穏やかな海を渡る一艘の舟があった。漕ぎ手は一人の少女、乗組員も彼女一人。リース・シャネア国と大陸を結ぶ海を渡るには心許ないようでいて、最も安全な構成。舟はとても一人で漕いでいるとは思えないほどの速度で南へ向かう。
一瞬、強い風が吹いた。漕ぎ手の少女は片手で長い黒髪を押さえて、長身を屈める。海が荒れる予兆。風が止み、騎士装束に身を包んだ少女は再び櫂を動かす。目的地であるフィーレット村まで、舟は全速力で海を抜けていった。
くだものぱんつの力を完全に引き出す者であり、リース・シャネア国の近衛騎士、エラントル・ルーフェだからこそ成せる芸当である。
しばらくの後、日が高く昇り昼が近づく頃。ルーフェは大陸北部の漁村、フィーレット村に降り立っていた。懐かしい風が彼女の頬を撫でる。あのときと同じように、最初に向かうのは宿。フィーレット村に存在する唯一の宿、レーファの宿だ。
扉を叩き、宿に入る。中にいたのは一人の女性。スィーハの母親にして、レーファの宿を営む女性、レーファ・スィーヘルだ。前回の帰り際に挨拶をしたので、ルーフェとは一応の面識はある。
「あら、ルーフェさん?」
「お久しぶりです、スィーヘルさん」
「一月ぶり、になるのかな? 北との行き来は大変って話だったけど……」
「私一人であれば問題ありません。それより、お聞きしたいことが」
言いながら、ルーフェは宿の中を見回してみる。それだけで言葉にせずとも、聞きたいことを伝えるには十分だった。
「娘たちなら、まだ帰ってきてないわ」
「となると、南へ行ったきり?」
「ええ。おそらく。いつになるかわからないけど、帰って来るまで泊まっていく? ルーフェさんなら、少しお手伝いしてくれればお金は要らないわ」
「お心遣い、感謝します。ですが、いない可能性も折込み済みでしたから。次の予定は決まっています」
「そう。でも、お昼くらいはどう? ここまで疲れたでしょう?」
「そうですね。頂いていきます」
ルーフェは宿で昼食をとり、代金代わりに食器洗いを手伝ってから、すぐにフィーレット村を旅立った。ラーグリアまでは半日、今からなら何とか辿り着ける。
精霊ピスキィが落ち着いたことにより、魔物たちも静かなもので、旅は順調だった。ラーグリアに着いた翌日、ルーフェはピスリカル森林に入り、南に抜ける。大体の場所しか知らなくて、見つかるかどうか不安もあったけれど、それはすぐに見つかった。山岳と森林に囲まれた小さな国、精霊国ピスキィ。切り出した岩や木々で作られた家が並ぶも、家の数に対して人の数が少ないのがはっきりと見てとれる。
「迷ったのですか?」
数少ない国民の一人であろう、若い女性がルーフェに声をかけた。近年は交友の少ない――といってもあの事件が起こる前よりは若干増えてはいる――精霊国の民にとって、見知らぬ人に対する反応としては自然なものである。
ルーフェは首を横に振って、目的があってここに来たことを示す。
「チェミュナリアはどちらに?」
「チェミュナリア様のお知り合い……」
短い銀髪が可愛らしい女性は、驚いた様子を見せながらルーフェをじっと見つめる。
「エラントル・ルーフェと申します。彼女から、話は聞いていませんか?」
「ええ、と……くだものぱんつの、真面目なようでいて寝所では激しそうだという、あのルーフェさんですか?」
「……それで、本人は?」
あとでチェミュナリアに、国民に対してどう説明したのか問い詰めないといけないと思いながら、ルーフェは平静を装って再び尋ねる。
「普段はピスキィ様とともにあちらにいます」
言って、銀髪の女性は精霊国の南、山岳の側にある小さな神殿を手で示す。
「普段は、というと?」
「はい。先日、お出かけになりました。急ぎの用事だそうで事情はわかりませんが、南の方へと。ピスキィ様なら、詳しい話を知っていると思います。ただ、知っているとは思いますが、彼女は人見知りですから。チェミュナリア様の侍女のお二方なら話は別ですけれど、先頃、ピスキィ様に頼まれて、パロニス王国を訪問しています。帰ってくるのは三日後、と言っていました」
「ピスキィには会えるのですか?」
