今日は早く目が覚めてしまった。目を覚ました俺に、ふぁいんが小さく手を挙げて笑顔を見せる。昨日は何事もなく、三食カレーライスで、救助を待つ平和な一日だった。しかしゴーストのふぁいんは今日も健在。死の危機が去ったわけではない。それでも、魔法研究施設に飛ばされてから、最も静かな一日。心も体も十分に休めることができた。
特にやることはないが、眠気はない。俺は廊下に出て、トイレにでも向かうことにした。ふぁいんも黙ってついてきたが、さすがにトイレまでは入って来ないだろう。
用を済ませてトイレから出ると、ふぁいんの姿が見えなかった。どこに消えたのかと不思議に思っていると、彼女はなぜか女子トイレから出てきた。
「何してるんだ?」
「えへへ、暇だったから」
「暇、か。このまま、暇なまま終わればいいんだけどな」
周囲に人はいないので、俺は声で会話する。このままずっと、死の危機とは無縁な平和な一日が繰り返されて、救助が来ればそれが一番だ。
「……暇、ですか?」
「ん?」
声の聞こえた方に振り向くと、そこには熾月がいた。
「熾月も目が覚めたのか?」
「はい。今日は妙に気分が良くて」
「そうか。よく眠れたみたいだな」
「あの、今、誰かと話していませんでしたか?」
話を逸らそうとしてみたが、失敗したようだった。しかし、この展開は想定済み。言い訳を考える時間は確保できた。
「ちょっと宇宙と交信をな」
「……晴人くん、その言い訳はないと思うよ」
「宇宙……ですか……」
ふぁいんの言葉は聞き流したが、怪訝そうな顔で俺を見る熾月は無視できない。
「ええと、宇宙といえば、星だよな。屋上へ行くか? 暇だし」
「その方が、交信しやすいんですか?」
「あとで全部話すから、引っ張らないでくれるか?」
「はい。でも、あとって……」
「決まってるだろ?」
「……はい。楽しみにしています」
ふぁいんのことを誰かに話すのは、ここを無事に脱出してからだ。信じてもらえるかどうかは別として、樹さん以外になら話しても問題はないだろう。俺が樹さんを好きなことや、樹さんが愛する者――俺のためにゴーストの魔法を発動したこと。もしかすると、そこまで話すことになるかもしれないが、熾月になら話してもいいと思う。
「風、気持ちいいですね」
「ああ。普通なら、寒くて出られないんだろうから、本当に凄い施設だよな」
施設内と同じとまではいかないが、程々に暖房の効いた屋上。俺と熾月は、そこから夜明けの空と、施設を囲む雪山を眺めていた。こうして見ると、美しい景色だと思う。研究で疲れた心を癒すには、最高の光景だったのだろう。
「そういえば、熾月」
「なんですか?」
「調子がいいって言ってたよな? 何かあったのか?」
昨日、熾月と会ったのは午前中がほとんどだった。午後は八雲さんが見守る中、瑠那と二人で遊んでいたようで、あとは食事の時間に会ったくらいである。
「瑠那ちゃんと遊んだから、でしょうか? うーん……でも、この感じは……」
「どうしたんだ?」
途中で黙ってしまった熾月に、振り向いて声をかける。彼女は景色をぼんやりと見つめたまま、夜明けの風がセミショートの髪を静かに揺らしていた。
「……けど、まさか……ううん、きっと、これって……」
「熾月?」
「晴人さん」
俺が彼女の名前を呼んだのと、彼女がこちらを向いたのはほぼ同時だった。俺は様子を確かめただけだったので、視線で熾月の言葉を促す。
「正直、私も驚いているんですけど……驚かないでくださいね」
「無茶を言うな」
俺は微笑みながら答えて、続きを待つ。彼女が何を言うのかはわからないが、心の準備ならいつでもできている。死の危機はどこに潜んでいるのかわからないのだから。
「その、また暴走、するかもしれないです」
「本当なのか?」
