五つの星の頂点 ほしぐも

第一話 夜の星の出会い


 星の中で星は輝く。緩やかな砂丘から、遠く見下ろす湖――ききほし湖は暗い輝きを見せる。ききほし学園からの帰り道、長い寄り道をしてこの場所を訪れる。姉上の好きな光景を、そして俺も大好きな光景を目に映すため。

 広い砂丘にはききほし学園や家々が点在し、遠くききほし湖の周辺には平地が広がる。いつも見慣れた光景に、今日は見慣れないものが一つだけあった。

 近くに家もない、店もない、そして道から少し外れた砂の上。そこにある人影は、さらに道から外れるように動いている。夜の始まりはまだ明るく、それでもやはり夜は暗い。その先に何があるのか、それとも何もないのか、ここからでは判然としない。

「これも星頂の務め……だよな」

 俺は砂丘を駆け下りて、まっすぐに人影がいた場所を目指した。開けた砂丘、ここからその場所までに障害物はない。少々砂に足はとられるが、ここで生まれ育った俺にとっては問題じゃない。だけど全力で走っても、数分では到着できる距離ではない。

 見失わずに追いかける。そのためにはまず最初に見かけた場所を目指し、それから移動した方向へ直進する。どこをどう移動しているかはわからないけど、その方がきっと後ろ姿は捉えやすい。

 到着した頃には、夜空はより暗く、地上はもっと暗くなっていた。光の少ない砂丘の中、道の外に消えた誰かを探す。それには困難な暗さだが、不可能になるほどの完全な闇ではない。

 ききほし地域で失踪者が出る――そんなことは、俺が許さない。

 それは星頂としての役割や使命よりも、花咲枯葉個人としての感情。目的があるのかもしれないし、道に迷っただけかもしれない。うっかり星外に出ることはありえないのだから、それならそれでいい。でも、姉上なら間違いなく追いかける。

「ん?」

 方向を慎重に確認して、歩き出そうとしたとき。俺の目に飛び込んできたのは、刻まれた文字だった。それは空中に、何もない砂の上、空気に――いや、世界に刻まれていた。

 気付いてよく見ると、それは短い文章になっていた。

『このまま前に千歩くらい、それから右に三十歩くらい。追いかけてくる人へ』

「……つまり」

 右に三十歩移動してから、とにかく前に進めばいいってことか。俺は迷わずその指示に従って、追跡を再開する。あの人影が刻んだものなら、そこに人影はいる。

 しばらく前に進んだところで、また刻まれた文字が見えた。どうやら近付かないと見えないようで、右に三十歩がなければ気付けなかったと思う。

『左を向いて二百五十歩。ここから先は危険だから、戦えない人は助けにこないで帰ってね』

 危険に巻き込まないための文章。同時に助けを求める文章。俺は一度、しっかりと刀の柄を握ってから、指示された方向に走り出した。

 二百歩くらい進んだところで人影が見え、さらに五十歩くらい進むと、気付いた人影がこちらを振り向いた。振り向く瞬間、揺れるポニーテールが視界を埋める。

「こんばんはー。あれに気付いたってことは、君がここの星頂さん?」

 笑顔を見せる、ポニーテールの女の子。

「うん。君こそ――」

「ごめん、話はあと。……戦えるんでしょ?」

「君は?」

「星頂並には」

 短い会話。それは何かが現れる予兆を感じて……いや、それは最初からこの近くにいた。夜の闇に紛れて、さらに近付くまで見えなかっただけ。

 真白き体は細長く、人の高さまで垂直に。蛇のような姿のそれからは、毛むくじゃらの腕が二本生えている。最初に現れたのは一体、それから左右から二体……気配は他にもある。

