「ンレィスっていうのね、この変な生き物」
戻ってきた成ちゃんにンレィスを紹介した。
「変な生き物とは失礼ですわね。わたくしは変な生き物という生き物ではありませんわ」
成ちゃんはクッションに腰を下ろして、ンレィスをじっと見つめている。
「そうなの? 灯」
「私もまだよくわかってないんだ」
「ふーん。あ、私は成。大岩成よ。よろしくね、ンレィス」
「よろしくですわ。……いきなり逃げた割には、冷静ですわね」
私が微笑んで成ちゃんを見つめると、成ちゃんはちらりと私を見て、ンレィスに視線を戻すといつもの調子で答えた。
「だって、驚いたんだもの。ちょっと時間が必要だっただけよ」
本当にちょっとの時間、廊下を走る音が聞こえなくなってすぐに、廊下を歩く音が聞こえてきて、成ちゃんは閉めておいた扉を開けて私の部屋に戻ってきた。
「まあ、いいですわ。あなたにもわたくしが見えるのは、間違いなく理解できましたし」
ンレィスも平然としているけれど、いつもの調子なのかはまだよくわからない。
「見える?」
「ええ。わたくしから話してもよろしいですが、灯にも聞きたいことがあるのではありませんの?」
「そうね。灯、教えて」
予想通りに私に振られて、想定通りに成ちゃんに頼まれたので、私はあの日からの出来事を成ちゃんに教えてあげる。
それは『ピッツァカフェ ン・ロゥズ』で恋凜さんに頼まれた、土曜日から始まるいくつかの出来事だった。
ン・ロゥズを出る前に、ンレィスは私の肩に乗るようにふわりと浮かんできた。そのまま肩に飛び乗るような動きだったけれど、肩には触れずにその傍で彼女は静止する。
「ンレィス、空飛べるの?」
恋凜さんはもう奥に戻っているから、私は本人――人ではないけれど――に直接聞いた。
「飛べはしませんわ。浮けるだけですの。わたくしたち触手の多くには足がありませんから、自在に浮いて移動できるのが大人の証ですわ」
「ふーん。そうなんだ」
ンレィスを肩に乗せるようにして、私はン・ロゥズから家へと戻る。ンレィスが声をかけたのは、歩き出してすぐのことだった。
「わたくしの食事のことは、先に伝えておいた方がいいですわね」
「うん。それだと助かるけど、ここで?」
「外でないと困りますわ。そうですわね……しばらく歩いてみてくださる? 近付いたらもう一度声をかけますわ」
何のことかは気になったけれど、質問はせずに言われるままに歩き続けた。
「そこですわ」
一分以上は歩いたところで、ンレィスが一本の触手を伸ばしてある場所を指し示した。そこは道の中央から少し横にずれた場所で、私の目線より少し下にある何もない場所だった。
「そうですわね、そこから一歩左に、それから少し腰を落として……どうです?」
ンレィスに言われるままに移動すると、彼女が触手を伸ばしている先端からほんのちょっと先のところに、光り輝く穴のようなものが見えた。
なんだろうと尋ねる前に、ンレィスが触手を伸ばして穴を埋めてしまう。すると、光は彼女の触手に吸われるように瞬時に消えてしまった。
「灯にはあの方向からしか見えないでしょうけれど、わたくしたちには方向に関係なく感知できるんですの。閃穴と言いまして、あれがわたくしたちの栄養になりますわ。散歩のついでにでも食べられますから、灯が意識することはあまりないと思いますわ」
私が頷くと、ンレィスは続けてこう言った。
「それから、わたくしたちは全ての人間に見えるわけではありませんわ。砂和里手村の住人なら他よりは多いかもしれませんが、大抵の人間には見えませんの。ですから、外で会話をするときは気を付けるように、と恋凜から絶対に伝えてくださいと言われましたわ」
「へえ……不思議だね」
出会ったときに、見えていると話していたのは覚えているけれど、想像していたよりも珍しいことだったらしい。
「けど、そうなると……」
「どうしましたの?」
「成ちゃんに紹介できるのかなって」
疑問の動きを見せたンレィスに、成ちゃんのことを話したのは家についてからだった。向こう側から歩いている人が見えたので、恋凜さんに言われた通りに気を付けることにしたのだ。
それから、細かいことを色々と教わって、月曜日の今日、成ちゃんをンレィスに紹介することにした。
見えなかったらどうしようと色々話し合っていたけれど、その話し合いが活かされることはなく、成ちゃんにもンレィスの姿が見えたのは嬉しかった。