驚きは少しだけ。表情に出すことなく、俺は冷静に尋ねる。
「はい。それに、その……」
口ごもる熾月に、俺は笑顔を見せて続きを促す。熾月は小さく頷いて、言葉の続きを口にした。
「抑えてないはずなのに、魔力が凄いんです。前に暴走したときよりも」
「……本当か」
さすがに今度は驚きを隠せなかった。その反応を見て、熾月はですよね? というような曖昧な表情を返してきた。
熾月の話によると、すぐに暴走するということはなさそうだったので、みんなは起こさずに、起きている者だけで相談することにした。食堂へ来たのは、その起きている二人と話をするためである。
「なるほど。事情は理解しましたわ。もしかして、私とたくさん遊んだから、それが影響を与えたのかもしれませんわね」
俺たちが屋上から戻ると、扉の前で聞き耳を立てている瑠那と八雲さんがいた。いつものように早起きしていた八雲さんが、二人で屋上に出る俺たちの姿を見かけ、瑠那を起こして一緒に盗み聞きしていたのだという。
何のためにとはあえて尋ねずに、俺たちは場所を移して話すことにした。食堂なら、他の二人も自然とやってくる。誰が提案せずとも、みんなの足は一階へ向かっていた。
階段を下りて、一階に。最後の曲がり角を八雲さんは迷わず直進したが、瑠那に「どこへ行きますの?」と言われて、すぐに戻ってきた。
「仲良しの女の子二人で、性的興奮を高め合えば、凄い奇跡が起こせるかと……」
聞いてもいないのに俺に耳打ちしてきた八雲さんには、無言を返しておいた。
「つまり、瑠那のせいか」
「そうですわね。そもそも私の魔法が失敗しなければ、あなた方はここにいらっしゃらなかったのですから」
「お二人の相性の良さが証明されましたね。別の意味での相性も今すぐに確認したいところですが、まずは暴走を抑えなくてはなりません」
前と同じ方法では、今回の暴走は止められない。前回でさえぎりぎりだったのだ。それよりも凄いというのを、俺一人で止められるはずがない。
「凄い魔法には凄い魔法で……私の出番ですわね!」
「お嬢様。それは最終手段です」
「ああ。今の瑠那だと、一か八かになるだろうな」
「そうですか。お兄ちゃんがそう言うのなら、今は諦めますわ」
「どうしましょう……最悪、時間はありますし、私が外に……」
「あら、熾月? 何を言っていますの? 逃がしませんわよ?」
「逃がさないって……もう、瑠那ちゃん」
後ろ向きな発言をした熾月に、瑠那は明るく返した。その言葉に、熾月は微笑を浮かべて返事をする。確かに八雲さんの言うとおり、この二人の相性は良いのかもしれない。
「晴人くん、どうするの?」
『どうしようか』
真面目な声で聞いてきたふぁいんに、合図を返す。時間はあるからと今は和やかな雰囲気で会話しているが、どうすれば暴走を止められるのか。考えてもいい案は思い浮かばなかった。回避しなければいけない死の危機を、回避する方法がわからない。
「あら、みなさんお早いですね?」
食堂の扉が静かに開く。みんなが悩んでいるところに、樹さんがやってきた。深刻そうな表情に気付いたのか、彼女は黙って俺たちの傍に腰を下ろす。
「晴人さん、事情を」
「ああ、熾月の魔法が暴走するかもしれない。それも、前よりも大きな規模で」
「……なるほど。困りましたね」
「困りましたね、か」
前は樹さんのおかげでどうにか事なきを得たが、今回も同じように頼ることは難しそうだ。それでも一応、尋ねてみる。
「前の方法を応用して、どうにかできないかな?」
「そう、ですね……ええと……」
樹さんが考えていると、再び扉が開いた。現れたのは当然、最後の一人だ。
「ふむ。何かあったのかい?」
「はい。総力をあげて、解決しなければならない問題が発生しました」
