皐月が終わって
その日は穏やかな風の吹く、暖かい日だった。何かの起こる気配を感じながらも、何も起こらずに五月は過ぎ去って、今日は水無月の初日。放課後の部活にもすっかり慣れ、私たちは何も言わずとも部室に集まっていた。
「いらっしゃい。皆さん、揃ったようですね」
私とまもり、美々奈が部室に入ると、中には妹たちの他に霞先生が座っていた。妹たちの担任だから、おそらく一緒に来たのだろう。
「霞先生、どうしたんですか?」
「顧問が部室にいてはおかしいですか? 私がいると困るような爛れた行為を毎日しているわけでもないのでしょう?」
「当然です」
「当たり前です。誰が礼人なんかと!」
「私は別にいいけど、節度や順序というものがあります」
「わたくしたちはその気になれば家でいくらでもできますし……」
翠の言葉に同意を示すように、鈴も深く頷く。実際にはやっていないというフォローはこの場にいる五人には不要だろう。
「さて、本題に入りましょう。六月になったことですし、そろそろ活動報告を聞いておこうかと思いまして。『若き神と仲良くなる部』としての活動は順調ですか?」
「順調、といえば順調です」
ユズリやヒサヤ、ホカゼのことをどう話したらよいのかわからず、私は曖昧に答える。霞先輩でもさすがに、全員が若き神と知り合いだったというのは、すぐに信じてくれないような気がした。
「そうですか。では、私は戻りますね」
「え?」
それだけ言って、席を立った霞先生に思わず声をあげる。
「まだ何かありますか? 心配しなくてもいいですよ。礼人くんが嘘をついていないことは、わかっていますから」
「ええと、説明はこれだけでも十分なんですか?」
「はい。では、また気が向いたときに」
霞先生は軽く礼をしてから、しとやかに部室を出ていった。
美々奈のお誘い
霞先生が帰って少しして、美々奈が口を開いた。
「礼人。今日の部活終わり、時間ある?」
「ああ。特に予定はない」
普段通り妹たちと一緒に帰宅して、ゆっくり時間を過ごすだけだから、夕食までに帰れば問題はない。
「その、少し付き合って欲しいんだけど、いいかな?」
「……ふむ」
誤解を生みやすい言葉だが、彼女のそれが誤解でないことは私たちの誰もがよくわかっている。妹たちやまもりは無言で、私たちの会話をじっと見守っていた。
「わかった。私に断る理由はない」
「うん。ありがとう」
美々奈は微笑んで、答えた。この誘いの目的は、ほぼ間違いなくあのことだと思う。ある程度の用意した答えはあるが、それを使えるかどうかはまた別の話。場の流れと、彼女の様子次第で柔軟に対応するべきだろう。
「ではお兄様、わたくしたちは遠くから見守っていますね」
「私は構わないが、美々奈は?」
「見守るだけなら、私も歓迎する」
「だそうだ」
歓迎という言葉にちょっと違和感を覚えたが、見守られている中ではやれることに限りがあるので、さほど気にすることではないだろう。
「それじゃあ私は鈴と翠を見守ってるね。何があっても飛び出さないように気をつけておくから、安心してね」
「失礼ですね。わたくしたちもそれくらいの節度は……」
まもりの言葉に翠は反論しようとするが、言い切る前に目を逸らした。私にもその気持ちはよくわかる。例え相手を認めていても、互いに認め合っていても、大事な妹が異性とキスなどをするとなったら、きっと私も見守るだけでは済まないだろう。
「それで、美々奈。すぐに行った方がいいのか?」
部活が終わってからといっても、基本的に活動内容は部室で気ままに過ごすだけ。妹たちやまもりもついてくるのだし、このまま終わらせても問題はない。
「そうしたいところだけど、一度家に戻ってからにしない? 制服じゃなくて、私服で」
「なるほど。了解した」
時間はまだ十分にある。私たちは待ち合わせ場所を決めてから、学校の外で別れて帰宅することにした。