私が一通りの経緯を成ちゃんに伝えると、彼女はンレィスを凝視しながらひとつ尋ねた。
「女の子なのね。まさかとは思うけど、灯にそういう気持ちがあるの?」
そういう気持ちってどういう気持ちだろう、と口を挟む間もなく、ンレィスが即答してしまう。
「わたくしは触手ですのよ? 触手と人は全く違う生物です。あなたたちも、いくら魅力的だからといってオスの鳥に恋をするようなことはないでしょう? ごく稀にそういう人もいるかもしれませんが、同じく触手にとっても例外中の例外ですわ」
「そう。なら何も問題はないわ」
成ちゃんは大きく笑ってンレィスに握手を求めた。ンレィスはちらりと私を気にする仕草を見せたものの、私の返事を待たずに成ちゃんに握手触手を伸ばしていた。微笑ましい光景に、つい笑みがこぼれてしまう。
「それで、成ちゃん。今日はこれからンレィスを連れて散歩にいこうと思うんだけど、いっしょにきてくれる?」
「もちろんよ。灯といっしょにいられるんだもの、断る理由はないわ」
「そっか。ありがと」
私に向けられたンレィスの何か言いたそうな視線というか、触手の動きが少し気になったけれど、何も言わなかったので置いておくことにした。
「わたくしも、一人で閃穴を探しにいくことはできるのですけれど……この村の地理には詳しくないですから。恋凜のカフェ周辺以外は、まだほとんどいったことがありませんわ」
「でも、この村の生まれなんだよね?」
「一応、そういうことにはなっていますわね。ただ、子供の頃の触手は動く卵のようなものですから、よく覚えていませんわ」
動く卵の姿を想像したけれど、転がる鶏の卵の姿が浮かぶだけだった。多分、ああいう感じじゃないとは思うけど、想像するのは難しい姿だ。
「動く卵から、動く触手の塊になるのね。殻、割ったの?」
「卵は比喩ですから、割っていない……と思いますわ。あなたたちだって、子供の頃に初めて立ったときの記憶なんてないでしょう?」
「私はないけど、灯に初めて会った日のことは覚えてるわ」
「私もそんな記憶はないよ。成ちゃんと初めて会ったのって、三歳くらいの頃だったよね」
私と成ちゃんが微笑み合っていると、またンレィスが何か言いたそうな触手の動きを見せていた。気になることがあるなら言えばいいと思うのだけど、私とンレィスはまだそこまでなかよくなってはいない。私だって深く聞くのは躊躇われるし、なかよくなるまでゆっくり信頼を深めていこう。
それから少し、一言二言の言葉を交わしてから、私たちは揃って散歩に出かけることにした。四月の始まりだと北海道はまだ肌寒いけれど、防寒装備ばっちりでも寒さを感じる冬に比べれば気軽に出かけられる時期だ。なんたって、ちょっと厚めのコート一枚でも息は白くならないのだから。
散歩のルートはあらかじめ、昨日の夜に決めておいた。ここから最初に出かけるなら、やっぱりあの場所がいいだろう。
西にある学校とは反対の東側に歩き出したところで、成ちゃんも行き先を察したのか私に歩調を合わせて隣を歩くようになった。私たちの家がある住宅地から東には駅やホテルもあるけれど、この時間から散歩にいくには少し遠すぎる。
私たちの目的地は、その駅やホテルの前にある守月神社だ。とても大きな敷地で、周囲を広い神域の森に囲まれた、村に住む人なら誰もが知っている歴史ある神社である。
神域といっても、勝手に森に入ったのが見つかっても怒られることはないのだけれど、村の周囲の山に比べれば狭いとはいえ木々が生い茂る森林だから、迷いやすい場所だ。私と成ちゃんも小さい頃にいっしょにいって、迷って泣きそうになったのを覚えている。成ちゃんがいたからいいけれど、私一人だったら絶対に泣いて途方に暮れていたと思う。
もちろん、大きくなったからといって、その森林を突き抜けて境内に入るようにしているわけではない。神社には鳥居をくぐって入るものだと、大きくなる間に私たちも学んだのだ。
神域の森を横目に、守月神社の境内を目指して南側に回り込む。守月神社に長い階段はないけれど、住宅地からも駅からも南に回り込む必要があって、その遠回りが長い階段などの役目を果たしているそう。
