秋奈さんと別れて、俺は一人であかほし地域に向かっていた。中央五角星を抜けて徒歩で向かう彼女と違って、俺は舟を利用して離れたあかほし地域を目指す。星頂専用の渡し舟。五星湖の一つ、ききほし湖から舟に乗り、暖かい川を漕いでいって、あかほし湖まで。
見えてきたのは小さな山々の並ぶ山岳地帯。見慣れた砂丘よりも高く、硬そうな山肌。あかほし湖の周辺や麓には木々も見えるが、森林と呼べるような密集地帯はない。
ここが、あかほし地域。話には聞いていたけれど、実際に訪れるととても新鮮だ。
舟から降りて、緩やかな坂道を登っていく。次第にその坂は急になり、その先に見える地形も上ったり下ったり、起伏が大きく高低差が激しい。そんな土地で暮らすために、山々の間には多数の吊り橋が架けられている。
湖から見えたのは数本、しかし一つの小さな山の頂上に達した頃には、その本数は十本を軽く越えていた。山の陰に隠れているものも考えると、本当に多くの橋がここにはある。
問題は、その多くの橋をどのように渡れば、星頂のいる場所に辿り着けるか。地図は事前に確認して、今も持ってきているけれど、細かい吊り橋の経路は複雑で覚えきれなかった。
空に浮かぶ大太陽はまだ高い。やはり目指すのは五星学園――あかほし学園だろう。あかほし地域でも近くに星寮があるはずだし、星頂に特別な用事がなければそこにいるはずだ。
最初の橋を渡る前に、改めて地図を確認。湖からの来客を迎えるため、最初の橋はわかりやすい。分岐が複雑になるのはそこからだ。これだけの高低差のある地形を、平面図の地図で表す……それもこの橋の数、複雑になるのも仕方ない。
立体地図でもあればと思うが、そんなものはききほし地域にはない。もしかすると、ここで探せば見つかるかもしれないが、橋に書かれた番号と、地図を比較して進めば迷いはしないだろう。
三番から五番、次は二十七番――三十八番に、百十一番、それから五十番、二番……慣れない吊り橋の揺れにも慣れた頃、目的のあかほし五星学園が見えてきた。
山の中腹に建てられた、あかほし地域の五星学園。大体は見慣れた形だが、砂丘に建つききほし地域の学園とは、細かい施設の配置が違うようだ。だが、ここの地図は隣接する星寮も含めて、ちゃんと頭に入っている。中腹は平面、地域全体に比べて覚えやすい地図だ。
あかほし地域の星頂――名前は柊真冬。学園の組は、十四星あかほしの月。ここからだと、二階の奥の……あっちの方か。
門のところに立っていた教官に、挨拶をして名前を告げる。紫郎ほどではないが真面目そうな教官は突然の訪問者に驚いた顔をしていたが、詳しい事情を話すまでもなくすぐに通してくれた。
わざわざ他地域の星頂が、他の地域の星頂を訪れる。それだけで重要な用件であることはすぐに伝わる。しかし、あの教官の姿を見ると、俺たちを担当する教官の姿を思い出す。
十四星ききほしの月、担当教官の山林仁実。現寮頂である紫郎と橙子に加え、三年前より星頂も加わった組の教官さん。彼女の真面目さは、あの教官の半分以下もあるかどうか。特に星頂に対しても態度を全く変えない姿は、とても教官らしくない。
もっとも、俺にとってはその方が気楽でいいし、姉上とも親しかった人だから、それに文句を言う人は誰もいない。
学園内を歩いて、教室の中を眺めながら思う。やはりここの教官は、みな若い。いや、ききほし五星学園の教官でも、仁実さんだけが特別だ。美容には気を遣っていて、見た目こそ若い女性だが、三十三歳独身。十六で卒業してから十七年、結婚して子を産み星外に探索に出ることもなく、星内に留まり続けて教官をしている。
そのことについては昔、橙子が中心となって尋ねたことがある。