沢登さんには樹さんが事情を説明する。説明を終えたところで、彼は一度だけ深く頷いてみせた。視線をテーブルの一点に停止させて、何かを考えている様子だ。
沢登さんにはあとで尋ねるとして、俺は先に樹さんに声をかけた。
「樹さん、どうかな?」
「可能といえば、可能、です……けれど」
「本当ですか!」
「しかし、その様子では、いい案ではなさそうですわね?」
熾月が樹さんを見て、隣の瑠那もそれに続く。八雲さんは沢登さんに声をかけられて、二人で何かを話しているようだった。
「熾月の暴走だけなら、前と同じように止めることは可能だと思うの。時間があるなら、計算して、多分。でも、そうしたら、晴人さんが死にます」
「命を懸ければ止められる、か」
「はい。懸けるなんて言いませんよね?」
「それは……」
それで樹さんが助かるなら。樹さんだけでなく、他のみんなも救えるなら。少なくとも俺一人の犠牲で済むのなら、樹さん以外のみんなが死ぬ末来よりはいい。そう考える気持ちは確かにあった。
三人の視線が俺に向く。どう答えるべきか迷っていたところに、後ろからふぁいんが声をかけてきた。
「晴人くん、晴人くん。それ、私が困るなあ」
『困る?』
幸い、すぐに答えは求められていないようだ。沢登さんと八雲さんの会話もまだ続いている。俺は合図を返して、ふぁいんに尋ねた。
「そうだよ。ゴーストの魔法がどうして発動したか、覚えてるよね? あいにくだけど私は、というか美晴はね、多世界解釈は信じてないの。世界はひとつ、晴人くんも一人。これ、どういうことかわかるよね?」
『まあ、わかるけど』
妙に気迫のこもったふぁいんの解説に、俺は少し気圧されながらも、表情には出さないようにして返事をする。
「つまり、だよ。ここで晴人くんが美晴を守って死にます。すると、愛の力でゴーストの魔法が発動します。私は晴人くんを守るために、また過去に戻ります。わかった?」
『やり直しってわけか』
「多分ね。晴人くんが死ぬ度に、私は生まれるのです」
『記憶は?』
「そのままに決まってるじゃない。私、忘れっぽくないよ?」
『それを利用すれば、未然に回避できるんじゃないか?』
「えー。だって晴人くん、すぐに信じてくれないでしょ? もう一回はやだ。責任持って今の晴人くんが解決してください。死なない方法で」
『無茶を言ってくれるよな』
そんなふぁいんに、つい苦笑を浮かべてしまう。樹さんたちが怪訝そうな目で見ていたので、俺は彼女たちの方をはっきり見て、笑顔で言った。
「あいにく、自己犠牲は好きじゃないんだ。みんなが助かる方法を考えさせてもらう」
「ええ、そうしましょう」
「はい」
「それでこそお兄ちゃんですわ」
樹さん、熾月、瑠那の三人も笑顔を返す。雰囲気は和やかになったが、具体的な策が思いついていないのもまた事実。雰囲気だけでは何も解決しないのだ。
「話は終わったようだね。それじゃ、僕から一つ、提案をさせてもらおう」
沢登さんが言った。どうやら俺たちよりも先に、二人の話は終わっていたらしい。
「僕たちで止められないのなら、彼女の魔力の受け皿を別に用意すればいい。ここは魔法研究施設だ。探せば何かがあるかもしれない」
「不確実な策ですが、時間に余裕はあります。どうでしょう?」
「そうですね。セキュリティのように、何かが隠されているかもしれませんし」
「私も賛成です」
「がんばって探します」
「了解ですわ」
全員の意見が一致して、俺たちの行動は決まった。カレーライスを朝食に、栄養補給を済ませてから、熾月の魔法暴走を止めるための行動が開始された。
行動を開始してから、数時間が経過していた。役割分担は以下の通り。俺と沢登さんは手分けして資料室の資料を漁り、研究施設についての情報が残されていないかを丹念に探る。樹さんと熾月は研究施設内を改めて探索して、使えそうなものがないか確認する。そして八雲さんは瑠那に、最悪の場合に備えての魔法指南を行っている。