途中でンレィスは閃穴を食べることもなく、黙って散歩に集中していた。お腹が空いていないのか、見つからないだけなのかはわからないけど、聞くのは帰ってからでも遅くない。
「灯といっしょにいくのは、初詣以来ね」
「そうだね。家から遠くはないけれど、学校とは反対方向だし」
駅に用事があるときはついでに寄りやすい場所にあるけど、私たちが駅に用事があることは滅多にない。二人とも熱心な神社好きというわけでもないし、初詣を入れても年に数回しか守月神社にはいっていない。
守月神社の鳥居が見えてきた。ほんの少し興味深そうな動きをしたンレィスを横目に、鳥居の前まで近付いていく。
私と成ちゃんが鳥居の下で立ち止まって一礼すると、ンレィスも触手を動かして礼のような仕草をする。十本ぐらいは動いていたから、一礼十回分になるのだろうか。
私たちは鳥居をくぐって続く長い参道をさらに歩く。このまま本殿を目指してもいいけど、参拝ではなくて散歩だから横道に逸れてもいいかもしれない。
参道から外れた別の道に入ると、見えてくるのは神樹とされている守月神社で一番大きな樹木だ。ずっと昔からここに生えていて、樹齢は百年でも二百年でも足りないらしいけれど、守月神社はもっと昔からあって創建との関係はない。
その神樹の下に、一人の女の子が立っていた。巫女装束を着た、巫女さん鞠帆ちゃんだ。ここは彼女の実家だから、境内にいるのは不思議ではないけれど、こうして遭遇するのはとても珍しい。
彼女は神樹を見上げているようで、私たちに気付いた様子はない。
「鞠帆ちゃーん!」
私は大きく手を振って遠くから声をかける。せっかく会えたのだから、それにンレィスが閃穴を見つけたらお食事をするかもしれないし、挨拶は礼儀だ。
私の声に気付いて、鞠帆ちゃんがこちらを向いた。その間も私たちは神樹の傍にいる彼女のところへ歩いていく。
「色倉灯さん。それに大岩成さん。それから……」
鞠帆ちゃんは私と成ちゃんの名前を呼んで、自然にンレィスの方も見た気がした。
「……色倉さん」
気がするではなく、やっぱりンレィスを見ている。私の名前を呼んではいるけれど、鞠帆ちゃんの視線はンレィスに向いている。
「あなた、いつどこでそちらの神の使いと?」
「神の使い?」
気のせいだったのかもしれないと思い直すには、はっきりとンレィスの方を見続けている。
「なんですの?」
ンレィスが思わずといった様子で声を出すと、鞠帆ちゃんは驚いた顔で彼女を見た。
「触手様がお声を! そんな、いえ、しかしこの直接響くような声――神の使い以外の何者でも……」
そこまで言って鞠帆ちゃんは言葉を止めた。黙ってンレィスを見つめて、大きく深呼吸をしてから再び口を開く。
「あなたはまだ知らないのかもしれませんが、触手様は神の使いです。さあ、その姿をお見せになってください!」
鞠帆ちゃんは私の方を一瞥してから、さきほど見上げていた神樹の上に声を飛ばす。すると、葉っぱをかきわけるように神樹の上から何かが下りてきた。
幹の表面を伝うように下りてきたそれは、何本もの触手を樹木にくっつけてそろそろと下りてくる。幹にくっつく足のような触手の上には、ンレィスよりも太くてしっかりした、蛇のような触手が一本生えている。
「見なさい、この神聖な姿を! 触手様は神の使いなのです!」
伸ばした腕と手のひらでその触手――様?――を示して、鞠帆ちゃんは得意気な顔をする。こんな表情の鞠帆ちゃんを見るのは初めてだけど、それ以上に言葉の意味が気になってしまう。
「神の使いだったの? ンレィスって」
「さあ、私もよく知らないけど……」
成ちゃんの問いに答えられる知識は私にはない。鞠帆ちゃんは守月神社の巫女さんだし、彼女が神の使いと言うなら、もしかすると本当に神の使いなのかもしれない。
「わたくしはただの触手ですわ。神の使いではありません」
私たちの中で、答えられるのはンレィス本人だけ。私はしばらく彼女に任せることにして、話の内容に耳を傾けた。
「触手様は神の使いです。例外などありません。もしや、記憶喪失! 確かに、神の使いといっても全能ではありませんから、そういうこともあるのかもしれませんが……」
「違いますわ」
「……そもそも、なぜあなたは喋るのです? 触手様は言葉もなく、私たちに寄りそう神の使いのはずです」