 隣の女の子が深呼吸をしている。ふう……、はあ……、呼吸の音が微かに耳に届く。

「準備、完了!」

 言葉とともに、彼女のポニーテールが煌めきながら長く伸びた。見たことのある、よく見覚えのある光景と、似た光景。だが、詮索も質問もあとだ。

 俺は刀を支える帯を外して、右手で引き抜いた鞘刀を両手で握り直す。現れた敵を正中に捉え、構えた鞘刀の剣先をそこに向けて、軽い精神統一。

 奥にいる一体を除いて、残りの二体が俺たちそれぞれに襲いかかってきた。左右に跳んで回避する女の子を横目に、俺は振り下ろされた毛むくじゃらの腕を鞘刀で受け止める。

「……っ。重い!」

 想像以上の威力に驚きながらも、冷静に受け流してその重さを横に逸らす。

「だが、遅い!」

 もう一本の腕が動くより速く、俺は構え直した鞘刀で真白き体に突きを放つ。これが通じるなら……次の一撃で勝負は決まる。

 鞘刀の突きを受けたそいつは動きを止め、振り上げられた毛むくじゃらの腕は振り下ろされない。もう一段、今度はより深く後ろに引いてから、全力の突きを放った!

 その突きは真白き体を貫き、雪が融けるようにそれは姿を消していく。

「おー。ソフトクリーム倒した!」

 その声に振り向くと、女の子は襲いかかってきた敵を誘導して、もう一体の敵の傍まで移動していた。前後二体の敵が振り上げた四本の腕は、振り上げられたまま動きを止める。彼女の刻んだ、世界の刻みに挟まれて。

「じゃ、動きが止まったところで……えい」

 素早く振った拳が、二体の真白き体を順番に叩くと、それらは叩かれた順番に姿を消滅させた。真白き体が弱点、と見ていいのだろうか。

 気が付くと、もう一体の気配はすっかり消えていた。仲間が倒されて逃げた……いや、部下を指揮していた指揮官が撤退した、と考えるべきか。どちらにせよ、彼女に聞いてみれば少しは事情が見えてくるだろう。

「終わったね」

「うん。あの真白き体の――真白き蛇、とでも言えばいいのか――あいつらは?」

 鞘刀を帯で留めて、ポニーテールが伸びたままの女の子に質問する。

「ああ、ソフトクリームね。私のあおほし地域に現れて、襲ってきたの。だから他の星頂さんにも教えようと思って、ここにきたんだけど……」

 女の子は俺の顔をじっと見て、小首を傾げる。そして何かに気付いたような顔をして、気付かなかったら俺から聞こうと思っていたことを口にした。

「私は白樺秋奈。よろしくね」

 その笑顔はとても可愛らしく、見惚れながらも返事はしっかりと。

「花咲枯葉。一応、ききほし地域の星頂だよ」

「枯葉くん? それに花咲って、もしかして花咲落葉さんの弟?」

「姉上を知ってるのか?」

 軽い質問の中に、少しだけ真剣さを混ぜて。それに気付いたのかどうか、秋奈さんは真剣な表情で質問に答えた。

「もちろん。ききほし地域の星頂は、花咲落葉。確かそう資料に……」

 ポケットから取り出した手帳を開いて、俺を手招きする。開かれたページには、確かに花咲落葉と書かれていた。花咲枯葉――俺の名前はどこにもない。

「いつの資料だ、それ?」

「さあ? 生まれる前?」

 とぼけたように笑う秋奈さん。生まれる前なら、姉上もまだ星頂にはなっていない。

「どちらにしても、古い資料には間違いないな。姉上が星頂だったのは、三年前まで。今は弟の俺が、一応星頂をやってるよ」

「そっか。……けど、一応って?」

「俺からも色々聞きたいことがあるけど、ここではやめよう。星寮に戻らないと」

「あ、そだねー。私の宿になるところ!」

 長い長い寄り道を終えて、俺は住処である星寮に戻った。ポニーテールの女の子、あおほし地域の星頂、白樺秋奈と一緒に。

 星寮が見えてきてようやく、秋奈さんのポニーテールは元の長さに戻った。ぎりぎりまで警戒をしていたのか、単に面倒だからなのか、あとで聞いてみるのもいいかもしれない。

「随分遅い帰りだな。いくら星頂とはいえ、寮頂としては……」

「おお! 女連れなんてやるねー! うちの星頂さんも、ついに恋に目覚めたんだね!」

 俺たちを出迎えたのは、二人の男女。男子寮頂の猪川紫郎と、女子寮頂の鹿川橙子。紫郎はともかく、橙子まで待っているというのは普通ではない。それも当然、俺たちは普通ではない遅い時間に戻ってきたのだ。