資料を漁り始めて少ししてから、俺たちの調べる対象は一つに絞られていた。実験棟の地下にある魔法人形。それについての資料が見つかったのだ。
「戦闘用の魔法人形。わざわざ隠すほどの研究だ、その力は相当なものだろう」
「それなら、相当の魔力も必要とするはずですね。普通の魔法使い十人分。いえ、それ以上の魔力を使う可能性も……」
「ああ。しかし、不確定な情報では漏れた魔法で何が起こるかわからない。もっと調べないとね」
そうして長時間調べてはいるのだが、目ぼしい資料はほとんど残されていなかった。当然だ。わざわざ隠すほどの魔法人形。それに対する資料がそのまま残っていたら、隠した意味がない。それでも僅かに残っていたのは、研究者の研究に対する未練からくるものだろうと、同じ研究者である沢登さんが研究者心理を推測していた。
資料によると、魔法人形の研究は事情によって中断を余儀なくされたらしい。その事情についてはわからなかったが、そのおかげで俺たちは必要な情報を得ることができた。
「必要とする魔力量……これなら」
「ああ。なんとか彼女の魔力を全て注げそうだね」
受け皿は見つかった。しかし、問題は戦闘用の魔法人形の詳細が、全くわからないことだった。魔力を注いだとして、制御の仕方がわからなければ、どうなるのかは明白だ。熾月の魔法暴走は抑えられても、魔法人形が代わりに暴走するだけ。
俺たちは得た情報を、八雲さんと瑠那に合流して伝えることにした。
「なるほど。お嬢様、間違えて注がないでくださいね」
「いくら私でも、そんな失敗はしませんわ」
実験棟。特大の実験室で魔法の知識を伝えていた二人に、得た情報を伝えるとそんな反応が返ってきた。可能な限り練習を続けるという二人をおいて、どこか他に資料が残されていないか、研究棟に戻ろうとした矢先。
「あ、晴人さんたちもいらっしゃったのですね」
「こ、こんにちは」
樹さんと熾月が実験棟にやってきた。情報を共有するために探す手間が省けた……一瞬そう思ったが、彼女たちの表情を見るとどうやらその時間はなさそうだった。樹さんはいつもどおりだが、明らかに熾月の様子がおかしい。
「……見ての通りです」
樹さんの言葉を聞くまでもなく、俺たちは状況を理解していた。表情こそ申し訳なさそうではあるが、いつもどおりの熾月。彼女の体から、魔力がうっすらと漏れていた。目に見えてわかるものではないが、ある程度の魔法使いなら感覚的に気付ける凄い魔力。
「時間はない、か。樹さん、熾月を連れて地下に行こう。理由は歩きながら話すよ」
「わかりました。熾月、大丈夫?」
「は、はい。なんか今すぐに漏れそうですけど、意識ははっきりしてます」
「……漏れそう……ふむ……」
「八雲、何を妄想していますの?」
「答えてよろしいのですか、お嬢様?」
「さ、行きますわよ。八雲も急ぎなさい」
八雲さんは平然とした様子で頷いて、俺たちはみんな揃って実験棟の地下――戦闘用の魔法人形のある場所へと向かうことになった。
旧実験室に眠る、双頭のゆきだるま。見た目こそ可愛らしいが、れっきとした戦闘用の魔法人形である。なぜこんなデザインにしたのか、資料は見つからなかったが、研究者の趣味であろうことは想像に難くない。
「これに、魔法を使えばいいんですか?」
「ああ、狙えるか?」
熾月の質問に答えてから、こちらからも尋ねる。
「今なら大丈夫です。じゃあ、やりますね」
「頼むぞ。念のために、離れてやってくれ」
「了解です」
魔法人形が動き出したら、どうなるかはわからない。魔法人形から離れたところに熾月が立ち、俺たちは彼女と人形から離れたところに待機する。
