「おはようございます。今日は良き朝、目覚めの気分はいかがですか?」
そんなことより、私は空が飛びたい。
「目が覚めたのなら、この手帳端末を開いて下さい。それから、付属のタッチペンで画面に触れましょう」
見知らぬ土地。女の子の声。開いた手帳端末。触れたら私は空を飛べるのか。
『封鎖の契り』というゲーム。私の移動カードは『橋』。カードで空は飛べないけど、もしも『空』があるのなら、私は空を飛べたのだろうか。
私に空は飛べないの? 私は空を飛べないの? 私が空を飛んではいけないの?
何度も何度も繰り返した自問自答。
私に空は飛べない。私は空を飛べない。私が空を飛んではいけない。
でも、私は空が飛びたい。
乗り物や道具を使った飛行なら、思いつく限りあらかた試した。でも違った。私の空は鳥のように、乗り物や道具に縛られずに飛ぶものだ。
歩き出す。今日もまた、空を飛ぶ方法を見つけるために。どうやらこのゲームに勝利すれば、あらゆる願いを叶えてもらえるらしい。お金で叶えられる範囲の、という条件つきで。真偽を確かめる必要はない。あらゆる可能性を、私は否定しない。
私が空を飛ぶために、全ての可能性は理想への羽となる。
羽が集まり翼となりて、私は空を飛ぶ。飛行少女となる。
手帳端末に記されたマップによると、ここはエリア1と呼ばれる左上の丘。じっとしていても空は飛べないので、私の移動できる橋を探して歩き続ける。川のあるマップの右側、東を目指せばいずれ見えてくると思う。
と、そこで私は一人の女の子と出会った。
彼女の目指す場所もきっと私と同じ。同じエリアで目覚めて、新たなエリアを目指す。私たちは一瞬目を合わせたが、距離もあったのでそれっきり。
しかし再び、私は彼女に出会う。目的地である橋の前で。
「あなたも『橋』を?」
私は声をかける。女の子は警戒しているのか、答えない。小さいけれど幼くはない、とてもクールな印象を感じる女の子。
「お先にどうぞ」
「……ありがとう」
それだけ言うと、女の子は先に橋を渡ってエリア3に移動した。私はしばらく、体感で三十五秒は待ってから同じ橋を渡る。私の持つ攻撃カードの一枚目は『追跡』という。対象がエリアを移動してから、三十秒以内に攻撃者も同じエリアに移動する。それで攻撃は成立。
手帳端末に示された、女の子の名前は板前神奈木。警戒する彼女に、ここでさらに警戒を強めるような行動はとりたくない。契りを結べば、味方になるかもしれない相手なのに。
彼女は空を飛べるのだろうか。彼女の理想は羽を生やすのだろうか。
わからない。私には何も、わからない。
結果的に、私は彼女と契りを結ぶことはなかった。彼女には契りを結ぶべき、運命の相手がいるのだという。板前神奈木は大鎌神奈木になるかもしれない。あるいは、大鎌嵐雪が板前嵐雪になるかもしれない。
「だから私は応援しようと思います!」
神奈木の情報を教えてくれた、魔法少女の林藤ネイリーン。彼女はそんな言葉で最後を締めた。ゲームには関係ないけど、神奈木の恋愛は応援する。笑顔で、可愛く。
「私は空が飛びたい。ネイリーンは、私が空を飛べると思う?」
「うーん……わかんないけど、途中までなら手伝うよ?」
