四月 第一章 触手は神の使いじゃありませんわ。


第四話 かわいさ満天、うるやかに


 火曜日の朝は空が少し曇っていた。ふわふわしていそうな真っ白な雲が空を覆って、春の暖かい太陽は隠れてしまっている。おかげで気温もちょっぴり低めだ。

「今日も成ちゃんの手、あったかいね」

「私は普通よ。灯の手が冷たいの」

 そういうわけで、私は成ちゃんと手をつないで通学路を歩いていた。右手で触れる成ちゃんの左手はほんのり暖かくて、これくらいの寒さなら気にならなくなってしまう。

「……灯、どうするの?」

「どうしよっか?」

 歩きながら話すのは、昨日のことを鞠帆ちゃんとどう話すかについてだ。教室で堂々とできる話じゃないし、どこか他の場所で話すのはすぐに決まったけど、中庭は人気で人も多いから教室と変わらないし、そうなると……。

「屋上に呼ぶ?」

「そうね。今は少し寒いけど、昼休みならあったかくなるでしょうし」

 相談は終わったので、私たちは手をつないだまま道を歩き続けて、学校に向かう。朝の挨拶をして教室に入ると、奥の席には鞠帆ちゃんが座っているのが見えた。

 すると、私たちの声に気付いたのか、鞠帆ちゃんが席を立って私たちの方に歩いてきた。

「二人とも、今日のお昼、いっしょにさせてもらう」

 小さく微笑みながらの言葉だった。鞠帆ちゃんからの提案――というには有無を言わせない口調だけど――に、私たちの答えは決まっている。

「うん。私たちからも、頼もうと思ってたんだ。場所は……」

「それは、そのときに決めればいい。……ね?」

 鞠帆ちゃんの視線は私たちから離れて、教室にいる他のクラスメイトに向けられた。私たちは鞠帆ちゃんの言いたいことを察して、小さく頷いておく。いないとは思うけど、鞠帆ちゃんは待ち伏せや盗み聞きを心配しているみたいだ。

「それじゃ、また昼休みに」

 鞠帆ちゃんはそれだけ言い残すと、彼女の席に戻っていった。私たちもそれぞれの席につこうとするけれど、その前に千草ちゃんが声をかけてくる。

「いきなりお昼のお誘いなんて、どうしたの?」

「……誘いにしては、少し気になる言い回し」

 いっしょにいた晴虎ちゃんも口を開く。二人とも不思議そうな表情を顔に浮かべているけれど、本気で聞いている声色ではないので、私たちは簡単に答えを返す。

「昨日、守月神社で守月さんに会ったのよ」

「うん。それでね、ちょっと話して、その続きだと思う」

 むしろ続きじゃなかったら、私たちにとっても不思議だから困ってしまう。

「ふーん。どんな話か気になるけど、ま、いっか」

 千草ちゃんがそう言うと、晴虎ちゃんも頷いて私たちの間ではその話はおしまいになった。

「……美少女四天王が接触したぞ」

「そのようだな。……梅、どう見る?」

 遠くの方ではぼそぼそと話をする男子が二人――当然、春川くんと夏山くんだ――いたけれど、あの様子なら待ち伏せや盗み聞きの心配はいらない。彼らがそういうことをするなら、堂々と宣言してから行うことは昔からよく知っているのだ。

 体育のない平和な午前中の授業が終わって、昼休みになった。

「色倉さん、大岩さん。こっち。ついてきて」

「あ、うん。成ちゃん、いこ?」

「そうね。……ま、気を付ける必要はなさそうね」

 成ちゃんは教室の中を一瞥してから、お弁当を片手についてきた。もちろん私と鞠帆ちゃんもお弁当の準備は万端だ。

 鞠帆ちゃんは廊下を少し警戒するように歩いていたけれど、本気で警戒しているわけではなさそうで、すぐに速度を上げて歩いていった。上げたといっても、ゆっくり歩いていたのが普通の速度になっただけなので、私たちも自然とついていける速度だ。

