八月一日 午前九時十一分


「……ん」

 目を覚ました私は時計を見る。普段なら遅刻だと慌てる時間だけど、今は夏休み。もっと寝坊しても許される時期だ。とはいえ、高校二年生というのは色々と大事な時期だし、大きく生活リズムを崩すと休み明けに支障が出てしまう。

 そんな真面目なことを考えながら、私はベッドから起き上がる。さっき見たときは八時過ぎだったし、一時間も二度寝をすれば充分だ。

 パジャマのまま階段を降りて居間に向かう。今の時間ならまだいるかもしれない。

「おはよー、お兄ちゃん……って、もういないや」

 テーブルの上に用意された朝食はまだ温かい。出かけたのはほんのちょっと前。冷めないうちにご飯を食べようとしたところで、私はテーブルにある何かに気付いた。

 トランプケースのようなカードケースに、何枚かのカードが収められている。ケースの割に入っているカードは少ないみたいで、フタとカードの間には空白がいっぱいだ。十枚くらいしか入っていないんじゃないかな、これ。

 どんなカードが入っているのか気になったけど、手は触れないでおく。ここに置いてあるってことは多分、お兄ちゃんの忘れ物だろう。仕事柄そういうものを入手する機会は多いし、前にも何度か忘れたことがあるから可能性は高い。それに、早くしないとご飯が冷めてしまう。せっかく温かいうちに起きれたのに、そんなもったいないことはしたくない。

 食後、食器を片付けて、着替えも終えた頃には、時計の針は十時十分前を指していた。お兄ちゃんに忘れ物を届けてあげたいところだけど、今日は私にも用事がある。鏡の前で髪を整えながら、そこそこ長く伸びた後ろ髪をいじる。今日の髪型はどうしようか。といっても、私の好きな髪型は少ないから、ストレートのままにするか、リボンやゴムで縛ってショートポニーにするかのどちらかしかない。

「今日はこのままでいいかな」

 待ち合わせの時間は午前十時。場所が近いとはいえ、寝ぐせを整える時間も考えると、縛るもので迷う時間はない方がいい。

 仕度を整えて、私は家を出る。待ち合わせ場所は徒歩で一分とかからないところにある、向かいの家だ。見るとドアを閉める女の子の姿があった。偶然だろうけど、ちょうど彼女も家を出たところのようだ。

「あ、聡美ちゃんだ。今日は起きれたんだね」

「未希との約束がある日だもん。三度寝は我慢したよ」

「えへへ、そっかー。私たち、らぶらぶだね!」

「その表現はどうかと思うけど……」

 親友と呼べる間柄を表現するのに、らぶらぶというのは変だ。けれど、友に対する愛情を友情と呼ぶのなら、あながち間違っていないのかもしれない。

 どうでもいいことを考えていると、未希は駆け寄って私に抱きついてきた。ショートの髪型が与える活発そうな印象そのままに、彼女は活発で積極的な女の子だ。初めて会ったときはちょっと戸惑ったものだけど、今では慣れたものだ。

「だめだよ、ここは人前。そういうのは二人きりのときにやらないと」

「りょうかーい。じゃあ、夜まで待ってるね!」

「うん、それでお願い」

 聞く人が聞いたら誤解を生みかねない会話だけど、私と未希の仲が良いのは昔からだから、近所の人たちには知れ渡っている。

 いつもの挨拶のような会話を終えて、私たちは目的地へ向けて歩き出す。今日は未希と二人きりで買い物に行く日だ。けれどお金持ちなわけじゃないから、主にウィンドウショッピングになるのは仕方ない。

 いくつかの店を回った頃には、時間も十一時を過ぎていた。お昼はどこで食べようかと考えていると、途中で梨絵に出くわした。

「お久しぶりです、聡美先輩!」

「ん、久しぶり。今日も寝ぐせ、調子良さそうだね」

 梨絵は同じ部活の後輩だ。けれど、運動部ではないから夏休み中に部活はない。それでも夏休みに入ってから何度か会っているから、久しぶりというほど日は空いていないのだけど、休み中だと数日会ってないだけでも久しぶりな気がするのはおかしなことじゃないと思う。

