その人は音もなく椅子から立ち上がると、右手で左肩のあたりにそっと触れてから声を発した。触れた先には根っこのようなものがあるけど、アクセサリーの一種だろうか。
「話には聞いていると思うが、俺は刈霧正五という。砂和里手村を中心に探偵をやっている男だ。それから――」
そっと触れていた先にあったものは、ただの根っこじゃなかった。根っこから生えた葉っぱが一枚、二枚、根っこも少しずつ増えているように見えたけど、増殖しているわけではなくて服の下や背中に隠れていたものが表に出てきただけのようだ。
そっと触れていた先にいたものは、ンレィスたちと同じ触手の一種だった。
「我の名前は氷河〈ひょうが〉。正五とは古いともだちさ」
彼の声は正五さんの硬い雰囲気を中和するように、ふわふわした柔らかい雰囲気だった。
「まあ、今は俺たちの関係はどうでもいい。それより簡単にだが、君たちに頼んでおきたいことを伝えておこう。数日前から俺は神尾塚里湖という生徒会長より依頼を受けて、今回の件の調査をしている。今日もその調査を行う予定なのだが、この合宿・自由施設の内外をあちこち動き回ることになる。その邪魔をするようなことは避けてもらいたい」
「ま、好きな食べ物は何ですかとか、探偵ってどんなことをしてるんですかとか、過去に解決した事件の話とか、そういった雑談や長話に付き合う時間はないってことだね」
正五さんと氷河さんが続けて話す。流れるような言葉の繋がりに、二人がとてもなかよしなのはよく伝わってくる。
「なーんだ、探偵って聞いたから期待したけど、あたしの出番はまだみたいね。ヒロインって、自力で謎を解くのは苦手なものだから、任せたよ!」
「自力で解くタイプのヒロインもいるんじゃないか、ンリァス?」
「いるけど、それはヒーローの鋭刃の役目! 男の人と、男の触手、男キャラに助けてもらうのはクラシックなヒロイン像だけど、クラシックもニュースタイルも全てを制覇するのが、未来のアルティメットヒロインのンリァスちゃんなの!」
ンリァスちゃんは胸を張るように、鋭刃くんの胸の前に浮かんで液体のような体を膨張させていた。
「俺はただの探偵だからな。どんな名探偵でも、調査が完璧でなければ事件は解決できない。解決できるとしたら、それは名探偵風の何かだな」
正五さんは小さく笑って、そっと左肩のあたりにいる氷河さんの葉っぱに触れた。それが合図なのか、氷河さんは正五さんの肩を離れて高く浮かび上がり、上に根っこを向けて天井すれすれの部分を高速浮遊して、どこかへ消えてしまった。
「触手って、あんなに速く動けるんだ」
感心しつつ、尋ねるようにンレィスに視線を向ける。こちらはまだ私の肩の傍で離れてはいない。
「そうですわね。わたくしでも、あれくらいはできますが、全ての触手があの速度で動けるわけではありませんわ。人にも足の速い遅いがありますもの。とても鍛えられた動きですわね」
それから正五さんはちらりと入口を見たあと、小さく頷いてからゆっくりと動き出した。
「じゃあ、俺はこれより調査に戻る。――ああ、そうだ。もし施設の周辺で閃穴を見つけたら、自由に食べても構わない。むしろその方が調査には都合がいい」
食堂の入り口を出る前に正五さんは振り返って、そう言い残していった。彼が食堂を出たのと入れ替わるように、荷物を運び終えたらしい恋凜さんが食堂に入ってくる。
「話は終わったみたいですね。みなさん、どうされますか?」
笑顔の恋凜さんに尋ねられて、私は成ちゃんと顔を見合わせてから答える。
「私と成ちゃんは一通り施設を見回ってみようと思います」
「部屋と温泉の場所くらいは確かめておきたいしね。トイレはわかりやすく左側に見えていたけど」
玄関から入ってすぐの廊下の先に、男女別々のマークが左側にくっついていた。といっても、あれは一階の入り口付近のお手洗いで、これだけ広い施設なら他にもあると思う。
「だったら私もいっしょにいく。温泉の場所には興味があるし、それにあの人、小さい頃だと思うけど、どこかで見たことがある気がしたから、もう一度確認しておきたい」
「砂和里手村の探偵だから、過去の事件の関係で守月神社に訪れることはあっただろうね。彼の専門を考えると、そうだね、会長に尋ねておこうか? ここの電話からなら学校に直接繋げられるから、今の時間なら里湖さんもきっと生徒会にいるはずだし、資料は神尾塚の家にあるから今夜には情報がもらえると思うよ」
