飛行都市国家チカヒミ。花と雪に恵まれた、多数の飛行都市国家を束ねる大国。その神殿都市に姿を残すのは、チカヒミのメガミコルーンカ。彼女に付き従うように、彼女の後ろに控えるのは、チカヒミのカミモリ〈神守り〉ユーヒ。
ルーンカは遠くカカミの方を眺め、ユーヒはその背中を黙って見ている。チカヒミの神殿からは都市と雪が見えるだけで、もちろんカカミの飛行都市が見えるわけではない。しかし、彼女の視線はそこにいる三人――心生みシララス、神代りカザミ、真者クゥラの姿をしっかり捉えているようにも感じられた。
小さな少女の瞳には何が映っているのか、ユーヒにはわからない。昔は見上げていたその瞳。今は自分も成長して、同じ高さから見られるようになったが、それでもわからない。数年経って見下ろすようになっても、きっとわからない。
「ルーミャンピカ様。この戦いを、これ以上続ける必要はあるのですか?」
だからユーヒは問いかける。いつものように、彼女の心を確かめるために。それをしなくて良かったのはただ、彼女が自分を拾ってくれたあの日だけ。もう慣れたことだが、最初は戸惑いもあったものだ。
「ヒノミアリアクス様と、シァリィグラーゼ様は捕らえました。残る三人、カザミナシロ様に警戒は必要ですが、正直、シキライラハスク様とクゥラェリーリット様の二人には、脅威は感じません。油断でも、過信でもなく。勝敗は既に決しているように思います」
ルーンカは答えない。ユーヒなら、これだけで理解してくれると知っているから。
「……先の誘いは見事でした。それでも、勝敗は決していない。でもそれは、ルーミャンピカ様が彼らを助けたから。戦いによって始まった問題は、戦いによって決着を付けねば双方とも納得はできない。火種は残ってしまう。だからこそ彼を、彼女を育て、その上で勝利しなくてはならない。その考えに異論はありません」
一人は戦いによって、一人は直接の指導で。ルーンカが手加減して戦い、分析と助言をしなければ、クゥラもシララスもこの短期間でここまで強くはなれなかった。
「人の成長は読めない。ユーヒだって、随分大きくなった」
背を向けたまま、ルーンカは答える。つい数日前までは、まだほんの少しだけど自分が見下ろせていた。それなのに、今は完全に同じ高さで見られている。ユーヒはまだ十五歳なのに、三歳も差はあるのに、もう追いつかれてしまった。
「それは、そうですが……彼らの力がルーミャンピカ様に追いついていたとしても、決して一対一で戦えるわけではありません。二対一でようやく、追い抜いたわけでもないのです」
自分の身長と同じように。追いついただけで、追い抜いてはいない。そしてその成長もルーンカの作戦の一つ。作戦で上回る限り、こちらの勝利は揺るがない。
ルーンカは答えずに、黙って遠くカカミの方角を眺め続けていた。
神殿の外に出て、ルーンカは一人誰もいない都市を歩く。ユーヒは今日も神殿の中に待機している。誰もいないのに外出する理由はない、いつもの彼と同じだ。それもそうだ。景色を純粋に楽しむことなど、自分たちにはできないのだから。
それでも、今の季節はチカヒミも寒くはない。なかなか溶けない雪が残るだけ。花もずっと咲いている。寒い日も、いつものコートがあれば大丈夫。吹雪いたらフードを被ればいい。
神殿都市の景色を眺めながら、ルーンカはかつての賑わいを思い出す。それはかつて確かにここにあったもの。それはもうここには存在しないもの。悲しみはもうない。いや、最初から悲しみなんてなかった。
ユーヒがどう思っているのかはわからない。彼にはきっと、悲しみもあったのだろう。だからこそ、こうして時々でも都市を歩くことはせず、神殿に引き篭もっているのだ。
それはきっと、メガミコとカミモリの差。チカヒミの全てを委ねられたメガミコと、それに付き従い守るだけのカミモリ。そして彼がカミモリとなったのは、あの事件よりのちのことなのだから。
思い出すのはただ、記憶を確かめる行為。確かめた記憶こそが、メガミコとしての自分を思い出させる。チカヒミのメガミコとして、自分は――私は生きていた。誰のためでもない、ひとえに自分のために。
こうすることが最善ではないと、それもわかっている。戦わずにもっと話し合って、時間をかけても良かったのかもしれない。でも、戦った方が早い。そう思っていたのは変えられないし、今だってそう思っている。
実際に、次の戦いで全てが終わるところまで、望んだ通りの展開になっているのだ。自分や彼らの成長も考えると、一番早いタイミングで到達したと思っている。
ルーンカは足を止める。今自分たちのいる飛行都市に向けて、カカミからシンキョウが架けられたようだ。書状を送ってから毎日眺めていた方角。彼らが来るとしたらこの時間だろうというタイミングで外を歩いていたら、ちょうど彼らはやってきた。
ここからなら、神殿都市に戻るには遠い。用意している書状も、今はまだ必要ない。今日は神殿都市の入り口で、彼らを迎えるとしよう。
淡い雪を踏みしめて、二人の少年少女が歩いてくる。