私はネイリーンと契りを結んだ。彼女みたいに魔法が使えれば、私も空を飛べるのかもしれない。でも、魔法は私を空には飛ばせてくれない。私がそれを知るのは、契りを結んで少し経ってから。不意に目覚めた、魔法の力を理解してからだった。
砂を動かし土を掘る。魔法は私に空を飛ばせてはくれなかった。
空を飛べないことに落胆していた私の前に、主催者を名乗る女の子が現れた。
「順調……順調ですね。いつになく、いえ、いつになく?」
名前は古宮杜梓葉。古宮杜といえば、優秀な警備システムで有名なあの古宮杜だ。そしてその警備システムの開発者の名前も、古宮杜梓葉。見た写真と比べても、同一人物。
「初めまして。梓葉の力と才能があれば、私は空を飛べる?」
「ああ、初めまして……色々お詳しいようですね」
彼女は私たちに声をかけてから、不思議な呟きをしてから黙っていた。ネイリーンが瞬時に名前を確認して、私が挨拶をする。知り合いではないけれど、よく知る人物に。
「可能性。私は空が飛びたい。……あなたなら、飛ばせてくれるかもしれない。そう思ったことが……あったから」
「まあ、私自身は存在を隠しているわけでもないですし、特別な警備もつけていないのですから、調べるのは難しくないと思いますが……三千花さんは、凄いですね」
素直な賞賛。嘘のない賞賛。でも、そんな賞賛は私には無意味だ。
「でも空は飛べない。私は空が飛びたい」
それが私の理想だから。空を飛べることに対する賞賛しか、嬉しくない。
「私にどこまでお手伝いできるかはわかりません。ですが……いえ、それよりも、一つよろしいですか?」
「はーい!」
「……はい」
ネイリーンがすぐに答えてしまったので、私も続いて答える。
「今回の『封鎖の契り』なのですが、少々不思議な――不可思議な現象が確認されておりまして。それも一つではなく、何度も。私の警備システムにもそれらの情報が蓄積されてはいるのですが、どうも正体が掴めなくて……そこで、舞鳥三千花さん。それから魔法少女の林藤ネイリーンさん。お二人に相談をさせてもらおうと思いまして」
「ん? 私はいいけどー」
「なんで私に?」
私には梓葉のような才能はない。ネイリーンのような魔法も使えない。それに……それに。
「……空、呼んで、違う。空じゃない」
何かが私の中を抜ける感覚。知らない、私は知らない感覚が抜けていった。
「理解、していただけました?」
「梓葉も、これ」
「いえ、私は全く……ただ、警備システムに蓄積されたデータによると、三千花さん。あなたがそれに最も近しい、そう示していますわ。ですから少々、お二人と行動をともにさせていただきます」
「あれ? ねえ梓葉ちゃん、それ私おまけみたい」
「おまけですね」
ネイリーンの言葉に、梓葉はあっさりと笑って答えた。
「ふーん。ま、いいんだけど……私はこの魔法で活躍できれば」
「……強大な敵」
「うん。さっすが、三千花さんはわかってるねー!」
「……私はわからない。空を飛びたいのに、私は空が飛びたい」
それなのに、空を飛ぶためのことはわからない。空を飛べないことだけがわかっていく。私の羽は翼にならない。翼になる前に、羽のままで落ちていく。
私に空は飛べないの? 私は空を飛べないの? 私が空を飛んではいけないの?