思い出の公園
待ち合わせ場所は、ホカゼと出会ったあの公園だった。私の家からは十分、美々奈の家からは十五分とやや遠いが、美々奈の家は学校から南に五分ほど。往復で考えると私たちは三十分、美々奈は二十分となるのでこちらの方が到着は遅くなる。
特に時間の指定はなかったので、私は着替えを終えたらすぐに家を出た。スノーホワイトのTシャツに白のスラックスというラフな姿ではあるが、別れ際に気楽な格好でと言われたから、これで問題ないはずだ。
妹たちとは一緒に家を出て、まもりの家の前で別れて時間の調整。鈴は水色のフリルブラウスに同色のフレアスカートという可愛らしい姿で。翠も鈴とお揃いの服装だが、色はブラウスが薄黄色、スカートが薄緑色と色が違う。髪型や靴下、靴の色やデザインなどもそれぞれの好みが出ていて、二人ともよく似合っている。
ちなみにまもりは薄赤色のTシャツに茜色のカーディガンを重ね、下は灰色のショートパンツという、とても動きやすそうな格好をしていた。ソックスもくるぶしソックスで、準備万端だ。普段の服装と変わりないとはいえ、鈴と翠がちょっとだけ心配である。
公園に着くと、美々奈がブランコを揺らして待っていた。私の姿に気付くと、小さく揺れるブランコから飛び降りてこちらへ駆け寄ってくる。
アズールブルーのワンピースに、紅葉色のりぼんがアクセントとして胸のあたりについているシンプルな服装。ロングツインテールを纏めるりぼんはいつもの青緑だが、気のせいか普段よりも色が深いように感じられる。
ユズリを紹介したときの帰り際に、美々奈の私服姿を見かけたことはあるが、こうしてじっくり見るのは初めてだ。印象の変化に少しだけ見蕩れてしまう。
「待ったか?」
しかし、あまりじろじろ見るのも失礼かと思い、私は早速本題に入る。
「ちょっとだけ。でも、予定通りだから」
「そうか」
ならばこれ以上、この会話を続ける必要はないだろう。待つのを楽しみたかったにしては短すぎるような気もするから、心の準備に必要な時間といったところだろうか。
「私がここでホカゼと初めて出会ったことは、覚えてるよね?」
「ああ。本人から直接聞いたからな」
「うん。それでね、肝心の話なんだけど……」
「ああ」
私は軽く返事をしながらも、心の準備を整える。
「場所、移そうと思うの。二人きりになりたい」
「移す?」
公園から別の場所へ。意味は伝わるが、意図がわからない。二人きり――妹たちの見守る中では困るというのなら、少々雰囲気は壊れるが、今から伝えればいいだけのはずだ。
「そう。――ホカゼ、お願い」
「任せてよ。礼人くん、じっとしてるといい」
突風とともに聞こえた若き風の神の声。風が私たちの周りを包み込むように吹き、美々奈は私の手をしっかりと握っていた。若き神の力――それがどれほどのことを起こせるのかは、ユズリと出会ったあの日からよく知っている。私はホカゼの忠告通り、抵抗せずにじっとしていることにした。
神聖なる密室
そこは室内だった。ホカゼの風は私たちを一瞬のうちに遠くまで運んだらしい。それだけなら予想通りではあったが、風が運ぶなら外だろうと思っていたので、私は少し驚いていた。
しかし、彼女の力ならそれくらいできても不思議ではない。私はまず、この場所がどこかを確かめることにした。木造の広い部屋。どこかで、いや、私にとってはとても見覚えのある場所だった。
「ええっと、ホカゼ、ここは?」
「和神神社の拝殿の中、で間違いないな?」
どこに運ばれるかまでは詳しく打ち合わせしていなかったらしい美々奈に、私が代わりに答える。同じ様式のどこか遠くの神社という可能性もなくはないが、両親に聞いた話ではここの様式は特別で、他とは微妙に違うという。どこがどう違うのかも気になって聞いたことがあるので、記憶違いがなければ合っているはずだ。
