく微笑んでいた。
「さすが緑くんですね。水樹ちゃんも自信をなくしてないで、がんばってください」
「そんな気楽に言うんだ、睡蓮さん」
「緑くんの言葉は間違っていないですから。融和が高まれば、きっと勝てますよ」
「……ま、あたしもここまで来て、逃げるつもりはないけどさ」
水樹は笑って答える。遠い目標に自信を失っても、自分がそこまで届かないとは思わない。
「安心しました。あとは、織乃ちゃんですね」
「ふむ。確かに、普段とはちょっと違う気がしたかな?」
「すぐに戻っていっちゃったよね」
「はい。お姉さんにしか話せないこともあるでしょうし、私からも色々試してみますよ。緑くんだと、水樹ちゃんには良くても、織乃ちゃんには逆効果になりそうですし」
「逆効果? どうして?」
「その無自覚がじゃないかな」
微笑み合う二人に、緑は小首を傾げる。
「ふふ、では明日は自由行動にします。なるべく休んでもらいたいですけど、多少の訓練も認めます。ただ、無理はしないでくださいね? 次の戦いは明後日に起こるわけではないのですから」
「了解です」
「緑のことは、あたしが見張ってますね」
報告をまとめるという睡蓮と話を終えて、彼らは並んで部屋に戻ることにした。会話はなく、二人は黙って廊下を歩いていった。
二体の影の兵士との戦いを終えた次の日。訓練を含む自由な行動を認められた、二度目の休日だ。いつものように食堂で朝食をとってから、三人はそれぞれの行動を開始する。織乃はあの場にいなかったが、夕食後に睡蓮から連絡を受けているのを他の二人が目撃している。
「さて、早速訓練を……」
「緑。訓練内容は?」
食事を終えて席を立とうとした緑に、斜向かいに座る水樹が聞いた。織乃は彼女の隣でプリンを口にしながら、二人の話を耳にする。
「ああ、ええと……」
水樹に問われて、緑は簡単に訓練内容を答える。その内容は昨日までやっていた訓練と同じようなものだが、その量に問題があった。
「駄目。一日中訓練するつもり?」
「そのつもりだった」
「あなたね。今日は休みなさいよ。……気持ちはよくわかるけど」
織乃も緑の言葉に同意を示すが、最後に一言、小さな声で付け加えた。
「だったら織乃、二人で説得してみよう」
「お断りよ」
緑の提案を、一瞬たりとも迷う様子を見せずに突っぱねる織乃。
「あのさ、織乃」
そんな織乃をじっと見て、水樹が呼びかける。
「なに?」
「あたし、織乃のことは見張ってなくても大丈夫?」
笑顔で言った水樹に、織乃は肩をすくめて答える。
「大丈夫よ。私も今日は、ゆっくり休むつもりよ。今日は、ね」
「むう……最後の一言、凄く気になるんだけど」
「気にする必要はないわ。それより水樹、今日は緑の監視に集中しなさい。二人きりでいれば彼も無茶はしないでしょう」
織乃の言葉を受けて、水樹は短いツインテールをぴょこんと揺らす。
「ちょっと織乃、意識させないでよ」
「それは緑に? それともあなたに?」
織乃の質問に水樹は無言で答えた。織乃はそんな彼女を横目に見るだけで、黙って最後のプリン一口を口に運ぶ。
「甘いわね。二人にも甘い展開はあるのかしら」
「ちょ、織乃ー」
「織乃自身は興味ないのかな?」
「三角関係は面倒ね。それ以外なら別に構わないわ。そういう気持ちが芽生えればね」
「はいはい、そういう話はおしまい!」
話を盛り上げようとする織乃の様子に、水樹が強引に話を終わらせる。織乃も飽きたのか、席を立って食器を片付け始めた。彼女に続いて緑と水樹も食器を片付ける。施設で受けられる家事のサポートには、食器洗いはあっても食器の片付けはないのである。
「じゃ、私は中にいるから、二人は外でごゆっくり」
「そんなこと言って、こっそり訓練しちゃ駄目だよ織乃」
エントランスで二人を見送る織乃。彼女の目をじっと見て、水樹が忠告する。
「わかってるわ。ああ、でも、途中で飽きて外に出かけて、偶然二人を見かけることもあるかもしれないけど、邪魔はしないで観察するから安心して水樹」
「何の話?」
微笑みながら口にされた水樹の質問には答えず、織乃はもう一人に問う。
「緑は気にする?」
「何の話かな?」
「わからない?」
「断定はできないね」
「それは……そうね、私にも断定はできないわ」
「むう。織乃、今日はやたらと攻めるね。あたしは別に……ま、それで気が紛れるなら少しくらい我慢するけど」
「何の話かしら?」
「何の話だろうね?」
軽い調子で質問に質問を返す二人。緑は小さく肩をすくめてから、さっさと施設の外へ向かうことにした。それに気付いた水樹が慌てて彼を追いかけ、織乃は小さく手を振って二人を見送る。エントランスの扉は自動ドア。大きく頑丈な一枚扉で、影の欠片に反応する特別製だが、基本的な仕組みは従来のものと変わらない。
一人残された織乃が黙って閉じる扉を見ていると、背後のモニターから声が聞こえた。
「織乃ちゃんはいいんですか?」
「見てたの?」
モニター越しに聞こえる声に、彼女は振り返らずに尋ねる。
「はい。施設のモニターはこちらからも操作できるんですよ」
「でしょうね。……まさかとは思うけど」
彼女に声をかけるため、モニターを起動したのは睡蓮本人。それだけで状況を理解するには十分だ。最新鋭のモニター、音もなく電磁波も感じさせず起動することも可能である。