自問自答に答えるのは私だけ。
私に空は飛べない。私は空を飛べない。私が空を飛んではいけない。
だから、飛べない。でも、飛びたい。
「ラーク――リアネラはいいの? それに、ゲームは?」
「あら、お詳しいですね。彼女のことは、そうそう外に出る情報ではないのですが」
それでも私は知っている。能海川リアネラ。梓葉と並んで、笑顔を見せていた少女。古宮杜梓葉が関わっているなら、彼女もきっと関わっている。そんなの、わかって当然だ。
「まるで探偵さんみたいですね」
「私は探偵じゃない。……でも、目指すところは同じかもしれない」
「ふむ……ゲームについては、お気になさらず。私も相当、興味がありますの。私の警備システムでも把握しきれない存在……私の才能を超える存在」
「このゲームも、そのためなの?」
ネイリーンの言葉に梓葉は頷いた。
「そう。なら、封鎖ルームの場所を教えて。大きな石版のあるところ」
「ああ……よく知っていますね」
「……でも、空は飛べない」
私はそれを知っている。それがあることを知った。空を飛べない、地下に埋もれた石版。
案内に従って歩く途中、唯一がナンパしてきた。
「可愛い女の子が三人も揃って、楽しそうじゃないか。どうだい、俺も混ぜて」
「ごめんなさい、また今度ねー」
「私は空が飛びたい。……あなたじゃ、飛べない」
「だそうです。さようなら」
短い言葉であしらった。
「空か……天国のような快感なら、与えられるかもしれないぞ!」
「そこの変態ー! 私の女の子たちに、ちょっかい出さないでよ!」
後ろから聞こえる声に、別の声が覆い被さった。直後に微かな、打撃音。
「……いいの?」
「ええ。まあいいでしょう。今はゲームもお休みですし」
「くっ……俺は女の子に手を出すのは、手を出すなんて!」
「いいから、男は消えて。よくわかんないけど止められない、今のうちに一人潰す!」
本当に大丈夫なのかと思うけれど、ネイリーンも気にしていない。それに二人の争いに構ったところで、私たちに益はない。唯一も、涼香も、女の子が好きな仲間。
私は彼を知らない、彼女も知らない。知らないけれど、わかっている。
封鎖ルームの前に到着すると、一人の女の子が私たちを待ち構えていた。
「ああ、いらっしゃい梓葉さん。それから三千花さんに、ネイリーンさん。死体は?」
「死体があれば、私は空が飛べる?」
「さあ、それは私にも……ないの? ないんだ。だったら、あとは任せよう。私は無駄な推理はしない主義でね」
ネイリーンは手帳端末を開いていた。私は開くまでもなく、去っていく三神を見送る。梓葉が開いていないのは攫った主催者だから当然のこと。私は、当然のことじゃない。
「……ああ。連続殺人は起こらないのかい? いや、彼女たちの死体はできれば……」
三神の呟きははっきりと耳に届いた。彼女も理想を、私の空と同じように求めている。
でも決定的に違うのは、彼女には既に翼があること。その翼で羽ばたく空が、まだ吹雪に包まれているだけ。真っ白な空を飛ぶには、少女一人の翼ではすぐに折れてしまう。
地下へと下る階段を、一歩一歩私たちは下りていく。
「これですわ」
何やら操作をして開かれた封鎖ルームの扉。先に入った梓葉が示した石版に、私とネイリーンは近づいていく。柱の中に埋まった石版。描かれた綺麗な文字。
私にはわからない。けれど、私にもわかる言葉。
「どうですか?」
「……空は、飛べない」
私の知らない知識。私に理解できない知識。でも、それは私を空に飛ばす知識ではない。それだけは明確に、明確すぎるほどに理解できた。
今の問題は、この理解できない情報をどう二人に伝えるか。梓葉の目も、ネイリーンの目も、私に向けられている。二人は私の言葉を待っている。
「先史生命」
私は言った。
「この地に眠る不可思議な存在は、先史生命の粋」
読めた言葉をそのまま。わかった名前をそのまま。
「先史生命……先史文明ではなく?」
「はい」
「人類より、もっと以前の……いえ、あるいは同時期の。先史生命の粋……」
これだけで梓葉は考えられる。私には理解できないことも、彼女には理解できるかもしれない。ネイリーンは、私と梓葉の顔、それから石版を順番に見て、その動きを繰り返していた。
「色々調べる必要がありますね。より詳しいデータを、リアネラと合流して……」
「そのスイちゃんを、私が倒せばいいの?」
「スイちゃん?」
ネイリーンの言葉に、梓葉が首を傾げた。
「先史生命の粋。粋だから、スイちゃん」
「そうそう。さすが三千花さん!」
「……ああ。確かに、短い方が呼びやすいですね」
呼び名が決まったところで、私たちは封鎖ルームを出た。リアネラに合流するという梓葉に、私とネイリーンもついていく。わかれなくても、わかっている。これもまた、理想のための一枚の羽。私が空を飛ぶための、翼になる羽。
梓葉の移動カードは『穴』。私たちとずっと一緒には移動できない。道中の別れ際、ネイリーンの『空』で私たちが先にエリア4へ向かい、トンネルの前で梓葉を待つ。
国滅ぼしの土地。その知識は、石版には一言も描かれていなかった。欠けた石版の、欠けた情報。その可能性がないことも、私はわかっていた。
足りない知識は梓葉に聞く。知っていた知識は言葉にする。知識を補い、与え合う。
「むむ……魔法のことなら、私が一番詳しいのに!」
残念ながら、これは魔法のことではない。ネイリーンの詳しさはあまり役に立たなかった。
「でも、魔法はある。この土地で目覚める前から、ネイリーンにはあった」
それは凄いことだと思う。とても凄いことで、ありえないこと。彼女の理想は、ありえないことから始まっている。じゃあそれをありえないと決めたのは、一体誰?