確かに鞠帆ちゃんの言う通り、上から降りてきた触手は樹木にくっついたまま言葉は発していない。くっついていない方の触手はこちらに向いていて、興味を向けているのはわかるけれど、その様子も、姿形もンレィスとは違う部分がある。
「それは……ええと、そうですわね。わたくしにもよくわかりませんが、少しお時間、よろしいですか?」
「もちろんです」
ンレィスが尋ねると、鞠帆ちゃんは声が被さりそうな速度で即答した。なんだかかわいい反応だけど、視線は私の肩を離れたンレィスに向ける。ふわふわふよふよと素早く向かう先は、もちろん神樹に足をくっつけている触手の傍だ。
「よろしいですの? 聞こえていますわよね?」
こくり、と神樹にくっつく触手が動いたような気がした。そこからは私たちには聞こえない声で、ンレィスは何かを伝えているみたいだ。二触の動きからそれは間違いないと思うのだけど、彼女が一方的に伝えているだけなのか、会話になっているのかまではわからない。
「……なるほど。終わりましたわ」
最後の一言ははっきりと聞こえて、ンレィスはこちらを振り向いておしまいを告げた。最後の一言は、わざと大きく聞こえるようにして合図にしたのだろう。
「神の使い同士の会話……、いえ、触手様は本来喋らないはず、でも何かを伝え合っていたのは私にもわかります。何かまだ、私の知らない真実がそこにはあるのですね」
「……そうですわね」
鞠帆ちゃんの言葉と優しい笑顔に、ンレィスは一瞬の間をおいて答えた。動揺した様子も迷っている様子もなく、けれどちょっとだけ言いにくい雰囲気に勢いを削がれたらしい。
「彼女、無口で恥ずかしがり屋なだけですわよ?」
私は特に言うこともないので黙っている。鞠帆ちゃんも同じように沈黙したあと、ちらりと私の方を見て呟いた。
「色倉さん。そちらの触手は邪神の使いかもしれません。気を付けなさい」
「じゃしん?」
「なんでもいいですけれど、わたくしはこちらの神社で閃穴をいただく許可ももらいました。少しごはんにしますわ」
ンレィスはするすると神樹の上の方に上っていく。
「あっ! 邪神の使いに食べさせるものはこの神社には……いえ、しかし、閃穴の処理をしてくれるのなら、私たちにとって悪いことでは……」
鞠帆ちゃんといっしょにいた触手も、鞠帆ちゃんを制止するように触手を動かしている。そのおかげもあってか鞠帆ちゃんは強くは言わなかったけれど、代わりに残された私たちはちょっと気まずい。
神樹の上の方を気にしていたように見える、神樹にくっつく触手は、その様子に気付いてか、それともンレィスに何かを言われていたからか、そろそろと神樹から離れて鞠帆ちゃんの近くまで浮き寄っていく。
「……鞠帆」
その声は小さな声だったけど、私の耳にも聞こえた。もちろん私や成ちゃんの声ではなくて、ンレィスの声とも違う、涼やかでかわいらしい声だった。
「触手様のお声が! はい、なんでしょう」
聞こえた場所から、鞠帆ちゃんも誰の声かに迷うことはなかったみたいだ。
「えっと、その……私、月星〈つきほし〉」
「月星――月星様でいいですか?」
「……鞠帆、様、いらない」
「そう言われましても、月星様、私はまだ彼女の言葉を信じたわけではありません。こうしてお話になられているのですから、無口で恥ずかしがり屋というのは信じてもいいですが」
鞠帆ちゃんの言葉に、月星ちゃんの動きは微笑んでいるように感じた。その間に上からンレィスも戻ってきて、話は聞こえていたのか私たちに声で促す。
「少しは進展があったみたいですわね。わたくしも気になりますが、まずは彼女たちだけの時間が必要ですわ。いきますわよ、灯」
「あ、うん。成ちゃん、いこ?」
「そうね。あの様子じゃ……明日、学校で詳しく聞きましょう」
守月鞠帆ちゃんはクラスメイトだ。成ちゃんの言葉通り、私たちにはまたすぐに会う機会がある。明日だとちょっと早すぎるかもしれないけれど、様子を確かめるだけでもしておこう。
私たちは守月神社をあとにする。成ちゃんといっしょの、ンレィスを連れた初めての散歩は驚きの連続だったけど、それと同時にとても楽しいものだった。
「これをきっかけに、鞠帆ちゃんともなかよくなれるかな?」
「灯がなかよくなりたいなら、きっとなれるわよ」
微笑んでくれた成ちゃんといっしょに――もちろん私の肩に乗るように浮かんでいるンレィスもいっしょに――私は守月神社からの帰り道を歩いていった。