「だから、寝ぐせじゃありませんって! これは立派なアホ毛です。そりゃ、もとは寝ぐせですけど、これだけ残して整えるのにはそれなりの時間がかかっているんですよ」

 言葉通り、他は整っているのに一本だけはねた髪の毛がある。頂点は私の口や未希の鼻と同じくらいで、見事なはね具合だ。だけど所詮髪の毛なので、身長の水増しには使えない。もちろん梨絵もそのためにセットしているわけじゃないけど、聞いても秘密ですとしか答えてくれないからそうしている理由はわからない。

 何となく、というにはこだわりが強いから何かしらの理由はあるんだろうけど、知ったところで特にメリットもないし、面白い反応ができるとも思わないので、深くは追求しない。

「そんなことより先輩、今日は未希先輩だけですか? お兄様は?」

「お兄ちゃんならいないよ」

「えー。智茂さんがいると思って声かけたのに、期待外れです」

 露骨に落胆した様子を見せる梨絵だけど、いつものことなのでさらりと受け流す。

「それじゃあ、今どこにいるのかわかりますか?」

「事務所にいるか、外にいるんじゃないかな」

「それくらいなら私でもわかりますよ! もう、先輩は妹なんですから、大好きなお兄ちゃんの居場所と交友関係、その他諸々の情報は常に把握しておくべきです!」

「私、そこまでブラコンじゃないから」

 頼りになるお兄ちゃんだし、好きであることは否定しないけど、そこまでするのは相当なブラコンだ。横目で未希を見ると楽しそうに微笑んでいる。最初のうちは喧嘩してると思って間に入ってきていたけど、これが普通の関係だとわかってからはいつもこの調子だ。

「まあ、私のはさすがに行き過ぎかもしれませんけど、先輩は気にしてなさすぎですよ。もう少し情報があってもいいんじゃないですか?」

「そうじゃないと梨絵が困る?」

「……えっと、その気持ちも半分くらいありますけど、それだけじゃないです」

「昔はよくお兄ちゃんのこと話してたのにね。小学生の頃は、聡美ちゃんの話の半分はお兄ちゃんの話題だったよ」

「そんなことない、って言えたらいいんだけどね」

 確かにそんな時期もあった。けれど、今はあのときより大人になったんだから、お兄ちゃんの話はあんまりしていないし、今お兄ちゃんがどうしてるのかななんて四六時中考えたり、暇さえあればお兄ちゃんのところに行ったりすることはない。

「そうだったんですか? それなら今はエスカレートして九割になっているのが普通なのに、何かありました?」

 未希の話を聞いて、梨絵が疑問をぶつけてくる。彼女と出会ったのは中学の頃。小学校時代の話は知らないから、聞いたら疑問を覚えるのは当然だ。エスカレートするのが普通というのは違うと思うけど、論点がずれるので放っておこう。

「特別なことは何もないよ。お兄ちゃん以外にも興味あるものが増えただけ」

「今は興味ないんですか?」

「彼女でもできれば、どんな人なのかなって確かめたいと思うけど、何でも知ってなくちゃいやなんてことはないよ」

「やだなあ先輩、そんなことする必要ないですよ。お兄様といずれ結婚するのは私って決まってるんですから、確かめなくてもわかります」

 似たような台詞を何度も聞いているけど、梨絵は一向にお兄ちゃんに告白する様子はない。正確には、告白したいけどできない、と言った方がいいのかもしれないけど、告白もしていない段階で、二人が恋人を飛び越えた関係になっている姿は想像できない。

 実際にそうなったら心配することもなくて楽だろうけど、後輩が義姉になったらちょっと呼び方に迷うかもしれない。

「と、それじゃそろそろ私は行きますね! 先輩の側に智茂さんがいないとわかった以上、自力で探さないといけませんし。それに、せっかくの二人きりを邪魔したくないですしね」

 言うと梨絵は素早く駆けていった。もし見つけたとしても一人で大丈夫なのかと心配になるけど、今は未希と二人きりで買い物に来ているのだからそちらが最優先だ。

 迷った末に結局いつものファーストフードで昼食を終えた私たちは、再びウィンドウショッピングに向かった。午前中は服やバッグを見て回ったから、午後は家電量販店でゲームや家電なんかを見に行くことにする。