「仁実先生は結婚しないんですか? 相手がいなかったわけじゃないですよね?」
その相手の存在は確認済みです、といった顔で橙子が尋ねる。細かい事情までは調べられていなかったが、失恋による別れでなかったことまで彼女は調べ上げていた。
「ええ、しないわよ。あなたたちも知っての通り、結婚して子供を産んだ大人は星外に探索に出て食糧を確保する。星内で育つ子供たちのために。けれど、その星外では事故も多くて、事故率は九割以上。結婚して子供を産んで星の外に出るとね、みんな死ぬのよ。――あ、今そうだっけ、みたいな顔した人は、テストに出さないけど復習しとくように」
「それで?」
代表して促した橙子の他、主に女の子が興味津々。紫朗も少し興味があるように見えた。
「でも独身なら、事故率は一割以下の数パーセント。これがどういうことかわかる?」
教官らしい形式的な質問をしてから、仁実さんはこう言ったのだ。
「あたしは恋より長生きしたいのよ!」
自信満々で。それが我らが教官、山林仁実という人物である。
そんなことを思い出しながら歩いているうちに、目的の教室に到着した。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったのはそれからすぐのことで、俺は最初に出てきた学生に声をかける。
「柊真冬さんに話があるんだ。呼んでくれるかな?」
「え? ここの学生じゃないですよね……それもこんな時間に……まさか!」
「ああ、緊急の用事でね。俺はききほし地域の星頂……」
言い終わる前に、出てきた女の子は教室に戻って叫んでいた。
「真冬さーん! 恋人さんですよー! もしくは片想いー!」
「告白のお誘い? ちょっと待っててー」
違うという言葉をかけるより早く、女の子はウインクをして廊下を駆けていった。
「待たせちゃった? 君は……」
殆ど待たずに現れたのは、ショートツインテールの可愛らしい少女。最高の笑顔で現れたかと思うと、一気に冷えたような視線で俺の全身を上から下に、そしてまた下から上に眺める。
その顔立ちや肌の色は、どこか日本人にはない美しさを感じる。どこか寒さを感じさせるような、そんな凍えた美しさ。
「ききほし地域の星頂、花咲枯葉。あかほし地域の星頂、柊真冬さんに」
「ごめんなさい」
名乗ったところで深々と礼をされて、哀しそうな表情で頼んでないことを断られた。
「緊急で伝えたいことがあって、ここにきたんだ。初対面で告白はしない」
「大事なこと?」
驚いた顔を見せる真冬さん。廊下を歩き出した彼女に、俺もついていく。向かった先は五星学園と星寮の間から、少し道を外れた人のいない場所だった。
「では改めて。あかほし地域の星頂、柊真冬です。見ての通り、ロシアンガールよ」
「ききほし地域の星頂、花咲枯葉です」
「ま、ロシア人の血は半分くらいなんだけどね」
真面目な顔から一転、爽やかな微笑みを浮かべる真冬さん。出会ったときから、ころころと表情の変わる女の子だ。感じた凍えた美しさは、半分くらいのロシアが生んだ美しさ。
「用件をお願いします」
再び真面目に、少しクールな表情で。俺は頷いて、秋奈さんから聞いたことと、昨日の出来事をできるだけ詳しく伝える。特に、敵の見た目と強さについては、余すところなく。ゆきや雪蛇が、今すぐ襲いかかってきても戦えるように。
「真白き蛇……ソフトクリーム」
一応呼び名も全部伝えておいた。今後、秋奈さんと連携するときに必要になる情報だ。
「その敵が星頂を狙ってる。それを伝えにきたんだ」
「守りに、ではなく?」
