北は凍えて四季の花

第九章 秋の稲穂の収穫祭


 雪羊高校の制服を着た少女が、校門前に立っていた。北凍市立雪羊自然高等学校の校門ではなく、北凍市立湖囲高等学校の校門の前に。長く短い髪に、美しく整った容貌。すらりとした肢体に背は高くなく、短く長いスカートがそよ風で揺れる。

 少女が待っているのは、最近出会った二人と、昔出会った二人の一人。誰が最初に出てくるのか、彼女は知らない。ただ三人の誰かに出会えれば、他の二人も呼んでもらえる。

 誰が最初に出てきても、少女にとって問題はない。けれど最初に出てきてほしいのは、昔出会った二人の一人――南城稲穂ただ一人。

「ボクのこと、覚えてるかな。覚えてるよね、稲穂なら。きっと……うん」

 少女は呟く。名乗らぬ幼女は、名乗らぬ少女に成長した。一目ではわからないかもしれない。けれど、話せばきっと思い出す。少女の顔に、声に、不安はなかった。

 果たして校門前に現れたのは、待っていた三人の全員だった。陸道四伝を中央に、彼から左に狼四季花、右に南城稲穂が並んで歩いてくる。

「両手に花というやつだね。……ふふ、もしそうなら、面白いことになりそうだ」

 少女の呟きはそよ風に流されて、彼らの耳には届かない。しかしほんわか微笑む表情は遠くからでも見える。彼らが少女の姿に気付くのは、必然だった。

 校門の前に、別の高校の制服を着た少女が立っている。気付かない方が珍しい。

「あれ、君は……。もしかして」

 最初に気付いて、最初に声をかけたのは稲穂だった。その雰囲気に、立ち姿に、かつての姿が思い出される。短い、数度の出会い。しかし強く記憶に残っていた小さな女の子。名乗らぬ幼女との出会い。

「やあ、稲穂。ボクのこと、覚えていてくれたんだね」

「うん、多分」

 少し前に出会ったばかりの四伝と四季花も、名乗らぬ少女のことは覚えている。だが真っ先に声をかけた稲穂と少女の会話に、また会ったねの言葉は出ない。

「稲穂さん、知り合い?」

「ああ、一応確認した方がいいのかな?」

「そうだね。四伝くん、答えはちょっと待ってて」

 目の前の少女が記憶にある幼女と同一人物なのか。稲穂と少女の確認は短いものだった。神社での出会い、擬人の巫女さんを見分けたこと、それだけ確認できれば答えはわかる。あの場にいたのは、南城稲穂、南城小麦、名乗らぬ幼女の三人だけ。初めての記憶が証明となる。

