飛都国

ウガモコモ篇


   チカヒミとの戦い その三

 彼らが動きを見せたのは、シララスが偵察から戻ってきて三日後のことだった。

「チカヒミが攻勢を?」

 修行を始める前の川澄店内。ヒミリクからの話に、シララスは冷静に聞き返した。動きがありそうだとは以前、カザミから聞いている。

「そうだ。だから今日の修行は休みとする」

「……え」

 続いた言葉には今度は驚く。

「それほど切迫した状況なんですか?」

 ヒミリクが口にした言葉は、「チカヒミがそろそろ攻めてくるそうだ」というもの。淡々とした口調で伝えられた上に、そろそろという言葉からそこまでの状況は想定できなかった。

「いや、そうではない。これも今回の作戦でな。攻勢を見せたチカヒミを、こちらから先に動いて一気に攻め込む。そして、チカヒミとの戦いを終わらせようということだ」

「それは……」

 微笑みながら、何てこともないように声にされた言葉。その衝撃に、シララスは二の句が継げない。隣のカウンター席で、ヒミリクはマスターにレアチーズケーキを注文していた。

 幼馴染みのウェイトレスは外で掃除をしているため、今の彼に頼れる相手はいない。少しして、カウンターの裏、マスターのレフフスがレアチーズケーキを運び、そのまま奥に待機してシララスたちを見ている。

「師匠」

「自分で考えることだ」

 ということらしい。ヒミリクはレアチーズケーキに夢中だ。

「レフフスさん、どういうことですか?」

「ようやく僕を頼ってくれたね。どうせなら二人きりのときに頼ってほしかったけれど、贅沢は言わないでおくよ」

 レフフスは嬉しそうに答えた。これだから彼にはあまり頼りたくないが、師匠の話ぶりからすると時間はあまりなさそうだ。多分、ケーキを食べたら師匠は動く。

「でも、僕に聞くまでもなく、君自身が一番わかってるんじゃないかな? 偵察から帰ってきてからの修行で、君がどれほど嬉しそうにしていたのか、気付かない僕だと思うかい?」

「はあ……いや、まあそうですね」

 柔和な笑みを浮かべたレフフスに、シララスは距離をとりつつ、同意する。表情や態度に出したつもりはないが、無意識に出ていたのならそれを見抜かれるのは当然だ。

「大人の僕はいつでもシララスくんの傷を癒すために待っているよ。あ、もちろん、今すぐにでも結構さ」

「すみません。俺、女の子が好きなんです」

 レフフスは黙った。少し悲しそうな顔をしているが、いつものようにここはきっぱり断っておくべきだ。その方がきっと、彼も傷付かないだろうから。

「……君は、男心は……はむ……少しはわかるのだな」

「食べながら言わなくていいです」

 ヒミリクも黙った。ゆっくり味わいながら、レアチーズケーキを口に運んでいる。

「俺にはココカゼを守っていてほしい、ってことでしょうか」

「だろうね。それでチカヒミとの戦いが終わるなら、喜ばしいことだよ」

 ケーキを食べているヒミリクは答えない。代わりに会話の相手をするレフフスは、真剣な表情でそう答えた。チカヒミの脅威に晒されているのは、彼も同じなのだ。そしてそのココカゼの住民を守れるのは、心生みたる自分たちだけ。

「守りますよ。ココカゼの国は絶対に」扉の開く音がした。「大事な幼馴染みもいますからね。あいつが怪我するとは思えませんけど、怪我させたくないですから」

 開いた扉は川に面した扉。掃除を終えて戻ってきたシズスクを、ケーキを食べ終えたヒミリクが見る。続いてレフフスの視線も動いたことで、シララスも彼女の存在に気付いた。

 振り向いた先にいる幼馴染み。今日のカチューシャ飾りは苺のショートケーキ。視線はまっすぐに、幼馴染みの彼を見つめている。

「え? なに? 私が大事って、シララスもしかして」

「いや、この状況でレフフスさんの名前は出せないだろ」

「んー……半分は理解した」

 残りの半分は簡単にヒミリクが説明する。

「よって、シララスにはココカゼを守ってもらう」

 それは同時に、予想で会話していたシララスとレフフスに答えを伝えるものでもあった。

「大体理解した。私が怪我しないって言ったことを糾弾する」

「照れ隠しと思ってくれないのか?」

「本当に照れ隠しならやめてあげるけど」

「ごめんなさい」

 シララスは素直に謝った。思ったことをそのまま口にしただけで、断じて照れ隠しなどではない。それを自覚しつつ逃げようとしたが、やはり無理だった。

「でも残念だね、シララス」

「残念?」

 ヒミリクは今度は苺のショートケーキをマスターに注文していた。カチューシャ飾りを見て急に食べたくなったのか、元々食べる予定だったのか、とにかくもう一個は食べる時間はあるらしい。

