目を覚ました部屋に見覚えはなかった。真っ白で高い天井が視界に入る。ソファの上で仰向けになっていた俺は、体を起こして座り心地のいいソファに腰かけて、周囲の状況を確認する。
広い部屋にはテレビや自動販売機、それにいくつもの柔らかいソファが並んでいる。扉は二つ。テレビのある方を正面とすると、反対側に一つ、右側に一つ。どちらも扉の大きさは同じだ。部屋の形は長方形。テレビと扉が向かい合う方が長辺で、もう一方が短辺。自動販売機は扉側の長辺、扉の左の壁に沿って三台並んでいる。
部屋の中に危険はないだろうと、ソファから立ち上がって近づいてみる。三台の自動販売機は電動式ではなく、魔動式。もしやと思いテレビの裏に回ってみると、こちらも魔動式のテレビだった。部屋を照らす照明もおそらく魔動式だろう。
魔法で動く魔動式は個人の魔力量に依存する。少ない魔力でも長期間動くように作られているとはいえ、扉の先にあるものまで全て魔動式であると推定すると、並の魔力量では賄えない。
部屋にあるものから予想すると、ここは休憩室。そんなものを用意する以上、小さな建物であるとは考えにくい。広い建物であれば、魔力量に依存しない電気で動く電動式をある程度採用するのが普通だ。
全てを魔動式にするのは、魔力量に長けた者が多く集まる場所に限られる。例えば俺の通う王立魔法学園もその一つだ。他に考えられるのは、魔法研究施設や魔法具ショップなど、魔法使いが日常的に利用する場所。
魔動式の道具に魔力を注ぐことで値引きする、魔力値引きを行う店もあったが、魔法使いの客の人気が高まれば、魔法石の蓄積魔力量に達するのも早くなる。一時期は競合他社が争いよく見かけたが、今ではたまに見かけるくらいだ。
ここが魔法具ショップとは考えにくいから、可能性が高いのは魔法研究施設。とすると施設の研究員がどこかにいるかもしれない。
しかし、すぐに動くのはどうかと、俺は目覚める前に起きたことを思い出す。学園からの帰り道、突然強烈な魔法を受けて、過剰な魔力を浴びた俺は意識を失った。そして目が覚めたらこの状況。何者かが俺に転移魔法をかけて、この場所に飛ばしたであろうことは疑いようもない。
もしそれが悪意から来るものであれば、下手に動くのは危険だ。慎重に動く必要があるだろう。まずは、どちらの扉から出るのが正解か。どちらも不正解という可能性もある。
部屋の時計を見ると、意識を失っていた時間は十分程度。針は操作されているかもしれないが、少なくとも意識のないうちに俺をどうこうするつもりはないらしい。
テレビと向かい合う扉と、自動販売機の並ぶ壁の扉のノブに順番に触れてみる。両方とも鍵はかかっていないから、この部屋に監禁するつもりもないらしい。
突然攻撃魔法が飛んできたり、床や天井に罠が仕掛けられていたり、想定される危険に対する防御魔法をすぐに展開できるようにしてから、俺は自動販売機側の扉をゆっくり押し開こうとした。
女の子の声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
「ここかなー。晴人くん、いるー?」
声と一緒に扉をすり抜けて現れた女の子は、そのまま俺の上半身もすり抜けていった。
空に浮かび、壁や人をすり抜ける存在――実在は照明されていないが、考えられるのはひとつしかない。
「な、ゆ、幽霊?」
「あ、いた!」
慌てて振り返った俺に、その女の子の幽霊は笑顔を見せる。見た目は俺と同じ十代後半といった可愛らしい少女。ショートの髪は金髪のストレート。淡い色の服装は、透けそうで透けない絶妙な薄さで、小さめな膨らみをささやかに隠している。
「……ん? そこにいるってことは、もしかして見られた!」
「見たって、何を……ああ」
あの高さで上半身をすり抜けたのだから、ぱんつのことだろうと理解する。
「見てないよ。突然の幽霊に驚いて、それどころじゃない」