こくりと頷く女性。ルーフェは直接会いにいこうと、神殿へと向かうことにした。三日もの間、ただ待っているだけで時間を過ごすのはもったいない。
神殿の中を、真っ直ぐに奥へと向かう。広い部屋。深緑色の長い髪が印象的な、薄布を纏った女性が、その部屋の中をうろうろ、ふよふよと漂っていた。
精霊ピスキィ。彼女はルーフェが部屋に入ったことにすぐに気付くと、動きを止めた。
「お久しぶりです。話があるのですが、よろしいでしょうか」
普段と変わらない声色で、ルーフェは静かに尋ねる。ピスキィは小さく頷いたものの、自分からは言葉を発さない。今はそれだけでも十分だと、ルーフェは言葉を続ける。怯えさせないように少し間をおいてから、いつもの調子で。
「――世界の危機について、精霊について、尋ねたいことがあります」
「精霊?」
「はい」
小さいながらも声を発したピスキィに、やや驚きながらもルーフェは答える。
「アルシィア? それともミリィエリ?」
「……普通に話せるのですね」
今度ばかりはさすがに驚いて、つい口からそんな言葉が出てしまう。失言かと思って口を塞ぐと、ピスキィはその様子をくすくすと笑って見ていた。綺麗でいて可愛らしいその笑みに、ルーフェは見惚れてしまう。
「あなたは、チェミュナリアのお友達だから。それに、暴走していたときだけど、全力で戦った相手。信頼できる人」
「レフィオーレ様と話が合いそうですね」
ルーフェは苦笑する。ピスキィも笑みを返して、答える。
「そうかも。一度、一対一で手合わせしてみたい。もちろん、あなたともだけど」
「もしかすると、侍女のお二方も?」
「うん。チェミュナリアには劣るけれど」
その答えで、ルーフェはピスキィの人見知りの本質を理解する。恥ずかしいからではなく、自分の認めた相手としか話さない、それだけのことではないかと。
「あなたの想像は多分、半分当たり」
尋ねられる前に、ピスキィは自ら口を開く。
「昔は恥ずかしいだけだった。ここまで話せるようになったのは、アルシィアと、何よりチェミュナリアのおかげ。精霊に対しても物怖じせず、ぶつかってきた彼女がいたから」
懐かしむようなピスキィの言葉に、ルーフェはしばし黙り込む。さらに語るつもりなら止めなくてはならないが、おそらくそうはならないだろう。
「ごめんなさい。本題、お願い」
照れたように小さな笑みを見せてから、ピスキィが言った。ルーフェは頷いて、話を切り出す。
「あれからリース・シャネア国に戻ってすぐ、念のためにとフィオネスト様が再び予知をしました。世界の危機はまだ去っていない。それがその内容です」
ピスキィからは先程までの柔和な笑みは完全に消え、代わりに浮かぶのは神聖にして高潔、創世時代より生きる精霊であることを示すかのような、達観したような笑み。普通の者であれば威圧されてもおかしくない変化に、ルーフェはいつもの調子で語る。リース・シャネア国の姫、リース・シャネア・フィオネストの近衛騎士である彼女にとって、このような雰囲気は慣れたものだった。
「フィオネスト様は再び精霊の暴走が起こるのではないか、と推測されました。それでなくとも、あなた以外の精霊に何かが起きるのではないかと。チェミュナリアの話によると、精霊の死も世界の危機を引き起こすには充分であるそうですから。念のために確認しますが、これは間違いではないですね?」
「うん。私たちはそうなると知っている。でも、実際に消えた精霊はいないから、実際にどれほどのことが起こるのかは未知数」
「そうですか。それで、あなたに先程のことについて尋ねたいのですが」
「アルシィア? それともミリィエリ?」
再び同じ言葉を繰り返すピスキィ。笑顔もそのときと変わらない。
「両方です」
「わかった。私がそれを知ったのは昨日。ミリィエリの魔物が山を越えて、チェミュナリアからの手紙が届けてくれたの。細部までは知らないけれど、概要なら話せる」
それから、ピスキィはアルシィアのこと、ミリィエリのこと、レフィオーレたちしまぱん勇者とその仲間のこと、大陸中部で起きた一連の出来事について、ルーフェに話した。ルーフェは表情を変えながら、その話に耳を傾ける。
