「おはようございます。今日は良き朝、目覚めの気分はいかがですか?」
目が覚めて聞こえてきたのは、そんな声だった。
「おはようございます。今日は良き朝、目覚めの気分はいかがですか?」
逆か。この声で目が覚めたのかもしれない。どこからか聞こえる声は、どこか無機質で、同じ言葉を繰り返していた。
「目が覚めたのなら、この手帳端末を開いて下さい。それから、付属のタッチペンで画面に触れましょう」
声の方向を探っている間に、違う言葉が聞こえてきた。声はポケットから聞こえてくる。ポケットに手を入れると、そこには何かが入っていた。手触りのいい、皮のような感触。家を出たとき、ポケットの中は空だった。危険がないこと、それから声の発生源が他にないこと。軽く確認して、それを取り出してみる。
ポケットから出てきたのは、手のひらよりも少し大きめの手帳。開いてみると、左には端末がついている。……これが、手帳端末だろうか?
声は再び、最初と同じ言葉を繰り返している。その言葉が二回流れてから、言葉が変わる。
「目が覚めたのなら、この手帳端末を開いて下さい。それから、付属のタッチペンで画面に触れましょう」
画面に触れてみる。指、では反応がない。指紋も目立たない。タッチペンは……開いた手帳の間にある。それを慎重に取り出して、改めて端末に触れてみる。
これは手帳の形をしたケースに端末が入っているのか、それとも手帳端末と呼ぶのなら、端末と手帳が融合したものなのか、反応がない間にそんなことを考える。
「おはようございます。今日は良き朝、目覚めの気分はいかがですか?」
言葉は繰り返される。けれど、さっきまでとはその間隔が違う。繰り返される声はこの言葉だけで、聞こえるのは体感で十秒おき。指示はもうない。
「なんなんだ……いたずら、なのか?」
手帳端末の右側には、四枚のカードが入っている。鍵がかけられていて抜き差しはできないようだ。端末の画面にはどこかの地図が映っているが、タッチペンで様々な触れ方を試してみても画面に変化はない。
そして、手帳端末から顔を上げると――広がるのは、見知らぬ土地。
「いたずらにしては、手が込んでるな」
そうして苦笑してみせた瞬間、手帳端末にノイズのような音が走った。ザザッ、という非常にわかりやすい、通信が繋がったことを露骨に示すような音。これ、無線機じゃないよな?
「こほん」
咳払いのような一言で、その声は始まった。女の子の声、だ。
「おはようございます。みなさん、目が覚めたようですね」
その声は、最初に聞こえてきたどこか無機質な声とは違う。でも、何度も聞こえてきた声と同じ声だ。録音ではない、手帳端末の向こうで、声の主は喋っている。
「早速ですが、今回のゲームのルールを説明します。あ、その前に、タイトルをお教えしましょう。今回のゲームは名付けて! 『封鎖の契り』です!」
「……それよりここはどこなんだよ」
いきなり高いテンションで、唐突に始まった説明。思わず呟きが口から漏れる。
「……ふむ。呟いたのは五人、それでなくとも受け入れられない様子を見せているのは三人ですか。ここはどの国にも属さない独立地帯。私個人の所有する土地です。ですから、ゲームをするのにどの国の法律も適用されません。少なくとも、ここにいる限りは。安心してゲームをお楽しみ下さいな」
聞こえている? いや、彼女は様子についても告げていた。つまり、監視されている?
