北凍市の南部地域は高山地帯。万年雪のスキー場が人気の地域である。
北凍市の東部地域は高原地帯。牧場では毎日、牛や羊が駆け回っている。
南部地域と東部地域――人の少ない二つの地域。その中間にあるのが北凍市立雪羊〈せつよう〉自然高等学校。自然のあれこれを学べる高校として、市内の生徒が多く通っている。
北凍市内の中心となる三校――北凍市立湖囲高等学校、東雲私立学園高等学校、北凍市立海林〈かいりん〉高等学校――と比べれば生徒数こそ少ないものの、歴史は他の高校とそう変わらない。ちなみに海林高校は西部地域にあり、四校は全て市内の違う地域に分布している。
少女が着ているのは、その雪羊高校の制服だった。
長いようで短い髪、整った美しい容貌、背は高くないがすらりとした肢体。短いようで長いスカートを揺らしながら、少女は北凍市の北部地域を歩いていた。
歩いて行くのは大きな市立図書館。今日は休日で、午前から入り浸ろうという心積もり。休みでも制服を着ているのは……少女なりの目的があってのことだった。
陸道四伝は見蕩れていた。一目惚れした少女、南城稲穂の姿に。
今日は休日。四伝も、稲穂も、湖囲高校の制服は着ていない。初めて目にする稲穂の私服姿に――それが特別に可愛らしいものでないとしても――四伝は見蕩れていた。
狼四季花も一緒にいて、彼らはある目的のために北凍市の北部地域に向かっていた。
目指すは大きな市立図書館。『タギ』のイリスとして、南城小麦も加えて話をするのが目的だ。放課後に集まるには遠い地域の二つの高校。同じ市内でもここは北海道。道央にある北凍市は、人口十六万の中規模都市でも広い土地を市内として有している。
しかし今日は休日。遠くて広くとも市内は市内。鉄道でも一時間弱かかる札幌まで行くのに比べれば、徒歩でも一時間とかからない距離など短いものだ。
図書館に到着すると、小麦は図書館の前に立ち壁に背を預けて待っていた。
「来たか」
「うん、中で話そう」
短い言葉で小麦と稲穂は確認し、図書館の中に入る。広い図書館、読書のために静かにするスペースもあれば、そこから離れた会話に向いたスペースもある。図書館に併設された小さなカフェスペース。セルフサービスだが、それゆえに店員との会話もなく通常より静かな空間になっている。
先に席に座って会話を始めた南城姉弟を置いて、四伝と四季花は四人分のコーヒーと紅茶をセルフで淹れにいく。今伝えているのは、これまでに起きたこちら側の出来事。小麦から話を聞くのは後なので、二人でも話はできる。
四伝と稲穂はコーヒーで、小麦と四季花は紅茶。二人そろってブラックのコーヒーに、小麦はレモンティー、四季花はこだわりのハーブティーだ。
「ええと……今日はこれとこれを……これくらい、と」
「毎回のことだけど、面倒じゃないのか?」
セルフだからやりやすい微調整を、四季花はこの図書館に来ると毎回している。時間がかかる彼女の代わりに、三人分のコーヒーと紅茶を淹れている四伝は素朴な疑問を口にする。
「考えるのも楽しいよ。それに、これだけのハーブ……自宅じゃ用意できないでしょ?」
「それもそうだ。よくわからないけど」
種類が多いのは四伝にもわかる。しかし、普通は一種類だけで淹れるものだ。四伝も真似をしてみたことがあるが、四季花が調整した美味しい味は出せなかった。四季花曰く、熟練の腕が必要とのこと。
紅茶を淹れて、コーヒーを二杯、四伝が淹れ終わった頃には四季花のハーブティーも完成していた。普段と同じ速度だが、普段からこの速度でやれるのは確かに熟練と言えるだろう。
「へえ、やるじゃないか。じゃあボクは……と、これにこれ、それからこれだね」
女の子の声に四伝は振り返る。四季花もその少女に視線を向けたが、彼女が見ていたのは少女の手先、選んでいるハーブの種類と量だった。
「……む。お兄ちゃん、あの人も熟練だよ」
「そうでもないさ。それより君たち、待たせてる人がいるんだろう? ボクと話していていいのかい?」
声は確かに少女で、着ている制服も女の子のもの。見慣れない制服に四伝はどこのものかと判断に迷ったが、女の子の四季花はそんなに迷うことはなかった。
「雪羊高校の制服だよ。あなたとは、あとでゆっくり話してみたい」
ハーブティーの調整、調合の腕を認めた四季花は、笑顔で少女に言葉をかける。
「ボクもだよ。君たちは……名前、いいかな?」
少女も笑顔で答えて、ふんわり優しく名を尋ねる。
「狼四季花」
「陸道四伝だ」
「ありがとう、覚えたよ。それより、大事な話をするんじゃないのかい? 稲穂と小麦を待たせてるんだろう?」
「……ん? なんで」
四伝が質問を言い切る前に、少女はティーカップを手に持って答えた。
「さあ、昔馴染みと言うのかな?」
そのまま歩き出そうとした少女に、四季花が尋ねる。
「あなたは?」
「ボク? 名前かい? それは……秘密さ」
振り向いて答える。名乗らぬ少女はそれを最後に遠くの席に歩いていって、そちらは稲穂や小麦が待っている席とは逆方向だ。
二人を待たせている。四伝と四季花も少女の背中に声をかけることなく、待っている二人の所まで戻ることにした。