扉を開けた先のことは警戒していたけど、さすがに扉をすり抜けて何かが来るなんてことは一切考えていなかった。意識してない場所から突然現れた女の子の、スカートの中を見ている余裕なんてあるはずもない。
「よかったー。あ、それと幽霊じゃなくてゴーストだから」
「ゴースト?」
「そう、ゴースト」
フレンドリーな幽霊――ゴーストの少女は、なぜかそんなことを強調してきた。意味は同じだと思うが、特に幽霊という呼称に固執する理由もないので、これからは素直にゴーストと呼ぶことにしよう。
「で、そのゴーストの君が俺をここに呼んだのか?」
いきなりでびっくりしたが、驚いてばかりもいられない。フレンドリーな態度でも、彼女が味方であるという確証はないのだ。俺は警戒しつつゴーストの少女に問う。
「違うよ。それと、警戒、解いてくれないかな? 私は君の味方だよ」
「それをどうやって信じろと?」
「私はふぁいん。一ノ木晴人くん、君を守りにきたゴーストだよ」
「ふぁいん、ね。偽名だよな、それ」
「うん。こっちにも色々事情があってさー」
どう考えても怪しい。問答無用に襲ってこないところを見ると、話の通じない敵でないのは確かだが、それだけで味方と信じるのは危険じゃないだろうか。
「そのうち話すからさ、ちょっとだけ信じてくれないかな? 後ろからついていくだけでなにもしないから」
「後ろじゃなくて前なら」
「じゃあそれで、よろしくね!」
しかし、疑いがあるからと排除するのはもったいない。俺を守りにきたという言葉が真実か否かは別として、彼女は見知らぬ場所で出会った貴重な人物。ゴーストという不思議な存在でも、何らかの情報を持っている可能性は非常に高い。
ふぁいんが扉を半分すり抜けて手招きするので、俺は扉を開けて外に出る。俺を迎えたのは広い廊下で、特に罠が仕掛けられている様子はなさそうだった。
廊下に出て周囲を見回す。真っ先に目に入ったのは、左の先にある玄関扉と、右の先にある階段。普通に考えれば、ここは一階であると見ていいだろう。階段の先にはトイレが見え、前にあるのは十字路。
まずは近くにある玄関に近づいて、ノブに手をかけてみる。動かない。こちらは鍵がかかっているようだ。鍵穴も見当たらず、カードキーなどの認証装置もない。
「魔動式の鍵だね」
「みたいだな」
特定の魔法でしか開錠できない、魔動式の鍵。セキュリティの厳重さを考えると、ここが魔法研究施設であるのは間違いなさそうだ。
玄関に鍵がかかっているとなると、俺は施設内に監禁されたとも考えられるが……結論を出すのはまだ早い。ふぁいんは玄関の扉をすり抜けて、すぐに戻ってきた。小さく首を振っている様子を見て、開錠は難しいと判断する。
魔法研究施設であるなら、扉は対魔法素材を使っているはず。魔法で強引にぶち破ることもできないだろう。
「外は?」
「雪がいっぱいだよ」
窓から見ればわかることなので、ふぁいんの言葉を疑うことはしない。彼女はそれ以上のことを口にしなかったが、外に出れば帰れるわけでないことは口にせずともわかる。
踵を返して十字路へ。左右には廊下が続いていて、何枚かの扉が見える。まっすぐに階段を登るか、それとも廊下を進むか。右の廊下の最初の扉が休憩室に続いていることを考えると、最初はは左の廊下を確認することにしよう。
廊下の左右には扉が二つずつ。奥には窓が見え、窓の先に見える白いものは雪だろう。
手前の扉を開けて、左の部屋を確認。鍵はかかっておらず、広い部屋の中には机や棚が並んでいた。廊下の端や、玄関までと同じ広さ。研究室といったところだろうか。
俺は扉を閉めて、廊下の右の部屋も確認する。先ほどと同じような部屋。机や椅子の配置こそ同一ではないが、おそらくここも研究室だ。中は詳しく探索せずに、次の場所を目指す。棚の中のファイルや書類を確認したところで、何らかの手がかりが見つかる可能性は低い。それをするのは、一通り施設内を確認してからでも遅くはない。