「この地は六つのエリアに分かれています。手帳端末の右に、カードがありますね? 一番上は移動カード。その下の二枚が攻撃カード。一番下は防御カード。ルールは単純です。この土地をボードに見立て、攻撃カードに示された手段で相手を攻撃して、自分以外の所持ポイントをゼロにしたものが勝ち。一人の所持ポイントは、左の端末に表示されている通り、5ポイントです」
わけがわからないまま、指示された場所に視線を動かしながら説明を聞く。端末の画面はいつの間にか変わっていて、下部には五つに区切られたゲージが移っていた。その上に、いくつかのアイコンが並んでいる。横長で、そのうちの一つには地図と書かれていた。
「端末からは、土地のマップを表示する地図、確認したプレイヤー、確認したカードリスト、それから基本ルールが見られます。攻撃が無効な場所もありますので、早めに目を通しておくのをおすすめしますよ」
地図、プレイヤー、カードリスト、ルール……上から並んでいる。
「そして今回のゲームには、契りという大事な要素があります。正式には契り・協力ルールと呼びまして、誰か一人と契りを結ぶことでゲームを有利に運べます。互いの端末から伸びるコードを繋ぎ合わせて、表示される画面にタッチすれば、契りは完了です」
どう有利になるのかは、基本ルールを確認しろということなのか。それとも誰かが質問をしているのか。女の子の声はそこでいっとき途切れて、次に聞こえたのはこの言葉。
「では、『封鎖の契り』――ゲーム開始です」
ザザサッ、というまたもわかりやすい切断音とともに、声は聞こえなくなった。
「なんなんだ、ゲームって、どうして俺たちが集められたんだ?」
呟いてみたが、答えは返ってこない。聞こえていないのか、聞こえていても無視しているのか、どちらにしてもこれ以上やっても意味はなさそうだ。
「……とりあえず、動くか」
それでも声には出しながら、行動を開始する。「呟いたのは五人、それでなくとも受け入れられない様子を見せているのは三人」。そう声の主は言っていた。一人が自分とすると、他には少なくとも七人の人間がこの場所にいることになる。
端末を触ってみても、確認したプレイヤーに表示されるのは自分の名前だけ。大鎌嵐雪という、記憶と一致する自分の名前だ。
地図を表示する。それから、所持している移動カード『船』で移動できる場所を確認。
上から流れる二本の川が合流し、一本の川となり下へと流れていく。地図には各エリアの番号も表示されていて、一本目の川の左側が1、川の間の上部が2、下部が3、二本目の川の右側が4、それから川が合流して、その左側が5、右側が6。
今自分のいる場所は、4と表示されている場所だ。景色を見ると、少し高い丘のような場所であるようだ。川は……遠くの方に微かに見える。反対側も気になるが、今はいい。
理由はわからない。方法もわからない。目的は……ゲームをすること以外わからない。だけど周到な準備がなければ、こんなことはできないはずだ。マップ外と思われる方向に向かったところで、簡単に脱出できるようには作られていないだろう。
だから目指す場所は、マップ中央の3。ここに行けば、きっと誰かと遭遇できる。
船着き場は、すぐには見つからなかった。けれど川沿いに歩けば、その上流に船の姿が見えてくる。モーターを積んでいるようには見えないが、手漕ぎでもなさそうだ。
とにかく近付いて、迷わず乗り込む。すると、手帳端末の画面が切り替わった。表示されているのは二つの番号。3、6。ここから行ける二つのエリアだ。
端末をタッチすると、船はゆっくりと、自動で動き出した。どういう仕組みかはよくわからないが、これなら誰でも動かせそうだ。手帳端末さえあれば。乗る直前に目を通した船着き場に貼られていた紙には、二つの言葉が書かれていた。
・船に乗ったら手帳端末を開いて、端末の画面を見ましょう。
・手帳端末がなければ、船は動きません。
他の移動手段でも同じことが書かれているのかはわからない。川沿いに歩く中、立派な橋が見えたから、移動カードの一種類は『橋』なのかもしれない。
目的地の到着までは、しばしの時間がある。ゲームに参加する気はないけれど、ゲームの参加を拒否できるヒントがあるかもしれない。そう思って、俺は端末から基本ルールに目を通すことにした。
「……やっぱり、ないか」