鞠帆ちゃんがそう言うと、鋭刃くんがその言葉に答えて口を開いた。彼の提案に鞠帆ちゃんは少しだけ考える仕草を見せたあと、小さくゆっくりと首を振った。
「機会があれば本人に直接聞けばいい。そんな機会もないほどの関係で終わるなら、わざわざ確かめることもない」
「そうか。僕は僕の用件で里湖さんに連絡するから、一階の管理人室にいるよ。名前だけで管理人なんていなくて、教員たちの間では連絡室と通称されている部屋だけどね」
こうしてそれぞれの目的が決まったところで、私たちは早速行動を開始することにした。
「食事の準備もしていますので、しばらくしたら戻ってきてくださいね。みなさんの部屋は一階と二階のそれぞれ一番手前の部屋になっています。迷うことはないと思いますが、もし別々の部屋がいいのでしたら他の部屋の用意もしていますよ」
食堂を出る前にそう伝えてくれた恋凜さんに感謝の言葉を返して、私と成ちゃんと鞠帆ちゃんは食堂の先の廊下の奥へ、管理人室へ向かう鋭刃くんとは廊下で別れて、ンリァスちゃんも彼についていくと思ったのだけど……。
「あ、あたしはこっちね! 施設も見ておきたいし、それに、鋭刃の邪魔もしたくないから」
どうやら彼女も私たちについてくるらしい。三人と三触、合わせて六人触の女の子で、私たちは施設の簡単な探索を始める。
食堂の先の廊下をまっすぐに進むと、何本かの曲がり廊下がある。最初の廊下を左に曲がると男子の部屋へ続く階段があり、そこからお手洗いを挟んで、次の曲がり廊下を左に曲がれば私たち女子の部屋だ。
そして、お手洗いの向かい側の廊下をまっすぐに進むと、さらにいくつかの曲がり廊下が続いている。その奥の方は運動部が練習に使う大きな施設に繋がっているから、私たちにはほぼ用がないところだ。だけど、最初の曲がり廊下を左に曲がった先にあるもの――温泉は私たちにも大事な場所になる。
ちなみに、鋭刃くんが向かったのは食堂から左、入口に戻る廊下だ。その先にも曲がり廊下があって、集会室や管理人室はそのあたりにあるらしい。それからあっちにも階段があって、文化部が使う部屋はその階段を越えた先の二階に揃っている。
といっても、何にでも使える大小さまざまな多目的な部屋があるだけなので、運動部がミーティングに使うことも多いという。
文化部では最もこの合宿・自由施設の利用が多いと噂の、料理部がよく利用しているのが私たちの最初に案内された食堂の奥、今は恋凜さんが使っているはずの広くて本格的な厨房だ。合宿に使える施設ということもあって、大皿じゃないと難しい料理も作りやすいし、火力の強いコンロやオーブンもあるから、とても好評らしい。
けれどさすがに、ピッツァを焼くための専用の窯はない。工程を考えれば、生地の入るオーブンさえあればピッツァは作れると思うけど、材料が同じでもン・ロゥズのピッツァの味をそのままとはいかないだろう。
という話を、施設の中を見て回る間、私たちに教えてくれたのはンリァスちゃんだった。鋭刃くんは生徒会の副会長だから、施設の基本的なことは知っているらしい。
正確には、この施設は神尾塚の所有だから、鋭刃くんが里湖さんと呼ぶ神尾塚会長との関係が影響しているらしいのだけど、そこまで踏み込んだことはンリァスちゃんは話してくれなかった。
「鋭刃と里湖には色々あるんだよ。あたしの口から勝手に話していいことじゃないの。っていっても、神尾塚の家のことだから、砂和里手村でちょっと調べれば少しはわかっちゃうんだけどね」
ンリァスちゃんは楽しそうに液体を揺らめかせて、最後はちょっとだけお茶目な感じに液体を跳ねさせてそう言った。
「そうね。詳しく話すともっと複雑だけど、神尾塚の家に兜の家の一人息子は居候しているような状態。それくらいは、神尾塚の家をちょっと調べればすぐにわかること。案外、学校では知られていないみたいだけど」
彼女の言葉に応えたのは、守月神社の巫女さんだった。
「うん。私は聞いたことないや。成ちゃんは?」
「私もよ。興味がないし、興味があっても会長のことだもの、憧れと畏れで家のことまで調べようとする生徒はいないんじゃないかしら」
「守月神社と神尾塚の家は、昔からの関係があるから、私は一応知っているのだけど、浅からぬ関係ってわけでもないからそれ以上は知らない」