「正解だよ。近場の密室といえば、ここがちょうど良かったからね」
どこからかホカゼの声が聞こえてきた。部屋の中に気配はないから、おそらく風に乗せて声を届けているのだろう。
「……さて、それじゃあボクは外を見張ってるよ。美々奈。時間はあるけど、無駄にはしないようにね」
「うん。ありがとう、ホカゼ」
美々奈は若き風の神に感謝をしてから、私の方を向いた。手はまだ握られたままなので彼女の顔は近く、見つめられると照れてしまう。だが、ここで目を背けるようなことはしてはいけないと思い、私はじっと彼女の目を見つめ返した。
「ごめんね。急にこんなことして。でも、これくらいしないと、届かないような気がしたから」
微笑む美々奈の顔に照れはない。決意、という点では私より彼女の方が勝るようだ。
「私の話、何のことかは想像ついてると思うけど……」
握っていた手を離して、美々奈は私に背を向ける。ほんの少しだけ歩いたところで振り向いて、言葉を続ける。
「多分、礼人の想像通り。でも、その前に、もう一度はっきりと伝えさせてほしい。手紙じゃなくて、私の声で、あなたに向けて」
私は頷いて、彼女の言葉を待つ。
「湖守礼人さん。ずっとあなたのことが好きでした。心から愛しています」
それはいつか受け取った、手紙の文面と全く同じ台詞。そしてこれから彼女が言うであろう台詞は、手紙にはなかった言葉。
「私はあなたの恋人になりたい。返事、聞かせてくれますか?」
「わかった」
私は即答する。突然のことならこうはいかないだろうが、彼女の気持ちは手紙ですでに伝えられたもの。返事なら、既に用意してある。
返答
「すまないが、その想いには答えられない」
美々奈の目をしっかりと見て、私は自らの気持ちを伝える。
「私には大事な二人の妹がいる。両親を亡くす前からも、亡くしてからも、ずっと大切にしている妹たちだ。二人もいずれ、それぞれの人生を歩み、今のようにいつも一緒にはいられなくなるかもしれない。しかし、それまでは……二人が私を兄として慕ってくれている間は、私は鈴と翠の兄でいたい。だから、誰かと付き合うなんて余裕は、今の私にはない。兄として、解決してやらないといけない問題も残っている」
なんて不器用で、身勝手な断り方だろうとは理解している。しかし、今の私にはこう答えるしかなかった。私にとっては鈴と翠が一番で、それ以外のことに深く心を傾ける余裕はないのだから。
「そっか。ねえ、礼人。目、つむってくれる?」
「……ああ」
私は言われるままに、目をつむる。美々奈の気配が少しずつ、こちらに近づいてくるのがわかった。私はじっと待って、彼女のしたいようにさせる。
数秒後、私のすぐ近くで美々奈が言葉を発した。
「目、開けていいよ」
「……ああ」
私はやや拍子抜けした声とともに、目を開けた。目の前には美々奈の顔が、もう少し動けば唇が触れ合うのではないかという距離まで近づいていた。
「最後にキスだけでも……なんて、私がやると思った?」
美々奈は微笑みながら、呆れたような声でそう言った。
「違ったか?」
この流れからするとそうくるものだとばかり思っていたので、私は聞き返す。
「やっぱり。だろうと思って、ちょっとからかってみただけ。言っておくけど私、こんな形でファーストキスを奪うなんて、ずるい真似はしないから」
「私が奪われる側なのか」
「そう。私が奪う側。だって、妹さんたちにとって大事なお兄ちゃんの時間を奪おうとしてるんだから、当然」
「いや、しかし」
私はさっき断ったはずだが、と言葉を継ぐ暇も与えずに、美々奈は言った。
「黙ってて、礼人。私は小学生の頃からずっとあなたのことを好きだった。そう、手紙に書いたのは忘れちゃった? あなたがどれほど妹のことを大切にしているのかも、よく知ってるって書いてたよね。だからその、今回は断られるだろうなというのは、予想してたこと。確かに、少しはショック受けたけど、覚悟の上だったから」