熾月は魔法を――純粋で強大な魔力の塊を、一気に魔法人形に放つ。壁に当たれば施設が壊れかねない強力な魔法。魔力の奔流は全て、魔法人形に吸い込まれていく。それが一分ほど続いて、熾月の魔法は止まった。
「……ふう。落ち着きました」
「さて、ここからだね」
「はい」
沢登さんの真面目な声に、頷きを返す。魔力の供給は十分。おそらく、あと数秒もすれば双頭のゆきだるまは動き出すはずだ。
真っ黒な目に暗い光が宿り、全身からほのかに魔力を迸らせて、ゆきだるまが動く。
二つの首を回し、周囲を確認するゆきだるま。それは俺たちの姿を確認したのか、ゆっくりとこちらに動いてくる。魔力の流れを見るに、攻撃の意思があるのは確実だ。
いかにして止めるか。そう考えていたところで、樹さんが一歩前に出る。
「晴人さん、みなさん、ここは私に任せてください」
「樹さん?」
ゆきだるまはまっすぐに、素早い動きで俺たちに突進してくる。その動きに樹さんは慌てることなく、魔法で長い剣を作り、近づいてくるゆきだるまの体に突き立てた。
あの程度の攻撃で、戦闘用の魔法人形が止まるとは思えない。そう思っていたが……魔法の剣を体に突き立てられたゆきだるまは、軽く全身から魔力を放出して、沈黙した。
「樹さん、何をしたんだ?」
「弱点を突きました。こんなこともあろうかと、弱点を調べておいたの。一点しか見つかりませんでしたが、未完成のようで助かりました」
「手際、いいんだな」
「偶然ですよ」
「……それじゃ、後の処理は俺がやっておくよ。みんなは先に戻っててくれ」
俺は僅かに考えてから、その言葉を口にした。意外な形ではあったが、ひとまずこれで死の危機は回避された。その可能性があるなら、今は彼女と二人きりになりたい。
「晴人さん一人で、ですか?」
「ああ。もう動かないみたいだし、一人でも大丈夫だ」
「わかりました。それじゃあ、念のために……」
最後に樹さんは魔法人形の弱点を告げて、他のみんなに続くように旧実験室を出て行った。彼女の姿が見えなくなったところで、俺はゴーストに声をかける。
「ふぁいん、どうだ?」
「んー……うん、今度こそ、終わりみたいだよ」
ふわりと浮かんで、俺の目の前に現れるふぁいん。ほんの僅かではあるが、彼女の体から魔法の光が流れ出ていた。
「そうか。なら、あとは救助を待つだけだな」
「だね。ゆっくりお別れの挨拶をしたいところだけど、あんまり時間なさそう。だから晴人くん、言いたいことだけ言わせてもらうね」
「わかった。好きにしてくれ」
流れる光は魔法の光、彼女を――ゴーストの魔法を構成する魔力そのもの。流れ出す速度をちょっと見ただけでも、彼女の言葉が真実であることはわかる。
「こほん」
わざわざ咳払いを口に出して、ちょっとだけ雰囲気を作るふぁいん。俺は黙って彼女の言葉を待つ。
「晴人くん。美晴のこと、よろしくね」
「ふぁいん……」
ゴーストの少女は言いたいことだけ口にして、微笑み、そのまま消えていく。時間の計算を間違えたのか、ふぁいんが最後の言葉を口にしてから、俺たちは五秒ほど見つめ合っていた。
最後の最後に決まらない彼女に、俺が苦笑すると、ふくれた顔が帰ってくる。さよならを言う時間はあった。しかし、俺たちがそれ以上の言葉を交わすことはなかった。
「頼まれたからには、勇気を出すしかないな」
ふぁいんの消えた部屋の中、俺はそう呟いた。
あの日、救助が来たのは、ふぁいんが消えてから数時間後のことだった。
救助にやってきたのは、魔堂家と学園の合同捜索隊。彼らを乗せた、魔動式の無音ヘリコプター。魔法連絡塔を介して、研究施設に届いた連絡に八雲さんが返事をし、全員の無事を伝えた。