私たちは廊下を歩いて食堂に戻りながら、話を続けていた。部屋の荷物を確認して、あとでお風呂に行く準備はしておいたけれど、温泉のお風呂の中を覗くことはしていない。
食堂に戻ると、鋭刃くんと正五さんの姿があった。氷河さんの姿は見えないけれど、よく見たら正五さんの首筋に植物のような触手が絡みついている。
「普段、氷河は俺の傍に隠れている。必要なときに、氷河が傍にいるとすぐに動けるからな。君たちには、特にその必要もないだろうが」
私の視線に気付いたのか、そしてその視線の意味にも気付いたのか、近付いたところで正五さんは自然と口を開いていた。
「行動範囲の違いから、我と鋭刃は別行動をすることも多いけれどね。我がどうやっても、鋭刃といっしょに空を飛ぶことはできないんだ」
「わたくしなら、やろうと思えばできますわよ。灯も成も、スカートですからおすすめはしませんけど」
どうやってやるのかはわからないけど、ンレィスはできるらしい。けれど彼女の言葉通り、私も成ちゃんもスカートだから今日は遠慮しておこう。
そうして話していると、恋凜さんが料理をカートに乗せて持ってきてくれた。おぼんの上のお皿に乗っているのはピッツァではないけれど、ピッツァみたいな形のお好み焼きだ。
「みなさん、夕食をお持ちしました。それから、周辺の閃穴の場所は正五さんが調べているはずです。触手のみなさんは、氷河さんに案内してもらってください」
「そういうことだね。大体、四つの場所があるんだけど、順番に案内するよ。確か――ンレィスに、月星、ンリァスと三触いるから、我を入れてもちょうどいい数だよ。ま、我ら触手にとって、毎日夕食として閃穴から栄養を吸収する必要はないのだけど、頼むよ」
氷河さんの最後の一言から、どうやらこれも探偵としての調査の一貫らしいことは理解できる。当の探偵本人は何も言わずに、まじまじと運ばれてきたお好み焼きを見つめているから、恋凜さんと氷河さん、一人と一触の言葉からの推察になるのだけれど。
「素晴らしいお好み焼きだ。匂いと、そしてこの形、花見櫓恋凜――普通のピッツァカフェ店員ではないようだが」
「ちなみにクレープも得意ですよ。デザートとしてご用意もできますが、どうしますか?」
「いただこう」
私たちが考える間もなく、正五さんが即答した。もちろん私たちも忘れずに頼んでおいた。
「皮と生クリームだけのシンプルなものですけれどね」
微笑みながら恋凜さんはそう言った。差し出されたお好み焼きを私たちは早速食べてみる。ピッツァと同じ丸い焼き物だけど、作り方は全然違う食べ物だ。中にはエビやタコ、そしてほんの少しのチーズが入っていた。
舌に広がる味は間違いなくお好み焼き。それも普段、家で作れるような市販のお好み焼き粉を使っているように感じるのだけど、お店で出されても違和感のない美味しいお好み焼きだった。
「ふむ。これはクレープにも期待できるな」
恋凜さんは厨房に戻っていて、ンレィスたちはついさっき氷河さんについていって食堂の外に出ていった。今ここに残っているのは、私と成ちゃんと鞠帆ちゃんと鋭刃くん、それから正五さんの五人だけだ。
ちょうどいい機会なので、私たちはお好み焼きを食べ終わった頃にいくつか質問をする。クレープの準備にはそんなに時間はかからないと思うけど、五人分をいっぺんに出すならすぐにというわけにはいかないだろう。
もっとも、恋凜さんがその気になれば、私たちの食べ終わる頃を見計らってタイミングよく出すこともできると思う。それでもすぐに出てこないのは、配慮してくれたのだと思う。
「正五さんは、砂和里手村で探偵をしているんですよね? 普段はどんな事件を解決しているんですか?」
「こんな小さな村じゃ、人探しやペットの犬猫探し、ましてや素行調査なんてあまりないと思うけど」
私と成ちゃんが最初に質問をする。正五さんは質問の途中で答えは決まっているように見えたけど、私たちの質問が終わってから、一呼吸して答えた。
「ああ、確かにそういったことは滅多にない。だが、人やペットは探さないが、触手を探すことは少なくはないな。俺の専門は、触手が関わる事件だからな」
「今回の件もそれというわけね。それが専門なら、守月神社に訪れる可能性もある」
続いて口を開いたのは鞠帆ちゃんだ。質問ではないけれど、聞きたいことの意図は探偵なら察するのは簡単みたいだ。