一人はココカゼの心生み、シララス。もう一人はマコミズの真者、クゥラ。今回は偵察ではなく、以前受け取った書状への答えを伝えるための訪問。
「……あ」
都市の入り口、備えられたベンチに座って待つ少女を見つけて、シララスが呟く。
「こんなところにいるとは思っていなかったな」
「心の準備ができていないのですか?」
「いや、それは心橋を架けたときからできてるけど、言葉の準備が」
挨拶の言葉をどうするか。答えはいきなり告げるべきか。それとも師匠やシァリの状態を尋ねるべきか。それについては、神殿都市を歩きながら考えようと思っていた。
「お久しぶりですね、ルーンカさん。シララスさんとは、三度目のようですが」
代わりに挨拶をしたのはクゥラである。シララスも次いで、「久しぶり、って程ではないから……こんにちは?」と曖昧な挨拶をする。
ルーンカは微かに笑って、小さく頷いてみせた。
「それで、早速だけど」
言葉の準備は整っていないが、シララスは最初に告げるべき言葉を告げる。
「俺たちの答えは、戦いの続行だ。続行といっても、あと一回で終わるんだけどさ」
苦笑してみせたシララスに、クゥラも同意を示すように頷く。
ルーンカはこくりと頷いた。
「それから、いくつか聞きたいこともあるんだけど……まさか、今すぐ始めようなんて言わないよな?」
それはそれで望むところである。一応、カザミも雪原の先で待っている。用意した作戦も全て使えなくなるが、直接対決できるならその作戦も必要ない。
ルーンカは小さく笑って頷く。
「まあ、当然ですね。こちらから動くことも可能ですが、この場で総力戦というのはできれば避けたいです。お兄様たちを人質にとるつもりはないにしても、今の私たちではカザミさんの戦いの邪魔になってしまいます」
カザミの戦い方は、少数精鋭と魔法を活かした戦い方。広範囲へ派手な魔法を使う彼女と一緒に戦うなら、巻き込まれないように正確な思考の把握が必要だ。シララスとクゥラも強くなったが、カザミとの共闘をするには力も、理解も足りない。シァリでもできるかどうかはわからないし、唯一できるとしたらヒミリクくらいなものだろう。
「二人は無事。軟禁?」
お兄様や人質という言葉が出たからか、ルーンカが問われずとも答えた。
「軟禁……見張りはユーヒってやつが?」
シララスが尋ねる。ヒミリクとシァリの実力を考えると、その気になれば自力で脱出することも不可能ではない。特に今、ルーンカが離れているときなどは絶好のタイミングだ。
ルーンカは小首を傾げてから、ゆっくりと首を横に振った。
「見張りもなしにお兄様と……」
「師匠を軟禁……それ、軟禁って言うのか?」
「二人は説得した」
聞こえよがしに呟いた二人に、ルーンカは疑問を理解して口を開く。
「説得?」
「説得ですか?」
声を揃えての再質問。ルーンカはこくりと頷いてから、答えるべきか迷う。このことを隠す理由はないが、少し言葉が必要だ。でもやはり、伝えておいた方がいいだろう。
しばしの沈黙をおいてから、ルーンカは答えた。
「『シララスには最高の舞台だな』『我が妹を甘く見ないことだ』――二人の言葉。勝敗が決するまで動かない、そう説得した」
「……師匠」
「……お兄様」
二人の士気やらやる気やら、そういったものが上昇したのをルーンカも感じる。でも、士気一つで勝敗が動くほど、シンイキでの戦いは甘くない。だからそれは問題でないのだが、二人の反応が想像以上だったことには驚きを隠せなかった。もとより、隠すつもりはないけれど。
「なら、勝ってみせないとな」
「ええ。私たちは負けませんよ、ルーンカさん」
強い瞳。二人揃って向けられた、まっすぐなその瞳に、ルーンカは反応に迷わない。
返すのは、二人よりも遥かに強い瞳。伝えるは、勝利の意志。
返ってきた、伝わってきたその意志に、シララスとクゥラは気圧される。それは、初めて見たルーンカの強い意志だったからかもしれない。そして同時に、なぜ彼女はここまでの意志を持って戦いを続けるのかという、強い疑問を抱かせるものでもあった。
だが彼女の顔を見ればわかる。もしも今その質問をしたとしても、決して答えは返ってこないと。チカヒミと、ココカゼ・カカミ・マコミズ三国の戦いに決着が付くまで、きっと彼女は全てを話してはくれない。
それが彼女の考えであるのなら、シララスとクゥラは従う。戦いには勝てないと諦めていたならまた違う展開もありえただろうが、どちらも勝てると思っているのなら、決着は戦いで付けるのが手っ取り早い。
無言で微笑んだルーンカに、シララスとクゥラも無言で微笑みを返す。
そして、踵を返したルーンカを二人は追わなかった。
追ってこない二人の視線を背に、ルーンカはユーヒの待つ神殿へと戻る。途中で振り返ってみると、シララスとクゥラの姿は遠くに小さく見えていた。背中を向けて歩く二人の姿は、彼女が見ている間にもさらに小さくなっていく。
戦いは、また始まる。
戦いは、これで終わる。
最後の戦いを前に、ルーンカは考えていた。
戦いに勝利したあとの、これからを。
戦いに敗北したあとの、これからを。
戦いが終わったあとの――これからを。