「それはそれで問題があるな」

 格好いい眼鏡の奥から、紫郎の鋭い眼光が俺に向けられる。睨んでいるようだが、あれが彼の普通の顔だ。それを柔らかくするための伊達眼鏡なのだが、効果は薄いと評判である。

「そうだけどー。紫郎は硬いんだから、……で、どこの女の子?」

 橙子は興味津々といった顔で、俺と秋奈さんの顔を交互に見る。

「恋の目覚め、そして性の目覚め。話してくれたら見逃してあげるから。紫郎は任せて!」

 このように、彼女は素直に思ったことを口にできるいい寮頂だ。

「彼女は白樺秋奈。紫郎なら、これでわかってくれるだろ?」

「……ふむ。事情は?」

 名前を出すだけで理解を示す紫朗。彼なら当然、他の地域の星頂の名前は知っている。

「これから詳しく」

「そうか。ならば、問題ない」

「なーんだ。つまんないの。そういう女の子じゃないんだ」

「まだ、だけどね?」

 興味をなくした橙子に、秋奈さんが余計なことを言った。

「お! 積極的だね!」

「可能性の話ですよー。ね、枯葉くん?」

「可能性の話だよ」

 しなを作った秋奈さんには軽く答える。出会ったばかりの彼女と俺には、確かにその可能性もある。しかしもちろん、今すぐにそういう関係になる可能性は殆どない。

 五階建ての星寮。階段を上って、最上階の星頂部屋へ向かう。星頂のために用意された大きな一部屋。五階は他の階より狭いけれど、二人一部屋の一般部屋よりは何倍も広い。

 設えられた家具は一級品――の中の最下級品。質が良く丈夫なものだが、決して高級感のあるものではない。これらの家具は星頂が変わるたびに丸ごと一式入れ替えられ、古い家具はどこかに配布されるという。

 部屋自体は代々の星頂が使ってきた部屋だが、地震や台風といった自然の猛威にさらされやすい日本の星内。星寮は大体三十年ごとに建て替えられている。最近では、姉上が星頂になるときがその時期だったから、まだ建て替えられて十年も経っていない。

「へー。他の星寮にくるのは初めてだけど、殆どおんなじだね。それにしても……」

「それにしても?」

 秋奈さんは靴を脱いですぐ、部屋をざっと見回してそう言った。

「君が星頂になったのは三年前でしょ?」

 手近にあったテーブルに手を触れて、一瞬じっと見つめてから彼女は言葉を続けた。傷も何もない、綺麗な表面のはずだけど、何を見たのだろう?