 そして鞠帆ちゃんの案内で辿り着いたのは、私たちの教室のある校舎の一番上、広く綺麗に整備された屋上だった。

「やっぱり、ここになるわよね」

「……人はいない。今のうちに、先に話を終わらせましょう」

 屋上には屋上を囲む柵の他に、いくつかのベンチが置かれている。出入り口から少し離れたベンチに鞠帆ちゃんが腰かけると、私たちはその向かいのベンチに腰を下ろした。

「話は、少し月星様から聞きました。それで、あなたたちにはいくつか確認をしたい」

「私もあまり詳しくないよ?」

 私は小さく笑って、すぐさま答えを返す。ンレィスや触手については、聞かれても困るだけの質問はいっぱいある。

「大丈夫。そこまで踏み込んだ内容は聞かない」

 鞠帆ちゃんは表情を変えずにそう答えた。対して私が頷くと、彼女は再び静かに口を開いた。

「色倉灯さん。あなたは、どこでンレィスさんと出会ったの? 月星様のように、神樹の下に降臨なされたわけではないでしょう?」

「出会ったのはン・ロゥズだよ」

「あの、ピッツァカフェの? ……そう。ということは、そこの店員――店長さんも知っている?」

「恋凜さん。店長の人は、花見櫓恋凜さんだよ。鞠帆ちゃんはどこで知ったの?」

 私の返した質問に、鞠帆ちゃんはすぐには答えなかった。けれどそれは答えたくないからではなくて、考えることがあって遅れただけみたいだった。

「守月神社には昔から触手様のことは伝わっている。でも、お父さんやお母さんは見えないから、月星様の姿は見ていない。降臨された証明は簡単だったから、伝えを元にすぐに信じてもらえた」

「お伝えってどんな内容なの?」

「……それは」

 私が気軽に聞いた質問に、鞠帆ちゃんは私を見つめたまま少し黙ってしまった。

「あなたに話せることじゃない。……ただ、閃穴については知っておいてほしいことがある。あなたはただの食事としか思っていないみたいだけど、あれは放置しておくと危険なもの。だから、もしものときがあればいつでも相談して。守月神社の巫女として、手伝いは厭わない」

 鞠帆ちゃんの声は冷たくて優しいものだった。私にはまだ実感がわかない話だけど、きっと今の鞠帆ちゃんにそれを聞いても答えてはくれない。私と鞠帆ちゃんの関係は、守月神社のお伝えも話してもらえない程度の仲なのだ。

「うん。ありがとう。でも、できれば巫女としてじゃなく、ともだちとしてが嬉しいな」

 だから、私ははっきりとそう言った。私はなんでもかんでも運命を信じる人じゃないけど、鞠帆ちゃんとこのまま利害関係だけで付き合うことになるのは寂しいと思ったから。

「……別に、可能性は否定しない。それより、そろそろお昼を食べないと、お昼休みが終わると思う」

「そうね。話してる間に、灯の分も用意しておいたわ。といっても、蓋を開けたり飲み物の準備をしただけだけど」

 鞠帆ちゃんが言うと、成ちゃんもそれに続いた。話している間に合図と手が伸びてきたのは気付いていたから、私も笑顔でそれに頷く。

 そうして早速お昼ごはんを食べようと、お弁当に箸を伸ばしたとき、屋上に繋がる扉が開く音がした。

「おや、先客がいるとは珍しいね。少し気になる雰囲気を感じるし、僕がいたら困るかい?」

「あ、鋭刃くん」

「副会長?」

 私と成ちゃんが同時に声を響かせた。お弁当を片手に、扉を開けて入ってきたのは兜鋭刃〈かぶと えいじん〉くんだった。クラスメイトだから昔から知っていて、みんなに頼りにされているから、私たちもときどき話したことがある男子だ。

 筋骨隆々というわけではないけれど、引き締まった体をしていて、スポーツも得意で成績も優秀。まさに文武両道という言葉がぴったりな彼だけど、それでもいつも「僕なんてまだまだだよ」と返すのがいつものパターンだ。これは謙遜というわけじゃなくて、鋭刃くんは本当にそう思っているらしい。

 私たちもそこまで親しくないから、詳しく理由を尋ねたことはないけれど……。砂和里手学校に通う生徒なら、きっと彼女と比べているのだろうとみんなが推測するだろう。

「話はもう終わった。むしろ、邪魔だというなら私は別の場所で食べてもいい。少し、時間が心配になるけれど」

 優しさなのかよくわからない鞠帆ちゃんの言葉に、鋭刃くんはすぐさま首を振る。

「大切な食事の時間を減らすわけにはいかないね。ここは僕にとってお気に入りの場所だけど、景色が見られるなら何も問題はないさ。ここからなら、東の湖とその先の山がよく見えて……と。失礼」