階段の先にはトイレしかないようなので、次は休憩室の方へ。右の壁には扉が一つ。念のために確認すると、中はやはり目覚めた休憩室だったので、探索は不要。
左の壁には大きな両開きの扉がひとつ。鍵はかかっていなかったので引き開けると、中には長いテーブルや小さな椅子が並んでいた。壁にはメニューが掲げられており、カレーライスやエビピラフといった食べ物の名前が書かれている。値段の表記こそないが、ここが食堂であると判断するには十分だ。
左奥の扉はカウンターごしに見える厨房に繋がるもの。カウンターから覗いてみると、厨房の先にもう一枚扉がある。食堂の右奥の空間に繋がっているようだが、おそらく食材庫だろう。
厨房を抜けて扉を開けようとしてみたが、食材庫の扉には鍵がかけられていた。気にはなるが、こちらの鍵は普通の鍵。魔法で開錠もできるが時間がかかる。
「ふぁいん、中を見てくれるか?」
「いいよー。何もないと思うけど……」
なんだかんだで頼りにしているのはどうなのかと思いつつ、彼女の味方という言葉が真実ならば、ある程度は頼りにしても損はないはずだ。
少しして戻ってきたふぁいんに、俺はすかさず問いかける。
「誰かいたか?」
「いたら私もびっくりしてたね」
肩をすくめる彼女の様子から、いますぐ探索する必要はないと結論付ける。彼女が嘘をついている可能性もゼロではないが、ここでそんな嘘をつく理由はないだろう。もし食材庫の中に死体が眠っているとしても、ここで俺に隠すメリットがあるとは思えない。
発見されたら困る状況といえば、何者かを監禁しているくらいなものだが、だとしたら俺の前に現れるのを遅れさせた方が確実だ。
食堂を出て、さらに廊下を進む。突き当たりは丁字路になっていて、正面の窓から見えるのは雪と大きな建物の壁。左には階段と扉が一枚、右の壁に。右には左右の壁と奥の全てに扉があった。奥と左の壁は両開きで、右の壁は一枚扉。枚数にすると五枚だが、行き先は三つ――二つだろうか。
廊下の長さを考えると、奥の扉の先に空間はほとんどないはずだ。建物が長方形でないなら話は変わるが、まあ確かめてみればすぐにわかることだろう。
丁字路の壁にある二つの扉は、窓の先に見えるもう一つの建物への通路と考えられる。そちらも気になるが、今はこの建物の探索を優先しよう。休憩室の隣の部屋が何かを確かめてから、他の階も調べる。階段は上下に続いているので、少なくとも二階と地下一階が存在するのは確実だ。
さっそく調べようとしたそのとき、丁字路の左側から微かな気配を感じた。階段からではない。気配を感じるのは、扉の先の通路から。気のせいかとも思ったが、ふぁいんも俺と同じ方向を見ていたから多分間違いないだろう。
感じる気配は強い魔法の気配。相当な魔力量を持つ何者かが、こちらに近づいてきている。遠くから俺を転移させることも容易いであろう、凄い魔法使いが。
「晴人くん」
「やはり君も気付いたか」
「まあね。私、魔法には敏感だから」
「だろうな」
ふぁいんから感じる魔法の気配は弱い。しかし、その魔力はとても純粋で、魔法そのもの。もしかするとゴーストというのは、魔法の一種なのかもしれない。それは後で尋ねるとして、彼女が魔法に極めて近い存在ならば、当然、魔法を感知する能力は高いはず。
通路の先に感じる気配はまだ遠い。気配を抑える術を知らないのか、わざと気付かせようとしているのか、いずれにせよ廊下を戻ればすぐには見つからない。
「一旦隠れるか。ふぁいん、気配を抑えられるか?」
「無理。でも、必要ないよ」
「必要ない?」
「うん。私、晴人くんにしか見えないから」
「俺にしか?」
「それがゴーストというものだよ」
「……ふむ」
よくわからないが、これもそのうち話すに含まれるのだろう。俺は廊下を戻って扉が開く音に耳を澄ませることにした。魔法の気配はそのまま。魔法の気配は察知できるとはいえ、それはよほど強い魔力量を持つ人物に限られる。俺程度の魔力量では、抑えるまでもなく察知されることはない。