「そっか、やっぱり……久しぶりだね」

「ああ、稲穂も成長したみたいだね。彼は恋人かい?」

 少女は四伝に視線を向けて、稲穂に微笑む。

「違うよ。四伝くんは仲間。もしかしたら、って思うこともあったけど……勘違いだったかも」

「お兄ちゃん、今!」

「……いや、今じゃないだろ」

 四季花の掛け声に、四伝はほんの少し考えながらも冷静に答える。

「今じゃないの?」

「どうやら、勘違いの可能性は低いみたいだね」

 稲穂と少女の言葉に四伝は反応を返せない。反応するのは今じゃない。

「……お兄ちゃん、隠せてると思ってる?」

 そんな彼に、小声で四季花が質問する。

「あんまり思ってない」

 四伝の答えは素直なものだった。薄々は感付かれていると思うし、確信に近いほど感付かれているかもしれない。だけど、ここで流れで告白するのは違うと感じた。

 それは彼にとっての本能だったのかもしれない。ただ、何となく、今はそれよりも大事なことがあるような気がして、恥ずかしさよりもそれがほんの僅かに上回っていた。

「君は、なぜここに?」

 その気持ちを生み出した本人。雪羊高校の制服を着た少女に、四伝は問いかける。

「ふふ、ボクのことが気になるのかい? 可愛い女の子二人じゃ足りないなんて、君もいけない男の子だね。……まあ、嫌いじゃないけれど、そういうのも」

 少女の言葉に稲穂は曖昧な笑みを浮かべているが、四季花は平然としている。昔から幼馴染みとして一緒にいた男の子。知り合って間もない相手からの誤解は慣れたものだ。

「ああ、何か気になるんだ。なんて言ったらいいのか……わからないんだけど、恋ではない」

 わからなくてもそこだけははっきりさせておく。四伝は稲穂に誤解されたら困るから、誤解を生まないようにはっきり答える。

「……愛?」

 真剣な表情で答えた少女に、四伝は何も答えない。多分、答えなくてもいいと直感で理解した。表情は真剣だが、きっとこの言葉は本気ではない。

「ふふ、冗談はこれくらいにするよ。ボクが親しくしたいのは稲穂だからね。この気持ち、愛と言ってもいいかもしれない」

 少女の視線は稲穂をまっすぐに見つめる。揺らぎのない瞳は、潤んではいない。

「じゃあ、今日は名前を教えてくれる?」

 稲穂の返しに、少女はふんわり笑顔で首を横に振る。

「まだ教えられないよ。でも、もうすぐさ。そう……機会はもうすぐ、訪れるんだ」

 謎めいた少女の言葉に、三人は一瞬言葉を失う。

「待ってるね。また、会いに来てくれるの?」

「そうだね。会いに行くさ。そのときに全て――とは言えないけど、大体話せると思うよ」

 名乗らぬ少女はそれだけ言うと、踵を返して去っていった。その姿は下校中の生徒たちの体に紛れていくが、色の違う雪羊高校の制服が目立って簡単には見失わない。

「さ、帰ろっか。四伝くん、四季花ちゃん」

「うん。気になるけど、気にしてもしょうがない」

 今日も名乗らなかった少女の姿をぼんやり眺めながら、彼らもまた校門から去っていく。今日は街に出ての擬人探し。イリスとしてではなく、『タギ』の一員としての平常活動。見つけるなら暗くなる前に見つけたいものである。

 暗くなれば視界が狭まる。だが、視界が狭まる前に捕捉しておけば、追いかけるのは難しくない。暗いと擬人が人を襲うわけではないが、明るいから積極的になるわけでもない。明るくても暗くても、襲える人がいれば擬人は動く。注意は万遍なく行わなくてはならないのだ。

      ―― 時、遡り ――

 少女は山にいた。

 五月の長い連休の始まり。北凍市にある大きな山。その一つ、名前もよく知らない山の頂上に少女は立っていた。

 南の山から見下ろすのは、北に広がる中部地域と北部地域。西の山に阻まれてもう一箇所の人の多い地域――西部地域は見下ろせないが、彼女にとって大事な人物はそこにはいないから、見える範囲だけでも問題ない。