「おお! じゃあもしかして、私、その先史生命の生き残りなの?」
「ありえない」
これは本当にありえないこと。この地に眠るは先史生命の粋。不可思議な存在を生み出した先史生命は、滅びを迎えている。
「そっかー。だよねー」
「でもそれに近いのかもしれない。そして一番近いのは、私なのかもしれない」
そのはずの私にも理解できないことばかりだけど。私は空を飛べないけれど。それでもここにいる誰よりも、それを私はわかっている。スイちゃんは私に、何かをしてくれている。
梓葉が来る前に、他の人物が姿を現した。
「なんだか普通じゃない状況になってるみたいだね」
「ふ。この状況、最初から普通じゃないだろう?」
男の子の二人組。名前は鞍馬勇馬と、中原灸。これも私は、知らずともわかっていた。
「あ、勇馬くんに灸くん。初めまして、なんだよね?」
手帳端末を開いて確認していたネイリーンは、曖昧な挨拶をしながら微笑んでいた。
「そうだけど、初めてな気がしないね」
「奇遇だな、勇馬。俺も初めてとは思えない」
並んだ二人は私たちと距離をとったまま。これだけ離れていれば、灸の足でもすぐには近付けない。勇馬の得意なゲームも、戦う相手がいなければ始まらない。
「さて、二人に確認したいんだが……」
「君たちも契りは結んでいるんだろう? でも、今は迷惑かな?」
灸が先んじて口を開き、勇馬が続ける。息を合わせた、穏やかで冷静な二人の声。
「それで空が飛べるなら、私はいつでも戦える。でも、ここで戦っても空は飛べない」
「私たち、ちょっと待ち合わせしてるの。あ、私はおまけなんだけどねー」
私たちの答えに、勇馬と灸は頷き合って、歩いてきた方向に戻っていった。自由に行動はしているけれど、ゲームは中断していない。それでも、不要な戦いは起こらない。だけどもし私一人だけなら、今の戦いは避けられなかった。ここまで、簡単には。
勇馬と灸。彼ら二人の理想と、ネイリーンは繋がっていた。繋がっている。彼らの羽も、翼になっているのだろうか。私の羽は、まだ翼に届かない。
しばらくして、梓葉が私たちに合流した。
リアネラのいる建物を目指して、私たちは三人になって歩き出す。
一つの建物。一つの階段。一枚の扉。その奥にいるリアネラに、梓葉は声をかけてリアネラは答える。
「ハイ! 用件はツタワッテまーす。データ、用意してマスよ!」
「ありがとう。見せてもらいます」
開いた扉の先で、いくつかのモニターが見える小さな機械の前、どこで印刷したのかわからない資料を受け取って、梓葉は用意されていた椅子に腰を下ろした。
「オウ! 初めマシテー! サンゼンカ・アンド・ネイリーン! 能海川リアネラでーす。リアネラ・イズ・ビューティフルガール!」
「初めましてー。ネイリーン・イズ・マジカルガール!」
ちらりとネイリーンが視線をよこした。リアネラも期待のこもった目で私を見ている。
「初めまして。舞鳥三千花。私は空が飛びたい」
私は空を飛べない少女。でもそれを口にしても自己紹介にはならない。
「フライガール?」
リアネラが聞いた。
「スカイガール」
私は答える。もっと空に近いのは、こっちの方。