感知魔法や感知用の魔法具でも使われれば別だが、もしそれらを使っているとすれば、いまさら隠れても遅い。それでも、探索済みの場所に戻れば多少は動きやすくなる。
扉の開く音が聞こえた。気配は階段の方には向かわず、廊下を進みこちらに近づいてくる。偶然かどうかはわからないが、やり過ごすわけにはいかないみたいだ。
食堂や休憩室へ静かに隠れることも考えたが、探索済みの場所だけで逃げ続けるのは難しい。俺は廊下の中央で待機して、距離をとってその気配と対峙することに決めた。もしそいつが俺を飛ばした者だとしても、意識を失っている間に何もしなかった相手だ。いきなり攻撃を仕掛けてくることはないと思う。
そして丁字路の中心に、その気配の持ち主が現れる。彼女は左右を見回し、すぐに俺の姿に気付いたようだった。
フリルのたくさんついたひらひらした服装がまず目に入り、次に視線が惹かれたのはさらさらとなびく、まっすぐに伸びたセミロングの髪。胸はないが、可愛らしい顔立ちや服装からすると、おそらくは十代前半の女の子。
「ごきげんよう。あなたは、ここの方ですか?」
「いや、違うよ。君は……聞くまでもないか」
悪意は感じないが、この状況で冷静に挨拶をしてくる相手に、警戒は解けない。俺も人のことは言えないし、彼女も同じ状況という可能性も考えられるが……。とりあえず、声から女の子であることは間違いなさそうだ。
「では、なぜここに?」
「なぜ、か。突然飛ばされたとしか言いようがないな」
「突然……というと、転移魔法にでも巻き込まれましたか?」
「ああ。君もなのか?」
「それは、その、少し違いますわ」
情報を小出しにしつつ、相手の様子を探る。その間もふぁいんは俺の横でふよふよしていたが、目の前の少女が気付く様子はなかった。
「だって、巻き込まれたではなく、巻き込んだの方が正確ですもの」
「巻き込んだ?」
あっさりと言ってのけた彼女に、反射的に聞き返す。
「どうりで八雲がいないわけですわ。ええと、あなた、お名前は?」
「一ノ木晴人」
「私は魔堂瑠那と申します。一ノ木……は長いので晴人さん。私の魔法の失敗でこんなところまで飛ばしてしまったことは謝罪しますわ。ごめんなさい」
小さく礼をして謝る女の子――魔堂瑠那。彼女を見るのは初めてだが、魔堂という名字には覚えがあった。
「魔堂、というと……」
「ええ。おそらく、ご存知の魔堂家で間違いないですわ」
かつての大戦で活躍した魔堂家は、特に魔法使いにとっては有名だ。そしてその魔堂家の実家は王立魔法学園の近くにある。
「君が魔法を使ったのは?」
「当然、私の家ですわ」
「そうだよな」
それにしても、俺のいた場所からするとそれなりの距離はあるのだが、彼女の魔力量からすると、巻き込まれたとしてもおかしくはない。
「晴人くん、晴人くん」
呼びかけてきたふぁいんに、声は出さずに視線を送ることで応える。
「なんか、あっさり信じてない? 私のことは信じてないのに」
そりゃ、ゴーストというよくわからない存在で、偽名を使う相手よりは信じやすいし、とは思ったが口には出さない。というか瑠那の前だから口には出せない。
「ええと、瑠那、でいいか?」
「お好きなように」
「俺の他には、ここで誰かを見かけたか?」
さりげなくふぁいんのことも確かめつつ、自然な質問をする。
「いいえ。ただ、あなたの他にも巻き込まれた方がいる可能性は高いですわね。私としたことが、ちょっとした魔法の失敗で迷惑をかけてしまうなんて……これでは、お兄様に怒られてしまいますわ」
転移魔法の規模からするとちょっとしたどころではないと思うのだが、気にしないことにしよう。彼女の魔力量からすると、あながち間違ってもいないのだし。
とりあえず、目の前の少女が嘘をついているとは考えにくい。歴史の上では知っていても、現在の魔堂家の家族構成は知らないから、真実かどうかの判断材料はないが、わざわざ偽って俺の前に現れる理由が思いつかない。