「あそこが湖囲高校で、あの辺が……東雲私立学園かな?」

 自らの通う雪羊高校があるのは南部地域と東部地域の中間。山を登る時間があれば中部地域か北部地域に向かう時間はあるが、両方を見下ろせるのは山の頂上だけだ。

 北凍市の地理は大体把握している。わざわざ見なくても、そこに二つの高校があることはわかる。だけど、自分の目で確認することに意味があると少女は思っていた。

「稲穂……。それに、小麦。きっと彼女たちは今、『タギ』の一員として擬人と戦っているんだろうね」

 少女は声を響かせる。少女の周りには誰もいない、聞かせる相手はいないが、聞かれてしまう相手もいない。その声は呟きではなく、しかしやまびこになるほどの大声でもない。

「それがボクには良いことなのか、悪いことなのか、わからない。君たちがそうしていることが、ボクらの関係にどう影響するのかも、わからない。だけど……」

 少女は微笑む。ふんわり、ほんわか。見る人がいたら見蕩れてしまうような笑顔で。

「もう一度、会いに行きたいものだね。今の稲穂と小麦を、近くで見てみたい。それから……それから、どうしようか」

 誰も聞く者はいない。誰も聞く者がいない場所だからこそ、考えるには絶好の場所。

「そうだね、やっぱり……ボクはボクとして、稲穂たちに名乗ろう。それでどうなるか、楽しみじゃないか」

 少女は山に立っていた。視線は眼下、広がる北凍市内の中心街。笑顔で見つめるその世界に、少女は生まれたのだから。それを楽しむのも、少女に与えられた権利だ。

 少女は山から飛び降りるように、一気に駆け下りていく。さすがに本当に飛び降りたら体が保たないが、勢いをつけて駆け下りるくらいなら大丈夫。少女は自分の身体能力をよく理解している。それは幼い頃に南城姉弟と会った日も、同じだった。

      ―― 時、戻りて ――

 狼四季花は陸道四伝と一緒に、昔から変わらない休日を過ごしていた。

「お兄ちゃん、今日も私と一緒でいいの?」

「いやなのか?」

 四伝の返しに、四季花は呆れた顔でため息を吐いた。

「お兄ちゃんは稲穂さんが好きなんでしょ? 一目惚れしたんでしょ? 『タギ』としても落ち着いてきたし、せめてデートくらいに誘ったら?」

「落ち着いたと言っても、まだまだ最低限の戦力として数えられるようになったくらいで、安心できるものじゃないさ」

「ごめんなさい、余計な一言だったね。そろそろデートに誘わないかって話がしたいの」

 話を逸らすことは許さない。四季花の冷静な態度に、四伝は諦める。

 二人が話をしている場所はたまたま訪れた神社の境内。外を歩いていて、四季花に誘われた場所だが、四伝にとっても少し興味のある場所だった。ここはかつて、南城姉弟が初めて擬人を見た場所。名乗らぬ少女となった、名乗らぬ幼女と初めて出会った場所だ。

「デートに誘うって、もう告白じゃないのか?」

「一目惚れしたことくらい伝えたら? それとも……もっと好きな人ができた?」

 毎日のように練習していた一文字珊瑚。アーティストでミュージシャン、四季花の目から見ても魅力的な少女だ。聞いた話だと、ついでにちょっとだけアスリートでもあるらしい。

 炭石涼乃は三年生の先輩。あまり会う機会はないけれど、左手にいつも扇を持っている綺麗な人だ。優雅な佇まいに四季花も少しだけ憧れる。

 二人とも、南城稲穂に一目惚れしたのをきっかけに、出会えた少女。四季花も一目惚れしたところまでは直接聞いたから間違いないと確信が持てるが、それ以降の新たな恋にまでは確信は持てない。

「いや、そういうことはないけれど……」

「小麦くんが気になる?」

 南城稲穂の弟、南城小麦。もし稲穂と四伝が恋人同士になれば、将来的には義弟になるかもしれない少年。もしかして、彼に遠慮をしているのかもしれない。

「そうじゃない。ただ、今はこうして一緒にいられるんだから、それでいいかなとも」

「よくない。お兄ちゃん、そうやって油断してると、稲穂ちゃんだってずっと一人とは限らないんだよ」

 今の環境に満足している幼馴染みに、四季花はきっぱりと言い放つ。

「パラメータに自信がないの?」

「必要なパラメータが何かわからないからな」

「そうだね。わかるために、一回告白しないと。大丈夫、告白に失敗したらゲームオーバーになるようなシステムじゃないから。告白は好きなときにできるんだよ」

 互いに好きなゲームで例える。いつもの調子に四伝も素直に答え、四季花も伝えやすい言葉で気持ちを伝えられる。

「随分便利なシステムだね」

「そういうゲームもあるでしょ?」

「まあ……確かに」

 数は多くないが、ないわけではない。甘くて刺激的な、ゆったり牧場生活。したいときに告白できるゲームはあるし、現実はそんなゲームよりも柔軟な世界だ。オープンワールドの恋愛シミュレーションが理想的な進化をしたら、そんな柔軟な恋愛もゲームで体験できるのかもしれない。