 鋭刃くんは小さく肩をすくめて歩き出すと、私たちから離れたベンチに腰を下ろした。言いかけた言葉が示したままに、鋭刃くんのいる場所からの景色はとてもよさそうだった。ベンチがあるのは屋上の中で少し高い場所で、東の先のフェンスは他より少し広くなっている場所――滅多にこない私たちには一目ではわからないベストポイントだ。

 それから私たちはもくもくとお弁当を口に運んで、残りの昼休みを過ごした。私も成ちゃんもごはんのときはあまり喋らないタイプだからいつも通りだけど、今日は鞠帆ちゃんもいるのでちょっといつもとは違う。

 彼女のお弁当は私たちのよりも少し大きくて、豪華な感じだった。教室でも見たことはあるけど、こうして近くで見ると、どんな中身なのか気になってくる。

 私の視線に気付いたのか、鞠帆ちゃんはちらりと視線を向けてきたけれど、視線でも声でも咎める行動は何もしてこなかった。

 だからって、じっと見ていたら私の食事が進まないし、そんなに長い時間を見ていたわけではないけれど……。彼女が口に運ぶおにぎりの海苔がぱりぱりしていたのは印象的だった。特別な包み方をしているわけじゃなさそうだし、お弁当の容器の質が違うのかもしれない。

 なかよくなったら絶対に聞いておかないと。私がそう決めた頃には、昼休みはもう終わる直前だった。

 放課後。

 私と成ちゃんはまっすぐに家に帰らず、ン・ロゥズを訪れることにした。成ちゃんといっしょにまだいっていないのもあったし、昼休みに鞠帆ちゃんから聞いた話も気になる。本人に直接聞くなんてまだできないし、頼みの綱は恋凜さんだ。

「いらっしゃいませ。……あ。お好きな席にどうぞ」

 迎えてくれたポニーテールの店員さんは、私の顔を見て少し驚いたような顔をしてから、お決まり――だと思う――の挨拶を続けた。

「メニューは……。それとも、恋凜さんに用?」

「どっちもでお願いします。成ちゃんもブレンドでいい?」

「ええ。まずは灯と同じのがいいわ」

 ブレンドコーヒーを二つと、恋凜さんとのお話を注文して、私たちは奥のカウンター席に腰を下ろした。店員さんが奥に向かう背中を見ながら、成ちゃんが呟く。

「……随分とフランクな店員さんね。私たちとそう背は変わらないみたいだし、アルバイトかしら?」

「そうかもね。恋凜さんのご家族か親戚かも」

 今日も彼女は恋凜さんのことを、恋凜さんと呼んでいた。店長と呼ぶよりそっちで呼ぶということは、単なる店長と店員の関係ではないのかもしれない。

 しばらくすると、コーヒーカップを二つ乗せたトレイを片手に、恋凜さんがカウンターの裏にやってきた。

「ブレンドコーヒー、お二つです。……お話は、おともだちの方も一口飲んでからでもよろしいですか?」

「はい。急ぐ話じゃないですから」

 私が答えるのと、成ちゃんがコーヒーを手にするのはほぼ同時だった。成ちゃんはコーヒーの香りをゆっくりと確かめてから、静かに息を吹きかけてコーヒーを口に入れる。

「……へえ。なかなかじゃない。場所が場所なら、人気になっていてもおかしくないわ」

 成ちゃんが素直な感想を口にすると、恋凜さんは笑顔を見せた。

「ありがとうございます。既にお聞きかとは思いますが、私は花見櫓恋凜です」

「大岩成よ。……年上だから、敬語の方がいいかしら?」

 成ちゃんは恋凜さんの顔を見て、直接そう尋ねた。

「ふふ。楽な方でよろしいですよ。灯さんにはお願いもしていますし、そのおともだちで、触手が見える方なのですから」

 微笑みながら恋凜さんはそう言ったけれど、私たちはその言葉に目を見合わせていた。

「恋凜さん、なんで知ってるんですか?」

「さて、どうしてでしょう」

 にっこりする恋凜さんに、私も成ちゃんも不思議な顔を浮かべたけれど、答えてくれる気はなさそうだったので今は置いておくことにした。

「お話なんですけど、閃穴って危ないものなんですか?」

「ああ、確か、昨日の夕方に守月神社の娘巫女さんと出会っていましたね。鞠帆さん、と言いましたっけ。彼女から聞いたんですね」

 恋凜さんがどこまで知っているのかとても気になるけれど、話しぶりから、どこまでも知っているわけではなさそうだ。

「確かに、閃穴は放っておくとどんどん大きくなって世界の法則を崩してしまいます。例えば、そうですね……大気のバランスが崩れて、酸素が減ったら人が生きていくには困ってしまうでしょう? そのようなことが、世界の様々なものに対して起こります。