私は何かを尋ねたい気持ちになったが、黙っててと言われたので黙ることにした。
「だから、ね。私は待たせてもらうことにする。あなたが兄としてだけでなく、一人の男性として生きたいと思えるようになる日まで。そのために、できる限りの協力もする」
「いいのか?」
いつになるのかわからない。少なくとも数か月で済むことではないだろう。一年や二年どころか、もっとかかるかもしれない。
「告白する勇気がないまま、遠くから見ているだけだった頃に比べれば。同じ部活で一緒にいられる今なら、それくらい。でも、礼人が嫌だっていうのなら、考え直すけど」
そこまで言って言葉を区切り、美々奈は目を細める。そして悪戯っぽい笑みとともに、はっきりと言ってくれた。
「その場合は、一生独身でいる覚悟を決めたも同然だと思うから、気をつけてね。礼人みたいな、自分を省みないほどのシスコンを好きになってくれる稀有な女の子なんて、探してもそうそう見つからないだろうから」
「反論はないが、油断は禁物だと言っておこう」
可能性という点で言えば、美々奈以外に好かれる可能性もゼロではないし、私から好きになる可能性ならそれよりも遥かに高い。今すぐに、ということはないにしても。
「もちろん。最大の強敵がいる中で、油断なんかできない」
数秒の沈黙のあと、私たちのは互いに笑い声をあげた。返事をしたら、こういう和やかな雰囲気にはならないと思っていたが、これもまたいいものだと思う。何となく、問題を先延ばしにしているだけのような気もするが、今の私たちの関係にはそれがちょうどいいのだろう。ここで全てを決めるより、時間をかけてじっくり決めていった方が、きっと全てが上手くいく。今はまだぼんやりとでしかないが、私にはそんな気がした。
密室への侵入者
「甘酸っぱい青春、あたしにもそんな人がいたらなあ」
ひとしきり笑い終えたあと、どこからかそんな声が聞こえてきた。部屋の中であるのは間違いないが、どこから聞こえたのかはよくわからない。ただ、その声の主に聞き覚えはあった。
「ヒサヤ?」
「うん。よっと、これで見える?」
拝殿の奥、そこに水を払って唐突にヒサヤが現れた。
「いつから?」
「最初から……と言いたいところだけど、二人がここへ来てからかな。まもりに頼まれてこっそり侵入していたんだけど、礼人は幸せ者だね」
「救出に、というわけではなさそうだな」
美々奈を見ると、彼女は首を横に振って答えた。ヒサヤの登場は予定外だったようだ。
「万が一、礼人が美々奈に襲いかかろうとしたら止めて、とは頼まれたけど……基本は連絡役かな」
「じゃあ、まもりも見てたのか?」
「うん」
言って、ヒサヤは右手に小さな水の鏡を形成する。丸い手鏡のような水鏡。そこに写っていたまもりは、軽く手を振って挨拶をしていた。
「これぞ私の真の力。……あれ、まもりに見せたのも初めてなのに、驚かない?」
「自分の行動を忘れたか?」
確かにこれを見るのは初めてだが、ヒサヤは昔から若き神の力で色々と悪戯をしていたから、この程度で驚くことはない。
「それより、鈴と翠も見ていたのか?」
「最初はそのつもりだったんだけど……今はちょっと面白いことになってるから、まもりから礼人たちにも見せてあげてって言われたんだ。いやー、二人があまりにも甘酸っぱいことをしているから、ちょっと遅れちゃったけど」
ヒサヤは両手を広げて、大きな水鏡を作りだす。四角い水の鏡はどんどん大きくなり、最終的には映画のスクリーンのようなサイズになっていた。私たちは拝殿の入り口の方まで下がり、完成するまでに見やすい位置に移動する。
水のスクリーンが揺らめき、完全に形が固まったところで、映像が写し出される。そこにぼんやりと写ったのは、鈴と翠、二人の妹がホカゼと対峙する姿だった。
