桜の花に集まって

第三話 同級生の素直な心


 放課後。いつものように喫茶店へ向かおうと、教室を出た俺を後ろから呼び止める声があった。

「いい?」

「ああ。すすき、先に行っててくれ」

「ん。じゃねー」

 噂のことだろうと思い、俺はあっさりと承諾する。声をかけてきた女の子は廊下の先に視線を向けて、場所の移動を促す。入り口付近で話をしていては他の生徒に迷惑だ。

 先導する彼女の後ろ姿を眺めながら俺は黙ってついていく。名前は葉桐雪奈。同じクラスだけど、中学は別なので特に付き合いがあったわけではない。廊下の奥、普段あまり使われることのない階段に辿り着いたところで、葉桐さんは振り返った。

 こうして向き合って見るのは初めてだ。整った顔立ちは強気で鋭く危うい印象を与え、ストレートの黒髪は胸にかかるくらいに伸びている。女子の中では高めの身長で、俺の知り合いではお姉さんには及ばないがすすきよりは高い。その代わりに胸は小さめで、三葉とすすきの中間くらいだから多分Bカップだと思う。

「噂のことでいいんだよな?」

 葉桐さんはこくりと頷く。けれどその動きはどこか曖昧で、話はそれだけではないということが伝わってくる。とはいえ、少し移動するだけでなく、ここまで連れてきたことで予測できていたから驚かない。

「噂はきっかけ。あなたと、あなたの幼馴染み。それと、妹」

「三葉?」

 思わず聞き返す。一応、二人とも関わってはいるけれど、学校では広まっていない。そもそも、彼女に妹のことを話したことはない。中学以前のクラスメイトや知り合いから聞いたのだろうか。

「そう。二人は特別だから」

 葉桐さんは俺の顔をじっと見つめて言った。その瞳から真意は読み取れない。

「二人は多分、私と同じ」

「どういうことだ?」

 一応聞いてみる。特別であり、自分と同じ。その言葉が意味することはひとつしか考えられない。愛の前に障害はない幼馴染みや、兄のためなら何でもできてしまう妹の体質は、特別と言っても差し支えはない。

 でも、その体質が発揮されるのはそう多くはなく――隠すためではなく必要性の問題で――あってもそういう体質だと認識されるほどの行動をとるのは稀だ。だからごく親しい人や近しい人――俺の他には両親やお姉さん、鋼さんくらいしか知らない。

「それは……言えない」

 彼女は俺の質問に一瞬だけ目を逸らして答えた。

「会わせてくれたら話す」

 今度はしっかりと俺の目を見て。決意のようなものが感じられる。けれど、それは俺も同じだった。目的もわからない相手を二人に会わせるわけにはいかない。もっとも、すすきとは同じクラスだから常に会っているのだけど、彼女もそこで行動を起こす気はないはずだ。

 俺が首を横に振って拒絶の意思を示すと、葉桐さんは困ったような顔をして言った。

「どうしてもだめ?」

「目的を話してくれないうちはだめだ」

「……それは無理」

「なら、諦めてくれ」

 その言葉に、葉桐さんははっとしたように目を見開いて、顔を引き締めた。決意の意思が再び瞳に宿る。

「それは嫌。だから、ごめんなさい。実力行使」

 彼女は両腕で俺の右腕を掴んできた。力はそれほど強くはないが、両腕を絡ませるように掴んでいるので振りほどくのは容易ではない。

 ここから何をされるのかわからないが、このままではまずいと思って腕を振り回したり、足を動かして移動したりしてみるが、彼女が離れることはない。俺は抵抗を諦めて、彼女に主導権を渡すことにした。

 行動した瞬間が反撃のチャンス、と思って待ってみても葉桐さんは動かない。

「実力行使?」

「このまま家までついていく」

 それはちょっと恥ずかしい。それに非常に歩きにくい。

「尾行、じゃなくて?」

「それだと家には入れない」

 俺は対応に困ってしまう。尾行であればうまくすれば撒くこともできるけど、この状態ではどうにかして振りほどくしかない。しかし相手は女の子。警戒する相手とはいえ、掴んでいるだけの相手に攻撃をすることはできない。