瑠那と熾月は両手を合わせて喜び、八雲さんがそれを微笑ましく――頭の中では別のことを考えていそうだったが――見つめる。沢登さんは壁に寄りかかり、目を瞑って静かにしていたが、その顔にははっきりと笑みを浮かべていた。俺は樹さんの方を向いて、互いに笑顔を見せ合う。救助に対して、みんなが喜んでいた。
三式の魔法を使える者は限られているし、雪原には雪が積もっていたので、ヘリコプターは実験棟の屋上、吹き抜けの上に着陸した。俺たちは三階から屋上に出て、壁に備え付けられたはしごを上り、ヘリコプターに乗り込んだ。
そうして無事に魔法研究施設から脱出した俺たちだったが、日常に戻るまでには多少の時間を要した。行方不明の者たちが帰ってくれば、学園でも色々と尋ねられる。
その中でも、第三研究所の研究者と会ったこと、魔堂家の一人娘と出会ったこと、助士課程を史上最速で卒業したあの八雲妹と出会ったことは、よく話題になった。
彼ら彼女らがどんな人物であるのか、そのあたりは聞かれても深く話さないでおいた。尋ねてくる人の多くが抱いていたのは、憧れや羨望の気持ち。表情を見るだけでわかるくらいの、はっきりとした感情。真実であっても夢を壊したくはなかったし、瑠那にお兄ちゃんと呼ばせたことを、自ら口にするのは恥ずかしかった。
その他にも、謝罪の意味も込めて魔堂家に招待されたり、熾月のお姉さんと話したり、色々と非日常があって、ようやくいつもの日常が戻ってきたのは三日が過ぎた頃だった。
しかし、その日常ももうすぐ終わりを告げる。俺は学園の中庭で、呼び出した彼女の到着を待っていた。
――樹美晴。
最初、彼女に興味を持ったのは、名前に同じ「晴」が入っていたからという、単純なものだった。それがきっかけで友人となり、仲良くなって、いつしかそれは恋心へと変化していた。いつどこでそうなったのか、思い出せないくらいの緩やかな変化。
片想いの彼女に、告白する。俺にそう決意させてくれたのは、彼女の愛から生まれたゴーストの少女。
彼女を思い出していたところに、彼女と同じ身長、同じ顔の少女が到着した。金髪ではなく黒髪。ショートストレートではなく、ロングストレートの髪。ゴーストの魔法でふぁいんを生み出した本人。
樹木に囲まれた中庭。一本の樹の前で待っていた俺の前に、樹さんが現れる。
「晴人さん、お話ってなんですか?」
――大事な話があるんだ。あとで中庭に来てほしい。
そう伝えてから、先に中庭に到着して十五分ほど。告白の言葉は昨日のうちに考えていたし、心の準備もできている。彼女がこれくらいの時間で到着するであろうことも、想定していたとおりだ。
中庭には今、他に人はいない。告白するには絶好の機会である。念のため、他に誰かがやってくる様子がないかを確認してから、俺は彼女の名を呼ぶ。
「樹さん」
「はい」
「……いや、美晴さん」
「はい?」
呼び直したことに樹さん――美晴さんは小首を傾げていた。ちょっと気が早いかもしれないと思ったが、とりあえず受け入れてはもらえたようだ。
心臓がどくどくと脈打つ。たった一言。たった一言を口にするのに、緊張が凄い。
だけど、ここまで来て迷っている時間はない。
「俺は美晴さんのことが好きだ」
意を決して、言葉を口にする。
「だから、美晴さんがよければ、恋人になりたい」
彼女の目をまっすぐに見て、最後まで言葉を口にした。
「好き……恋人……ですか」
美晴さんの呟きに、俺ははっきりと頷く。そのまま俯いてしまいたい気持ちもあったが、どうにか堪えて彼女の目を見つめる。
「返事、聞かせてもらえるかな?」
「今すぐに、ですか?」
「いや、その、無理なら急がなくてもいいけど」
でもできれば、どきどきしすぎて辛いから今すぐがいい。そう思ってはいたが、もちろん口には出さない。
「わかりました」
「ありがとう」