 特に予定を立てずに回っていたので、決めたのは昼食のときだ。一人で行くときは書店も有力候補になるけど、二人でとなるとそういうところは相応しくない。書店での行動パターンは基本的に立ち読みだから、商品を見ることはできても会話が弾まない。もちろん、会話という点ではCDショップやアクセサリーショップ、その他にも色々とあるけど、今回はたまたま二人の行きたい場所が同じだったからすぐに決まった。

 たまたまといっても、いつもだって似たような場所に行きたいと思うことが多いからほとんど時間はかからないけど、行きたい店まで同じというのはそうそうあることじゃない。

「それじゃあ最初は……と」

 私の視線が止まった方向を見て、未希は歩き出そうとする私の腕を掴んで引き止める。

「どこ行こうとしてるの?」

「ゲームコーナーだよ」

「でも、あっちは私たちが行っちゃいけないところだよ」

「大丈夫。数少ないけど一般向けのもあるから」

「聡美ちゃんがそれに興味があるなら止めないけど、違うでしょ?」

「うん。当たり前」

 会話しながら隙をついて抜け出そうなんてことは考えない。単独行動をするなら二人きりで来た意味がなくなってしまう。だからこの会話は説得するためのものだ。

「未希、私たちの体格はほぼ大人。それに今の服は私服だから、堂々としていれば何も問題はないよ。二歳くらい足りなくても大丈夫」

「でも、誰か知り合いに見られたら危ないよ」

「先生に見つかったら困るかもしれないけど、クラスメイトなら仲間だよ。……まあ、未希がそういうのに興味ないんだったら諦めるけど、そうじゃないでしょ?」

「それは、その、否定はしないけど……いいのかなあ」

 少しは心が揺れてきた未希に決定的な一撃を加えることにする。最初からこれを言っても効果はあっただろうけど、そういう言葉は出し惜しみにならない程度にとっておいて、最後の決め手として使った方がより強い効果を生むものだ。

「前に未希の家に遊びに言ったとき、パソコンのブクマサイトをこっそり覗いてみたんだけど、そういうメーカーのサイトがいっぱいあったよね。具体的には確か――」

「聡美ちゃんがいけないんだよ。聡美ちゃんが教えるから、私もちょっと興味が沸いちゃってつい見ているうちに……もしものときは責任とってくれる?」

「うん。先生に見つかったら私がどうにかするから。安心して」

 誘った者の務めを果たす約束をして、私はそのコーナーへ向かっていく。しかし、そこへ辿り着く前に出会った人物によって、私たちは歩みを止めざるを得なくなった。

 オールバックの髪型に、知的に見えるスクエア型の伊達眼鏡という、言葉だけを聞くと変な人にしか見えない組み合わせ。けれど、高い身長と整った顔立ち、全身に漂う雰囲気から、それらがこれ以上なく似合っている人物。

 普通に暮らしている日本人で、そんな人を私は一人しか知らない。クラスメイトの白銀勇輝だ。

「奇遇だな」

 振り返って顔を見るまでもなくほぼ確信していた私の予想は、声によって正解だと示された。彼に見られた以上、このまま軽く挨拶をして直進、というわけいはいかない。

「勇輝はこれを見てるの?」

「ああ、見ての通り」

「他のところを見る予定はない?」

「否だ」

 もし彼も同じ目的を持っているなら、同志として特に問題はなかったけれど、そう上手くはいかなかった。この場合、私たちがとれる作戦はふたつ。諦めて家電を見に行くか、それとも彼を同じ道に引きずり込むかだ。相手によっては前者の方が有効だけど、勇輝は男の子だから後者も悪くないかもしれない。

 とはいえ、未希ほどではないにせよ私たちと彼は仲が良い。彼がそういうことに興味を示している様子がないのはよくわかっている。もちろん、女の子である私たちの前だから見せていないだけという可能性もあるけど、それは普通の男の子の場合だ。