 仕方ないので、俺はもう片方の腕も使い、ひたすら激しく動いて振りほどくことにした。傍から見ると奇妙な踊りでも踊っているかのように見えるだろうけど、幸い他の生徒はいない。

「これで、どうだ!」

 反動をつけて大きく体を振り回す。遠心力の力も手伝って、どうにか彼女の体を引き剥がすことに成功した。

 よし、と思ったのも束の間。小さな悲鳴とともに勢いよく引き剥がされた葉桐さんは、そのままの勢いで飛んでいき、ふらふらと階段まで近づいていった。振りほどくのに夢中で自分たちの立ち位置を確認するのを忘れていた。

 俺は咄嗟に手を伸ばしたが、この距離では届くわけもない。駆け出すのも間に合わず、葉桐さんは階段のへりに足をかけたかと思うと、バランスを崩して階段を転げ落ちていった。

 呆然としていたのもほんの僅かな時間。俺は階段を駆け降りると、全身を階段の角にぶつけた上、壁に頭を打ちつけて倒れたままの同級生に駆け寄る。

「葉桐さん!」

 怪我はないか、と言おうとして言葉が止まる。聞かなくてもわかることだ。彼女の体を見ると出血はないみたいだけど、あれだけの衝撃を受けたのだ。中で大変なことになっている可能性もある。

「保健室、いや救急車を」

「必要ない」

 はっきりとした声だった。葉桐さんは介抱しようとする俺の手を優しく撥ね除け、服についたほこりを払いながら平然と立ち上がった。やはり出血や傷は見当たらない。

「けど、素人にはわからない怪我でもしていたら」

「大丈夫。誰も私を傷つけられない」

「俺が落としたわけじゃ……」

 振りほどいたのは確かに俺だけど、意図して彼女を突き落としたわけではない。論点がずれている気もするが、これははっきりさせておいた方がいい。

「擬人化?」

 どうやら階段のことを言っているらしい。だけど今はそれよりも先に確かめなくてはいけないことがある。

「本当に怪我はないのか?」

 葉桐さんはこくりと頷いた。嘘をついているようには見えないけれど、本人の言葉だけでは信じるには足りない。直接落としたわけではなくても、原因を作ったのは自分だ。

 葉桐さんもその様子に気付いたのか、考えるような素振りを見せてから、そっと自分の服に手をかけた。そのまま手を動かして、服を脱ごうとする。

「信じるからそこまで」

「そう?」

 葉桐さんはやや不満そうに服を下ろした。ちょっと惜しいことをしたかもと思ったけれど、ここは学校だ。他の人の目がある中でやることではない。

「それより、二人に会わせて」

「だめだ。葉桐さんをすすきや三葉には会わせられない」

「雪奈」

 よくわからない返しに俺は首を傾げる。名前は言われなくても知っている。

「名前で呼んでくれたら、今日は諦める」

「雪奈さんをすすきや三葉には会わせられない」

「わかった。また明日」

 言われるままに名前で呼ぶと、雪奈さんはあっさりと別れを告げて階段を下りていった。ひとまず危機が去ったことに安堵する。けれど、最後のまた明日という言葉も忘れない。

 その後、念のために少し待ってから俺はチェリーブロッサムに向かった。二人には何があったのかと聞かれたけれど、不安にさせてはいけないので、秘密だと言って詳しい内容は伝えないでおいた。