「イエス! サンゼンカ・イズ・スカイガール!」
綺麗な発音で言われても、私はまだ空を飛べない。正しい表現じゃないと思うけど、私の理想には近い表現。だから文句は言わない。
「みなさん、こちらは終わりました。やはり明確な情報はないようです。三千花さん、何か思いつきませんか?」
短い自己紹介の間に、梓葉は確認を終えていた。
「ラークはどこ?」
姿の見当たらない警備ロボットの所在を、まず尋ねる。
「あ、ここデース!」
言葉と同時に閉じたはずの扉が開いて、浮かぶラークが姿を見せた。
「ラークに不調はないですよ。記録には、不可思議なものもありますが」
「……そう。とりあえず乗って移動していい?」
「ラークは乗り物ジャナイでーす。それに、サンゼンカを乗せたママダト、エリア移動できないデスヨー?」
「だめ?」
「少しダケでーす!」
私はラークの上に座ってみた。座り心地のいいラークに乗って、私は梓葉と一緒に階段を下りる。ネイリーンはラークをどう動かしているのか興味があると、リアネラのいる部屋に残っている。
ラークに乗って、私は空に浮いている。でも、これで私が空を飛べたわけではない。
「どこまで高く飛べるの? 限界までお願い」
「人を乗せた状態での限界は……酸素が心配ですね」
「スコシだけデース!」
ラークに乗った私は、建物を越えて空高くまで飛んでいった。私を固定するものは何もなく、座り心地のいいラークの上。私が少し動いても、バランスをとって安全飛行。
でも、ここで私が腰を上げたら?
地面は遥か下。ここから飛べば、私は空に出られる。でもそんなのはスカイダイビングと変わらない。着地方法と、高さが違うだけの、スカイダイビング。私の羽も、翼も、なくて飛べないことを、再確認するだけの行為。
「私は空が飛びたい。落ちないで、空を。……空」
上を見て、空を眺める。降下するラークに座ったまま、私はただ呟いた。
「いいなー。あれ、私も乗りたい!」
「ラークは乗り物じゃないデース!」
「似たようなアトラクションなら、その気になれば用意できますわ」
地面に降りたら、ネイリーンとリアネラの会話が聞こえてきた。ネイリーンだけでなく、リアネラも建物を出てここに降りている。
「ふふ、操縦なら安心して下さい。詳細は秘密ですが……」
「安全ならそれでいい」
リアネラとラークと別れて、私たちは目的地も決めずに歩き出す。まだ出会っていない人がいるから、ただそれだけの理由があれば十分だ。
ステージの上、山のエリアの広いステージ。彼女はそこでベースを弾いていた。
観客席には、神奈木と嵐雪の二人だけ。ステージには、一人の少女。
「あ、デートだよデート! きゃー!」
ステージ上の少女の演奏は少し続いて、見つけた私たちに笑顔でサイン。
「神奈木お姉ちゃん、告白はしたのー?」
「告白ってなんだ?」
「嵐雪お兄ちゃんには聞いてないよ!」
黙った嵐雪の目がこちらを向いた。小さく礼をするのは、初めましての挨拶。私も礼を返しつつ、再開されたベースの音楽に耳を傾ける。
「私が嵐雪を好きだってこと。返事はすぐにお願い」
「ん? いやベースの音でよく聞こえないんだが」