「それにしては、家具が古いよね? 私、そういうのに敏感だから」

「世界に刻む……力、があるから?」

「それもあるけど、半分は趣味。やっぱり、落葉さんの頃からの?」

「そうだよ。姉上のために設えられたものを、俺が代わりに使ってる。本当の星頂は俺じゃなくて、姉上だから」

 ふと疑問の色を瞳に浮かべた秋奈さんに、俺から先に問いかける。

「それより、他にも何かわかることはあるかな? 姉上のことなら、何でもいい」

「え? それなら君の方がずっと詳しいよ。私は記憶を読めるわけじゃないからね。記憶を読ませることは、できなくもないけど」

 今日の出来事を思い出す。確かに、彼女が刻んだ文字を見て、俺は彼女を追いかけた。あれを上手く使えば、彼女の記憶を他の誰かに読ませることはできそうだ。

「ま、君の事情はあとで詳しく聞くとして……それより、あの敵のこと、いいかな?」

 ソファに腰を下ろして、秋奈さんは微笑んだ。俺も頷いて向かいのソファに座ろうとするが、彼女は手招きして隣に座るように勧めてくる。

「世界に刻むとね、ちょっと疲れちゃってね。おとこがほしくなるの」

「……は?」

 意味のよくわからない言葉に、俺は返答に戸惑う。その様子に、秋奈さんも首を傾げた。

「あれ、星頂としての力を使うとさ、髪の毛伸びるでしょ?」

「ああ、まあ、俺は滅多に使わないけど」

「それで、使ったら反動あるよね?」

「反動?」

 そんなものはない、と答える前に思い出す。そういえば姉上が星頂としての力を使ったあと、理由もなく避けられることが幾度かあった気が……もしかして、あれのことだろうか。

「もしかして、男の子にはないのかな?」

「そうみたいだね」

「うん、じゃあこの反動的な何かは、わかりやすく言うと……生理みたいなものなんだけど」

「わかりやすくない」

 男の俺には生理なんてない。しかしそんな指摘はさらりと無視して、彼女は続けた。

「とにかく疲れたからちょっと触らせてほしいんだけど……だから隣、いい?」

「ああ、俺にできることなら……」

 敵の存在を伝えにきてくれたこと、そして戦いでもより活躍したのは彼女だ。そんな彼女を労れるのならと、秋奈さんの隣に腰を下ろす。

 首筋に触れる秋奈さんの手。女の子にこうして肌を触られるというのは、初めてだから少しどきどきする。姉上でもこんな風に誘って、触ってくることなんてないし、これはまるで恋人同士のような……と、意識しそうになって慌てて意識の外に出す。

「これね、普通の男の人にやると、即気絶しちゃうんだ」

「……え?」

 秋奈さんの言葉に、意識していたことは完全にどこかへいった。

「でも、君は星頂さんだから。大丈夫だよね?」

「ああ、特に何も」

「もっと使ったらどうなるかわからないけど、君がいてくれると助かりそうだね。今後も補給をお願いしてもいい?」

「今後も、か」

 彼女の声がほんの少しだけ真剣みを増す。それはつまり……、

「あの敵は、またやってくるってことか?」

「そう。さっきのは小手調べだと思うんだよね。だって、ソフトクリームだけだったし」

「ソフトクリーム――あの、真白き蛇みたいな、やつのことだよね?」

「うん、とぐろを巻くとソフトクリームみたいだよ」

 想像してみる。確かに見た目は近いかもしれないが、コーンがないと落としたソフトクリームみたいで、少し哀しさが漂うソフトクリームだ。

「気配はあった」

「そ。多分、また襲ってくるよ。だからまずは退けて、それから他の星頂さんにも伝えにいこうと思うの。君にも協力してもらえる?」

「協力できることなら。緊急事態なら融通も利く」

 星寮にいる限り、基本的に寮頂の立場が上。しかし、この星内においては、あらゆる権限において星頂は寮頂を上回る。もちろんそれを悪用することは許されないが、今回のような緊急事態のためにその規則は用意されているのだ。

「ありがと、枯葉くん」

「秋奈さん一人じゃ、大変だろうしね」

 星内にはそらほし、あかほし、あおほし、みどほし、ききほしの五地域に星頂がいる。五芒星を描く星の、頂点からの三角形に広がる街を束ねるのが星頂だ。南西に広がるのがききほし地域、西に広がるのがあおほし地域。星頂が自分の地域を長く空けるわけにもいかず、二人で別々の地域に伝えにいった方が早く伝えられる。