 翌日の放課後、雪奈さんは今日も俺たちに接触してきた。

「すすきさん。話がある」

「今日は私?」

 そうきたか。でも予想はしていたことだから対応は既に準備している。

「ごめん雪奈さん。今日はすすきと出かける予定があるんだ」

「わかった。じゃあ明日」

「うん、じゃあまた」

 嘘は言っていない。今日も俺とすすきは喫茶店チェリーブロッサムへ出かける予定だ。最後の言葉が気になったけれど、それはまたあとで考えよう。

 ふと見ると、すすきが俺をじっと見つめていた。ここでどう弁解するかが問題だ。

「雪奈さん、ねえ」

 すすきの視線が痛い。そこまで気付かれてしまったらしい。厄介なことになったと言葉を考えていると、幼馴染みはにやりと笑って言った。

「昨日は秘密で、今日は名前かー。まあ別に葉一がどうしようと勝手だけど、幼馴染みと妹に伝えないのはどうかと思うな。そうしなくちゃいけない事情があるの?」

「まあ、そんなところだ。ちょっと待っててくれ」

 勘違いしている幼馴染みに、俺は曖昧に返事をしておく。三葉に知られたときに説明する手間も省けるし、片がつくまでは勘違いしたままにさせておこう。

 喫茶店に着くとすすきは真っ先にこのことを話し、三葉からも痛い視線が向けられた。

「話してくれるまで穂菜美には伝えないでおきますけど、なるべく早くしてくださいね」

 そんな妹の台詞にも、俺は曖昧に頷いておく。それからこれは俺の問題だからと、二人に余計なことをしないよう注意するのも忘れない。俺が雪奈さんからの接触を防いでも、すすきや三葉から接触されては元も子もない。

「兄さん、起きてください。お客さんですよ」

 土曜日の朝、学校がないのでゆっくり寝ていた俺を三葉が起こしにきた。こんな時間に俺に用がある人なんていただろうかと考えてみたが、寝ぼけた頭ではまとまらない。

 リビングで待たせているというので、俺は服を着替えて一階に下り、軽く身だしなみを整えてからその場所へ向かう。リビングとダイニングは仕切りなしに繋がっているので、行動自体はいつもと同じだ。

「おはよう」

 待っていたのは雪奈さんだった。俺はぽかんとしながらも、挨拶を返しておく。

「私は部屋にいますから、二人きりでゆっくり話してください。時間のことは気にせずに。朝ご飯の片付けもお願いしますね」

 と言って妹は廊下へ出ていった。テーブルの上には朝ご飯が用意してある。俺が身支度をしている間に作っていたのだろう。雪奈さんが食べ終わるまで待ってるというので、俺はとりあえず食事を済ますことにした。

 じっくり見られながらの朝食はやや落ち着かないが、だからといって彼女から目を離すわけにもいかない。食後の片付けをしている間も彼女はずっと俺を見続けていた。

「雪奈さんに聞きたいことがあるんだけど」

 リビングに戻ると、俺と雪奈さんはソファに隣り合わせに座る。奇妙な感じだけど、四人掛けの長いソファが一つあるだけだから仕方ない。椅子を持ってくるのも面倒だ。

 返事を聞いてから、俺は質問を口にする。聞くべきことはひとつだけ。

「なんで俺の家を知ってるんだ?」

 視線を左の彼女に向けて、はっきりと言う。雪奈さんは表情一つ変えずに答えた。

「一昨日、尾行した。寒かった」

 どうやら喫茶店から出てくるまで待っていたらしい。今日は諦めると言ったことで油断していた俺のミスだ。

「妹には何か話したのか?」

 雪奈さんは首を横に振った。強攻策に出たわけではないようだ。

「二人一緒じゃないとだめ」

「すすきは呼ばないからな」

「なら待つ」

 今度はそうきたか。俺たちは休日も喫茶店に行くことが多い。平日より遅い時間にすすきが起こしにきて、そのまま出ることが多いので待たれては困る。

「妹さんの許可も得た」

 話すと待つでは意味が違うけれど、時間を気にしなくていいと言ったのは事実だ。

「俺の許可は出してない」

「うん。今からお願いする」

 だそうだ。普通にお願いするだけなら断ればいいのだけど、一昨日は尾行して、昨日は別の手を考えてきた雪奈さんのことだ。何らかの策があると見た方がいいだろう。

 俺は彼女の言葉を待ちながら、ぼんやりとリビングを見回す。ふと廊下へと繋がるドアを見ると、ほんの少しだけ開いていた。入るときに閉め忘れたのかと思い、俺は雪奈さんに一声かけてから扉を閉めにいく。