可愛らしい微笑みに、俺は黙って頷く。そう言えたら格好いいのだけど、それは今回の目的じゃないし、そもそも俺にはそんな力はない。俺の星頂の力は姉上に比べれば弱くて、全力を出してもゆきには手も足も出なかった。
ゆきの生み出す雪蛇くらいならどうにかなるけれど、襲ってくるのが一体二体ではなく、もしもっと多くの数――十体、いや五体でも相手にすることになれば、苦戦は確実だ。
「そう……」
涼やかな顔で呟く真冬さん。雪蛇はともかく、ゆきの強さを聞いてもなお、そんな表情ができるということは、彼女もやはり星頂としての力は俺より高いのだろう。
「まだ、襲ってくる様子はないみたい。少し観光していく? それとも、ご帰還?」
今からききほし地域に戻るには、かなり急がなければならない。何もない状況で戻るだけなら問題はないが、襲われる可能性を考えると万全を期した方がいい。
「観光で。案内してもらいたい」
そう考えて、真冬さんの提案に答える。笑顔で頷いた彼女に、俺も頷いてついていく。
観光といってもそう多くの時間はない。今夜はあかほし地域の星寮に泊まって、明日の朝にはききほし地域に戻る。それまでの時間の、ちょっとした観光案内だ。
五星学園近くの高い山から望む、星内の高い山と、星外にある低く小さな山が一望できる山岳の景色。その殆どが砂丘よりも高い光景に、初めて見る光景に俺は圧倒される。そこからさらに吊り橋を渡った先には、また違う山々の連なりが見えた。
五星学園に向かうときにも感じたが、橋を一本渡るだけでここまで景色が変わるのも凄いと思う。山と山を繋ぐ長い吊り橋を渡るのだから、当然の変化なのだが、自然が作り出す景色の美しさにはいつも感嘆する。
それに関しては、俺のききほし地域も負けてはいないと思うが、どちらがより優れているかなどと優劣を決めるものでもない。感嘆する景色、それだけでいい。
案内されている途中で気付いたが、真冬さんは常に足場がそれなりに整った、戦いやすい場所を選んで観光案内をしていた。ここで生まれ育った彼女ならどこでも戦えるのだろうが、初めて訪れた俺への配慮だろう。これもまた、観光の一つと言えるだろうか?
「そろそろ暗くなるね。敵さんは、襲ってこない?」
「だといいけど」
このまま何事もなく星寮に戻って、ゆっくり一泊してから、明日の朝に帰還する。そう上手くいけば、越したことはない。
しかしそう上手くいくことは、敵が許してくれなかった。
星寮まであと二本の橋を渡れば戻れるといったところ、山岳地帯の中でも特に足場の広い空間で、毛糸のコートにマフラーを巻いた少女――ゆきが待っていた。
「待ってたのか?」
雪蛇の姿はない。しかし、それよりも彼女自身が強いことは理解している。だが、俺と真冬さんの二人を相手に、彼女一人でいきなり仕掛けてくることはない。もしかすると、今回は会話が目的かもしれない。迅速に考えて、短い言葉で声をかける。
「追いかけてきた」
返ってきたのも、短い言葉。
「そしてこの場で追い抜いた。山を越えて?」
今度は真冬さんが質問する。やはりまだ、ゆきに仕掛けてくる様子はない。
「雪は舞い、空を飛ぶ。造作もない」
答えるゆき。山を越えたのか、山の間の空を越えたのか、どちらでもないし、どちらでもあるのかもしれない。真冬さんにはそれが見えていたのか、見えていないから尋ねたのか。
二人の表情からは、何も読み取れない。真冬さんは柔らかい笑みを浮かべ、ゆきはもっと柔らかい笑みで答える。俺の気付かないところで激しい頭脳戦が始まっているのか、それともただ会話を楽しんでいるだけなのか、どちらにせよ俺にできることは、一つだけ。
いつゆきが、雪蛇が、本気で仕掛けてきても戦えるようにすること。
「はじめる?」
「始めたいなら」
二人の言葉はほぼ重なるように、俺の耳に届いた。