紅茶とコーヒーを飲みながら、『タギ』のイリスとしての会話は続いている。
「ふむ。了解だ。それで……」
互いに起きた出来事、これからの活動方針、基本的には白と黒のやり方に囚われず、擬人と戦うイリスのやり方の再確認、この三つは流れるように進んで次の会話に移っていく。
イリスのやり方は特別なものではない。ただ『タギ』として、対擬人集団として、柔軟なやり方で動くというだけ。白や黒のやり方に執着のない稲穂や小麦には簡単なことで、白のやり方も黒のやり方も慣れていない四伝や四季花にはもっと簡単なことだ。
言葉を止めた小麦の視線は、微調整で美味しくできたハーブティーを美味しそうに飲んでいる四季花に向けられる。
「通信はもうできるのか?」
「昨日で一通りやり方は教えたよ。どう、四季花ちゃん?」
ごくりと喉を鳴らして、口に含んだ紅茶を飲み干してから四季花は答える。
「多分できるよ。その前に、お兄ちゃんに説明しないと」
「ああ、四季花がするのか?」
「稲穂ちゃんにしてほしい?」
反射的に頷いた四伝に、四季花と稲穂が微笑む。小麦はそんな三人の様子を無表情で眺めながら、冷静に自分の意見を口にした。
「遠回りは好きじゃない。早く済ませてくれるか?」
当然、小麦もフラグメント・ウェポンの通信機能については知っている。そして四伝がそれを知らないことも理解している。だから説明に時間が必要なのも理解するが、その前で時間をかけられるのは退屈だった。
四伝は察して慌てることなく、妹みたいな幼馴染みに説明を頼む。
「ああ、四季花」
「うん。フラグメント・ウェポンの通信機能は、少し特殊なの。私のフラグメント・ウェポンを介して、お兄ちゃん、稲穂ちゃん、小麦くんのフラグメント・ウェポン同士で、通信を可能にする。私のが本体で、三人のがコントローラ――ゲーム機で例えるとこんな感じかな?」
「俺たちのフラグメント・ウェポンを、四季花のフラグメント・ウェポンに登録して、通信機能を拡張するってことか」
「そういうこと。通信は二人だけじゃなくて、三人でも四人でも、もっと多くてもできるみたいだけど……ここにいる人数じゃ、四人が限界だね。ちなみに本体である私にはどの通信も筒抜けで、例えばお兄ちゃんと稲穂ちゃんがこっそり会話をしていても、私にも全部聞こえるからお兄ちゃん注意してね」
四伝に向けられた笑顔の意味を、正確に理解したのは本人だけ。四季花は説明を続ける。
「それから、これは大事なこと。私のフラグメント・ウェポンが、通信機能の本体。本体が壊れたゲーム機のコントローラがどうなるか、わかるでしょ?」
「動かない。つまり、四季花がフラグメント・ウェポンを使える状況にないと、通信機能も使えないってことか」
「正解。詳しい理論や細かいやり方は省いたけど、今はいいよね? じゃ、登録はもう終わってるし、試してみるね」
いつの間に登録をしたのかと四伝は思ったが、それも詳しい理論や細かいやり方に含まれるのだろうと、今は聞かない。気になるならあとで、四季花と二人きりになったときに聞けばいい。
四季花は立ち上がり、遠く離れたカフェの席まで歩いていく。背中は見えるが声は大きく叫ばないと届かない距離で、彼女は振り向いて足を止めた。
「聞こえてる? 聞こえてるなら手を挙げて」
その声は四伝の脳に直接響くようにも感じられた。四伝が手を挙げると同時に、稲穂と小麦も手を挙げる。四季花の声は三人全てに届けられている。
「遠くて見えにく……ん、成功だね。はいお兄ちゃん、何か言って」
脳に響くような声はいつもの四季花の声とは少し違う。しかし、脳に直接響くテレパシーではないようだ。そこでふと、四伝はこれがフラグメント・ウェポンを介しての会話であることを思い出す。
「……骨伝導?」
「みたいなものだけど、厳密には違うよ」
「ああ、俺も詳しくはないが」
四伝の言葉に答えたのは、稲穂と小麦だった。口は動いているがとても小声で、通常なら聞こえない声も今なら聞こえる。
「小さな声でも聞こえるから気を付けてね。慣れれば考えただけでも伝えることはできるって聞いたけど……」
続けて四季花が声を届ける。遠くにいてもはっきりと聞こえて、近くにいる三人とも空気を介しては聞こえないほどの小声で会話ができる。
「四季花の慣れと……」
「お兄ちゃんたちの慣れ。今は必要ないけど、覚えておいてね」
その言葉で四季花の声は聞こえなくなり、小声で四伝が「聞こえてる?」と呼びかけてみても誰からも答えは返ってこなかった。
戻ってくる四季花は元気な様子だが、彼女が切れば通信も切れる。フラグメント・ウェポンの通信機能は非常に便利なものではあるが、弱点にも留意しなければならないと四伝は改めて理解する。
そんな彼らの様子を、名乗らぬ少女は遠くから眺めていた。
「へえ……面白いことやってるじゃないか。もう一度声をかけてもいいけど……やめておこう。ただ……」
少女の視線は柔らかく、それでいて鋭く、四人を遠くから捉える。
「いい機会かもしれないね」
視線を外す前に、ただ一言。少女は言葉を口にした。