ふわり、なびく髪は視界に広がり、その中心にあるものに視線は奪われる。綺麗な――可愛いと感じる顔。誰もが認める美少女や、世界一の美少女ではないかもしれない。けれど、自分にとっては一番の女の子。それが陸道四伝〈りくどうしでん〉の、一目惚れだった。
場所は下駄箱の前、廊下近くでのすれ違い。
日付は五月の連休明け、高校の授業も本格的に始まる五月七日。
北凍〈ほくとう〉市立湖囲〈こい〉高等学校の校舎内で、入学式や体育祭といった特別な日でもない。
だけど、それは一目惚れだった。場所も時間も、一目惚れには関係ない。ただその日、その場所で、初めてすれ違った彼女に、一目で惚れた。それだけで一目惚れは成立する。
「お兄ちゃーん?」
同じ方向から廊下を駆けてきた少女の声にも、すぐには気付かない。いや、気付いてはいても、すぐに反応できなかった。
「……お兄ちゃん?」
背伸びして顔を覗き込まれても、ほっぺたをつんつんされても、正面からじっと見つめられても……陸道四伝の考えは、一目惚れした少女のことでいっぱいだった。
「一つ質問がある」
だから返すのは、いつもとは少し違う反応。四伝のことをお兄ちゃんと呼んだ少女、狼四季花〈おおかみしきか〉の表情には、少しの驚きが浮かんでいた。
「今の女の子って、四季花は知ってるかな?」
「今? んん……えーと」
下駄箱から玄関に、視線を向けて確かめる。その後ろ姿は、四季花にも見覚えがあった。
「あの人?」
「そう。あの人」
思い出すまでもなく、答えはすぐに出てくる。入学してから少し、クラスメイトの名前と顔もある程度は一致する頃だ。
「南城稲穂〈なんじょういなほ〉さんだよ。同じクラスだから、知ってるけど……」
それがどうかしたの? といった表情で再び顔を覗き込む四季花。すぐさま、四伝は答えを返しつつ、思い出したかのようにいつもの言葉も返す。
「一目惚れした。それから、お兄ちゃんって呼ぶのはそろそろやめないか?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだからお兄ちゃんなの。……って、一目惚れ?」
真剣な顔で頷く四伝。四季花はぽかんとした表情のまま、もう一度視線を南城稲穂の背中に向けた。
「彼女とすれ違ったときに、目が合った。惚れた」
「目が合ったって……気がした、じゃなくて?」
「うん、目が合った。ほんの少しだけど歩みも遅くなって、目が合った。惚れた」
「惚れたはいいから。ふーん……でも、そっか」
大きく首を縦に振って、納得した様子を示しながら、四季花は四伝の手を引く。
「お兄ちゃん、早く靴を履き替えて。追いかけるよ!」
四伝が一目惚れに浸っている間に、四季花は靴を履き替えている。
「……え?」
今度、驚きの顔を浮かべたのは四伝の方だった。
「お兄ちゃんは稲穂さんに一目惚れした。惚れたから告白する。付き合いたい。キスしたい。これで追いかける理由は十分だね。はい、急いで!」
「いや、ちょっと待って、そんないきなり!」
「いきなりも何も、一目惚れがいきなりでしょ? それとも理由が足りない? 脱がしたい。脱がされたい。えっちしたい。はい、これでいい?」
「いや待て、そんな露骨な」
「したくない?」
「気が早い」
「告白は?」
「したい」
今すぐじゃないけど、という言葉を口にする前に、強く手を引かれた四伝は慌てて靴を履き替える。突然の告白なんて、心の準備はできていない。けれどこの気持ちを伝えたいのは本当だ。なにせ、一目惚れしてしまったのだから。
妹のような幼馴染みに手を引かれて、四伝は南城稲穂の背中を追いかける。玄関から校門までのまっすぐの道、まだその背中は消えていない。
校門までの並木道。散り始めた桜の中に、彼女の姿はくっきりとそこにある。
「って、告白の文言なんて、考えてないぞ」
早足で追いかけ始めてすぐ、四伝が言った。
「あのね、お兄ちゃん。一目惚れしたお兄ちゃんに用意できる文言なんて、考えても大して出てこないよ。『好きです、一目惚れしました!』『一目惚れしました、好きです!』、この二つから選ぶだけ!」
「そうか……そうだな……。でも、迷うな」