「始まる」
その声に反応するように、思わず呟く。
ゆきの目の前に、雪蛇が生み出された。六体の雪蛇が、ゆきを守るように囲んで現れる。毛むくじゃらの部位は、腕にあるものが二体、足にあるものが二体、そしてもう二体は、腕と足に四本の部位がついていた。
一目でわかる強敵。その二体はゆきの後ろに控えているが、護衛だけでは終わらないだろう。
ふう……、と。大きな息を吐いてから、
「枯葉くん、私の戦い、よく見ててね」
一歩前に進み出た真冬さんが言った。
ショートツインテールの髪が煌めきながら少し伸びて、ロングツインテールに――はならずに、ミドルツインテールあたりで止まった。
「背中はお願い。伏兵は……いないと思うけど」
「了解」
俺は答えて、彼女の後ろを守ることに専念する。伏兵はなくとも、敵の数は六体。二人の人間で相手にするのなら、回り込む隙なんて常にあるようなものだ。
真冬さんの掲げた手のひらに、一本の長い樹の枝が生まれていく。太くはないが細くもない、長い槍のような樹。帯を外して抜いた俺の鞘刀より、それは長いように感じる。ただ、槍にしては……穂先がない。棒術や杖術の類だろうか。
しかし、真冬さんはない穂先を雪蛇の正面に向けて、構えている。あのまま突いて戦うことももちろんできるが、それにしては不思議な構えだ。あれは完全に、突き刺す構えである。
が、その不思議の理由はすぐに解明された。
「教えておくよ。私の星頂としての力は――樹氷」
構えた槍の先に、穂先の部分に小さな粒が集まっていく。それは氷の粒で、粒は大きな塊となり、瞬く間に鋭い氷の穂先が樹の枝の先端に生成されていた。
「樹と氷……だから樹氷か」
「うん。よく見ててね。私の戦い」
繰り返される言葉には、頷くまでもない。頷いても彼女には見えないし、何より――四体の雪蛇が俺たち目がけて動き出していた。俊敏に、真白き体で地面を這い、大きな蛇が四方から襲いかかってくる。
厄介なことに、敵は一定の距離を保ちながら俺たちを囲んでいく。
「枯葉くん、飛び道具は?」
「ないよ」
「私も。あは、ここまで読んでこの場所を選んだのかな?」
飛び道具はなくても、身体能力と武器の扱いで距離を詰めることはできる。しかしそれも一定の距離まで。武器の長さの何十倍もの距離をとられては、とてもじゃないが詰めきれない。
敵の数が少なければそれでもいいが、数は四体。こちらから動くより、相手から間合いに入ってくるのを待った方が戦いやすい。幸い、雪蛇にも飛び道具はないようだった。問題はゆきと残る二体の雪蛇だが、まだ仕掛けてくる気配は感じられない。
「余裕だね。俺は余裕じゃないけど」
「うん。今は私も結構不利。でも大丈夫、君が私をよく見ててくれれば」
三度目の言葉。表情はここからでは見えないが、声から余裕は伝わってくる。真冬さんをよく見ること。それにどういう意味があるのかわからないが、今は彼女を信じよう。
四方に移動を終えた四体の雪蛇は、完璧に速度を合わせて突進してくる。真冬さんの正面から襲うのは、腕が毛むくじゃらの雪蛇。左右から襲うのは足が毛むくじゃらの雪蛇。後方から襲うのは、俺が倒すべき敵だ。
背中を守りながら、よく見るのは難しいが、最初に襲ってくるのは一度対峙した雪蛇。動きこそ前と全く同じというわけではないが、強い部分と弱い部分は同じはずだ。
鋭く重く、振り下ろされる毛むくじゃらの腕を斜めにすり抜けるように回避して、すれ違いざまに鞘刀で真白き体を叩き斬る。雪が融けるように消える姿は眺めず、素早く振り返って真冬さんの様子と、残った敵の状況を確認する。