基本ルールは基本ルール。戦略ルームや、封鎖ルーム、攻撃カードの有効時間や、防御カードの詳細。書かれていたのはそれだけで、ゲームの説明書らしい説明書だった。ほんの少しのユーモアと、詳細な図解。これならすぐにルールは理解できるだろう。
「に、しては」
一つだけ、基本ルールから抜けている情報があった。契り・協力ルールだ。一応小さなコラムの形で触れられてはいたが、その内容はこう。
「特殊ルールとして、契りという要素があります。一人のプレイヤーと協力して、ゲームを有利に進めちゃおう! 詳しい効果は、結んでみてのお楽しみっ!」
それから、声でも説明された契りの結び方が、わかりやすい図解つきで。コードを取り出して確認してみたが、やはり自分の持っている手帳端末だけでは何もできないみたいだ。
船はもうすぐ目的地、エリア3に到着する。船着き場周辺には、人の姿はなかった。
他の移動カードがどんなものか、何種類あるのかはわからない。けれど、何人かはこの中央を目指すか、経由することにはなるはずだ。その俺の読みは、当たった。
船を下りて少し離れた場所。お洒落なベンチに腰掛けて、ひたすら待っていた。ここに来るまでも同じ形のベンチはいくつも見かけた。どうやら、このゲームには休憩する場所が豊富に用意されているらしい。鉄かと思いきや何か違う素材で、座り心地もなかなか良い。
そしてまた、そんなものが用意されているということは、すぐに終わるようなゲームでもないのだろう。
遠くに見えた人影が近付いてくるのを黙って待ち続ける。あちらもこちらを確認して、まっすぐこちらに歩いてきている。ゲームに参加する意思があるのかどうか、わからないが尋ねるくらいはできるはずだ。
やってきたのは綺麗な髪を肩まで伸ばした、小さな女の子。といっても顔立ちは幼くないから、背が低いだけで歳は俺とあまり変わらないかもしれない。
「おはよう。君も、ここで目が覚めたんだよね?」
「……はい。始まって間もないのに、早速休憩?」
可愛らしい声。女の子の声。手帳端末から聞こえてきた声とは違うし、話し方も違う。
「休憩というか、俺はそもそも参加する気がない」
まずはっきりと。信じてくれるかどうかはわからないが、目をまっすぐに見てそれを伝える。
「大鎌嵐雪。君の名前は?」
それからすぐに、自己紹介。おそらくここまで接触したのなら、互いの手帳端末で相手の名前は確認できるのだろう。でも、俺はこの『封鎖の契り』とやらに参加する気はない。なら、普通に名乗って名前を聞く。普段通りでいい。
小さな少女は黙ってこちらを見つめながら、手に持った手帳端末は閉じたまま答えた。
「神奈木」
「……神奈木」
一応記憶を探ってみる。接点の少ない学校のクラスメイトや、もっと少ない他のクラス。しかしやはり、そんな名前は記憶にはなかった。
「初めまして」
「初めまして。……ん」
挨拶をすると挨拶が返ってくる。それから彼女は手帳端末を開いて、何か操作をしていた。
「大鎌嵐雪。間違いない。あなたの方は?」
「ああ、確認する」
素っ気ない態度だけど、神奈木さんに攻撃の意志は感じない。彼女も俺と同じ気持ちなのか、それとも彼女の攻撃カードで攻撃しやすいタイミングを計っているのか、どちらにしても話が通じるなら問題ない。一番困るのは、話も聞かずに問答無用に攻撃されることだ。
「板前……神奈木、さん?」
「そう。名乗りは無関係みたいね。じゃあ、次は……」
神奈木さんは端末から一本のコードを取り出した。
「契りの効果を確認したい」
そしてその時点で、予想はしていた言葉が。
「君は、このゲームに参加するつもりなのか?」
「うん。基本ルールは確認した?」
「ああ。船で移動してる間にね」
「なら、書いてあったはず。このゲームの勝者には……」
そう。確かに書いてあった。俄かには信じ難い、勝者に与えられるもの。
「お金で叶えられる範囲の、あらゆる願いを実現させてあげます」
俺と神奈木さんの言葉が重なる。手帳端末からの声では説明されなかった、勝者へのご褒美。
「信じたのか?」
「この状況で、信じられない?」
「……あー。そう、そうだよな」
目が覚めたら見知らぬ場所で目覚めた。その前の記憶も、あるにはあるがどうやって連れてこられたのかはわからない。それほどの高度な手口で、俺たちは誘拐された。そしてこのゲームが行われている場所は、どの国にも属さない個人所有の土地だと言う。
「金持ちの道楽に付き合わされてるんじゃないか、ってくらいは信じられる」
「でしょ? だから、はい」
「けど、俺は参加しない。それより主催者を問い詰めて、帰してもらうことに全力を注ぐ」