「直接事件に関わっているわけではないから、長くいたことは滅多にないがな。ただ、それとは別に参拝で神社を訪れることもある。俺は君の姿を何度か見かけているから、君も俺を見たことがあっても不思議はないだろう」
「それなら神尾塚の家とも縁があって然るべきだけど、僕は見た記憶がないね。あの家は広いから、里湖さんだけで会っていて気付かないこともないとは言い切れないけど」
鋭刃くんは訝しむような声で尋ねた。探偵ということに疑いはないにせよ、どこか納得がいっていないらしい。彼の家のことは私もよく知らないから、推定の根拠が正しいかは判断できないのだけど、さっき聞いた話からすると確かに、鞠帆ちゃんが見ていて、鋭刃くんが見ていないというのは変な話だ。
「それなら当然だ。俺が神尾塚里湖――現会長の彼女に直接依頼を受けたのは、今回が初めてだからな。神尾塚の一人娘とは面識こそあったが、依頼は彼女の祖父母や両親からがほとんどだ」
「ほとんど、というとその他は? 里湖さんを除いたら、神尾塚の家には侍女や執事は少しの人数しかいないはずだよ」
「それはもちろん、兜鋭刃――君もよく知っている人物たちからだ。主に、君の両親だな」
「なるほど。それが全てではないのだろうけど、納得したよ」
「ああ、助かる。さすがに全ての依頼主を教えろと言われたら、クレープが冷めてしまうからな」
そもそも、探偵には守秘義務というやつがあるのではないかと思ったけど、それを指摘するのは野暮というものだろう。
話がちょうど終わったところで、恋凜さんがクレープを持ってやってきた。どこにあったのかわからない紙のシートにくるまれた、お店で見かけるような形のクレープには、生クリームだけがたっぷり入っている。
「これはこれで、なかなか壮観ね」
「毎日食べると飽きると思うけどね。生クリームは美味しいけど」
成ちゃんと私はいっしょに一口、正五さんはお好み焼きと同じようにじっと観察してから、一口。鞠帆ちゃんはクレープをちょっとだけ畳んで、大きな一口目で生クリームをたっぷり口に入れた。鋭刃くんはそんな私たちの様子を見てから、最後に一口だ。
「このクレープも最高の味だ。本当に何者だ?」
「私は花見櫓恋凜ですよ。それに探偵なら、直接尋ねて上手く聞き出すか、周囲から調べればよいのではないですか?」
「……ふむ。では、このクレープの作り方と、お好み焼きの作り方を教えてもらいたい」
「そんなことでよろしければ。といっても、特別なことはしていないのですが……」
クレープを食べ終わった正五さんは、恋凜さんから二つの料理の作り方を教わっていた。探偵の記憶力でしっかり記憶に留めていたみたいだけど、いっしょに聞いていた私たちでもわかるくらいに、本当に特別なことは何もしていなかった。
お好み焼きでいえば、お好み焼き粉の袋の裏に書いているような作り方をそのまま、クレープだってちゃんとしたレシピは知らないけど、同じようなものだ。
「レシピ通りに寸分違わず完璧に作れば、これくらいは誰にでもできますよ。食材の違いによって、ちょっとレシピも変わりますが、感覚でいけるでしょう?」
そして最後の締めくくりは、この曖昧な一言。けどそれは確かに真理で、料理とはそういうものだとは思うけど、本当にそれだけであの味が作れるなら大抵の一般家庭料理人は何も苦労しないと思う。
みんながクレープを食べ終わった頃に、ンレィスたちが戻ってきた。
「なかなかの閃穴でしたわね。わたくしが到着したときには、はっきり感じることはできませんでしたが」
「……うん。とても不思議。近付くまで、わかりにくかった」
「あれが今回の事件の要となる閃穴! ンリァスちゃんはわかってるよ。でも食べたからもうぜんぶ解決――ってわけじゃないこともね!」
無口な月星ちゃんも自然と口が開くくらいに、とても良質で美味しい閃穴だったらしい。
「そういうことだね。我も最初は驚いたものだよ。まあ、明日になれば、君たちもわかるだろうさ。……いや、明日を待つ必要もないかな?」
最後の氷河さんの言葉は、何を意味するのかよくわからなかった。けれど、その言葉が冗談ではないことは、正五さんが真剣な顔で私たちを一瞥して、大きく頷いたことで証明された。
「君たちも確かめてみるといい。意味は、それですぐに理解できる」
その一言は私たちの耳によく届いて、強く印象付ける力強い一言だった。