そんなはずはない。少し離れた私にも、二人の声はちゃんと聞こえていた。
「わかりやすくキスなんてしないから。次はぐらかしたら、嫌いって判断する」
「迷う時間を下さい」
やっぱりである。二人の恋がどうなるかは、私にはわからない。でも迷う時間が必要なくらいに、二人の関係は良好だってことはわかる。神奈木の羽も、輝いている。嵐雪の羽はわからないけれど、番になれば翼になる。羽と羽が揃えば、翼になるのだ。
演奏を終えたステージ上の少女が、ステージを降りてこちらにやってきた。
「こんにちは。ベーシスト椋比奈理、私の演奏はどうだった?」
「最高でしたよ。しかし、一つ不思議な点がありますわ」
「何かな? えーと」
「古宮杜梓葉です。……手帳端末は、どうしました?」
梓葉の質問に比奈理が答える前に、私も挨拶をしておく。
「舞鳥三千花。ゲームは続行中?」
「うん。でもほら、二人しか集まらなかったし、それに……なんかね。裏方の三神さんに手帳端末は預けてるんだー」
比奈理の微笑みはとても優しい。そしてその笑顔よりも、さっきの演奏はもっと優しい。
「私の羽……私の、羽?」
違う。私は羽を見つけた。でも、この羽は私のための羽じゃない。いくら集めても、私を空に飛ばせてくれる翼にはならない。それはわかるのに、わからなかった。
「私は空が飛びたい。あなたは私を空に飛ばせてくれるの?」
その言葉は空に向けて。あるいは、私に向けてなのかもしれない。少なくとも、ここにいる比奈理や梓葉に向けてではないし、遠くで話している三人に向けてでもない。
空から答えはなかった。
私からの答えもなかった。
自問自答はもうしない。自問自答はもうできない。それが自問で、それは自答なのか。今の私にはわからないから。わからなかったから。
私の中には私しかいない。この言葉は、私に答えを求めない。
「どこにいるの? ……声は、聞こえるの?」
先史生命の粋。この土地に眠る、スイちゃん。声に答えは、返ってこない。
「どしたの? あ、アンコールならいつでもいいよー!」
「お願い」
私は無意識に答えていた。比奈理は笑顔で頷いて、構えたベースを弾き始める。
「何か……いえ、やめておきましょう」
梓葉はこちらを見て、言葉を抑えた。私の表情を見て、私の雰囲気を感じて、それとも私ではない何かを、不可思議な存在を見つけて。続かなかった言葉。続く言葉も、続けなかった理由も、私にはわからない。
音が流れていく。
激しく、静かに、軽快に。
たった一つの楽器。一本のベースから流れる様々な音。
優しく、流れて、震わせる。
懐かしさを感じたのは、私か、それとも。
演奏は続く。
演奏の中で、私は知る。
今の私には、空は飛べない。私の体は、地上に立つだけ。
でも心なら。心だけなら、空は飛べる。
果たしてそれが私なのか、私に近い何かなのか。それは、飛べばわかること。
「ふう……ちょっと休憩ね。あ、何かリクエストある?」
比奈理の声が聞こえた。空を飛ぼうと思い、空を飛ぼうとした私の心に、その声はちゃんと聞こえている。じゃあやっぱり、空を飛べたのは私の心ではない。
私に空は飛べないの? 私は空を飛べないの? 私が空を飛んではいけないの?