四季花の言葉はもっともである。一目惚れの理由を説明することなんてできない。説明できないけど、惚れてしまったのだから、一目惚れなのだ。だったら、告白の言葉なんて深く考える必要はない。
「『愛してる』のパターンもあるんじゃないか?」
「あるけど……もっと増やしてほしい?」
顔は見えなくても、困ったような声は耳に聞こえてくる。
「いや、やめておく。けど問題は他にも……」
「あるけど、些細だよ。『一目惚れしました、好きです!』――これで全部伝わるの。問題なんて、伝えてから解決すればいい。伝えないと、よく知らない追いかけてきた男の子だよ」
笑顔で言ってのける四季花に、四伝の緊張も少し解ける。
「まるで百戦錬磨だな」
「お兄ちゃんの持ってる恋愛SLGと、私の持ってる恋愛漫画と、お兄ちゃんが隠してるえっちな漫画で学んだからね」
「最後のは知らないな。俺は成人向けの漫画なんて持ってないぞ」
「えっちなことをしてる漫画でも、成人向けってつかない漫画もあるんだよね。なんで隠してるんだろうって読んでみたら、びっくりしちゃった」
「ああ、ゲームのCEROさんとは大違いだ」
「そういえばCERO Dのゲームも同じところに……」
「あれは買っていいんだぞ。CEROは内容を示しているだけだからな。Z以外は許される」
にわかに盛り上がり始めていた会話は、そこで途切れる。早足で追いかけてしばらく、もうそろそろ声が聞こえてしまう距離だ。一目惚れの告白をする前に、こんな会話を聞かせるのは好ましくない。
ここまで来たら告白はもうすぐ。返事がどうなるかはともかく、まずは気持ちを伝えて接触しないと始まらない。ただそれゆえに、雰囲気というのも意識すべきだ。
例えばそう、通行人が真横にいる状態は、愛の告白をするには相応しくない。
それどころか、通行人に話しかけられている状態などは、告白の言葉も耳に届かないかもしれない。
彼らの前を歩いている南城稲穂の横を通り抜けるかと思われた通行人は、足を止めて彼女に声をかけていた。小さな地図を片手に、指で示して道を尋ねている。日本人の青年のようだが、旅行者にしては荷物が全くない。
彼が通りすぎたら動こうと考えていた四伝は、同じように足を止めて距離を保つ。傍から見ると不自然な行動だが、通行人に対応している稲穂が気に掛けることはないだろう。
話が終わるのを待っていた四伝だったが、稲穂は青年を手招きして歩き始めてしまった。どうやら言葉だけでなく、直接案内するつもりらしい。
「……困ったな」
と、四伝は言葉では口にするが、表情に困った様子はない。四季花に手を引かれてここまでは来たが、告白するという覚悟が決まっていたわけではないのだ。
「追いかける?」
その表情と言葉の差には何も言わずに、四季花は短く確認する。
「そこまでしたら、さすがに怪しまれないかな? 別の機会にしよう」
「ここまで追いかけて?」
「少しは様子を見るさ」
近い場所だから自ら案内すると決めたのか、遠い場所でも案内するつもりなのか、彼女らの声は聞こえていないからわからない。ただ、歩いていった方角は北。ここ――北凍市の中部地域――から、北部地域まで案内するのだとしたら、数分で終わる距離ではない。
「駅の方か……」
駅を使わずにこんなところまで、少し不思議ではある。北凍市の中部地域は東、南、西の三方を山に囲まれた地域。北から来たのであれば迷う可能性は低いし、中部地域に暮らしているなら土地勘もあるはずだ。
もちろん、山の方に宿がないわけではないし、中部地域も決して狭い地域ではない。人口十六万の北凍市。普段行かない場所なら、道を尋ねることもあるだろう。
それにしても、片手に地図だけを持って、他の荷物は何もない。まるでわかりやすい迷い人の格好である。ひょっとして、迷うふりをしたナンパではないのだろうか。
様子を見ている間に、四伝の頭にはそういう考えも浮かんでいた。数分、向かう先は北凍市の中心街の方かと思っていたが、追いかけていくうちに少し違うことがわかった。中部地域にある大きな湖――北凍湖の北の方。市民の集まる湖でも、平日は人気のないところだ。
中部地域であれば距離も短い。北凍湖の北の広場――青年の目的地への案内は十数分で終わることになった。木陰に隠れた四伝たちの目にも、稲穂に深くお辞儀をする青年の姿が見える。