「少し情報交換しないか?」
「いいですわ。でも、立ち話は疲れますし……」
「それなら、そこに食堂がある」
俺は左の扉を示して、彼女を食堂に案内してから話をすることにした。
「なるほど、実験室か」
食堂での情報交換でわかったのは、瑠那が目を覚ました隣の棟のこと。隣の棟には実験室があり、彼女は地下一階の実験室前、測定室で目を覚ましたという。俺と違うのは、自身の魔法であるため、彼女は意識を失っていなかったことくらいだ。
そこを少し調べて状況を確認してから、近くにあった階段を登り、廊下をまっすぐに進んだところで俺と出会ったという。地下の測定室からは一本道、途中に扉もあったが、まずは玄関を探そうと、中は確認しなかったらしい。
「そちらには研究室があったのですね」
「ああ。結構な規模の魔法研究施設みたいだな」
「そして玄関には鍵がかかっていて、場所は不明と」
「施設のものが機能してるのは、やっぱり?」
「きっと私の魔法の影響ですわ。転移の余波で注がれたのでしょうね」
並の魔力量ならありえないことだが、彼女ほどの魔力量ならそれくらいのことは不思議ではない。むしろ、この場所でなかったら有り余る魔力が飛散して、二次被害が起きていた可能性も否定できない。
ちなみに彼女が元々使おうとしていたのは、部屋から部屋へ移動する転移魔法。失敗したとしても普通はここまでのことは起こらないが、彼女なら数人くらいは巻き込んでもおかしくはないだろう。
巻き込まれた側としてはいい迷惑だが、悪意がないとわかっただけで安心はできる。
「晴人くん、どうするの?」
ふぁいんの問いかけに、俺は手で合図して答える。瑠那と一緒では会話ができないからと、彼女が厨房や食材庫を眺めている間に決めた合図だ。返した答えは「考え中」というもの。短い時間だったので、今はまだ「はい」「いいえ」「考え中」の三つという、最低限の合図しか決めていないが、機会を見てもっと詳しい合図を考えた方がいいだろう。
情報交換を終えたあと、気になっていた一階の残り部分の探索も済ませておいた。丁字路の右、奥の扉の先は小さな倉庫。右の扉の先は仮眠室で、ベッドが並んでいた。
左の扉、押して開く両開きの通路の先は調べていないが、瑠那の話から隣の実験棟とここ――研究棟を繋ぐ通路であることはわかっている。いま俺たちが考えているのは、研究棟と実験棟、どちらを先に探索するかだった。
「瑠那は感知魔法は使えるのか?」
「練習中ですわ。失敗してもいいなら、やってみせますわ!」
「よし、やめておこう」
感知魔法が失敗しても、転移魔法の失敗ような大事にはならないだろう。せいぜい魔力が飛散するくらいだが、ここは見知らぬ魔法研究施設。保管されている魔法具や魔法資材によっては、不測の事態も考えられる。
「晴人さんは使えないのですか? 王立魔法学園の術士課程といえば、それくらい簡単でしょう?」
「ああ、使えるには使えるけど、ここだと難しいな」
魔法研究施設とくれば、当然機密情報も多い。それを外部から盗まれないため、この建物は感知魔法が効きにくいようになっている。彼女くらいの魔力量があれば問題ないだろうが、俺の魔力量ではこの食堂内に広げるだけで精一杯だ。
「では、二手に分かれましょうか」
「確かに、その方が効率はいいと思うけど、一緒の方が安全だと思う」
この魔法研究施設には、転移魔法の余波で魔力が注がれている。一階を探索した限りでは危険はないようだが、他の階まで全てそうとは限らない。万が一に備えるなら、別行動の探索は避けるべきだろう。
そう考えると、最初に探索する場所もおのずと決まってくる。
「それじゃあ、二階から調べよう。それでいいか?」
最後の質問は瑠那だけでなく、ふぁいんにも。地下から探索することも可能だが、瑠那が通路の窓から見た研究施設は三階建て。他の人がいる可能性は上の方が高いだろう。