「もちろん。でも、こちらから起動するのは緊急時だけですよ」
「私たちの色恋沙汰を覗くのは緊急なの?」
「色恋沙汰だけでしたら、違いますね」
「どういうこと?」
「それは、ふふ。織乃ちゃんが一番わかってるんじゃないですか? それより、そろそろこっちを見て話してくれません? 寂しいですよ」
織乃は眉をぴくりと動かす。しかし表情は大きく変えずに、冷たい声で返事をした。
「……お断りよ」
振り返ることなく、少しの間を置いてから。
「残念です。でも、みなさんだけで難しいようなら、いつでも私を頼りにしてください。それが私の役目ですから」
「心配無用よ。この問題を解決するのは、私一人で十分だから」
表情を変えないまま、織乃が言った。後ろから声が聞こえてくることはなく、彼女は部屋に戻ろうと振り返る。話が終わりほっとした表情を見せる彼女を、モニター越しに見ているのは微笑む睡蓮。
織乃は無言でモニターの隣にあるパネルを操作し、素早く画面を消してから廊下を歩いていった。
施設の外に出た緑と水樹の二人は、林を抜けた先の小さな湖にいた。前の休日も訪れた湖だが、あのときは三人で今は二人。人数も変われば雰囲気も少し変わる。
「二人きりで外に出るの、初めてだよね。なんか変な感じ」
「訓練は三人一緒だからね。でも、水樹と織乃は夜に二人で会うことも多いんじゃないか?」
「隣同士だし、確かに緑よりは多いけど……あたしは普段より意識しちゃうねって話をしてるんだよ」
湖の周囲をゆっくり歩きながら、二人は並んで会話をする。ここまでも短い会話をすることはあったが、長い話はこれが始めて。理由はもちろん、水樹の口にした言葉にある。
「ふむ。勝手に訓練しないよう監視されてる身としては共感できないけど、理解はできるよ。いつもは睡蓮さんがからかうし、今朝は織乃まで」
「あー、それだけじゃないんだけど……特に深い理由はないから話さなくてもいい?」
「話したくないなら」
そう緑が答えたところで、会話が一旦途切れる。湖の周囲を三分の一くらい進んだ頃、再び口を開いたのは緑だった。
「こういうときは、やっぱり聞いた方がよかったかな?」
「え、あたしは気にしないよ? 初めて会ったときに緑のこと、ちょっと格好いいなって思っただけだから」
「一目惚れ未満?」
「そんなところ」
「だったら俺も水樹のことは可愛いと思ったよ」
「……へえ」
水樹が歩く速度を緩めて立ち止まる。
「どうした?」
緑も同じく足を止めて、もう一人の少女に問いかける。彼女は答えると同時に、再びゆっくりと歩き出した。もちろん緑もすぐに彼女の後を追う。
「織乃のことは?」
「綺麗な女の子かな」
「睡蓮さんは?」
「……意外と子供?」
「ふむふむ」
矢継ぎ早にされる質問に、緑は冷静に答えていく。再び少しの沈黙があって、湖も半分くらいまで進んだ頃。今度口を開いたのは水樹だった。
「緑はもう少し女心を考えましょう」
「え?」
「あたしに可愛いって言っておきながら、あたしの目の前で他の女の子を褒めるなんて……緑はもっと女心を考えましょう」
「いや聞いたのは水樹だよね?」
「そだよ。答えたのは緑だよ」
「それに、最初に勝手に言い出したのも水樹だよね」
「照れた?」
「少し。でもそれよりも……」
緑はほんの少しだけ足を速めて、僅かに水樹より前を歩く。
「格好いいって言われると、妹のことを思い出すね」
「妹……茜ちゃんだっけ?」
緑が声のトーンを変えてきたので、水樹も彼に合わせてトーンを落ち着かせる。
「ああ、妹にもよく言われてたからさ」
「そうなんだ。でも異性と妹じゃ格好いいの意味が……はっ!」
わざとらしく大きな声を出した水樹に、緑は怪訝そうに振り向く。
「そっか。だから緑は妹のことで話を逸らして……そうだよね、影に襲われて二人きり。そして二人とも影の欠片と融合した……なら、そうなるのも当然だよね」
「ちなみに妹は影が来る前からそうだったよ」
「じゃあ生まれつきだ」
緑が何も言わずにいると、水樹がすぐに言葉を続けてきた。
「ところで緑、大事な質問があります」
「なにかな?」
「愛する妹の茜ちゃんに、『大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの!』みたいなことを言われた回数は?」
「回数?」
「あ、大体でいいよ」
「ゼロだね」
「……ん?」
「ゼロ。一回も言われた記憶はないかな」
「幼馴染みっていた? 女の子」
「馴染みってほど親しいのはいなかったよ」
質問の意図がわからないながらも、緑は質問に答えていった。
「ふーん。緑、あたし大きくなったら緑のお嫁さんになるの! 責任、とってよね?」
「スルーしていいか?」
「どうぞ」
どこから突っ込んでいいのかわからず、緑が素直に口にした言葉を即座に認める水樹。そのまま二人はそれ以上の会話をすることなく、気が付けば湖のほとりを一周していた。
一周したことに気付いた二人は微笑み合い、あえて言葉で確認するまでもなく施設へ帰っていくのだった。
その日の夜。二人の様子はいつもと変わらず、織乃も何があったのかは尋ねない。三人でいつものように食事を終えて、エントランスを抜けてそれぞれの自室へ向かう。モニターから睡蓮の声が響いたのは、彼らがエントランスを横切ろうとしたそのときだった。