「勇輝はあっちに興味ない?」

 いくら考えても行動をしないとわからないので、とりあえず指を指して目的の場所を示す。少なくとも、これだけなら私たちがそこへ行こうとしているという証明にはならない。たまたま気付いて聞いてみた、というのを装うことができるかもしれない。

 指指した方向を見た勇輝は、少しも考える素振りを見せないですぐに答えた。

「全くないと言えば嘘になる。だが、今の俺にはまだ早い」

「……勇輝くんもそういうのに興味あったんだ」

 未希がぼそりと呟いた。私もちょっと驚いたけど、あとに続く言葉から誘うのは難しいと判断する。ちょっと時間をかければどうにかなるかもしれないけど、そこまでするメリットはほとんどないだろう。

 十分後、私たちはもうひとつの目的であった、家電コーナーにいた。まずは最新のテレビコーナーをざっと眺めて、近くにあるコーナーから順に回っていく。一通り見終わったら、次は一般のゲームコーナーに向かうことにしよう。

 もうひとつのゲームコーナーに行けなくなったのは残念だけど、過ぎたことを考えても仕方ない。未希と二人きりで買い物に行くのは今日が最後なわけじゃないんだし、また機会があったら誘えばいい。

 コーナーを一通り回って店から出たときには、高かった太陽もだいぶ沈んでいた。店内で見た時計の時間は午後三時。まだ他の店を回る時間はあるけど、朝から色々と見てきて二人とも少し疲れている。残りは公園か喫茶店か、とにかく落ち着けそうなところで過ごそう。

 相談の結果、三秒とかからず行き先は喫茶店に決まった。夏の午後三時はまだまだ暑い時間だ。最も暑い時間に比べると少しは涼しいだろうけど、気休め程度にしかならない差だ。

 目当ての喫茶店に辿り着き、ざっと店内を見渡すと見覚えのある顔があった。コーヒー片手に文庫本に目を向けている、ショートヘアーでアスリート体型の男性。背が高くてやや目立つあの姿は、お兄ちゃんに間違いない。ブックカバーをつけて読んでいるということは、仕事中ではなさそうだ。

 手を振っても気付かないだろうから、私は店内に入って直接お兄ちゃんを呼ぶ。そこそこ空いている時間ということもあって、お兄ちゃんが座っている席は四人席。私と未希が座ってもひとつ余る。

 二人きりではなくなるけど、今日の朝はお兄ちゃんに挨拶をしそびれたし、ちょっと聞いてみたいこともある。それにもうひとつ小さいけれど重要な目的もある。

「聡美に未希さんか。どうやら、今日はちゃんと起きれたみたいだな」

「うん。当然」

「俺と一緒に出かけるときもそうしてくれるといいんだけど」

「鍵、閉めてないから入って起こせばいいじゃない」

「そう言われてもな、妹が寝ている間に部屋に入るのはちょっと勇気がいる」

 苦笑を浮かべるお兄ちゃん。私は別に気にしないって何度も言ってるのに、お兄ちゃんは気にするらしい。

「智茂さんは聡美ちゃんを女の子として意識してるんですね」

「うん、と答えたら誤解を生みそうな聞き方は止めてくれないかな?」

「お断りします」

 にっこりと拒絶する未希。こういうのは未希の癖みたいなものだから、止めろと言われても簡単に止められるものではない。いつものことなので、お兄ちゃんは「やっぱりか」と言うだけでそれ以上は食い下がらない。

「ところでお兄ちゃん、梨絵に会った?」

「梨絵……というと天塚さんか? 今日は会ってないよ」

「そう、ならいいの」

 お兄ちゃんは怪訝そうな顔をしていたけど、詳しく説明するわけにはいかない。梨絵がお兄ちゃんを探しているのはいつものことだけど、今までの話を聞くと梨絵はお兄ちゃんに偶戦を装って会っているらしいのだ。

 私はさっき近くで梨絵に会ったから、と簡単な事実だけを伝えてその話を終わりにする。三時間くらい前をさっきと表現するのは不適切かもしれないけど、細かいことは気にしない。