 しかし四伝が体験するのは、ゲームでの恋愛体験ではない。現実での恋愛体験が、今も進行中なのだ。始まったばかりで、出会い以外の恋愛イベントは全く進行していないが、恋人ルートから親友ルートが確定するようなイベントも起こっていない。

 そもそも、そのルートが確定したからといって、親友エンドのあとも世界は続く。ゲームならそこで終わりだが、現実ならそこから恋人ルートに派生することも可能なのだ。

「というわけで、明日」

 唐突な切り替えに、四伝は小首を傾げる。

「私と稲穂ちゃんとお兄ちゃん、三人で遊ぼうって稲穂ちゃんを誘ったんだけど、私は別の用事で遅れます。お兄ちゃんと稲穂ちゃんを遠くから観察するっていう、大事な用事だから、嘘じゃないよ。待ち合わせはここだから、忘れないでね。時間は……」

「ちょ、ちょっと待った。そんないきなり!」

「もう連絡済みだから、待てないよ。お兄ちゃん、明日も私と遊ぶ予定しかないから、予定は空いてるよね?」

「あ、ああ、四季花の家で……」

「稲穂ちゃんを誘ってもいい? って聞いたら、『うん』って答えたよね。だから私は稲穂ちゃんを誘ったよ。ちょっと場所は変えたけど、お兄ちゃんのためだからいいでしょ?」

 四季花は四伝に文句を言う暇も与えず、矢継ぎ早に言葉を繋げていく。事実と理由、幼馴染みとしてやりたかったことを、やりたいようにやったと告げる。

「私、焦れったくてテンポの悪いゲームは嫌いなの。アドベンチャーゲームだったらボイスもスキップして連打で読むよ。お兄ちゃんもわかるでしょ?」

「声優さんには悪いけど、展開が遅すぎるといちいち最後まで聴いてられないな」

「そういうこと」

「そういうことか」

 妹みたいな幼馴染みにそう言われたら反論はできない。四伝も同じ気持ちだから、そうするのが最上だとわかっている。一目惚れは風化しないが、一目惚れを伝えるタイミングは遅すぎるとただの思い出話になってしまう。

 思い出話で、告白はできない。告白してからの思い出話なら話は別だが、そのためには告白して恋人関係になっておく必要がある。

「しかし……」

「なに?」

 四伝にまじまじと顔を見つめられて、四季花は小首を傾げて問う。

「いい幼馴染みを持ったなと思ってさ。本当の妹よりも、妹らしい幼馴染みだ」

「お兄ちゃん……」

 四季花もまじまじと四伝の顔を見つめて、見つめ合ったまま言葉を続ける。

「私は妹だから、攻略不可のヒロインだからね?」

 冗談めかして微笑む四季花に、四伝も楽しげな微笑みを返すのだった。

 翌日。

 陸道四伝は昨日と同じ神社の境内に、昨日と違い一人でやって来ていた。昨日一緒だった幼馴染みもどこかで見ているのだろうが、四季花のことだからきっと気付かれない場所から眺めているのだろう。

 約束の時間にはまだ早い。まだまだ一時間以上も、二時間にはならないがそれに近いくらいに早い時間だ。服装はいつも通り、気合を入れるような服は持っていない。ただ、室内での遊びから外での遊びになったので、動きやすい服装に変えはした。

 早く来すぎたから稲穂はまだいない。朝、家にやってきた四季花に起こされて、私も準備があるから行こう、と誘われた。だからこんなに早く到着したのだ。

 四伝には準備はないが、心は落ち着かなかった。一人で約束の時間が近付くまで家で待っているより、どこかで幼馴染みが見ている神社の境内で待っていた方が少しは落ち着ける。