 けれど、この村には数触の触手がいるので、普段は彼女たちが食べるだけでも問題は起きませんよ。オオカミもいっぱいいますから、エゾシカも増えないんです」

 それも一種の食物連鎖のようなものだと、恋凜さんは例を出して教えてくれた。オオカミのいた時代はもちろん知らないけれど、それでエゾシカが増えたことくらいは私も成ちゃんも知っている。

「ただ、この村は世界に数十か所はある、閃穴の発生しやすい場所ですから、特別なときもあります。そのときは少し困ったことが起こるかもしれませんが、古くから知られていることなので心配は無用ですよ」

 そう言い切ると、恋凜さんは大きく綺麗に笑ってみせた。

「この村のこと、詳しいんですね、恋凜さん」

「詳しくなければお店は作りませんよ」

 微笑む恋凜さんに、コーヒーを一口喉に流してから成ちゃんが言った。

「それで、あなたは諜報活動でもしてるの? それともただの好奇心?」

「どちらだと思います?」

 全く動じることなく、質問に質問で返されて成ちゃんは考え込んだ。

「……どっちでもない?」

「正解です」

 成ちゃんの答えに、恋凜さんは頷いてから、小さく笑って言葉を続けた。

「といっても、趣味として色々調べてはいますから、好奇心がないわけではありませんが……。ふふ。こう見えて、お姉さんには色々秘密があるんですよ」

「そうね、見た目だけならただの綺麗なお姉さんだけど……」

「お話したら、秘密がない人には見えないよね?」

 私と成ちゃんの共通する見解に、恋凜さんは一瞬の間をおいてから、苦笑を浮かべた。そもそも、出会いからして彼女とは普通じゃなかったのだ。

「悪いことはしていませんよ?」

「わかってます」

「うん。悪い人には見えないわ」

 今度の一致は彼女にも予想通りだったのか、恋凜さんは綺麗な微笑みを返した。女の子にも、お姉さんにも、色々な秘密はあるものだ。どんな秘密かは気になるけれど、尋ねる前に私たちの前には温かいコーヒーがある。

 その温かいコーヒーを、冷める前に飲むのが今の私たちが一番にやらないといけないことだ。

 私がカップを手に持ってコーヒーを口に運ぶと、成ちゃんももう一口、コーヒーを喉に流し込んでいた。

 そうしてしばらくコーヒーの香りと味を楽しんで、十数分の時間が経った頃。ン・ロゥズの扉が開く音がした。誰かがやってきたらしいと振り向くと、そこにいたのは、私の胸あたりの高さでふわふわ浮いたンレィスだった。

「帰ってこないと思ったら、やっぱりここにいましたのね」

 そのままふよふよ店内を浮かんで移動するンレィスに、私は大事なことを尋ねる。

「ンレィス、鍵は? どうやって出てきたの?」

「書斎には暖炉がありますわよね。そこの煙突から登って出てきましたわ」

「ああ、そういえば……」

 両親がよく使っている書斎には、確かに薪をくべる煉瓦の暖炉があった。お父さんとお母さんの二人の趣味だと聞いたことはあるけど、居間や私の部屋ではエアコンが暖房として活躍しているから、すっかり忘れていた。