「アルシィアとミリィエリの問題は解決済み、ですか」
話が終わり、ルーフェは小さく呟いた。二人しかいない静かな部屋、その呟きはピスキィの耳にも届く。
「うん。残る精霊は南にいる、フィルマリィだけ。何かあるとしたら、そこだと思う」
「……フィルマリィ」
精霊の名を繰り返す。しかし、話を聞くと、精霊の暴走が世界の危機であるとは思えない。では一体なんなのか、ルーフェは考えようとしてやめた。いま優先すべきは別にある。
「それにしても、大陸南部、ですか。追いつくのが大変そうですね」
「普通に歩いたらね。でも、そうじゃない方法なら違う。私に、ミリィエリ、そしてアルシィア。それぞれ北部、中部、南部にいる精霊の力。そしてくだものぱんつの力を引き出すあなたなら、手段はある」
「どれほど短縮できますか? 危険性は?」
彼女の言葉を疑う理由はない。ルーフェは早速、その手段についての詳しい説明を求める。
「今日中に南部まで到達することも可能。危険性は普通の人なら、衝撃で大怪我をする可能性も高いけど、あなたなら大きな問題ない」
「そうですか。では、早速お願いできますか?」
「うん。準備は必要だから、ちょっと待ってて」
ピスキィは目を瞑って、全身から精霊の力を放出する。薄く、広く、遠くに届くように。
「四つのぱんつと、あなたたち、その力を引き出す者たちが惹かれ合うように、精霊、精霊の力も引き寄せ合う。それを応用すれば、精霊以外の人や物を送ることもできる。かなり強引な手段で、それぞれの位置が正確にわからないと危ないけれど……今ので、ミリィエリには伝わったはずだから、対応してくれてると思う。アルシィアまでは届かないけど、多分、ミリィエリが同じようにやってくれるはず。……準備はいい?」
「いつでも」
「うん。それじゃ、外に出よう」
ピスキィの言葉に素直に頷き、部屋の外に出るルーフェ。神殿の前の広い空間で、ピスキィはルーフェに手をかざす。
「少し溜めないといけないから、待っててね」
「了解です。しかし、転移とは、精霊の力がそこまでとは思いませんでした」
ルーフェの言葉に、ピスキィは苦笑する。溜めながらでも話せるようで、彼女は首を横に振って説明する。
「ううん。そんな凄いことはいくら精霊でもできない。強引に、精霊の力であなたを吹き飛ばすだけ。もちろん、それ自体で怪我をしないように、調整はする」
「……なるほど、それは確かに、普通の人であれば危険ですね」
「うん。――準備、できたよ」
「お願いします」
かざした手から、精霊の力が放出される。強く、それでいて優しい精霊の力。戦ったときにはなかったもので、こういうこともできるのかとルーフェは感心する。放出された力はルーフェの体を包み、その光は空の彼方まで飛んでいく。光が消えたとき、その場にルーフェの姿はなかった。
「チェミュナリアによろしくね」
最後に聞こえたのは、そんなピスキィの一言だけである。
数秒とも経たずに、ルーフェは別の場所まで飛ばされていた。光が弱まり、勢いが止まり、ルーフェの体は空高くから落下する。高い木の上から地面に落ちるような高さ。普通の人なら大怪我をするのは確実だが、くだものぱんつの力を完全に引き出せるルーフェにとっては、このくらいなら椅子の上から降りるのと同じようなものだ。
ただ、彼女にとって予想外だったのは、着地する先が地面ではなく水面だったこと。そのおかげで、とろうとした受け身は空振りに終わり、大きな音を立ててルーフェの体は温かい水に沈んでいった。
咄嗟に息を止めて水を飲むのは抑えられたし、ぱんつの力で騎士装束がびしょ濡れになることはなく、携えた槍も錆びることはない。ルーフェは水面に上がると同時に、大きく息を吸い込んで思考を落ち着かせる。
「……これは、温泉?」
ルーフェはすぐに、落ちた場所を温泉と認識する。リース・シャネア国にも温泉はあり、何度も入ったことがあるので、どういうものかはよく知っている。