真冬さんは左右から襲いかかる毛むくじゃらの足を、地面に突き立てた樹氷で高く跳躍して回避し、その勢いで振り上げた樹氷を空中で回転させ、まっすぐに腕を振り抜いていた雪蛇の頭上から氷の穂先を突き刺す。
華麗に倒すその光景に目を奪われる俺だったが、その視線は真冬さんのお尻に――派手にめくれたスカートの中に、釘付けになっていた。
「ちょ、真冬さん!」
「枯葉くん、遠慮なく欲情してね!」
スカートの下にあるのは、透けるような薄い水色のぱんつ。面積も狭く、透けるようなではなく本当に透けているのかもしれない。
「遠慮なくって」
女の子のそんなものを見てしまっては、少しは性的な興奮を覚えてしまう。危険な敵との戦いの中で、そんなことに集中してはいけないと思うのだが……。
「そう!」
「……わ、わかったよ」
これもきっと何かの意図があるのだろう。恥ずかしいが、俺は性欲に素直になった。
すると、真冬さんのミドルツインテールが再び煌めいて、伸びた髪はロングツインテールへと変貌した。それと同時に、素直になった性欲もどこかに消えてしまった。
「今のが」
「細かい話は、倒してから!」
「ああ!」
蹴りが空振りに終わった二体の雪蛇が、衝突を回避してこちらに反転する。それが終わるのを待つことなく、俺は鞘刀を突き出し、右の雪蛇を貫いた。着地した真冬さんは雪蛇よりやや遅れて反転したが、振り回された尻尾は樹の枝で軽々と受け止める。受け止めた樹の枝からは鋭い氷が飛び出し、蛇足が届くより先にその体を消滅させる。
残る二体の雪蛇が動いたのは、その直後だった。速度こそ変わらないが、毛むくじゃらの部位が腕と足、人間と同じだけついているそれに、他の四体のような隙はない。さらに、今の戦いを見ていたからか、人にはない尻尾を使っての攻撃は一切してこなかった。
「……くっ」
「ここまで引きつければ……引きつけなくても、やれた?」
防戦一方になる俺の耳に、真冬さんの声が届く。その表情はとても楽しそうで、その意味を俺はすぐに知ることになる。
「見ててね。これが私の――樹氷!」
一体の腕と足を長い樹の枝で同時に受け止めて、真冬さんは叫ぶ。握った樹からは何本もの鋭い氷が枝のように伸びていき、毛むくじゃらの部位を避けるようにうねり、真白き体を氷に染めていく。
その氷は俺が防戦していた雪蛇にも襲いかかり、鋭い氷は二体の敵を一瞬で融かしてしまった。敵を倒して役目を終えた氷は、綺麗に砕けて美しい終幕を飾る。
「……これが、真冬さんの力」
わかっていたことだ。しかし、こうして戦いの中で見せられると、いかに自分の力が弱いのかを実感させられる。やはり、姉上には戻ってきてもらうのが、ききほし地域のためだ。
「えっちな星頂さん」
「性欲視線をぱわーにかえて。枯葉くんの性欲が私を強くしたの」
冷ややかな視線で真冬さんを見つめるゆきに、彼女はこちらを向いて真剣な顔で答える。
「それが君の、反動的な何か……反動なのか?」
「他の人は知らないけど、私はこうなの。反動は、君にあるんじゃないかな?」
その疑問を尋ねたかったが、今は残った敵――ゆきの動きを注視しないといけない。
「今日はさようなら。もう戦わない」
その言葉が本気かどうかはわからない。が、戦わないという相手に仕掛けるつもりもない。
戦いが終わったことにまだ安心はできないが、ここで戦いが起きたことに安心はできる。ゆきが俺を追いかけてこちらにきたということは、秋奈さんを襲う敵もいない。雪蛇は向かわせているかもしれないが、雪蛇だけなら退けるのは簡単なはず。
「冬に降るのが雪ならば――」
ふと、ゆきが情緒を込めた声色でそんな言葉を口にした。
「――夏に降るは雨」
どういう意味かと、問う時間はなく。ゆきの姿はその身に吹きつける雪に紛れるように、消えていった。