 俺が戻ると雪奈さんは立ち上がって待っていた。表情は真剣そのもので、俺も気を引き締める。

「葉一くんの家に泊めてほしい」

「断る」

 反射的に用意していた言葉が出た。それから彼女の言葉を理解する。妹もそこまですることは許可していないと思う。

「話をさせてくれたら、夜は好きにしてもいい」

 今度は誘惑してきた。けれどあまりにも突然すぎるので反応に困るだけで、心が揺れるようなことはない。

 どう答えれば自然に帰ってもらえるのか考えていると、雪奈さんが眉をひそめた。視線は俺ではなく、俺の後ろに向けられているようだ。

 振り返って見ると、さっき閉めたはずの扉がまた少し開いていた。彼女はきっと開けられる瞬間を見たのだろう。何となく予想はしていたが、やはり閉め忘れではなかったようだ。

 扉の隙間から俺たちを覗いているのは三葉で間違いない。そしてその事実が俺をさらに悩ませることになる。強引な形で彼女を追い出そうとすれば、妹が何らかの行動を起こす可能性が高い。それで時間をとられてはすすきが来る可能性も高まる。

 だからといって、考えている時間が長くなっても結果は同じ。ゆっくり対応を考えている余裕はない。

 雪奈さんの視線は再び俺に向けられていた。俺の返事がないからか、顔には僅かだけど不安の色が見え隠れする。

「雪奈さん――いや、雪奈」

 名前を呼び捨てにすると、彼女の肩がぴくりと動いた。俺が咄嗟に思いついた作戦。とりあえず初手は問題ない。重要なのは次の一手だ。

「葉一くん?」

「葉一でいい。俺もそうするから」

 なんだか口説いているみたいで物凄く恥ずかしい。けれどその恥ずかしさを顔に出すわけにはいかない。平然と口にすることでこそ効果はより高まるはずだ。

「葉一?」

 ほんの少しためらいながら、雪奈は俺の名前を呼んだ。少しどきどきしてくる。

「雪奈。今日は、これで帰ってくれないか?」

 それは初めて彼女に言われたことと同じこと。名字から名前になったことで諦めてくれた彼女なら、これであっさり帰ってくれるかもしれない。なぜそうしたのか理由がわからなくて、確信は持てないけれどやってみる価値はある。

「……やだ」

 失敗したと諦めるのはまだ早い。即答ではなく、間があったことに期待が持てる。

「そこまでいったら、二人と話をしないと帰れない」

 失敗どころか大失敗、逆効果だった。せめていきなり名前で呼ばず、確かめてからにすればよかったと後悔してももう遅い。悪手を指しても待ったなし。ここから挽回する手を考えた方が懸命だ。

 しかしいくら考えてもここからの良手は思いつかない。今の俺にできるのは、詰まされるまでの時間を稼ぎつつ相手のミスを待つことだけ。

「理由を話してもらいたいな」

 雪奈は俯くだけで何も返事はしない。ここまできても理由は言えないらしい。

 長い沈黙。もっともそれは体感的なものであって、実際に過ぎた時間は数分でしかない。その沈黙を破ったのは俺でもなければ雪奈でもなく、勢いよく開けられたリビングの扉の音だった。

「じれったい! ここは愛の使者こと双葉すすきの出番だね!」

 ドアを突き飛ばしたままの姿勢で、幼馴染みが愛を語りながら元気に登場した。隣には妹がくっついている。

「覗いていたらすすきさんが来たので、一緒に見ていました。兄さんは気付いていたようですが、止めに来ませんでしたよね。だから謝る必要はないと判断します」

 俺が頷くのも待たずに言い切られたが、見逃したのは事実なので怒れない。

 二人が俺たちの方に歩いてくる。雪奈も自ら彼女たちの方へ向かおうとする。一方を止めたところで、もう一方も動いていては意味がない。俺は彼女たちを止めるのを諦めて、道を開けて待機することにした。