そして素早く周囲を見回す。ルーフェより十歳は年下と思しきよく似た少女が二人。深い青色の長い髪の先端を湯に浮かべながら、一糸纏わぬ姿で露天風呂の中に立っている。片方は冷静に、もう片方は驚きながら、いきなり落ちてきたルーフェを見つめていた。
「なるほど、そういうことですか」
「ピスキィも無茶するよねー」
露天風呂の側にある岩に腰掛け、ルーフェは精霊ミリィエリ――双子の精霊、ミリィとエリに詳しい経緯を説明した。お風呂に入るということでエリはポニーテールを下ろしていて、ルーフェにはどちらがミリィでどちらがエリなのか、見た目では判断がつかない。説明しているときの会話で、静かな方がミリィ、元気な方がエリであることは理解した。
その二人は露天風呂に浸かったまま、ルーフェとの会話を続ける。なんとなく居心地が悪くなるルーフェだったが、このあとのことを考えると、ここで脱いで一緒に露天風呂に浸かるわけにもいかないから、我慢するしかない。
「そういうわけで、お二方にも助力をお願いします」
「もちろんです。ただ、私たちもこのような状態ですから、ピスキィほど短時間で、というわけにはいきません」
「アルシィアに届けることを伝えるくらいはすぐにできるけどね」
「了解しました」
ルーフェが承諾すると、ミリィとエリは両手を合わせて軽く精霊の力を放出する。そのまま合わせた手を離さず、目をつむったままその場でじっとする。
五分ほど経った頃、ミリィとエリは手を離してルーフェの方を向いた。
「準備はできました」
「今からそっちにいくねー」
こくりと頷くルーフェ。右と左、ルーフェを挟むようにして並ぶ双子の精霊。両手をかざして、ゆっくりと放出された力がルーフェの体を包み込む。
「少し待っていて下さいね。安定させますから」
「わかりました。……あの、どのあたりに飛ばされるのか、というのはわかりますか?」
承諾してから一呼吸おいて、ルーフェは尋ねる。今回のように、咄嗟の判断でもある程度対応できるし、できるからこそこんな強引な手段がつかえるわけだが、事前にわかっていればより簡単に対処ができる。
ルーフェの問いに、ミリィとエリは揃えて首を横に振る。はっきりとではなく、弱々しく振られたが、否定であることに変わりはない。
「アルシィアは私たちとはまた違った、特殊な状態にあることは知ってるよね。私たちの場所を知らせることはできても、彼女から場所を知らせることは難しいの。ピスキィが気付いたように、ある程度距離が近ければわかるけれど、さすがに大陸全土までは届かない」
「それくらい離れている、ということはわかりますが……この位置からでは、南部のどこかという以上はわかりませんね」
ローレステはピスシィア山脈の南、山の側に位置する温泉宿だ。西寄りにあるため、距離だけでいうなら、大陸中部の東南の端にいたとしてもわからないだろう。
ただ、アルシィアと共にあるシェーグティーナは、レフィオーレたちしまぱん勇者とその仲間とともに、南の山脈を越えていった。それから数日、ミリィとエリがコルトラディを見て回り、ローレステに遊びに来るくらいの時間は経っているものの、彼女自身も南に用があると言っていたため、中部に戻ってきている可能性は低い。
ピスキィから聞いた話だけでは、そこまでの情報は得ていないルーフェだったが、大陸中部に住まう精霊が南部にいると言うのだから、信じない理由はない。
そうしているうちに、ルーフェの体を包み込む精霊の力が急速に強まっていく。ピスキィのときと似たような感覚だけど、微妙に違うのは精霊の個性か、ミリィエリがミリィとエリになっているからなのか、ルーフェには判断がつかない。
「そろそろです。準備はいいですね?」
「いつでも」
崖や沼、急流の川など、あらゆる場所への対処を一瞬で再確認して、ルーフェは答える。近衛騎士として、叩き込んだ知識を思い出すのに時間は要らない。
「それじゃ、いっくよー!」
精霊の力が一際強くなり、輝きがルーフェの体を覆い隠す。光の筋は南、やや東よりの方向に伸びていき、山脈を越え、彼方へと消えていった。
光が消えた露天風呂には、岩場に座り込み、足先だけを湯に浸からせ、白い肌に水を滴らせる双子の精霊、ミリィとエリが残るのみだった。