「不思議よね。エアコンだけでも北海道では珍しいのに、同じくらいに珍しい暖炉まであるなんて。あと、こたつもあれば完璧ね」

「エアコンにこたつは暑くて溶けちゃうよ」

 私と成ちゃんが話している間に、ンレィスは私たちの間をふわふわ抜けてカウンターの上に触手を下ろした。

「お久しぶりですわ、恋凜。今日はずっとカウンターにいるんですの?」

「ここにいると、カフェのマスターらしいでしょう? ンレィスさんもコーヒー、飲んでみますか?」

「遠慮しておきますわ。水分なら吸収できないこともないですがが、味はわかりませんもの」

「ふふ。そうでしたね。つい」

 恋凜さんの笑顔は優しくて、ンレィスの態度も柔らかくてのびのびしている。二人――ンレィスは一触だけど――のこうした会話を聞くのは初めてだけど、なかよしみたいだ。

「でしたら、今夜にもう一度こちらにこられると、ンレィスさんでも満足のお食事ができると思いますよ。私の見立てでは、月が出る頃には増え始めるかと」

「よろしいんですの?」

 ンレィスが触手をもたげて恋凜さんに尋ねる。どうやら大事な確認のようだ。

「はい。ン・ロゥズが中心になるかはわかりませんが、すぐ近くに閃穴が出現する気配があります。きっと他の触手さんも惹かれてやってくると思いますので、灯さんと成さんも是非ごいっしょに」

 途中で言葉は私と成ちゃんに向けられた。私は散歩のルートを変えるだけだから即答で頷けたけど、成ちゃんはほんの少しだけ迷ってから、私の方を一目見て、頷いた。

 ンレィスはそんな私たちの反応を確認してから、恋凜さんに答えた。

「二人もよろしいようですし、是非そうさせてもらいますわ」

「ええ、お待ちしています。それにしても……」

 恋凜さんはンレィスから視線を逸らして、私をまっすぐに見つめて言った。

「灯さんは、触手さんの気持ちがよくおわかりですね。まだンレィスさんとは出会って日も浅いですのに、とてもよく彼女のことを理解しているようです」

「そうなんですか? いつもンレィスに直接確かめてるわけじゃないですし、合っているのか自信はないんですけど」

 答えながらンレィスをじっと見る。彼女はわかりやすく触手を大きく縦に動かした。それが頷きを示すのは、私でなくてもわかりそうな動きだ。

「わたくしのことなら、そうですわね。いちいち声にしなくてもいいので楽ですわ。他の触手はわかりませんが、わたくしとの相性はよいみたいですわ。灯が触手を認識したのは、わたくしが初めてなのですよね?」

 ンレィスの確認に、今度は私が大きく頷く。初めてじゃなかったら、一目見た瞬間に気付いていないはずがない。触手という言葉は知っていたけど、触手という生き物を知ったのはンレィスとの出会いがあったからだ。

「灯は触手が見えて、この村には他にも触手がいます。溢れるほどにいるわけではないとはいえ、初めてがわたくしだったことには、きっと何か惹かれ合うものがあったのでしょう。触手と人の関係とは、そういうものですわ」

 ンレィスの声は、明るくて優しくて、そしてほんのり嬉しそうな声だった。

「ふーん……じゃあ、私にも惹かれ合う何かがいるのかしら?」

「さあ、わたくしにはわかりませんわ」

 成ちゃんの疑問に、ンレィスから触手を振られた恋凜さんが代わりに答える。

「見えるだけの人間も多いですから、成さんにも惹かれ合う触手がいるとは限りませんね。実際に、幼い頃から見えているのにどの触手ともなかよしにならない方もいらっしゃいます」

「なれないじゃなくて、ですか?」

 恋凜さんの言葉がちょっと気になったので、私はすぐに尋ねてみた。その言い方だと、問題があるのは……。

「ええ、彼女は少々特別でして。ンレィスさんともお会いになったことがあるのですが……」

「わたくしでは、彼女といっしょにいるには相応しくないですわ」

「そのようでしたね。ふふ」

 当時のことを思い出しているのか、恋凜さんが笑う。その彼女というのがどんな人なのかは気になるけど、そろそろコーヒーも飲み終わる頃だ。詳しいことはまた今度、早ければ今夜にでも聞く機会はあると思う。

 私と成ちゃん、それからンレィスはピッツァカフェをあとにして、夜の散歩の時間まで家でゆっくり過ごすことにした。

 夜。

 夕日が落ちて月が見え始めた頃、私たちはン・ロゥズに向けて散歩を始めていた。ンレィスの希望で、砂和里手湖の周囲を巡る遊歩道をゆっくり歩いていく。

「いい月が出ていますわね。湖にも輝いていますわ」

 ンレィスは私の肩のあたりで、くるくる触手を伸ばして楽しそうにしている。

「閃穴はもう感じられてるの?」

「いえ、恋凜の言っていたものはまだですわ。普段通りのものであれば、そこかしこにありますが……。普段通りですわよ」

 ン・ロゥズまでは、もう少し距離がある。恋凜さんの予告した『すぐ近く』というには遠い距離だ。

「明らかに増え始めているのでしたら、そろそろ感じられるはずですわ。恋凜なら間違いありませんもの」

 ンレィスは恋凜さんを信頼しているようだ。月を反射して輝く湖を横目に、私たちはン・ロゥズを目指す。ピッツァカフェが夜も開いているのかどうかは知らないけれど、恋凜さんならきっとそこにいるはずだ。