「あるいは、自力での脱出?」
「できればな」
言葉が途切れる。これ以上の問答は無用。彼女もさすがに諦めて……。
「まあ、どっちでもいいけど。私は勝つために有利な状況を作りたい。そのためには、あなたほど格好の相手はいない。一緒に行動させてもらう。迷惑ではないでしょ?」
「俺が一番って、冗談は……」
「このゲームの勝者は、何人?」
そう言われて、神奈木さんの言葉の意味が理解できた。
「1人、か。契りで有利になっても、最後にはその相手と争わなくてはならない。その相手が元々ゲーム参加を拒否しているのなら……」
「勝ちは譲ってもらえる。譲れない?」
「譲るさ。でも、それまでは役立たずの足手まといだぞ?」
「それは、そのうち解決する。どの道、最初は私も動かないつもりだから。相手がどんな攻撃カードを持っているのか、どんな条件でダメージを受けるのか、それもわからない段階で動き回るのは、危険度が高い」
「そうか。じゃあ、俺のカードは見せるよ」
「……本当に参加する気ないんだ。見せてもらうね」
開いた手帳端末を彼女に向けようとしたが、神奈木さんは後ろに回り込んで肩越しにカードを確認する。こんなに近くに女の子の顔があると、意識すると少し恥ずかしくなる。
「……なるほど」
攻撃1が『視覚』で、攻撃2が『接触』。防御カードは『言語』。移動に『船』。それが俺の持つ四枚のカードだ。カードにはデザインされた視覚や接触の文字に加え、その効果を見た目に表した絵が枠内に描かれ、右下には小さな文字で攻撃方法が記載されている。ほぼ正方形に近いが、若干横に長い形のカードである。
「私のカードは、あなたが協力すると決めたら一部を教える。残り二人になるまで、偶然であなたに傷つかれては困る」
二枚の攻撃カード。そのうち、攻撃1は条件が緩い1ダメージ、攻撃2は条件が厳しい2ダメージ。俺の持つ『視覚』の攻撃カード1の条件は、『対象と五秒間見つめ合う』こと。意図していなくてもダメージを与えてしまう可能性があるので、間違えて攻撃してしまわないようにしっかり覚えている。
対応する防御カードがあれば、その攻撃の威力を半減させられ、ダメージが1未満なら無効化されるのだが……それでも、攻撃したという事実は決して変えられない。
そのまま隣に腰を下ろした神奈木さんに、俺からは何も言わない。彼女がそうしたいのならそうすればいいし、俺も一人の男の子だ。可愛い女の子が傍にいてくれるのを嬉しいと思う気持ちは、こんな状況でも抱いてしまうのだった。
「お! 初めての人間発見! 誰だかわかんないけど、二人ともー、もう契ってるのー、エロい意味じゃない方でー! だったら逃げるー!」
しばらく無言の時間を過ごしていると、遠くから一人の女の子が大きな声で叫んできた。
俺は黙って首を横に振って、隣の神奈木さんも首を横に振る。それで信じてくれるのかどうかはわからないが……どうやら彼女は信じたようだ。
可愛らしさを残しつつも格好いい感じの衣服に身を包んだ、ポニーテールの活発そうな女の子である。もちろん声に聞き覚えはない。こちらに駆けてくる少女の、ある一点に視線が止まる。肩から下にぶら下げた、大きな物を揺らしながら彼女は走ってくる。
「こんにちはー。あ、おはようかな? 早速だけど君たち、どっちか仲間にならない?」
声をかけていた時点で気付いていたが、彼女も参加する気は満々のようだ。
「それより、その、それ」
「ん、ああ。これ?」
彼女は大きな物を持ち上げて、前に出して見せる。肩から紐で下げられた、大きなギターケース。何でそんなものを持っているのだろう。
「あー、これね。ライブに行く前に攫われたから、持ってた」
「このゲーム、ギターの持ち込みも可なのか」
「さあ? それは私にもわかんないなー。ま、ともかく、どう?」
「椋比奈理さん。残念だけど、私はそのうち彼と契りを結ぶ予定」
「……エロい意味で?」
「今のところは、エロくない意味で」
添えられた「今のところは」というのが凄く気になるのだが、聞く勇気はない。
「んーと、名前わかるんだねー。これ」
ついさっき神奈木さんがしていたように、椋比奈理という少女も端末を操作して俺たちの名前を確認していた。俺もついでに、表示が三人に増えたプレイヤーの項目を確認する。
「君は? 絶対に彼女じゃないとだめ?」
「俺は元々ゲームに参加する気はないから」