「了解しましたわ」
「いいよー。ふふ、晴人くんもだいぶ私のことを信用してくれたみたいだね!」
ふぁいんの言葉には「考え中」の合図を返しておいた。出会ったばかりなら迷わず「いいえ」を返していただろうから、これでも十分な進歩である。
玄関の先にある階段から、俺たちは二階に上る。端にあるもう一方の階段と違い、こちらの階段は地下には続いていない。
二階に上った俺たちの目の前には扉が一枚。階段の裏には一階と同じくトイレがある。
「誰もいない、か」
「お兄様に会いたいですわ」
まあ、当たり前といえば当たり前か。二階に上がった途端に誰かと出くわす、なんて偶然がそうそう起きるはずもない。待ち伏せでもされていない限りは。
二階にも一階と同じく廊下が続いていた。玄関がない分、一直線の廊下には扉がたくさん。トイレを挟んだ階段側には、左右に扉が二つずつ。どちらも一枚扉が両端にあるので、大きな部屋が二つあると考えるのが妥当か。
正面、玄関側には扉が七枚。感覚は右の三枚がやや広く、左の四枚はやや狭い。
「これだけあると手分けした方が良さそうだな」
「そうですわね。では、端から調べましょう」
俺たちは廊下を右に曲がって、一部屋ずつ順番に調べることにした。左に曲がった先には両開きの扉が見えるが、実験棟に続いているのは明白なので後回し。その左に進めば階段があるのは一階で確認済みだ。
まずは大きな一部屋と思しき右の壁の扉を開く。案の定、中は広い部屋だった。机や椅子、棚の配置から察するに、一階の研究室と類似している。一応、何か怪しいものがないか手分けして探してから、俺たちは奥の扉から再び廊下に出ることにした。
調べた結果は特に何もないというもの。さすがに棚の中まで詳しくは調べていないが、机の下などに明らかに目立つ何かはなかった。
廊下に出て、正面の扉を開く。中の様子は先程の研究室と似ているが、広さは違う。さっきの研究室が大とすると、こちらは小、あるいは中といったところか。中は詳しく調べずに、俺たちは廊下に戻る。
「じゃあ、俺はこっちを」
「わかりましたわ」
扉の間隔から隣の二つの部屋も同じと考えて、俺と瑠那は別々の部屋を確認する。中はやはり研究室。瑠那に視線を送ると、彼女は頷いて視線を返してきた。
問題は次の部屋だ。扉の間隔が狭い四つの部屋。しかし、その扉の間隔が均等なのは奥の三部屋のみだ。ここまでの流れからすると、奥の三部屋は小さな研究室の可能性が高いが、その手前の一部屋は断定できない。
といっても、それほど危険なものがあるとは考えにくいが……。
そう思って扉の前に立ち、後ろの瑠那に合図して開けようとしたところ。俺のちょっと前にいた、ふぁいんが止めてきた。
「あ、待って。開けなくても開くよ?」
声には出さずにふぁいんを見て、どういうことかと尋ねる。こっそりすり抜けて中を確認していたとも思えない。しかし、ふぁいんは笑顔を見せるだけで黙っていた。
「どうしたのですか?」
「いや、それが……」
どう答えるべきか迷っていたところで、ふぁいんの言葉が的中した。開こうとしていた扉が開き、中から人が現れたのである。それも二人。そして、その一人は見覚えのある人物だった。
「樹、さん?」
「晴人さん。あなたもここに?」
樹美晴。学園の同期入学生で、同い年。緑を基調とする落ち着いた色合いの和服には、艶やかな長い黒髪や控えめな胸もよく似合う。可愛くて、綺麗な女の子だ。
「あら、お知り合いですか?」
「美晴さん、知ってるんですか?」
瑠那と樹さんの後ろに隠れている女の子の声が重なる。瑠那と同じくらいの小さな女の子で、セミショートのまっすぐな髪と、涼しげな色合いの服装が爽やかな印象を与える。
「ええ。そちらの女の子は知らないですが、あと……」
樹さんはふぁいんの方に視線を向けた。ふぁいんは気付いているのかいないのか、彼女に背を向けたまま、暇そうにふわふわ浮かんでいる。
「いえ、気のせいですね」