 ピッツァを焼く窯から出る煙を逃がす、大きな煙突が暗闇の中でもはっきり認識できるようになった頃、闇を裂くような大きな声が響いた。

「あなたたち、ここから先は危険よ!」

 それは女の子の声だったけど、明らかに頭上から聞こえてきて、体の中に直接響くような声だった。

「誰?」

 声の聞こえた方向に目を向けても、暗闇に紛れて場所は特定できない。それに、高い建物の少ない砂和里手村といっても、電柱はいっぱいある。ンレィスや月星ちゃんの大きさを考えると、その裏に隠れていたら夜に見つけるのは困難だ。

「あたし? ふふん、よくぞ聞いてくれました!」

 けれど探すまでもなく、彼女は一本の電柱の裏から飛び出してきた。ふわりと浮かんで電柱の上に到達すると、月の光を遮るものはなくなってその姿がぼんやりと浮かびあがる。

 電柱の上には、透き通るような液体の姿があった。月の光を反射して輝くその体は、とても触手とは思えない姿だったけれど、ンレィスに驚いた様子はなかった。

 その液体は丸く小さく電柱の上に収まっていたけど、それも少しの間。ポーズを決めるように液体が姿を変えて、何本かの細長い液体が伸ばされていく。格好よくてかわいい、どこかアニメのヒロインを思わせるような決めポーズを彼女は見せていた。

「かわいさ満天、うるやかに、テンタクル・ンリァス!」

 彼女の頭上に伸ばした一本の液体触手が弾けて、きらきらと月の光を乱反射しながら周囲に散っていく。

 テンタクルというのは英語で触手のことだから、ンリァスというのが彼女の名前だろう。

「この先には危ない光がたくさん湧き出しているの! あなたたちは危ないから、すぐにこの場を離れて……あれ?」

 そこでようやく、ンリァスちゃんは私の肩にいるンレィスに気付いたらしい。

「わたくしがいれば、問題ないですわよ?」

「……名前は?」

 少しの間があって、ンリァスちゃんは名前を聞いた。

「ンレィスですわ」

「ふーん……。初めて見る触手ね。あたしが知らないなんて、新人さんだね!」

「そうなりますの?」

 ンレィスは触手をかしげる。私にも彼女の知識はよくわからないから、ンレィスがこの村にきて日が浅いのは確かだけど、その前の根拠はよくわからない。

「え? たぶん? あたしが知らない触手もいると思うよ。ところで……」

 ンリァスちゃんは二本の触手を私と成ちゃんにそっと向ける。液体だから随分便利に形を変えられるみたいだ。私たちはその動きの意味を察して、口を開く。

「私は色倉灯だよ」

「成。大岩成よ」

 伸ばした液体が弾けて、小さくなった触手をうんうんと頷くように上下させて、ンリァスちゃんは答えた。

「灯に成だね! 改めて、あたしはンリァス! それから、そこの路地の陰に隠れてるのが鋭刃! さあ、今こそヒーローとしての自己紹介をするときだよ!」

 ンリァスちゃんの触手の向けられた先には、私たちもよく知る男の子がいた。

「……やあ、兜鋭刃だ。……ええと、ごめん、やっぱり知り合いにそれは、恥ずかしいよ」

「むう……。ちょっと頼りないけど、これが鋭刃!」

 ンリァスちゃんは不満そうだったけれど、それ以上は何も言わずに触手を小さく上に動かしていた。あの動き、肩をすくめるような感じなのかな?