「お兄ちゃん、ケーキ食べたい。イチゴショート」

「あ、私はチーズケーキでお願いします」

「いきなりだな。まあ、それくらいなら構わないけど」

 これが二人きりを放棄してまでお兄ちゃんと同じ席に座った大きな理由だ。慣れているので梨絵も遠慮することなく食べたいものを注文する。梨絵曰く、可愛い妹に頼まれたら断りにくいのはお兄ちゃんの宿命らしい。そのあとには頼りになるお兄ちゃんを持った妹の宿命が続くんだけど、こっちは当てはまらないからぼんやりとしか覚えていない。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「ありがとうございます」

 もちろん、頼むときは突然でもちゃんとお礼は言う。これくらいの頼みならほぼ確実に応えてくれるとわかっていても、それを当然のことと思って何も言わないのは思い上がりだ。

 本を読み終わってから帰るというお兄ちゃんを残して、喫茶店を出たのは午後四時だった。そろそろ家に帰って夕食の準備をする時間だ。基本的に、朝はお兄ちゃん、夜は私が担当しているからサボるわけにはいかない。

 住宅街まで来れば家はもうすぐだ。ふと、後ろから車の音が聞こえたので道の脇によける。未希も同じようにしているかと思ったら、ちらりと後ろを見て慌てているようだった。

 何だろうと振り返る。走ってくるのは一台のトラック。こんな場所なのに速度を結構出していて、私たちをよけようと反対側へ向かう様子はない。むしろ、私たちの方へ向かっているかのようだ。

「……寝てる?」

「聡美ちゃん!」

 私が呟くのと、未希が叫んだのは同じ。未希はトラックの来ない方向へ私を連れていこうとするけど、あの速度では間に合わない。私は咄嗟に掴まれた腕を振り解こうとする。未希だけなら、何とかよけられる。

 けれど、未希は離してくれない。首を横に振って、無理にでも私を逃がそうとしてくれるけど、間に合うとはとても思えなかった。もちろんそれに気付いたのは私だけじゃない。未希も気付いていた。

 そうじゃないと、こんな行動をとれるはずがない。未希は私を引っ張る力は緩めずに、自分の足を止めていた。一瞬の後、私は未希に抱き止められる。

 それから強い衝撃が私たちを襲うまで、一秒もかからなかった。吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。痛みはある、けど何かを考えられるということは、怪我はしていても命はあるということだ。

「……大丈夫?」

「うん、ありがとう」

 どうやら未希も無事のようだ。私をかばうように覆い被さっている未希の身体を抱えて、立ち上がろうとする。だけど、私一人で未希の身体を持ち上げるのは難しかった。

「未希、立てる?」

 だけどその質問に未希は答えない。弱々しく首を振るわけでもなく、何も反応がなかった。衝撃で意識を失っただけ。今すぐ救急車を呼べば、大丈夫。荷物が遠くに飛ばされたから私にはちょっと難しいけど、トラックの運転手が連絡してくれればいい。

 視線を向けると、トラックは逃げ出す様子はない。けれど、誰かが降りて来る様子もなかった。でもそれは仕方ない、私たちを引いたトラックはそのまま、民家の塀に衝突しているのだから。

 運転手が無理でも、これだけの音がしたんだから、誰か他の人が見つけてくれるはずだ。今すぐ救急車を呼べば、応急処置をして未希も助かる、息も微かにしかしていないし、心臓の音もほとんど聞こえないけど、さっきは喋っていたんだから、まだ間に合う。

 なんだかわからないけど、涙が頬を伝っていった。おかしい、別にまだ未希が死んだと決まったわけじゃないから、悲しむ必要なんてないのに。

 拭うことはできないので、流れるままだ。私はただ目を瞑って、誰かが来るのを待つ。じっとしていると意識が遠くなってくるけど、私はちゃんと生きているから、少しくらい眠っちゃっても問題ない。次に目を覚ましたときには、きっと病院で、美希も側にいる。多分、私の方が元気で、手術して眠っている未希が起きるのを見守っているんだろう。

 誰かの足音と、叫ぶ声が聞こえてきた。良かった。これで助かる。涙は止まってくれないけど、安心した私は意識が薄れていくのに抵抗しなかった。


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