「……ナンパではなかったみたいだな」
一安心する四伝に、四季花が目の前で起こった事実を口にする。
「手、握ってるけど」
「感謝の握手だろう」
青年は両手で稲穂の手を握って、再びお辞儀。大げさだが感謝の表現に違いない。
稲穂は笑顔でそれを受け入れて、ふと真剣な表情で青年を睨む。何事かと思って四伝たちは木陰から二人に近付いていく。やや大胆だが、声を聞くためには近付くしかない。
「……ここなら誰も、いないよね。諦めて、相手が悪かった」
稲穂の声と、青年の驚いた声。木陰で声は聞こえるが、この位置からでは姿は見えない。
さらに近付いて見えやすい位置に。そこで四伝が目にしたのは、衝撃の光景だった。
稲穂が前に伸ばした右手。何かを握るように伸ばされた手先に、淡き輝きを放つ小さな剣が生まれていた。どこからともなく現れた小剣は、稲穂の手にしっかりと握られている。
小剣を握った右腕を振り上げて、振り下ろす先は青年の頭上。頭から真っ二つに叩き切るように、淡き輝き放つ小剣は振り下ろされて――青年の体を真っ二つにした。
「お兄ちゃん、もう少し前……見えないー」
後ろからの四季花の声に、四伝は言葉を返せない。真っ二つにされた青年の体からは血が出ることはなく、それどころか――そこに人などいなかったかのように、ふっと風に流れるように消えていた。
何が起きたのかわからない。何が起こっているのかわからない。何を言えばいいのかわからない。言葉を失っている四伝に、声をかけたのは視線の先にいる少女だった。
「……あ。見てた?」
小剣を片手に、南城稲穂が陸道四伝の姿を捉えた。困ったような笑顔はとても可愛くて、一目惚れした四伝は鼓動が早まるが、別の意味での鼓動も早まっている。
「……バレたの?」
後ろから、四季花の声が響く。近付きすぎて見つかってしまった。視界を木に遮られて状況を理解していない彼女は、ただそれだけのことだと思っていた。気楽な声である。
「バレた上に、見てはいけないものを見てしまったような気がする」
「どこまで見ていたか、聞くまでもなさそうね。少しお話、しませんか?」
片手に小剣を握ったまま。まるで脅迫するような姿だが、表情は柔らかく声も優しい。しかし、見てはいけないものを見てしまった……ことには変わりないようだ。
そして一つだけ確実に言えることは――今は一目惚れの告白をする雰囲気には程遠い、ということである。
「はい。じゃあお話の前に……私は人殺しはしていません。あなたに危害も加えません」
木陰から姿を現した四伝と四季花に、落ち着いて稲穂は話を始める。
「私、よく見てないんだけど……聞いてもいいの?」
「四季花ちゃんは聞かなくてもいい話だけど、ええと……」
「陸道四伝だ。一年北組」
「四伝くんとは親しいんだよね。だったら、聞いていた方が私としては都合がいい」
親しいという言葉に、四季花は笑顔で胸を張って答える。
「お兄ちゃんですから」
「誤解してるかもしれないけど、説明はあとでするよ」
四伝の言葉に、稲穂は静かに頷く。今は彼女の説明が先で、彼女の説明の方が大事であることを、彼女自身も、四伝や四季花も全員理解している。
「まずは、私が倒した相手。それが何かを説明するね」
稲穂は真剣な表情。けれど雰囲気は和やかで、大事な話だけど堅苦しい雰囲気はない。
「彼は人の姿をして、人の中に紛れ込む人ではない生命体――擬人と呼ばれる存在」
「擬人……」
「漢字で書くと、擬人化の擬人。彼らは人の鼓動を吸収して、自らの命を繋ぐ生命体。鼓動というのは――心臓に限ったことではなくて――人間が生きるための力、全て失うと命も失うエネルギー」
「放っておくと人が殺されるから、殺される前にこちらが殺す、ってところか」
「正確ではないけれど、自衛のためというのは正解」
四伝は黙って次の言葉を待つ。
「彼らは通常、命を奪うまで鼓動を吸収することはない。鼓動を奪われても感じるのは強い疲労だけ。そして奪われた際の影響で、擬人に奪われた記憶も薄れてすぐに失われる。考えれば単純なことだけど……もちろん、わかるかな?」
「答えなかったら続きは?」
