私はぼんやりと時計を眺めていた。寝ているのは自宅のベッドの上。起き上がるのも簡単にできて、怪我なんてしている様子はない。八時過ぎなら二度寝する時間だけど、その前に確かめておかないといけない。
私はパジャマのまま階段を降りる。今の時間なら間違いなくお兄ちゃんは家にいるはずだ。
「おはよ、お兄ちゃん」
「聡美? 珍しいな、今日は二度寝しないのか?」
「ねえお兄ちゃん、今日は何日?」
私の部屋にもカレンダーはあるけど、日めくりじゃないから日付はわからない。テレビをつけるなり、パソコンを立ち上げるなりして確かめることもできるけど、人に聞いた方が確信が持てる。
「見ての通り、八月一日。八月最初の日だ」
お兄ちゃんはリビングにある日めくりカレンダーに目を向けて答えた。八月一日。お兄ちゃんが言うんだから、私が寝ぼけて読み間違えたという可能性は否定できる。
「そっか。じゃあ私、寝てくるね」
「……起きたんじゃないのか?」
「眠いんだもん。今日は未希とお出かけする日だから、眠いままじゃいや」
お兄ちゃんはため息ひとつ、それ以上は何も言わなかった。私は部屋に戻って、ベッドに潜り込む。物凄く現実味のある夢だったけど、夢なら別に気にすることはない。大半の人が見る夢は視覚だけらしいけど、触覚や聴覚、嗅覚や味覚で感じられる夢を見れる人もいて、私もその一人だ。ちなみに白黒の夢もあるみたいだけど、いつもカラーな私には想像もできない。
もっとも、今回のように五感がフルに活用される夢を見るのは初めてな気もするけど、たまにはそういうこともあるだろう。もしかすると、正夢や逆夢というやつかもしれない。
二度寝して起きたのは九時十三分。少し寝るのが遅かったから起きるのも遅くなったみたいだ。私は階段を降りて、忘れ物を見つけて、朝食を食べて、支度をして外に出る。やや急いだけど、ほんのちょっと遅れたためか未希は既に外で待っていた。
立っている場所は彼女の家の前ではなくて、私の家の前。未希の指はチャイムの上に置かれていた。
「あ、聡美ちゃん起きてたんだ」
「未希との約束がある日だもん。時間はまだ大丈夫でしょ?」
「うん。十時まであと三十秒」
チャイムをいつでも押せるようにしていたのは、もし遅れた場合に、寝ているであろう私を起こすためのものだ。でも私はいつも時間を守っているから、一度もその目的でチャイムが使われたことはない。
「今日は押せると思ったんだけどなあ」
「残念でした」
互いに笑みを交わして、私たちは買いものに出かける。そして十一時を過ぎた頃、梨絵と出会った。時間も場所も夢と全く同じなことにちょっと驚く。
「こんにちは、先輩」
「ん、こんにちは梨絵」
「……久しぶり、じゃないんですね」
梨絵は小さいけど、ちゃんと私たちにも聞こえるような声でそう呟いた。
「どしたの、梨絵?」
ちょっと不思議に思うけど、もしかすると梨絵も何か夢を見たのかもしれない。だって、夢で久しぶりと最初に言ったのは私じゃなくて、梨絵なんだから。
「いえ、なんでもありませんよ。それより先輩、お兄様は?」
「いないよ」
それからの会話は前とほとんど変わらなかった。その後、私たちは家電量販店で勇輝と会って結局ゲームコーナーには行けなくて、喫茶店ではお兄ちゃんに会ってケーキをおごってもらった。
そして今、私たちは帰路につこうとしている。だけど、私はすぐに帰ろうとはしなかった。
「ねえ、もうちょっと見ていかない?」
「私はいいけど、聡美ちゃんはご飯の準備しなくていいの?」
「ちょっとだけだから大丈夫だよ。十分くらいで済むから」
そう。ここまでは些細な違いはあったけど、ほとんど夢で見た内容と変わらなかった。ここまではそれでいいけど、ここからはそうはいかない。もしもあれが正夢だとしても、あの時間にあの場所にいなければ、トラックに出会うことだってないはずだ。
私たちは近くの雑貨屋に向かうことにした。ここで十分くらい時間を過ごせば、仮にあの場所で事故が起こったとしても、私たちは巻き込まれない。
「聡美ちゃん!」
「え?」
突然、未希が叫んだかと思うと私の身体は突き飛ばされた。直後、大きな音と衝撃が辺りに響く。雑貨屋のあるビル、その一番上にある看板が落下してきたのだ。
そしてそれが落下した場所は、ついさっきまで私が立っていた場所。ちょうど今は、突き飛ばした未希がいる場所だ。
「なん、で?」
悲鳴が聞こえる。それはそうだ。突然ビルの看板が落ちてきて、女の子が下敷きになったんだから。落ちたときの音の大きさ、響いた衝撃、とても直撃して助かるようなものではない。血だってたくさん、それも勢いよく吹き出しているんだから。救急車を呼んだところできっと間に合わない。
誰かが電話をしているけど、無駄なことはやめてほしい。騒いでいる人もいるけど、静かにしてほしい。怯えている人も、慌てている人も、みんな静かにしてくれないかな。どうせ、その人たちにとっては知らない人が事故に遭っただけなんだから。
私は黙って目を瞑る。そうしていれば、意識が遠くなるんじゃないかと思って。そうしたらまた目が覚めて、そこは自宅のベッドの上で、夢だったんだって安心できるんだから。
そしてその望みが届いたのか、それとも現実逃避しようと体が勝手に反応したのか、はっきりとした理由は定かではないけれど、私の意識は最初に見た夢と同じように、どんどん薄れていって、やがて途切れた。