しかし、その言葉から推測はできる。秋奈さん側も、ゆきの知る何者かに襲われる可能性が高いことを。だが、今の俺たちにそれを伝える手段はない。
「私たちはゆっくり休もうか?」
「そうだね」
鞘刀を帯で留めて、髪がショートツインテールに戻った真冬さんと一緒に歩き出す。星寮へは、残り二本の橋を渡るだけ。空は暗くなり始めていたけど、もうすぐだ。
到着した星寮の最上階、いつもは真冬さんが一人で暮らす女の子の部屋。といっても、俺の心は少しどきどきするだけで、何かを期待するような気持ちは一切沸いてこなかった。
場所が違うだけで、二人きりの一夜は秋奈さんとも経験している。姉上とも暮らしていたから、自分が思う以上に早く慣れてしまったのか……と思ったが、そんな次元じゃないと気付いたのは少ししてから。
星寮内の温泉で疲れを癒し、戻ってきた真冬さんはタオル一枚だった。ちなみに髪はリボンタオルをゆるく結んで、ふわしとショートツインテール。
しかも一階からその姿できたという、いくら女子寮を抜けてきたとはいえどきどきする姿。
さらに彼女は戻ってきてすぐ、タオルを脱いで可愛らしい寝巻きに着替え始めた。あまりにも堂々としたその様子に、俺は慌てて視線を逸らすことなく、少し見ていてしまったのだが……不思議なことに、ただ綺麗だと思うだけで俺の心も体も反応はしなかった。
「もしかして、これが反動か」
多分そのはずだ。今は性欲がどこかへいくほど他の何かに集中しているわけでもないし、そのあたりの機能が正常であることは、今朝にも確認されている。
「そう。私は性欲をぱわーにかえる。それはその人の性欲を奪うようなもの。枯葉くん、今夜は昂ぶれないから、私も安心」
クールな微笑みで、真冬さんは答えてくれた。
「俺はそうでも、君は恥ずかしくないのか?」
「性的な目で見られてないのに、何を恥ずかしがる必要があるの? 可愛い女の子の綺麗な体は美しい。これ、芸術っていうんだって」
「俺にはよくわからないけど」
あいにく芸術には詳しくない。そしてもう一つ、彼女に告げておくべきことがある。
「今は何も沸かないけど、目にした記憶から思い出すってこともあるよね?」
「曖昧な言い方」
冷たく睨むような瞳にぞくぞくすることも、どきどきすることもない。
「それはいいの?」
「もちろん。でも、私を見ながらそうなったら、その性欲は私のぱわーにかわるから」
「いや、見ながらするなんて……ああ、そういうことか」
冷静に否定して、彼女の言いたいことに気付く。
「私、それがないと星頂としての力が高くならないの」
「だからいざというときは、俺に頼むってことだね。そのための下準備」
頷く真冬さん。そういうことなら、今が一番やりやすいタイミング。納得だ。
「けど、その力の高め方……他の人の子作りが遅れそうだよね」
「彼女がいながら他の女の子に欲情するような男の子なんて、遅れても文句は言えないね」
「厳しいな」
「厳しいかな?」
厳しいような厳しくないような、まあそこは今すぐはっきりさせなくてもいいか。
「ところで君は?」
「そういうのはないよ。女の子だけらしい」
「了解」
真冬さんはにこりとして頷いた。今後の敵との戦いのため、情報交換はなるべくしておいた方がいい。俺たちはその後も、互いの戦い方や星頂の力など、気になることを尋ね合って次の戦いに備えていた。
さて、そうして今夜は何事もなかったのだが。
「……ああ、なるほど」
「正常。復活したね」
一晩は大丈夫という言葉に油断して、大きくて広いからと彼女の誘いに乗って星頂用のベッドで寝たことを、俺は目覚めた途端に後悔するのだった。