「ちょっと待ってね、もう少しで音声の準備も整うから……」
スピーカーができる様子はないが、ヒサヤはスクリーンの裏で何かをしているようだった。私はその間に拝殿の扉に手をかけて開けようとしてみたが、扉はびくともしない。拝殿に鍵はついていないのに開かない。しかしこの状況から、答えは簡単に推測できた。
「ホカゼが封じてる。彼女が開けない限り、ここは密室。もっとも……」
「あたしがその気になれば出してあげられるけどね。それより、音声の準備できたよー」
「……なんで時間かかったんだ?」
いま聞こえるのは風の音だけ。妹たちの声が聞こえる前に、私はヒサヤに尋ねてみた。まもりも見ていて、彼女との連絡もとれていたということは、私たちの音声を伝える準備は既に整っていたはずだ。
「映像や音声は水を介して伝えてるんだけど、まもりの傍とここにしかなかったから、量が少なかったんだよね。その増幅にかかる時間。外にいればすぐなんだけど、あたしはここにいるからさ。ほら見て、画質も上がってるでしょ?」
「本当だ」
「なるほど」
美々奈が驚きの声をあげ、私も納得して頷く。確かに、先ほどまではぼんやりとしか写っていなかったスクリーンには、鮮明な妹たちの可愛らしい姿が写っていた。まるで直接見ているかのような、とても鮮明な映像である。
「ふふ、これぞ若き水の神の力。完璧に映像や音声を伝える脅威の性能! ただし、近距離限定! 時間さえあれば立体映像だって……」
「もういいヒサヤ」
妹たちの声が聞こえてきたので、私はヒサヤの解説を止めた。何だか不満そうな顔をしていたので、彼女が覚えていたらまた今度にでも聞いてやるとしよう。
風の守り
「ホカゼさん。この風、止めてください」
「お兄ちゃんがそこにいるのはわかってる」
両手を広げて前に立つ翠に、彼女の後ろでホカゼを鋭く睨みつける鈴の声が聞こえてきた。ホカゼの周りに渦巻く風が広がり、二人が拝殿に近づくのを防いでいるらしい。
「そうはいかないね。ボクには時間を作る役目がある」
時間を作る役目というのは美々奈が頼んだもの。私は隣の美々奈を見て、声をかける。
「用件は済んだんだよな?」
「そうだけど……すぐに止めてもいいの?」
「いや……少し様子を見よう」
美々奈に言われて、私は考え直す。私たちは外で起こっている状況を詳しく把握できていない。まもりの言った、面白いことの意味もわかっていない今、私たちから動くのは得策ではない。
「なら、力尽くで突破させてもらいます。お姉様、ここはわたくしにお任せください」
「だめ。お兄ちゃんを助けるのは私」
鈴と翠は別々に、ホカゼの出す風に立ち向かおうとする。しかし、この風はただの風ではない。若き風の神の生み出した風だ。力尽くでどうにかなるものではないだろう。
「元陸上部の本気……見せて……!」
「速さなら、スピードスケートの方が……」
「……そんなの、所詮氷上の話でしょう?」
「関係……ない!」
喧嘩しながらも必死に越えようとする妹たちだが、ホカゼの風の前にはほとんど足が進んでいないように見えた。
「無駄だよ。ボクの風は、その程度では破れないさ」
横から吹いた風が翠の体を揺らし、バランスを崩して転びそうになる。
「翠っ!」
「ちょっと、さすがにワープ機能はないって!」
慌てて水のスクリーンに飛びかかった私を、スクリーンを突き抜けて出てきたヒサヤが受け止める。そのまま私の体を押し出して、一瞬のうちに私は元の位置に戻されていた。少々抵抗はしてみたのだが、ヒサヤの力の前には無力だった。
「これが若き神の力。あたしの胸の感触に脱力した可能性もあるけど」
「……うん」
気のない返事をする美々奈。私もヒサヤには何も言わず、スクリーンに視線を戻した。
和解と協力