そのうちも多分こないから、とは思うだけで口にしなかったのは、やっぱりさっきの「今のところは」が頭に残っていたからだと思う。そちらの可能性まで、否定しなくてもいい。
「ふーん。そっか。じゃ、私はこれでー。二人とも争う気はないみたいだし、私もさっさと仲間を見つけたいから。またね、嵐雪くんに神奈木ちゃん!」
手を振って去っていく比奈理さんに、俺たちも小さく手を振って見送る。出会った二人は二人とも、ゲームに参加する気がある女の子。二人とも、いきなり戦う様子は見せなかった。この間に、俺と目的を同じにする相手に出会えればいいのだが……。
「そういえば、戦略ルームだけど」
「ん? ああ、あれ、だよな?」
視界の端に戦略ルームと呼ばれるそれはある。ここからだと、七~八メートルほど離れたところにある、上から見ると台形型の建物。どちらが上底で下底かはわからないが、扉がついているのは短い辺の方だ。
戦略ルームでは色々なことができるが、基本ルールに書かれていた『カードの交換』とやらは、交換するカードを持たない俺たちには意味がまだ理解できない。一度の利用時間は五分以内で、長時間利用の条件もいくつかあるのだが……。
「トイレはあそこにしかない、か」
「うん。あなたがどれだけ不参加を貫いても、あそこに入れば……」
「何かをしたかもしれない、って疑われるかもしれないな」
それがたとえ、トイレのためだけの利用でも。今の俺にとって戦略ルームは、なるべく入りたくない場所だ。幸い、今はそこへ行くつもりはないが、このゲームはすぐに終わるゲームではない。戦略ルームの六時間制限や、半日制限を見たときは冗談かと思ったが……。
俺たちがここで待機を続けて一時間。出会ったのはまだ、比奈理さんだけ。きっとどこかに食事も用意されて、飲み物も用意されて、そうなると戦略ルームの利用は避けられない。
「じゃ、行ってくるから」
「ああ」
戦略ルームに向かう彼女を見送る。何のために、と尋ねるような真似はしない。トイレだったら失礼だし、それ以外でもゲームに参加する気のない俺にはどうでもいいことだ。
神奈木さんが離れて一、二分ほど経った頃だった。
「やっほー、お兄ちゃん!」
そんな幼い可愛い声が後ろから聞こえてきたのは。手帳端末の声とは、これも違う。
振り向いて見ると、そこに見えたのは幼い顔。ほんの少し前屈みになって、こちらを見つめる女の子と視線が合わさる。その顔を三秒四秒と見つめて、思い出した俺は慌てて目を逸らす。
「やあん。お兄ちゃん、照れちゃった?」
「照れたわけじゃないさ」
女の子は首を傾げる。けれど、その顔から疑問はすぐに消えた。
「私、林藤ネイリーン。お兄ちゃんの名前は?」
「大鎌嵐雪。ネイリーンちゃんも、目が覚めたらここに?」
後ろから言葉をかけてくるネイリーンと名乗った少女。その顔を横目に、俺も質問する。
「嵐雪お兄ちゃんね。私のことはネイリーンでいいよ? 私も親しみを込めて、お兄ちゃんって呼ぶから」
親しみを込めて、ということは最初から親しみを込めていたのだろうか。もしかしたらと思い、俺はネイリーンに尋ねてみる。
「ネイリーン。君は、このゲームに参加する気はあるのか?」
「ん? お兄ちゃんは参加する気ないの?」
「ああ。勝手にこんなところに連れられて、いきなり参加しろって言われたんだ。普通なら、参加しようなんて考えないと思うけど」
様子を探ることなど考えず、本音で語る。今の俺に心理戦を行う理由はないのだ。
「うんうん。確かに、それは認めるねー。でも、勝ったら願いを叶えてもらえるんだよ?」
「それを信じる根拠もある」
「でも、参加しない?」
「ああ」
「そっかー。うーん、お兄ちゃんのこと信じたいけど、私、本気で勝ちたいから。だからお兄ちゃんに、私の秘密を教えてあげる」
「君の秘密?」
代わりに俺の秘密も教えて、とでも言うつもりなのだろうか。互いの秘密を共有すれば、信じられる。
「そう。私ね、実は魔法が使えるの! 魔法少女なんだよ」
「……へー」
露骨に間を空けて、俺は言葉を返した。いきなり彼女は何を言っているのだろう。
「あー、信じてないでしょ。そんなお兄ちゃんに、秘密の呪文を教えてあげる。だから耳を貸して? 特別だよー」
「……そうかー」
どうやら彼女は見た目通りの女の子。神奈木さんもまだ帰ってこないし、もう少し付き合ってみてもいいかもしれない。可愛い女の子に耳元で囁かれるというシチュエーションは、男としてちょっとは興味があるシチュエーションだし。