姿は見えていないようだが、ふぁいんの魔法の気配に気付いたのだろうか。
「晴人さん、場所を移しませんか? ここで立ち話もなんですし」
「ああ、そうしよう。この人数なら、隣で大丈夫かな」
「隣……やはり、研究室ですか?」
「やはりってことは、もしかして」
隣の研究室へと、短い距離を移動しながら樹さんと会話する。
「はい。あちらの三部屋も全て研究室です。ここよりは小さいですが」
大、中、小。この階にある部屋はほとんど研究室のようだ。
研究室の椅子に腰掛け、互いの情報を交換する。見知らぬ場所でも見知った相手、警戒する必要がないのは気が楽でいい。もっとも、その相手が樹さんというのには、俺にとって結構な驚きではあるのだが、今はなるべく気にしないようにしよう。
「では、これは瑠那さんが?」
「そうですわ。あなた方には迷惑をおかけします」
まずは俺たちの方から、ここまでに見て来た部屋のことや、瑠那のことを話す。
「そうですか。安心しました」
「はい。悪い人じゃなくて良かったです」
樹さんと隣の女の子が安堵の表情を浮かべる。
「君の名前も聞いていいかな?」
俺と樹さんは先ほどの倉庫――というのは樹さんと隣の女の子の探索結果だ――前での遭遇があったので、情報交換を始めるときに瑠那と女の子に自己紹介をしておいた。
「あ、はい。降谷熾月です。目を覚ましたのは隣の、大きな実験室でした」
「それで、私が目を覚ましたのは二階の広い研究室。通路を抜けて、部屋でじっとしていた熾月と出会ったの。それから色々と話して、部屋を探索してたところで……」
「俺たちと出会った、というわけか」
「ええ」
「樹さんと熾月ちゃんも、この場所は初めてなんだよな?」
「あら。彼女にはちゃんをつけるのですね」
「瑠那にもつけた方がいいか?」
何となく呼び捨てにはしにくい雰囲気だったので、ちゃんをつけて呼んだら、瑠那から横槍が入った。
「いえ、気持ちはわかりますわ。熾月さん、でいいですわね?」
「はい。それでお願いします」
熾月ちゃんは淡々と答えた。人見知りというわけではなさそうだが、どうも彼女からは壁を感じる。樹さんが呼び捨てにしているのは、実験棟の実験室で色々と話した結果なのだろう。
「とすると、この二階で調べてないのは……」
「はい。早速調べましょうか。もしかすると他にも誰かいらっしゃるかもしれません」
「ああ、その方がいいな」
この状況で二階にいる可能性は高くはないが、警戒して同じ部屋でじっとしている可能性も十分にある。
俺たちが並んで研究室を出て、最後の部屋を調べに行こうとしたところで、後ろから瑠那に呼び止められた。
「晴人さん、少しよろしいですか?」
「どうしたんだ?」
「一つ確認したいことがありまして」
そう言うと、瑠那は背伸びをして俺の耳元に口を寄せる。身長差からちょっと足りないので、俺も少しだけ体を前に屈める。
「あの樹美晴という方は、恋人ではないですよね?」
「なっ!」
思いもよらない言葉に思わず声が出る。
「なるほど。今ので大体わかりました。ふふ、こんなことに巻き込んだお詫びとして、少しなら応援してさしあげますわ」
瑠那は微笑んで、さっさと樹さんたちを追いかけていった。俺もどうにか冷静さを取り戻しつつ、慌てて追いかけようとしたところに、ゴーストの声が聞こえた。
「いやー、晴人くん。片想いばればれだね。かわいい」
「ふぁいんはいつ気付いた?」
「そりゃ、出会ったときから?」
「は?」
出会ったとき。倉庫前の遭遇を指すにしてはおかしな表現だ。
「ほら、早くしないと置いてかれちゃうよ」
「……そうだな」
よくわからないが、ここでじっとしてみんなを待たせるわけにはいかない。ふぁいんのことについては、一通り探索を終えてからじっくり本人と話すとしよう。
登場人物
一ノ木晴人:いちのき はると
ふぁいん:ゴースト
魔堂瑠那:まどう るな
樹美晴:いつき みはる
降谷熾月:ふるや しづき