「だって、これで戦いが終わったら、シララスは防衛戦を一回やるだけでしょ? せっかく戦い方を見つけたのに、残念じゃない?」

「俺は別に戦闘狂ってわけじゃないし、でも、できれば強き将ってやつとは一度戦ってみたかったな。作戦を考えると、ココカゼに攻めてくるのは一般将だろうし」

 こちらの作戦を相手に読まれていない限りは、という条件が付くが、ヒミリク、カザミ、シァリの共同作戦。多少読まれるくらいは想定の内で、作戦を立てているのだろう。詳しい作戦は教えてもらえなかったが、自分の役目さえわかればそれを果たせばいい。

「一般将かあ。ねえ、もしそこにシララスお気に入りの、可愛いルーンカちゃんがいたらどうする?」

「何か余計な装飾がついてる気がする」

「えー、でも可愛いとは言ったでしょ」

「それに、師匠より年上なんだから、『ちゃん』もどうかと思う」

「……ヒミリクちゃんはどう思いますか?」

 そっちを変えてきた!

 幼馴染みの行動にシララスは意表を突かれながらも、苺のショートケーキに夢中な師匠に聞いても無駄だろうと安堵する。だが、ヒミリクはフォークを止めて、すぐに答えた。

「そうだな……駆け落ちでもされると少し困ってしまうが、ああ、一時的にでもこちらに引き入れるのであれば、問題はないか」

「ちょ、師匠まで何言ってるんですか。俺は別に……」

「クゥラちゃんとも仲良しだよね。ほら、前に格闘を教えてあげたときもさ、隣の席で並んで美味しそうにケーキを食べてたもん」

「ふむ。そんなこともあったな」

 それだけ言って、ヒミリクは苺のショートケーキを口に運んだ。一人減ったとはいえ、厄介なのは最初からいるもう一人の方である。

「師匠とも並んで座ってるし、ここのケーキは美味しい。それだけだ」

「うん。私もそれだけのつもりで言ったけど、シララスはどう勘違いしたの?」

「……嘘つきの幼馴染みには教えない」

 少しの間を置いて、シララスは反撃する。

「むー、冗談のわからない幼馴染みなんて嫌い」

 ふくれるシズスク。

「だったらわかりにくい冗談はやめてくれ」

「やだ」

 ふくれた顔を戻しての即答。微かな笑みを浮かべての即答である。

 そんな幼馴染み同士のやりとりを、苺ショートを食べながら眺めて聞いていたヒミリク。食べ終えたケーキの皿にフォークを置き、ナプキンで丁寧に口を拭いてから口を開いた。

「私には二人が一番仲良く見えるぞ。まあ、ともかく守りは任せた。シララス、ココカゼをしっかり守ってくれ。私は一度カカミに赴き、作戦の準備を進める」

「あ、はい」

「はーい。守ってもらいます!」

 笑いかけるシズスクに、シララスは苦笑しつつも大きく頷く。

「相手が誰であろうと、負ける気はないさ。師匠が戻る場所は、必ず守りますよ」

「頼もしいことだが、深追いはするな。あくまでも、守りが全てだ」

 笑顔で答えながら、最後の忠告をしたヒミリクに、シララスも笑顔で答える。

「はい。師匠こそ、無事を祈っています」

 ヒミリクは小さく頷いてから、道に面した扉から外へ出て行った。

 川澄に残ったシララスは、ココカゼ全域と、その周囲を覆うように薄い心域を広げる。飛行都市国家十都市分、カカミまで三分の二の広さを全方位に。守るべきはココカゼだが、奇襲に備えての広範囲索敵である。この日のために学んだ、師匠の教え通りに彼は守りを固めた。

 飛行都市国家カカミ。カカミ神社の前に、ココカゼの心生みヒミリク、カカミの神代りカザミ、マコミズの真者シァリが集っていた。

「できることなら、わたくしも一緒に行きたいのですが……あいにく、カカミには国を任せられる神代りは他にいないのです。彼らにカカミまで守ってもらうのも、さすがに負担が大きいですからね」