バランスを崩し、風に運ばれて倒れそうになった翠。彼女を受け止めたのは、他でもない私のもう一人の妹、鈴だった。
「翠、大丈夫?」
「あ、ありがとうございます。お姉様」
正面から抱きとめられる形となった翠は、そのままの体勢で少し顔をあげて、姉に対して感謝の言葉を口にする。
「翠は妹だから」
照れもせずに、じっと翠の顔を見つめて、鈴はそう言った。
「そう、ですね……お姉様、私はもう大丈夫です」
振り返って再び風に立ち向かおうとする翠の手を、鈴が掴む。
「なんですかお姉様? 邪魔をしている暇があるなら……」
振り向いて不満を口にする翠に、鈴は頭を振って答えた。
「違う。翠、一人で行っても無駄」
「言ってくれますね。お姉様なら大丈夫だと?」
「それも違う。私一人でも、無理だから」
妹たちの視線が交錯する。そしてすぐ、二人の顔には微笑が浮かんでいた。
「お姉様、わたくしは謝りませんよ」
「こっちこそ。そもそも、謝るにしても数が多すぎる」
「では、一時休戦といきますか?」
「生ぬるい」
「わかりました。仲直りとしましょう」
「うん。それじゃ、二人で行こう」
鈴は翠の手を一旦離して、再び握りなおす。鈴の右手と、翠の左手。二人一緒に歩きやすい形に。
「お兄様。いま行きますからね!」
「待ってて、お兄ちゃん!」
両手を繋いだ二人の妹は、ホカゼの風の中を少しずつ進んでいく。横や後ろから吹く風で崩れた体勢も、もう一方が支えることですぐに立て直される。
「さすがだね。ボクの力に対抗するなんて……若き火の神と一緒に暮らしているからこそってところかな」
「そんなの知りません。わたくしたちはただ、お兄様のところに行きたいだけ」
「妹として、お兄ちゃんの大事な場面は、見届ける」
語気を強める妹たちの背後に、揺らめく炎が立ち上るように――いや、実際に炎が立ち上っていた。よく見ると画面の端っこ、遠くの方にユズリの姿が写っている。
「ユズリ……」
妹たちの手助けをしてくれているのだろうか。少しでも早く辿り着けるように、気付かれない範囲で。
「あれは演出だね。あたしが見せてること、気付いたみたい」
「……ユズリ」
うちの若き火の神は何をしているんだ。画面の端っこのユズリがウインクしたのが見えた。妹たちがより魅力的になるのは嬉しくないわけではないが、最後のは余計だ。
見せかけの炎とともに妹たちは前進して、ついにはホカゼのいる場所に辿り着いた。拝殿の扉まではもう少しだ。
「通してくれますね?」
「仕方ないね」
鈴と翠が拝殿の扉の前に到達した。振り向くと、粗い格子から二人の影が見える。ヒサヤはスクリーンを消して、私たちを見ていたときのように再び身を隠した。
「お兄様!」
「お兄ちゃん!」
二人は扉を開けようとするが、鍵はまだかかったままだ。
「……鍵!」
翠の鋭い声に、ホカゼの声が答える。
「わかってるさ。厳重な鍵だからね、もうすぐ……よし、解除」
扉が開いて、二人が私の胸に飛び込んでくる。しかし、迎える準備をした私の手は空を切った。妹たちが美々奈の姿を見て、足を止めたからだ。
「お兄様、お話は?」
「終わったよ」
「……そんな」
鈴が大きく肩を落とす。翠も悲しそうな表情で、私をじっと見ていた。
「ここで再びあたし登場! 大丈夫だよ、二人とも! 録画しておいたから!」
「……お兄様。ヒサヤがなぜここに?」
「ああ。色々と説明することもあるが……まあ、とりあえず見てもらおうか」
そうして、私はヒサヤが録画していたという映像――私と美々奈の会話が中心でそれ以降のことは写されていなかった――を妹たちに見てもらってから、その後の出来事をかいつまんで説明することにした。
ふと見ると、ホカゼに加えて、まもりやユズリも中に入って一緒に鑑賞していたが、仲良く手を繋いで鑑賞する妹たちを見ていると、恥ずかしいからじっくり見るのはやめてくれと言う気持ちはなくなっていた。