 誰もいない神社の境内――神社に務める神主さんや巫女さんはいるが――を、四伝は稲穂の到着を待ちながら歩いて回る。大きい神社だ、歩き回るだけでも時間は過ぎる。

 そうして十分ほど歩いていると、四伝は見知った顔を見つけて足を止める。

「稲穂さん?」

 遠くに見えるのは、これから会う予定の少女の姿。彼女も早くに着いて同じように歩き回っているのかと思ったが、その様子は四伝よりも少しだけ真剣だ。

 遠くから見ていると稲穂も気付いたのか、四伝を見つけて大きな笑顔を見せる。

「四伝くんは、ここに来るのは初めて?」

 ゆっくり歩きながら近付いて、稲穂は四伝に質問する。彼も彼女の方に歩いていたので距離は近く、すれ違うように稲穂は足を止めなかった。

「昨日も来たけど、こうして歩き回るのは初めてだね」

 稲穂は足を止めて、首をぐるりと回して周囲を確認する。

「稲穂さんは何を?」

 四伝はそんな彼女の横顔を眺めながら、何をしていたのか尋ねる。稲穂は振り向いて、四伝の問いに答えた。

「うん。誰かが潜んでいる気配を感じて探してたんだけど、問題ないみたい。四伝くん、どうする?」

「どうする、って……」

 四伝は少し考えて、稲穂が何に気付いたのかを表情から察する。おそらく彼女は、四伝もどこにいるのかわからない四季花を探していたのだろう。そして四季花を見つけて、大体の事情は察した。

「手、繋ごっか?」

「……うん」

 差し出された手を、四伝は躊躇はしないが反応が遅れて優しく握る。少女の右手と、少年の左手。繋がれた手にどきどきしながら、四伝はデートをするように境内を歩き出す。

「これって、デート?」

「そうかもね」

 四伝は軽く答えつつ、幼馴染に加えて、隣の少女にも助けられていることに背中を押される。彼女は言葉を待っている、自分もその言葉を告げるためにここに来た。

 ただ、すぐに言葉を口にする気はなかった。まだ、約束の時間にはなっていない。今はもう少し、手を繋いだ状態で境内を歩き回ってみたかった。

「稲穂さんは、ここで擬人を初めて見たんだよね」

「うん。それから、あの娘とも」

「あの娘……雪羊高校の」

「そう。名前は知らない――教えてもらえないんだけど」

 稲穂が手を引く方向に、四伝もついていく。しばらく歩いて、辿り着いた場所で二人は足を止める。

「ここだね。それで、巫女さんがいたのがあそこ。広いけど、今も覚えてる」

「そっか。擬人を倒す……擬人と戦う……その始まりの場所だね」

「そうだけど、戦いを始めたのは私じゃないよ。私が擬人を知ったときには、『タギ』と擬人は戦っていた。私が擬人と戦いたいわけじゃない」

「それでも、擬人は人を襲うから……」

「守るためには戦わないといけないときもあるね」

 つい一月にも満たない前に擬人を知った四伝にとっては、理解の及ばない深い関係。四伝も擬人と戦いたいわけではないが、その理由も経緯も彼女とは全く違う。

「四伝くんは?」

「擬人を憎むようなことはないけれど、稲穂さんを危険からは守りたい。俺のフラグメント・ウェポンの武器は盾だから、守ることがきっと、俺の役割だと思うんだ」

「そう、良かった。擬人は敵だけど、擬人も生命体。まだよくわからないのに、ただ何も考えずに倒すだけじゃいけないよ。ニホンオオカミを絶滅させたら、エゾシカが増えすぎちゃってどうなったのか、知ってるよね?」