 一通りの作戦を伝えて、三人で検討をしてから、カザミは小さく肩をすくめてみせた。後ろ手に片手で組んだ腕には力がなく、下ろされた右腕の先が微かに揺れる。

「二国を守る防衛戦となると、さすがに我が妹でも厳しいだろう」

「協力するにも、カカミとマコミズの距離が問題になる。私もカザミがいてくれた方が安心できるが、チカヒミを攻め落としても、同時にこちらも攻め落とされては意味がないからな」

 そうなれば交渉の末、どちらも落とした飛行都市国家を返して、再び戦いが始まるだけ。そしてもしチカヒミより先にこちらが攻め落とされれば、戦いが終わってしまう。ココカゼ、カカミ、マコミズの敗北という、こちらの望まぬ形で。

 それを避けるために、作戦は守りを固めるのを第一に検討された。仮に今回の戦いで決着は付けられなくとも、負けさえしなければ戦いは続く。戦況によっては、今後の戦いを有利に進めることもできるだろう。

「では、時間まで」

 作戦の決行は今夜。その頃にはチカヒミの情報網にも、ヒミリク、シァリの両名が国を離れているという情報が伝わるだろう。そこからの動きを完璧に予測するのは困難だが、既に攻勢を見せているチカヒミが、この状況を利用しようと思わないはずがない。

 そのための動きを見せ始めたところを、こちらから動いて先に叩く。すると当然、チカヒミの優先攻撃目標はカカミにいる三人となるわけだが……。

「了解した」

「了解だ」

 ヒミリクとシァリが同時に答える。そこからが、今回の作戦の肝心要。そしてそこで力を見せなくてはならないのは、答えた二人ではなく――カカミを守るカザミである。

 日が暮れて、もうすぐ空は夜の帳に包まれる。

 空に広げた心域に、ヒミリクは心兵を率いて構えていた。何もない空に浮かぶように、そのときが来るのを黙って待ち続ける。

 上空に広げた真域に、シァリは真兵を率いて構えていた。何もない空を飛ぶように、独特な真兵をいつでも生み出せるように万端の構えで。

 地上に広げた神域に、カザミは神兵を率いて構えていた。飛行都市国家の端に立ち、見えずとも感じる空間に立つ二人を遠く眺めながら。

 索敵用に大きく広げた神域で、チカヒミの将の動きはある程度把握している。チカヒミ全域まで広げるのはあまりにも負担が大きく、またあちらに干渉されて偵察用の神兵など簡単に迎撃されてしまう。だから全ての動きはわからないが、将の動きが見えればそれで十分だ。

 どんな攻めを考えているのかはわからない。だが、早ければ明日の早朝、遅くとも数日後にはチカヒミは動く。ヒミリクとシァリがカカミにいる時間が長ければ長いほど、その隙を突こうとする作戦の準備時間も長くなるのだ。

 しかしその前に、こちらが先に動く。予定通り、作戦通りに。

 まず動いたのは、ヒミリクとシァリ。雲に潜るように低空に広げた心域を、ヒミリクは心兵の背に乗って駆けていく。硬き地の足で地面を蹴り、駆ける姿は疾風。月を目指すように天高く広げた真域を、シァリは真兵の背に乗って飛んでいく。流れる水の翼で風を流し、飛ぶ様は燃え広がる烈火。

 二人に続くように動いたカザミは、まっすぐにチカヒミへ向けて神域を広げる。神兵が戦えるだけの、偵察ではなく戦闘を目的とした神域。精鋭の神兵とともに、自らの足で速度を抑えて前進していく。

 カカミからチカヒミまでの距離は長い。心橋を使えば話は別だが、心域での移動にはそれなりの時間がかかる。この動きはチカヒミにも察知されているだろうが、あちらもこの距離ではすぐには動かないだろう。それこそが、カザミの狙いであるとは知らずに。

 最初はヒミリクとシァリが先行していたが、二人は大きく迂回してチカヒミの者が広げているシンイキを目指す。ヒミリクは右から、シァリは左から。カザミだけはまっすぐに、迂回することなく同じシンイキを目指し、次第に先頭は入れ替わった。