 立ち位置は向かい合う三人の真横に。接触は止められなくても、この場所にいればいざというときに動きやすい。相撲の行司やプロレスのレフェリーの気持ちで、小さな動きも見逃さないように注意する。

「それで雪奈さ……雪奈でいっか。葉一もそう呼んでるし」

「うん。私もすすきでいい?」

「もちろん。三葉もいいでしょ?」

「雪奈さんにお任せします」

「私たちに話があるんだよね?」

 雪奈は頷く。会話はスムーズに進み、口を挟む必要も止める必要も今はなさそうだ。

「二人に挨拶をしにきた。私も葉一と一緒にいたいから、よろしくお願いする」

「へえ」

「なるほど」

 不思議な言い回しだけど、標的は俺か。一人緊迫感を高める俺と違って、すすきと三葉は暢気に返事をする。最初に出会ったときの話を知らないから、二人は気付かないのだろう。

「すすきは幼馴染み、三葉は妹だから、二人は特別。それに二人も私と同じで、葉一に好意を抱いているはずだから、事前に挨拶。……本当は、三人だけで話をしたかった」

 雪奈はちらりと俺を見る。なんだか悲しそうな目をしている。

「じゃあ俺は外に出てるな」

「待ちなさい」

「行かせません」

 とんでもない勘違いをしていたことに気付いて逃げようとした俺を、すすきと三葉が捕まえる。幼馴染みに右腕を、妹に左腕を両手でしっかりと掴まれては身動きがとれない。

 幸い首は自由に動くので、俺は助けを求めて雪奈を見る。確かに勘違いしたのは俺だけど、彼女の言い方にも問題があったと思う。

「放してあげて。私も言葉が足りなかった」

 すすきと三葉の腕を掴む力が緩んだ。でもまだ完全に離してはくれない。

「何と勘違いしてたの?」

「話してください」

「二人の体質を利用しようとした研究機関、もしくは悪の組織」

 すすきと三葉の腕を掴む力が急に強くなった。なんだか納得いかない。

「……体質?」

 疑問の声をあげたのは雪奈だった。今しかないと思って、俺はそう思うに至った経緯を早口でまくしたてる。一言二言では足りないので息が切れて疲れたけど、最後まで説明した甲斐もあって、俺は幼馴染みと妹から自由になることを許された。

「葉一は私たちを守ろうとしてくれたんだね。嬉しいよ。でも、悪の組織って……」

「気持ちは嬉しいですけど、兄さんも変な心配をするものです」

 言葉が出ない。二人の口許がほころんでいなければ今すぐ逃げ出していたかもしれない。

「仮にそんなのがあったとしても、私たちの愛を引き裂くような組織ならすぐにでも潰せちゃうのにね」

「そうですよ。私も兄さんとの仲を維持するためなら、軽く壊滅してやります」

 俺の思っていた変と、幼馴染みの妹の言う変は別の意味だった。

「……私、そんな風に思われてたんだ」

 雪奈は俯いたまま小さな声で呟く。一人ショックを受けて落ち込んでいるようだ。どうにかしないとと思っても、どうすればいいのかわからず俺はすすきと三葉に助けを求める。

 頼りになる幼馴染みと妹は、大きく頷いてからそれぞれの作戦を俺の耳元で囁いた。

「愛を込めてキスすればいいよ!」

「泊めてあげて抱けばいいと思います」

「却下」

 即答する。二人はわかっていたとでも言うように、すぐに別の言葉を口にした。

「雪奈ー、これから一緒にチェリーブロッサムに行かない?」

「私たちがいつも行っている喫茶店です。どうですか?」

 ただしその言葉は俺ではなく、雪奈へ向けられたものだった。二人は視線で俺に次の言葉を促す。俺はやや照れながらもはっきりと聞こえるように言った。

「雪奈も連れて行きたいんだ。親交の証、ってことでさ」

 恥ずかしさのせいでちょっとぎこちなくなったけど、言葉はちゃんと届いていて、顔をあげた雪奈の顔は驚きと嬉しさで染まっていた。

「口説いてますね」

「女たらしだ」

 言わせたのはお前たちだ。それにそこまで言われるほどの台詞ではない。

 もし口説くつもりなら、親交の証などではなく愛情の証だとか、俺の気持ちだとかそういうもっと恥ずかしい台詞を言っていた。でもそんなことを指摘するのも恥ずかしいので、文句は言わないでおく。