耳を貸すと――といっても俺はまっすぐに前を見ているだけで、耳に唇を寄せているのはネイリーンだ。微かな息を耳で感じて、少しどきどきする。
「きらきらさんさん迸れ そよそよくるくる流れ着け サソキクルククミュニーアド!」
少し大きめな、それでも囁いていると表現できる範囲の、女の子の声が耳元で響いた。
「それが魔法の呪文?」
「うん。そうだよ」
「どんな効果があるんだ?」
「うーん、そうだねー」
そのまま五秒ほど。呪文を囁かれてから大体十秒が経過した頃だろうか、突然、高く澄んだ鈴の音が鳴り響いた。発生源は――俺の手帳端末。正確に言えば、左の端末から。
「こういう効果、かな?」
開いた端末には、四つに減ったポイントゲージが確認できた。五つ並んだ中央の光が消えて真っ暗に、どうやら中央からダメージは受けていくらしい。
振り向くとネイリーンはほんの少し離れたところで、笑顔を見せて立っていた。あの位置からなら、彼女に俺の端末画面は見えない。少女の視線に促されるままに、俺は確認したカードリストから、今受けた攻撃を確かめてみた。
「……『聴覚』の攻撃カード1、対象の耳元で三十文字程度の呪文を囁く、か」
そこに表示されていた言葉をそのまま読む。呪文については決まっているのだろう。囁かれた言葉も下に表示されていたが、それは目にするだけで口には出さない。
「お兄ちゃん、本当に参加する気ないんだね? それじゃ、恋人さんが帰ってくる前に私は退散しちゃうね! またねっ、お兄ちゃん!」
「恋人って……」
誰のことを言っているのかはわかっていたが、俺が否定する間もなくネイリーンは逃げてしまった。ただ、その言葉から一つ理解できたこともある。彼女はおそらく、少し前から俺たちのことを狙っていたのだろう。
視線を前に戻すと、神奈木さんが駆け足でこちらに向かってくる姿が見えた。手帳端末からの音は、戦略ルームから出た彼女の耳にも届いていたらしい。
「……誰にやられたの?」
到着した彼女が真っ先に口にしたのは、そんな言葉だった。高く澄んだ鈴の音――それがダメージを受けたことを示す音であるのは、基本ルールにもしっかり書かれていた。
「林藤ネイリーン。『聴覚』の攻撃カード1、と。……はい、こちらにも記録できた」
神奈木さんは俺の端末を見ながら、自分の端末を操作して情報を入力していた。この手帳端末には推理を記録するためなのか、自分で情報を加える機能もある。もっとも、それはこのゲームに関する情報に限られていて、それ以外の情報は記入できないように作られていた。
「正しい情報であれば、入力は簡単みたい。けれど……」
「俺と協力するのは諦めたか?」
「冗談を。ただ、契りを結ぶ前に勝手に負けられては困る、と思っただけ。ずっと傍にいるわけにもいかないし、困った状況」
「トイレについていくわけにもいかないもんな」
「いえ、それは別に構わないけど……」
戦略ルームには一度に一人しか入れない。トイレもあるがトイレはおまけであり、近くにいても気にならないようになっていると、彼女は確認したのかもしれない。
「このゲーム、負けると封鎖ルームとやらに連れていかれて、自由を奪われる」
「今だって自由を奪われているようなもんだ。参加する気はない」
「変わらないんだ。まあ、それはそれとして、とりあえず移動しない? ずっとここにいては退屈でしょう」
「いいけど、君と俺の移動カードは違うから……」
俺は『船』で神奈木さんは『橋』。移動するときにはどうしても離れることになる。
「ここからだと、私とあなたが一度で移動できるのは1、4、5、6の四つ。エリア1は私が目を覚ました場所で、あなたはエリア4、だよね?」
俺は頷く。待っている間に少し話した内容で、彼女も俺と同じように気が付いたらここにいたこと、こことは別のエリアで目覚めたことなどは、伝え合っている。
「となると、せめて地形だけでも多少は確認しておきたいから、エリア5に行く。私は『橋』で、あなたは『船』で。いい?」
「ああ。長引くなら、食事の場所や寝る場所も探さないといけないしな」
ゲームに参加しないからといって、ゲームを離脱できるわけではない。だが離脱していないのなら、ゲーム参加者に与えられる権利は享受できる。基本ルールでも確認済みだ。
「食事や寝床は自分で探せ。探せばきっと見つかる、らしいからな」
だから移動することには、迷うことなく賛同する。俺たちは地図を見て、船着き場と橋が見える場所まで移動してから、一旦別れることにした。