 ほんの僅かに突出したカザミの歩行速度は変わらない。他の二人が時間をかけているだけ。

「ふふ、予想通りに動いてくれましたね」

 遠くチカヒミの将が動いたのを察知する。カザミの正面、数は二人――おそらく一般将。残りのチカヒミの将は動かず、迂回して攻めてくるヒミリクとシァリに備えている。

「……もう少し、引きつけるとしましょう」

 精鋭の神兵を前に出し、カザミは向かってくる一般将に対して構える。奇襲に備えて動かない将と、ヒミリクやシァリがぶつかるまでしばしの時間。

 カザミの正面に現れたシンペイと、チカヒミの一般将が一人。もう一人もすぐ後ろについてきているが、二人の後続はない。二人の将とシンペイに向けて、カザミは微笑んだ。そして、盛大に戦いの始まりを告げる魔法を放つ。

 混ざった神域とシンイキ。空に浮かんだ空間の、地を這うように雷が走る。走った雷はシンペイとチカヒミの一般将の足元を駆け抜け、轟雷となって炸裂する。

「さあ、祝砲です! わたくしの勝利を、みなさんに!」

 炸裂した雷を回避したシンペイと、地を這う雷の届かない後方にいた一般将。彼らの頭上で巨大な氷の塊が大きな音を立てて砕け、鋭く尖った氷の雨が彼らを襲う。

 カザミの魔法の前に、あっという間に壊滅したチカヒミの将たち。将が倒れても、姿が消えても、残ったシンペイが数体いたので、それに向けてカザミは声を届ける。

「わたくしを倒すなら、二人では足りませんよ? 無駄にシンペイを失う前に、もっと数を増やすといいでしょう。全部――倒されるだけですが」

 満面の笑みで、シンペイを通じて知覚するチカヒミの将に向けて。

 見え見えの挑発。――それに、チカヒミの将は乗った。

「……十、いえ、十五――二十ですか。随分と……、でも、凌ぐだけなら問題ないでしょう」

 カザミが呟く。チカヒミの将には聞こえないように、しかし聞かれてもいいように。

 偵察用の神兵を引かせつつ、カザミはチカヒミとカカミの中間で待つ。茂る林の中に降り積もる淡雪。戦う場所を定めたことで、戦うための地形が神域に広がっていく。挑発したカザミにも、二十人を相手に平地で戦うつもりはなかった。

 これを見て警戒をされた場合は困ることになるが、敵にその様子はない。

「作戦は成功ですね。――ここまでは」

 今度の呟きは林の中で。淡雪に消えるような小さな声で、カザミは不敵に微笑んだ。

 大きく迂回してチカヒミを目指したヒミリクがチカヒミの将と出くわしたのは、カザミが祝砲を響かせてから数十分が経過した頃だった。作戦通りなら、今頃カザミは多くの一般将を相手に戦いを繰り広げていることだろう。

 対峙するチカヒミの将は一人。守りを固める一般将か、あるいは……。

「ふむ……厄介なものだな」

 一般将も強き将も、チカヒミの将の姿は同じ。長いコートに目深に被ったフード。体格や容姿からは区別がつかず、戦ってみるまでわからない。

「君は強き将か? それとも一般将か?」

 それでも試しにヒミリクは尋ねてみる。これで答えが返ってくるなら、楽でいい。

「……さあ? そのような呼び方は、こちらにはありません」

 男の声だった。若い、少年といってもいいが、声変わりはしているであろう声。返ってきた答えにヒミリクは驚きつつ、顔に浮かべたのは笑顔だった。

「意味は理解できるだろう?」

 改めて尋ねる。今度は明確に、答えを期待して。

「そういう意味でしたら、強き将と言えるかもしれません」

 答えは返ってきた。ヒミリクもチカヒミの将も、心兵は動かさずに会話を続ける。

「そうか。私はこれから君を倒して突破させてもらう。その前に、顔の一つでも見せてはくれないか?」

「それに相応しい力があるのでしたら。それと……私も一人で相手をする気はありません」

「ああ。承知の上だ」

 一般将と思しきチカヒミの将が、シンペイを率いて強き将と合流していた。ほんの短い会話の間に、けれどもヒミリクは驚かない。これくらいできなくては、数多くの将を有する意味がないのだから。守りを固めるとはそういうことだ。

 戦っている最中に横から合流されるより、戦う前に合流してもらった方が、ヒミリクとしても戦いやすい。特に一方が強き将であるなら、挟み撃ちは非常に危険な戦いだ。

 一つ気になるのは、強き将が会話に応じたこと。ヒミリクの能力を警戒し、合流の時間を稼ぐために応じたのか、あるいは別の理由があるのか。だがそれも全て、ここで勝利すればわかることだ。