「うん。一緒に行きたい」

 雪奈は口許を緩ませて、笑ってみせた。その可愛さに俺は照れていたのも忘れて、つい見とれてしまう。すすきと三葉も俺をからかうのをやめて、彼女を見ているようだった。

 表情を戻した雪奈が動き出すと、俺たちも続いて行動を開始する。喫茶店チェリーブロッサムへの案内をするのは俺たちの役目だ。

 道中、三葉が夜は好きにしてもいいという言葉は今も有効か、なんてことを聞き出した。言われるまですっかり忘れていたけど、思い出すと少しは気になる。雪奈は考える素振りも見せずに、したいならいつでもいい、なんて答えを口にした。

 いつの間にかランクアップしている。状況が違えば危なかった。

 またからかわれるかなと思っていたら、なぜかすすきと三葉も張り合うように、私もいつだって受け入れられるよ、兄さんの望むままに、なんてことを言ってきた。

 俺が曖昧に笑っていると、三人の視線が交錯するのがわかった。

「雪奈、複数プレイはどう?」

「二人なら大丈夫」

「兄さんの初めては贅沢になりそうですね」

「俺は順序を大切にしたい」

 このまま放っておくと具体的な話に発展しかねないので、俺は即座に自分の意見を伝える。本気にしても冗談にしても、いきなりそれは飛ばしすぎだと思う。

 そうしているうちに俺たちは喫茶店に到着し、いつものようにお姉さんが出迎えてくれる。

「いらっしゃいませー。あっ!」

 お姉さんは口に手を当てて目を見開く。視線は俺の後ろの雪奈へ向けられている。

「葉一くんのハーレムに一人増えてる!」

「大声でやめてください」

「ごめんごめん。でも大丈夫だよ。今はゆりかちゃんしかいないから」

 お姉さんの言葉通り、他に店内にいるのはマスターと木場ゆりか先輩の二人だけだ。木場先輩は俺たちを見て、目尻を下げて恍惚とした表情になっているけれど、あの人は無害だから気にすることはない。

 お姉さんに案内されて、俺たちはいつもの席につく。向かいにすすき、隣に三葉。斜向かいには雪奈。四人席だから一人増えても問題はない。

「で、名前はなんて言うの?」

 いつもより一つ多いブレンド珈琲を持ってきたお姉さんが、わくわくする気持ちを隠そうともせず俺たちに聞く。お姉さんのことはここに来るまで簡単に話しておいたので、雪奈は驚くことなく平然と受け答えする。

「葉桐雪奈。これからお世話になります」

「うんうん。お姉さんに任せてよ。あ、私も名乗っておかないとだね。桜沢利里だよ、よろしくね」

「はい。利里さん、でいいですか?」

「お姉さんでいいよ。その方が好きなんだ」

 俺たちがお姉さんに初めて会ったときのことを思い出す。あのときも名前や名字に敬称をつけて呼ぼうとしたら、今と同じ答えが返ってきた。

「利里お姉さん?」

「利里いらない」

「お姉さん」

「そうそう。やっぱりこうでなくっちゃ!」

 お姉さんはとても嬉しそうだ。なぜお姉さんと呼んでほしいのかは教えてくれないので、なんでそこまで喜ぶのかはわからない。けれど、お姉さんのことだからそんなに深い理由はないと思う。

「でさ、葉一くん。私のハーレムインはいつなのかな?」

「だからハーレムでは」

「雪奈次第では私たちもわからないよね」

「兄さんをとられるわけにはいきませんし」

 ハーレムを否定しようとしたら、幼馴染みと妹が声を重ねてきた。お姉さんはにやにやと俺の顔を見つめている。雪奈は俺に思いを寄せているし、二人も積極的になって好意を否定しない。もうハーレムという言葉を否定することはできなくなっていた。


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