「地元のことだからね」

 北海道に住んでいれば身近な問題ではなくとも、対岸の火事というほど遠い問題でもない。幼い子供でもなければ、道民の誰もが耳にしたことくらいはあるだろう。

「そうなると、擬人を絶滅させたら人間が増えすぎるのかな」

「どうだろう。擬人が昔からいるとしたら、絶滅させてないのに増えすぎてるよね」

「それもそうだ。これだけの人口、日本や地球の大地に住むには多すぎる」

 擬人がいつ生まれたのかはわからない。けれど、稲穂が子供の頃には既に『タギ』は存在して、擬人との戦いは続いていた。

「確認できる資料だけを見ても、数百年前には擬人の存在が判明している。古い資料では千年前、数千年前と推定される資料もあって……」

「世界や日本の人口が爆発的に増えるずっと前、だね」

「そう。単に人間の天敵、ってだけの存在じゃないと思う」

「そうか……単純じゃないんだね」

 歩きながら続いた擬人に関する話は、ここで終わり。

 それから無言で二人は境内を歩き続け、約束の時間――本来の待ち合わせの時間になった。

 雰囲気は変わらない。手を繋いだまま、少しだけ陽の高くなった神社の境内には静謐な空気が流れ続けている。それが普段の神社であり、お祭りのない今日は普段と変わらない。

「稲穂さん」

 誰もいない本殿の前。正面に広がる参道の中央で、四伝は足を止めてそっと手を離す。

「その、君に伝えたいことがあるんだ」

 参道の中心を挟んで、四伝と稲穂は向かい合う。雰囲気は作らなくてもいい。神社の境内という場所の作る雰囲気が、それだけで告白に向いた空間を演出してくれる。

 稲穂はただ笑顔で、四伝の言葉をじっと待っている。

 ふわり、なびく髪を片手で押さえて、稲穂はただ言葉を待つ。

「稲穂さん、好きです。初めて会ったあの日、廊下ですれ違った瞬間、一目惚れでした」

 彼女はすれ違ったことを覚えていないかもしれない。だから少しだけ詳しく、四伝は告白の言葉を伝える。

「ええと、だから、その……」

 そしてここからが大事な言葉。一目惚れして、一目惚れしたと相手に伝えて、どんな関係を望むのか。そこまで伝えないと、告白は終わらない。

「俺と、恋人に――付き合ってくれませんか」

 言った。

 四伝は告白の言葉を、目の前の一目惚れした少女への気持ちを、言葉にして伝えた。

「四伝くん……」

 優しく微笑むような、微かに困ったような、曖昧な表情が稲穂の顔に浮かぶ。

「その答え、しばらく待ってもらっていいかな?」

 そんな曖昧な表情のまま、稲穂は告白に対する答えを口にした。

 今度は四伝が黙って言葉を待つ。彼女の言葉にはまだ続きがある、理由もなしに即答したような声ではない。

「私ね、考えてた。もしかすると四伝くんは、私のことが好きなんじゃないかって。珊瑚さんにも相談して、やっぱりそうなのかなって思った。だから、考えてた。もし告白されたら、どう答えたらいいんだろう、って」

 稲穂はすらすらと言葉を声にしていく。視線は四伝をまっすぐに見つめて。

「だけど、わからなかった。私の気持ちはまだ、恋と呼べるものではなくて、恋になるかもしれない気持ちで、でも……伝えられたら、答えなくちゃいけないよね」

 稲穂は小さく微笑む。困ったような色はなくなり、微笑みだけになった表情。

「四伝くん」

「ああ」

 名前を呼ばれて、答える。まるで稲穂が告白するかのような雰囲気に、四伝はどきどきしながらも言葉を待ち続ける。

「私が答えられるまで、私のことを好きでいてくれる? こういうの、少しずるいかもしれないと思うんだけど……だめ?」

「答えられるまで……うん、いいよ」

 四伝はあっさりと答えた。一目惚れして、告白して、返ってきた答えは、答えを待っていてほしい、それまで好きでいてほしいというもの。それは恋人になってもいいという承諾ではないが、恋人にはなれないと断られたわけでもない。