「じゃ、私がみどほし地域、枯葉くんはあかほし地域。まずはこの二つに伝えて……」

「そらほしはやっぱり手強いか?」

「まあね」

 南東のみどほし地域と、東のあかほし地域。そらほし地域は北にあるから、秋奈さん次第ではこのききほし地域より先に、そらほし地域の星頂を訪ねることもできた。それが気軽にできない理由は俺もよく知っているので、担当に文句は挟まない。

「明日、無事に出発できればだけどねー」

「それほどに強大な……ああ」

 秋奈さんが首を横に振ったのを見て、彼女も詳しくないことを理解する。

「さてと、君のお姉さんのこと、聞いてもいい?」

 話は変わって、今度は彼女が尋ねる番。俺は頷いて質問に答えていく。

「落葉さんはどうしたの?」

「姉上は、大人の男に誘惑されてどこかへ消えたんだ。三年前、姉上が十四歳、俺が十一歳のときに」

「ふむふむ。枯葉くん、今十四歳? 同い年だね」

「ああ、確か今の他の星頂もみんな……でも、ここの本来の星頂は姉上だ」

 きっぱりと言い切った俺に、秋奈さんは微笑んでいた。ポニーテールが少し揺れて、可愛らしくて優しい表情。事情が事情とはいえ、彼女と二人きりというのを思い出してしまう。

「誘惑って、具体的には?」

「姉上は仲良さそうにしてた。それ以上は、思い出せない」

「思い出したくない? 弟くん、大ショック?」

「いや、思い出せないんだ」

 まるでその記憶が雲に覆われているみたいに、思い出せない。姉上が消えたこと、大人の男がいたこと、それは思い出せるのだけど、詳しいことは何も思い出せない。

「ふーん。だからさっき、あんなこと聞いたんだ」

 ゆっくりと頷く。そこで彼女の質問は終わり、秋奈さんはゆっくりと、そして軽やかにソファから立ち上がった。

「さて、お風呂に入れてもらえるかな? ここも五星温泉だよね?」

「ああ、女子寮の一階だから、一応ここからもいけるけど」

 二つに分かれた男子寮と女子寮。その中心の最上階に星頂部屋がある。当然、どちらからも入れるように通路は作られているが、星頂とはいえ勝手に女子寮に入る権利はない。

「ん、一人でいってくるねー。あ、ベッドは大丈夫? 君がいいなら、一緒でもいいよ。あのベッドなら、二人くらい入れるし」

 確かに星頂部屋の、星頂用のベッドは大きくて、二人で寝てもまだ余るくらいだ。姉上と一緒に寝たことは何度もあるから、それはよく知っている。

「ベッドメイクならいつもしてるよ。来客用と、兄弟姉妹用の、四つくらいは」

「おお! お姉さんがいつ戻ってきてもいいように?」

 どうやらいつも完璧ではないらしい、秋奈さんは驚いた顔で尋ねる。

「半分は趣味だね。他にも掃除はなるべく毎日してるよ」

「へえ、枯葉くん、いいお婿さんになれそうだね! 私はいつでも歓迎だよ!」

 どこまで本気なのやら、秋奈さんはそれだけ言い残すとさっさと部屋の外に出ていってしまった。彼女が戻ってきたら俺も一階に降りて、ゆっくり温泉に浸かるとしよう。合鍵なんてないし、湯上がりの衣装は貸し出しの浴衣があったはずだし……。

 それまでの間、俺は部屋の奥で体を鍛えていることにした。明日の戦いに備えて、基礎を終えたら実戦的な戦い方を再確認。今日は何とかなったが、明日もそうとは限らないから。

 夜が明けると、ベッドに何かがいた。

「――敵!」

 まさかと思って慌てて布団をめくると、そこにいたのは浴衣姿の秋奈さん。それも少し胸のあたりがはだけて、目のやり場に少々困る。そもそも、敵だとしたら目が覚めるまで待ってはくれないだろう。