自問自答に私が答える。
私に空は飛べない。私は空を飛べない。私が空を飛んではいけない。
それがあなたの理想なら。
自問自答に何かが答える。声もなく、言葉もなく、ただ意味だけが理解できる答え。
「お、リクエスト……じゃない?」
「あら……ふふ、これはこれは」
比奈理と梓葉の声が聞こえた。言葉として、意味はよく理解できない。遠くの三人、ネイリーン、神奈木、嵐雪も互いの顔を見合わせている。おそらく他の人たちにも、この場にいない、
けれどこの土地いる六人にも、それは答えた。
私は空が飛びたい。
それがあなたの理想なら、私は理想の結末を求めましょう。
声も、言葉も、ただ意味だけが伝わる。
そしてその存在が何者か、私は知っている。スイちゃん。先史生命の粋。この地に眠る、不可思議な存在。国滅ぼしの土地に眠る、国を滅ぼした存在。
「よく理解しました。スイちゃんは、私にも理解できない存在。正確には、存在そのものは理解できますが……存在させる方法が理解できない、素晴らしい存在ですわ」
「んー、理解できたはいいけど……これって大丈夫なの?」
そして今、この理解は私以外にも及んでいる。それはつまり、スイちゃんが私たちを束ねたということ。封じる霊の束縛を解き、魔法の縛りを連なって、存在は顕現した。
「……統べて世界の仮の結末」
求める理想はただ一つ。導いては、眺め、理想の結末を求める。先史生命は、世界を統べた。世界の存在そのものを、統べていた。その粋が今、私たちの前に現れている。
「それは……、石版の?」
梓葉の問いに、私は頷く。今なら理解できる、わかった言葉、読めた言葉。
「では、国が滅んだ理由は……。そうですか、そういうことだったのですね」
梓葉の顔を見る。これは私にも理解できない。比奈理も同じで、私たちは答えを待つ。
「少しお待ちを」
梓葉は手帳端末を開いて、少しの時間操作をしていた。すぐに現れたのは高速浮遊するラークで、遠くを見るとその後ろでリアネラが駆けている。
「リアネラ、他のみなさんにも伝えられるように」
「イエス! いつでもイイでーす!」
ラークから聞こえるリアネラの声。
「スイちゃんは土地に暮らす者の、理想を求めたのです。しかしそれが国ともなれば、理想は人の数だけ存在する。その全ての理想を叶えようとした結果、辿り着いたのは滅びであったと私は考えます」
この言葉はここにいない人にも聞こえているのか、聞こえていても理解できるのか。でもこの土地にいるならきっと、理解できなくてもわかってしまう。その存在、スイちゃんはここにいるのだから。
「けれど、私たちは国ではありませんわ。この土地にいるのは十二人。その全ての理想を求めたとて、滅ぶことはないでしょう。安心して、ゲームを続行して下さい」
梓葉は言葉の間に到着したリアネラに合図を送り、そこで言葉を切った。
「ゲームは続けるんだー」
「中断しないのか」
「それが梓葉さんの理想」
言葉の間にやってきていたのは、リアネラだけではない。彼女より近くにいた、ネイリーン、嵐雪、神奈木の三人もこちらで梓葉の言葉を聞いていた。
「……私は空が飛びたい」
その理想はもちろん変わらない。スイちゃんが現れても、私に翼は現れない。
「ふむ。彼女のようなものならまだしも、二人ほど問題がある人物がいるのではないかな?」
タイミングを見計らって、物陰からポーズを決めて姿を現した三神。私からは隠れる姿が見えていたけれど、隠れたことよりも大事なのはその言葉。
「女の子を惚れさせハーレムを作る少年と、男を排除し女の子を襲う少女。二人の理想は、相反するようなものに思えるね」
「三神さんは?」と比奈理が聞いた。
「ああ、私の連続殺人はここで起こらなくても構わないさ。――ああ、そうか。唯一くんと涼香さんも、別に私たちをハーレムにしなくてもいいというわけだね」
と言って、三神は比奈理に微笑んだ。二人は良き仲間として、二人で理想を求めていくのだろう。二人の異なる翼があれば、吹雪の空も切り抜けられる。
「私の魔法はスイちゃんがくれたもの。スイちゃんは私の神様?」