「いいの?」

「もちろん。それまで好きでいていい、ってことなら、いくらでも待つよ。答えを聞ける命がある間はね」

「……もう。そんなに待たせないよ。卒業までには、答えられると思う」

 照れたような笑みを浮かべて、一転真剣な顔で、稲穂は言った。

「卒業か……結構長いね」

 四伝と稲穂は湖囲高校の一年生。出会ったのは五月で、今は五月の終わり。卒業までは三年もある。結構長いが、長すぎるものでもない。

「ありがとう、四伝くん」

「こちらこそ。出会えたことに感謝したいよ」

 二人の気持ちは素直なもので、照れもなく口から声となる。

 こうして、神社の境内での告白は終わったのだが……。

 これからどうしようかと向かい合ったまま困っていた二人の前に、現れたのは一人の少女だった。本殿の前の参道の先、大きな鳥居をくぐって緩やかに歩いてくる。

「やあ、いいものを見せてもらったよ。ボクの他にも見ている人はいるみたいだけど……ふふ、先に出させてもらったよ」

 少女の視線の先から、四季花が姿を現した。何本も並んだ木々の間で、茂みに紛れながら彼女もこちらにやってくる。

「四季花ちゃんは知ってたけど……君もいたんだ」

 雪羊高校の制服を着た少女。この場で稲穂と小麦が擬人を初めて見た日に、擬人を見分けて教えてくれた少女。

「ああ、ここはボクにとってもお気に入りの場所だからね。ああ、そうそう……」

「お兄ちゃん、どうなったの?」

 遠くから見ていた四季花には状況の全ては理解できていないらしく、駆け寄りながら四伝に尋ねてくる。少女の言葉の続きを気にしながらも、四伝は簡単に答える。

「ああ、答えは待っていてほしいって。それまで好きでいてもいいみたいだ」

「ボクの名前、稲穂たちに教えないとね」

 四伝が答えたのと、少女が続きを口にしたのは同時だった。同時に聞こえてきた二つの声に、四季花はどちらを優先するべきかやや迷って、少女の言葉を優先した。

 告白の結果について詳しく聞くのはあとにする。聞いたら四伝は答えてくれるだろうが、もう一人の重要人物、稲穂は少女の言葉に集中していてきっと答えてくれない。

「ようやくだね。君の名前、やっと聞ける」

「じゃ、名乗ろうか。ボクはね――アルベガ」

「ある……べが?」

「……べが?」

 予想もしていなかった名前に、稲穂が疑うような表情で言葉を繰り返して、声を重ねて四季花も後半を繰り返す。四伝は少しだけ冷静に、どこの国の名前だろうと考えていたが、彼の知識と経験では答えは出なかった。

「そう。アルベガさ。こう見えて、ボクは君たちと同じ日本人じゃないんだ。他の血が混じっているというか、そんな感じだよ。色々複雑だから、一言では説明できないんだけどね」

「ハーフ?」

「さあ? ハーフなのか、クォーターなのか、それ以上は何て言うんだろうね?」

 少女は――アルベガは、ほんわか笑って疑問に答える。

「色々複雑に混じっているのか……見た目は、日本人にしか見えないけど」

 複雑だからこそ、一番濃い日本の血が特性として現れているのかもしれない。とはいえ、四伝も稲穂も四季花も、詳しく知る者はいないから自信は持てない。

「ま、そのうち話せる日も来るよ」

「アルベガちゃん……これで呼びやすいね」

「そうだね」

 アルベガはふんわり優しく答えて、笑顔のままで言葉を続けた。

「それでね、ボクがここにいるのは何も君たちの告白の場面を覗きたかったからじゃないんだ。君たちがこの辺りにいると感じて、声をかけようと思ったらいい雰囲気だったから、終わるまで待っていたというわけさ。