反射的に返事をしてしまったが、これはこれで物凄くどきどきする。ふぁいんから、彼女の気持ちは知っている。反則みたいなことだけど、知ってしまっている。だけど、本人の口から聞くまでは信じられないから、告白はしないといけない。
視線は美晴さんの口許に。ほんの数秒にも満たない時間。彼女の言葉が、待ち遠しかった。
「その、ですね。晴人さんの気持ちは、とても嬉しいです。私のことを好きになってくれたのは、とても嬉しいんです」
美晴さんは俺の目を見つめたまま、言葉を続けていった。
「でも、私は晴人さんのことを、男の人として意識したことはなくて、男と女の関係、恋人同士になるというのは、お断りしたいの」
言葉が出なかった。
「あ、でも、美晴さんって呼んでくれたのは嬉しかったから、これからはそう呼んでくれますか? ずっと、樹さん樹さんで、距離を感じていたんです」
彼女の口から出たのは、断りの言葉。はっきりとした、断りの言葉だった。最後に両手を合わせて、名前で呼んでくれたことの喜びを伝えてくる。
「ええと、だめですか? やっぱり、こんな都合のいいことは……」
「い、いや。その、美晴さんと呼んでいいなら、是非そうさせてほしい」
不安そうな彼女の顔を見て、俺はあわててそう言った。なるべくなら、美晴さんの悲しい顔は見たくない。
「ありがとうございます。では、これからも私たちはお友達ということで。ええと、いいですよね?」
「もちろん。でも、俺の気持ちは変わらないから」
「わかっています。私も少し考えてみようとは思いますけど……やっぱり、晴人さんのことを男としては見れないんですよね。晴人さんは大事な友人で、親友で、一緒にあの魔法研究施設を脱出した仲間ですから!」
「美晴さん、無意識に傷を抉るのはやめてほしい」
「あ、すみません。でも、事実ですから、期待させすぎるのは良くないかと……」
彼女らしいといえば、彼女らしい反応である。いつもどおりの彼女に、断られたことへの落ち込みも、少しは和らぐというものだ。
「それで、晴人さん。話は終わりですか?」
「ああ。これ以上あると思うか?」
「思いませんね。ええと、せっかくだからこのまま一緒に帰る……のは、だめですよね、やっぱり?」
「そうしてくれると助かる」
「わかりました。じゃあ、先に帰りますね」
「ああ、また明日」
「はい。また明日」
手を振って、中庭で美晴さんを見送る。俺と美晴さんは同じ寮に住んでいるから、何もなければ一緒に帰ることが多い。が、さすがに今日ばかりは、いつものように一緒に帰ることはできなかった。
学園にいくつかある寮は、男女別ではなく年齢や実力別に分けられている。王立魔法学園には幅広い年代、実力の者が通うので、当然の措置である。敷地内にある寮もあれば、遠くにある寮もある。寮の種類も様々で、家族で暮らせる寮もあると聞く。全寮制ではないが、全員が入れるくらいの寮を擁する魔法学園。王立の名は伊達ではない。
俺と美晴さんの通う寮は、学園から少し離れたところにある。徒歩で五分。中庭からだともっと時間はかかるが、とりあえず五分くらいはここで休んでいようと思う。
幸いにも、中庭に人が来る気配はない。落ち込んだ顔も見られることはないから、傷ついた心を癒すにはちょうどいい。
「……断られたんだよな」
改めて口にすると、実感が沸いてくる。決意して、告白して、断られた。
「両想い、のはずなんだよな」
そうでなければゴーストの魔法は発動することなく、俺がふぁいんと出会うこともなかったはずだ。あのあと、ゴーストの魔法についても詳しく調べてみたが、ふぁいんの言葉に間違いはなかった。
愛する者を守るために発動する、ゴーストの魔法。逆に言えば、愛する者を守るためでなければ、絶対に発動することはない魔法でもある。
「ふぁいんが嘘をついた、わけじゃないよな」