「聞きたいなら話す。でも、答えてくれた方が私も君をよく理解できる」
「答えるよ」
理解してもらう、されてもらう目的は、四伝と稲穂では違うもの。だけど、どちらにも理解したい、理解されたい理由があるのなら、目的は違っていても結果は同じだ。
「生命体であるのなら、貴重な餌を種まで食べ尽くすより、種を残して育てた方がいい。疲労なら回復する。それに、死体が残れば目立つのは避けられない」
「その通り。彼らにもそれだけの知能がある。それに力も……でも、その前に、私のことも説明しないとね」
こちらも同じくらいに気になること。一拍置いて、稲穂は続ける。
「私はその擬人に対抗するための集団、対擬人集団――『タギ』の一人。さっき、擬人を倒した武器もそのために開発されたもの。正式には分岐型武器、と呼ばれるものだけど、私たちはフラグメント・ウェポンと呼んでいるの」
「フラグメント……分岐?」
四伝は四季花の方を向いて確認する。
「私も英語はそんなに詳しくないよ。でも、フラグメントの意味は……」
「通称は語感で決めたから、意味は関係ないの。分岐型武器って言うより、フラグメント・ウェポンの方が格好良い……誰が言い出したのかは知らないけど、そういう話」
少し脱線しつつも、話はすぐに元に戻る。
「それでね、基本的に擬人は人の命を奪わない。けれど、その身を守るため、命を奪ってまで鼓動を吸収する擬人もいる。だからそれに対抗するため、私たちのような『タギ』の人間が必要なの」
「対擬人集団が生まれたから、抵抗するようになったんじゃなくて?」
「その可能性もあるけど、結論は出てない。いつから擬人がいたのか、全ての記録が残っているわけじゃないから。対擬人集団が生まれるより前なのは確かだけど……」
「それより前にも、擬人を倒せる人はいた?」
「そう。知りたいなら、かなり本格的に研究する必要があるね」
稲穂は苦笑混じりで微笑む。対擬人集団ができてからの歴史上、調べようとした人は過去にも何人もいる。それを知っているからで、四伝もそれは何となく理解していた。
「さて、私は君に見られてしまったわけだけど……」
「何か罰則でもあるのかな? なら、俺が黙っていれば……」
「そういうのはないよ。ただ、白としてはなるべく見られるべきじゃないってだけ。それでも、黒のように被害を出したわけじゃないし……何も問題はない」
「白? 黒?」
再び出てきたよくわからない単語に、四伝は首を傾げる。四季花の方を見るが、もちろん四季花も知らないから、彼女も困った顔を返すだけだ。
「知りたい?」
「話せないこと?」
「話せるよ。話せるけど、話す必要も理由もない。君は『タギ』の人じゃないから。全国に広がる集団だから、色々あるんだよ」
「わかった。じゃあ、俺もその『タギ』に入ることはできないかな」
四伝の言葉に、稲穂は笑顔を返す。
「擬人と戦う『タギ』の一員になれば、命を狙われる可能性もある。それでも?」
「ああ、君と一緒にいたい」
告白というには言葉が足りないが、それが四伝の素直な気持ち。これで伝わるならそれでいいし、伝わらなくてもそれでいい。ただ、質問に対する答えはこれしか持っていない。
「私と? そう、どういう意味かは聞かないけれど、人手が増えるのは私たちも歓迎。北海道支部は人が少ないから、ね」
「そうなのか?」
「ま、君を鍛えるだけの人はいるよ。ただ、君が戦えるかはわからない。フラグメント・ウェポンを扱うには、才能も必要なの」
「……才能……」
やはり特別な武器なのだろうと、四伝はさっきの光景を思い出す。何もないところから武器を生み出して、その武器は今は消えている。誰にでも簡単に扱える武器ではないのかもしれない。
「詳しいことはまた明日、学校で。フラグメント・ウェポンを二つ、持っていくから」
「それで才能がわかるんだね。……二つ?」
「一応、四季花ちゃんの分も」
「私も?」
「試すかどうかは自由だけど、一応ね」
「私は戦う気はないし、ちゃんと見てないんだけど、試すだけ?」
「結果次第では、いざというときに頼むかも」
四季花は答えに迷っていたが、決めるのは今ではない。続きは明日、学校で。ということで四伝たちの話はそこで終わり、続きは明日の学校で行われることになった。