 つまり、ボクにはボクの話がある。四伝くん、君が稲穂にした話と同じくらいに、とても大事な話がね。ボクと稲穂の――稲穂たちとのこれからの関係を変える、大事な話なんだよ」

 アルベガは広い参道のど真ん中を歩いて、本殿の前の賽銭箱まで歩いていく。当然参拝するためではなく、彼女は低い階段を上って賽銭箱の前に辿り着くと、振り返ってふんわりした声を響かせた。

「稲穂たちには、雪羊高校に来てほしい。君たち――『イリス』のみんなを揃えてね」

 アルベガの口から出てきた単語に、稲穂も、四伝も、四季花も驚く。それは表情にもはっきりと出て、それから言葉の意味を考える。

 アルベガは擬人を知っている。だから、対擬人集団――『タギ』のことを知っていてもおかしくない。だがしかし、『イリス』については別だ。『タギ』の白と黒は『タギ』を知っているなら有名だから知っていたとしても、イリスはできたばかりの一派。一派というには少人数すぎる、北海道支部のごく一部の『タギ』の人間が所属する集団だ。

 それをなぜ、『タギ』の人間ではないはずの、彼女が知っているのか。知らないだけで、アルベガも『タギ』の一員なのか。

 稲穂が彼女と出会ったのは幼い頃。再会したのはイリスができてから。それまでの間、アルベガはどこにいたのか。道外にいたのだとしたら、北海道支部に所属しない『タギ』の一員なのだとしたら、稲穂たちが知らなくても不思議はない。

 そしてもう一つ。彼女が稲穂たちを呼んだ場所。彼女の通う雪羊高校に、イリスを呼ぶ理由。ただ話をするだけなら、小麦はいないがこの場でもできるはずだ。

 アルベガの声にした言葉は短い。しかし、その意味を考えるには短い時間では足りなかった。

「じゃあ、待っているよ。できれば今日……と言いたいところだけど、小麦はどうかな? ボクとしては急がなくてもいいんだけど、どうしようか」

 まだ日は高い。ここから雪羊高校まで徒歩で向かうには遠い距離だが、地下鉄や市電、バスを利用すれば今日中に向かえない距離ではない。とはいえ休日なので高校へ向かうバスは多くない。地下鉄や市電、中心街である北部地域から向かうのが最速になる。

 北部地域に寄るのなら、そこで小麦とも合流できる。単純な直線距離で言えば、南と東に広がる山を越えていくのが近いが……。

「無理じゃないなら、ボクはこれから山を越えて戻るよ。山道を通れば抜けられない山じゃないからね。すぐには無理なら、急がないけどさ」

 アルベガの言葉に、稲穂は迷わずに答えた。

「わかった。小麦と一緒に、雪羊高校。イリスの他の『タギ』の人には教えてもいいの?」

「好きにしてもいいよ。ただ……ボクは稲穂。君と――イリスに用事がある。邪魔はしないでもらえると嬉しいね」

「邪魔って……」

 稲穂の言葉は呟きとなって、質問にはならない。山道を歩いてゆっくり去っていくアルベガの後ろ姿を、残された三人はぼんやりと眺めていた。

      ―― 時、遡り ――

 名乗らぬ幼女――アルベガが初めて擬人を見たのは、幼い姉弟が遊んでいる神社だった。

 南城稲穂と南城小麦、二人が気付く前に彼女は一目で気付いていた。大きいからと入ってみた神社の境内で、巫女装束を着ているが本物の巫女さんではない、スプリングの擬人を見た。

 あの日のことは、彼女もよく覚えている。南城姉弟と同じように、彼女にとってもあの日が初めてだったから。

      ―― 時、戻りて ――

 だから彼女――アルベガは、少女になった今でも南城稲穂に興味を持っている。出会ったのは小麦も一緒だが、稲穂により興味が向いたのは、彼女がアルベガと同じ女の子だから。

 少女は少女に興味を抱く。それは幼女だった彼女にとって、必然の反応だった。


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