ネイリーンの疑問が声となって響いた。
「この土地に来る前から目覚めていたのなら、それはあなたの力ではありませんか?」
「この土地を離れちゃったら、元のか弱い魔法少女?」
彼女の魔法の力は、スイちゃんと同じ力。この土地で強くなったのが、彼女に眠っていた力をスイちゃんが目覚めさせたのか、スイちゃんがいるから一時的に高まったのか。
「今目覚めてるのって、三千花さんだけだよね?」
「空は飛べない魔法。ネイリーンにあげられる? あげたら、空を飛べる?」
答えは小さな羽となって、返ってきた。私にはわからない答え。でも、ネイリーンにはわかった答え。それは彼女の表情を見れば、瞭然だった。
「ま、大丈夫だよね。私は魔法が使えるの。それはずっと、変わらないから」
ネイリーンは朗らかに笑ってみせた。その笑顔に、私たちの誰もそれ以上は尋ねない。どんな答えが返ってきたのかはわからない。でも、彼女の翼はとても大きく見えた。
その翼に、私が憧れることはない。彼女の翼は、彼女のための翼。林藤ネイリーンが魔法少女であるための、空を飛ぶための翼ではないから。でもその大きさに、私の羽も集まり出していた。ばらばらだった羽が、一つの翼となっていく。
それでも、私の羽は小さな翼。空を飛ぶための羽は、大きな翼となるにはまだ足りない。
理解する。
私はまだ、空を飛べない。私の理想には、まだ届かない。
「よ、っと。いつかこういうところで、ショーでもやってみたいな!」
「そういうのは別の人の仕事じゃないかい? スタントマンが顔出しのショーなんて」
「とうっ!」
ステージから飛び降りた灸に、勇馬が苦笑を浮かべる。風に乗って聞こえてきた会話はそこまでで、それ以上は断片として少しの声が聞こえるだけだった。
アクション俳優……趣味じゃない……意味を理解できる範囲で聞こえたのは、ここまで。
二人はこちらに軽く手をあげて、挨拶の仕草を見せてから去っていった。比奈理に呼ばれて遅く到着したのか、スイちゃんを理解して様子見に近寄ってみたのか、ここに来た理由はわからない。でもゲームは続いているから、長居はしなかった。
あの飛び降りも、とても懐かしい。あれで空を飛べないか、もっと勢いをつければそのまま飛べないか、幼い頃から何度も試した。結果、飛べないことを理解した。
私は空が飛びたい。
先史生命は空が飛べたのだろうか?
「さて、三千花さん」
梓葉の声が聞こえた。改まったような、それでいてとても優しい顔。
「私、思うのです。あなたの理想は、このゲームで勝たなければ叶わないのではないかと。そうなると、私たちもかつての国のように、滅びを迎えるのかもしれません」
そして少しだけ、自信なさげな声と言葉で。
私にはわかる。わかったから、答える。
「大丈夫。……滅ぶなら、もう滅んでいるから。梓葉は余計なこと、考えなくていい。ただ少しだけ、私が空を飛べる方法を考えながら、本気でゲームを楽しめばいい」
私は空が飛びたい。その可能性は――可能性の羽は多い方がいい。
それは勝利宣言でも、敗北したときのお願いでもない。ただ空を飛ぶために。先史生命が生み出した、先史生命の粋。そこに近付くように、より高みを、高く空を目指すため。
私の理想は、羽を集めて翼になる。
私に空は飛べないの? 私は空を飛べないの? 私が空を飛んではいけないの?
自問自答。
私に空は飛べる。私は空を飛べる。私が空を飛んではいけなくない。
それが私の理想だから。
何度も何度も繰り返した自問自答は、初めて違う答えに導かれた。
自信は、最初からある。確信も、最初からあった。でも、答えはいつも同じだった。
それも全て、きっとこの日のため。スイちゃんが眠ったままの世界で、私が空を飛んではいけなかった。スイちゃんが目覚めた世界なら、私が空を飛んではいけなくなくなった。
それがわかるかから、私の答えも変えられた。
私は空が飛びたい。
その理想の羽を、空への翼にするため。羽ばたく前に、地で休もう。
たっぷりの休養を、羽ばたく力とするために。
先史生命編 完