「んー? あ、おはよ、どしたの?」

「こっちの台詞だよ」

 暢気に目をこすって、はだけた浴衣をそのままに聞いてくる秋奈さん。目のやり場には少々困るけれど、せっかくだから少しくらい見ても……と思っていたら視線に気付かれた。

「えへ、ついおとこがほしくなっちゃって」

 にっこりを微笑む秋奈さんは、素早く髪の毛をポニーテールに整える。はだけた浴衣より、解けた髪の方が彼女にとっては恥ずかしいのだろうか。

「は、冗談として、こっちの方が寝心地いいし……あ、それとこれはね、おあいこだから」

 秋奈さんの視線は俺の下半身に向いていた。決して彼女のはだけた浴衣や素肌を見て興奮したわけではなく、男としての生理現象として朝立ちをしていたそれに。ベッドを一気にめくってしまったのだから、もちろん無防備である。

「姉上で慣れてる」

 しかしそれを恥ずかしいと思う時期はもう過ぎた。初めてのときは、それも姉上に見られたときは凄く恥ずかしかったが、それも昔のことだ。

「五分後も同じ言葉を言えるかな?」

「直しなさい」

「はーい」

 秋奈さんははだけた浴衣を整えて、ベッドから降りた。五分もそんな格好をされては、恥ずかしい方でそれの大きさは維持されてしまう。

 それにしても彼女は随分無防備である。ちょっと周囲を確認したかと思うと、こちらに背中を向けたまま、おもむろに浴衣を脱いで下着を……。

「着替えはあっちで」

「困るなら目を瞑っててねー」

 譲る気はないようである。仕方なく俺はベッドから脚を下ろして、彼女に横を向けた状態で目を瞑った。逆にさっきの光景がまぶたの裏に映ってしまい、これもまた恥ずかしいが、女の子の着替えを直視するのに比べればどうってことはない。

 着替えと軽い食事を終えて、部屋の外に出た俺たちの前に小さな真白き蛇が現れた。毛むくじゃらの部位もなく、本当にただの真っ白な蛇と見間違えてしまいそうな姿だ。

「おー。早速お出ましだよ!」

「踏み潰せそうな小ささだ」

 もちろんそんな小さな敵が襲ってくるようなことはなく、そいつは俺たちを案内するようにすばしこく廊下を這っていった。向かう先は――星寮の屋上。そこで待つ、か。

 確認するまでもなくさっさと歩き出した秋奈さんに、俺も歩いてついていく。ここから屋上までの距離は短い。慌てたところに罠が仕掛けられている可能性もあるから、ここは落ち着いて行動するのがいいだろう。

 鍵のかかっていない屋上の扉を開けて、小さな真白き蛇が逃げる先を見る。

 そこには一人の小さな女の子がいた。愛くるしい姿をしているが、その格好は誰が見てもおかしい。毛糸のコートにマフラー。今はそらほしの月――暖かさが寒さに変わる季節だが、まだ月は始まったばかり。あんな防寒着は不要な暖かい時期なのに。

「おはよう。私はゆき。これは雪蛇、私の生み出した……」

 小さな真白き蛇――雪蛇が姿を消して、代わりに新たな雪蛇が二体現れる。俺たちの身長と同じくらいの、昨日も見た大きな姿。ただし、毛むくじゃらの部位は腕ではなく、足としてついている。

「――あなたたちの、敵」

 言葉とともに、雪蛇がこちらに襲いかかってきた!

「おー。まさに蛇足だね!」

「そんなこと、言ってる場合か!」

 帯を外して鞘刀を抜き、鞘の留具も外す。まっすぐに向かってくる雪蛇の胴体に向けて、抜いた刀を大きく振る。刃から鞘が外れて、飛び出した鞘は真白き体に衝突する。

「今日は抜き身で、相手しよう」

 抜き身の刀を構えながら、自分の髪が伸びるのを感じる。星頂の力を、全力で発揮して。長くなった髪をなびかせないように、集中、そして静止。構えは反撃の構え。

「お、髪伸びた! じゃ、私も」

 秋奈さんの髪もポニーテールから、ロングポニーテールへと伸びていく。視界の端に映るそれをじっくり見たら綺麗なのだろうけど、今はそんな余裕もない。

 襲いかかる雪蛇は尻尾らしき部分を振り回して、攻撃を仕掛けてくる。ただの蛇ならそれに真っ向から切りかかれるが、この蛇には足が二本ついている。その二本が尻尾を守るように、そして尻尾より先に届く武器として、半歩引いた俺の鼻先を掠める。

 ――見切った!