「嘘なんてつかないよ。晴人くん、失礼なこと言わないで!」
「でも、告白した結果は見ての通りだ」
「見ての通りって言われても……ええと」
「断られた」
「あー」
と。何となく自然に会話をしていたが、その会話の相手を見て俺は目を見開く。
「ふぁいん、消えたんじゃなかったのか?」
いつの間にか、俺の隣に現れていたゴーストの少女。なぜ彼女がここにいるのか、それはわからないが……そんなことはどうでもよかった。
「消えたよ? そしてまたやって来ました」
「尋ねたいことがある」
「何なりと」
「ふぁいんは、美晴さんのゴーストなんだよな」
「うん、美晴の……お。晴人くん、少しは進展した?」
ふぁいんの質問には答えずに、俺は自分の質問を先に口にする。
「愛する者を守るために発動する……間違いないな?」
「そう。そして愛する者にしか見えない。それがこの私、ゴーストのふぁいんだよ」
「つまり、美晴さんは俺のことが好きだから、君は今ここにいるってことだ」
「その通り!」
胸を張るふぁいん。彼女が嘘をついているとも思えないし、嘘をつく理由もない。つまり、彼女の言葉は真実である。
「そして俺も美晴さんのことが好きだ。愛している」
「うんうん。それで、告白したんだよね」
「ああ。だったらなんで、断られる?」
核心を突く。ちょっと回りくどい質問になったが、事実の確認は重要だ。
「いやー、それがね。美晴ったら、自分の気持ちにとっても鈍いんだよね。晴人くんが死んでようやく、君を愛していることに気付くみたいなんだよ。遅いよね?」
「遅すぎるだろ。……ちょっと待て、今なんて言った?」
「晴人くんが死んだ」
「俺が、死んだのか」
聞くべきことを聞いて冷静に考えてみると、ふぁいんがここにいる理由は一つしかないとすぐに気付く。ゴーストの魔法が発動した。愛する者を守るための、伝説の魔法。
「そう。それが過去の、今の晴人くんにとっては未来の出来事だよ」
前にも聞いたような台詞を、ゴーストの少女は繰り返す。
「で、原因は?」
「愚問だよ、晴人くん。もちろん覚えてません!」
「前の記憶はあるのに、なんで肝心なところは覚えてないんだよ」
「そんなこと言われても、知らないものは覚えようがないよ。あ、でもね。一つだけ覚えてることはあるよ!」
「言ってみろ」
どうせ大した情報ではないだろうと、俺はぶっきらぼうに尋ねてみる。
「今回死ぬのは、晴人くんだけです。美晴が見つけたときには死んでいました」
「手がかりは?」
「あると思う?」
「思わない」
ふぁいんの質問に、即答する。前と同じく、死の危機が迫っている以外の手がかりはない状況。正直、かなり厳しい状況だが、やるしかない。
「じゃあ、さっさと回避するぞ。美晴さんに告白するためにもな」
「おー! ってあれ、私との再会は喜ばないの?」
「手がかりを持ってきてくれたら、喜んでやってもいいぞ」
「うう……うん。次はがんばるよ」
「次……まあ、今はいいか」
次があるということは、また俺が死ぬということ。彼女にとっては過去、俺にとっての末来に。正直、次なんてない方がいいのだが、まずは今の問題を解決すること。今を生き延びないと、その次の機会は訪れない。
「行くぞ、ふぁいん!」
「うん、晴人くん!」
死の危機を回避するため、俺たちは再び行動を開始する。このときの俺は、ふぁいんとの付き合いはまだ始まったばかりで、これから幾度となく彼女と行動を共にすることになるなんて、想像もしていなかった。
――が、それはまた別の話である。
登場人物
一ノ木晴人:いちのき はると
ふぁいん:ゴースト
魔堂瑠那:まどう るな
樹美晴:いつき みはる
降谷熾月:ふるや しづき
沢登鋭一郎:さわのぼり えいいちろう
八雲妹:やくも まい