「君たちもいるなら心強いよ。閃穴のことは理解しているよね?」

「うん。恋凜さんに聞いて……あ、恋凜さんっていうのは……」

「花見櫓恋凜さん。彼女のことは僕も知っているさ。とにかく、そちらのンレィスさんも気付いていると思うけど、この周辺に閃穴が増え始めている。今夜中に片付ければ大きなことが起こることはないにせよ、放置していたら小さなことなら起こるかもしれない。色々聞きたいこともあるかもしれないが、まずは食事の時間としようじゃないか」

「ンレィスちゃんはあっちね! あたしはこっちから食べ尽くすから!」

「わかりましたわ。……ごちそうですわね」

 私にはどのあたりに閃穴があるのかわからないけど、ンレィスに促されて歩き出すと、彼女は素早く色んな方向に触手を伸ばしていた。別の方向にいったンリァスちゃんも同じように触手を伸ばしていたから、やはりたくさんの閃穴があるみたいだ。

 そのまましばらく歩いて、ンリァスちゃんや鋭刃くんと合流したのはン・ロゥズの前だった。そこには私たちを待っていたように、恋凜さんがいつものロングスカート姿で立っていた。

 彼女は私と鋭刃くんの顔を見て、それからンレィスとンリァスちゃん、もちろん成ちゃんの顔も見てから、全てを理解したように頷いた。

「お味はいかがでしたか? 実はまだもう少し、ン・ロゥズの屋根の上にあるのですが……。灯さん、成さん、そこから少し左です」

 恋凜さんに言われるままに移動すると、確かに屋根の上に閃穴が見えた。それは前に見たのとは比べ物にならないくらいに大きな閃穴で、正面から見た屋根の半分を覆い尽くすほどのものだった。

「大きいですわね。まあ、食べられないことはありませんが……」

「ンリァスちゃんはヒロインの使命として、いつでもいけるよ! ほんのちょっとだけ休ませてくれたら、フルパワーで一瞬で片付けちゃうよ!」

 ンレィスとンリァスちゃんが続けて答える。

「わかりました。でしたら……」

 何かを言いかけた恋凜さんの声が、急に吹いた強い風で遮られた。それは閃穴のある方向とは別の方向、月の輝くところから吹いた風で、私は腕で目を覆って風を遮る。

「……え? 危ない、灯!」

「成ちゃん?」

 同じく風よけしていると思った成ちゃんが、声とともに私をかばうように動いたのが見えた。彼女の視線の先は風が吹いてくる方向で、そこに私も視線を向けると……。

「あ。おっきいね」

「暢気にしてないで、しゃがんで!」

 どこから飛んできたのか、飛来してきたのは私の体の何倍もの大きさの岩だった。風は巻き上がるように渦巻いているから、すぐには私のところには届かないけど、走って逃げられる速度じゃないのは直感でわかった。

 もちろん、しゃがんだところで逃げられないし、大きな岩をかわしたとしてもあの風に巻き込まれたらただじゃすまない。

「成ちゃん、体重は?」

「灯よりは重いと思うわ!」

「二人合わせても、あの岩より軽いよね?」

「……そ、そんなこと、いいから!」

 成ちゃんは私の腕をつかんだけれど、そのまま引き倒したり、くっついてしゃがんだりする時間はなさそうだった。

「灯、大丈夫ですわ。あの程度の岩ならわたくしが……」

 落ち着いた声で、そう言ってンレィスが触手を伸ばしたけれど、その言葉は最後まで聞こえなかった。正確には、ンレィスがそこで言葉を止める出来事が起きたのだ。

「よっ、と」

 どこかから伸びてきた太い触手が、私たちに向かって飛んでくる大きな岩を受け止めて、そのまま突風を薙ぎ払っていた。

 触手の伸びてきた場所は、恋凜さんのいる場所だ。そしてその触手が伸びていたのは、恋凜さんのスカートの中だった。私の視線に気付いた恋凜さんはにこっと笑うと、スカートの後ろから伸ばした触手でン・ロゥズの屋根の上にある閃穴を突き刺して、吸収していた。あんなに大きな閃穴でも、触手に光が吸われていくのは一瞬だった。

 伸ばされた二本の太くて長い触手は、するすると恋凜さんのスカートの中に吸い込まれて消えていった。受け止められた大きな岩は、近くの広場に転がされている。

「怪我はないですか? お二触はお腹がいっぱいのようでしたので、私がいただいてしまいましたが……、今夜一番の大物だったかもしれませんね」

 その一言とともに見せた恋凜さんの笑顔は、今までに見た彼女の笑顔の中で一番の大きさだった。


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