 続く尻尾が通り抜けるのに合わせて、抜き身の刀で一刀両断。

 雪が融けるように消えていく姿を少し眺めつつ、半歩下がったことで見えやすくなった秋奈さんの様子を確認する。彼女は昨日と同じように、世界を刻んで雪蛇の動きを止め、軽やかな回し蹴りで雪蛇を撃破していた。危なげのない、圧倒的な勝利である。

「さすが、それとも、これくらいは?」

 声を発したゆきの笑みは不思議な優しさと美しさで、感情が読めない。考えも読めないが、一つだけはっきりしている事実に秋奈さんが言葉をぶつける。

「こんな朝早くからも、襲ってくるんだね」

 最初に襲われたときも夜だったのだろうか。あるいは昼や夕方か。

「これでも、だいぶ配慮してあげてるの。その気になれば寝込みを、寮の中で襲ってあげることもできたんだから、感謝してもいいよ?」

 鍵は開いていたとはいえ、確かに小さな雪蛇は寮内に侵入していた。もし他の、星寮に暮らすみんなを巻き込む形で襲ってきたらと思うと、底知れない敵に怖さも覚える。

「でもしなかった。しない理由があったんでしょ?」

「……さあ? そうね」

 どっちなのかよくわからない答えだったが、確かに秋奈さんの言う通りかもしれない。もっと言えば、昨日の段階でゆきと雪蛇はききほし地域にいたのだから、誰彼構わず襲うことが目的なら、俺たちを狙わずにそうしていればよかったのだ。

「なんで俺たちを狙うのか知らないけど、もし星寮のみんなを、ききほし地域のみんなを巻き込むつもりなら……ここで斬らせてもらう」

 抜き身の刀の切っ先を、ゆきの胸元に向けて俺は言った。相手がまだ本気で仕掛けていないのなら、本気を出す前にこちらから仕掛ける。目の前にいるなら、刀も届く。

「きらい。……弱いのに、自己犠牲は私、すごくきらい」

 地面を蹴ったゆきの姿は、一瞬で消えて追いきれなかった。

「ほら、見えてない」

 そして囁きに気付いて振り向くと、ゆきは今度は秋奈さんの背後に忍び寄っていた。

「あなたは?」

「うん、見えるけど?」

 声がするより早く、秋奈さんは振り返っていた。しかしその表情に笑顔はない。

「見えるからって、倒せるとは限らないんだよね。枯葉くん、守らないとだし」

 ゆきが微笑んだかと思うと、また地面を蹴って姿を消した。白い雪に隠れるような姿の消え方。粉雪が舞っているような錯覚を覚え、その舞った先に目を向けると、そこにゆきがいた。

 小さく手を振って、吹雪のような激しい雪に紛れるように、ゆきは再び姿を消す。今度は完全に姿を消してしまったようで、集中しても気配は感じないし、空まで見回しても姿は見つからなかった。

「枯葉くん」

「わかったよ。無理はしない」

 今度出会ったときは、退けることだけを目的に。秋奈さんの声と表情に込められた、ささやかなお願いに答えて、俺は残りの星頂に伝えるという目的を最優先にすると誓った。

 姉上なら、きっとここで決着が付いていた。でも俺は、姉上じゃない。自己犠牲なんて、俺も凄く嫌いだ。それがたとえ、大事な誰かを守るものであったとしても……。

 どうしてそう思ったのかなんて、考えることもない。ただの好み、それだけのことだ。


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