「正面から突破させてもらおう」

「できるものなら」

 強き将は後ろに下がり、合流した二人の一般将が前に出る。同時に彼らのシンペイも合流するが、その中には強き将のシンペイも混じっていた。二百のシンペイの中に、二十体。数は多くはないが、確かに増えている。

 長い戦いに備えて、ヒミリクが率いる心兵の数は千体に及ぶ。その中から、彼女が戦いに出したのは二百二十。チカヒミの将たちが揃えたシンペイと同じ数だった。

 策を巡らす必要もなく、最初から正面からの戦いができる状況。ならば正面から、同じ数の心兵で勝利する。それがヒミリクの戦い方であり、また同時に相手の動きを探るための意味もあった。

 前進させた心兵は、チカヒミの一般将が動かすシンペイを余裕をもって倒していく。問題はそこに混じった強き将のシンペイであり、一対一であれば能力はほぼ同等。

 だが、混ざっているのが非常に厄介であった。見た目は同じで、強さの違うシンペイが紛れている。そうなると一般将のシンペイと強き将のシンペイの数によって、その場所を突破できる時間が変わってくる。ゆえに、戦力は分散させにくい。

 さらに、強き将の指揮は正確で、一般将のシンペイが倒されないように、守ることに集中させている。防衛戦であれば当然の、戦いを長引かせる戦い方。

 しかし、混じった強き将のシンペイはたかが二十。この戦いにおいて、ヒミリクの勝利は揺るがない。問題は、こういう戦いが続けばカザミに危険が及ぶかもしれないということだ。

「ここは任せました。一時撤退します」

 一般将に守りを任せ、後方に撤退を始めた強き将。逃げた先にはまた他の一般将がいて、合流して再び守りを固めるのだろう。

「やはり、そう動くか。では、蹴散らすとしよう」

 ヒミリクは控えさせていた心兵から百を動かし、残った一般将のシンペイを薙ぎ払うように倒していく。追撃戦は速度が重要、動きを探るのはもう十分だ。

「……順調だな。これならおそらく……」

 ここまでは全て、カザミの立てた作戦通りに動いている。だからといって、ヒミリクは油断しない。多くの一般将を引きつけ耐えるカザミの苦戦を心配するわけではないが、作戦が最後まで全て上手くいくと、この段階で安心してはいけない。

 追いかけた先で、再びヒミリクの心兵とチカヒミの将のシンペイがぶつかる。水が飛沫となり、火の粉が散り、風が吹いて、地が揺れる。心兵同士の激しい戦いが始まった。

「我が名はシァリィグラーゼ! チカヒミの将よ、名乗らぬなら一気に殲滅させてもらう!」

 うねる火の鞭を片手に、前線を駆けるシァリはチカヒミの一般将を薙ぎ払っていく。戦いが始まって三十分強、万が一の際に放つこととされている心兵の姿も、神兵の姿も見えない。こちらと同様、彼女たちも順調ということだ。

 シァリは背中に向けて、水の盾を生み出して背後を狙うシンペイの攻撃を防ぎ、そのまま盾を破裂させてシンペイを撃破する。その勢いを利用して、前方に突進。

 纏った風の布でシンペイの攻撃をかわしつつ、火の鞭をしならせて一般将の周囲を固めるシンペイを吹き飛ばす。

 将が倒れて消える姿を確認もせず、シァリはさらに駆け続ける。チカヒミの一般将は数が多く、それもばらばらに配置されている。一人一人を相手にできたのは最初だけ。チカヒミのシンイキを進むにつれて、チカヒミの将は横や後ろからも襲いかかってきた。

 戦力を最初から集中せず、引き込んでからの全包囲からの襲撃。多くの将を活かした戦法であるが、一般将の力ではシァリの動きは止められない。が、遅らせることはできる。

 左右から同時に襲いかかってきたシンペイを、シァリは瞬時に生み出した地の肩鎧で受け止める。硬き鎧に受け止められ、動きを止めたシンペイに、シァリの指揮する真兵の水の拳が襲いかかる。

 水飛沫を浴びながらシァリは歩みを止めず、浴びた水飛沫を二本の水の剣に変えて、後方は真兵が放つ火柱を遮る壁とする。

「戦況は我らの有利、だが退く素振りは見えぬか……」

 作戦通りに戦況は推移している。このまま、戦いが続けば勝利も遠くない。劣勢のチカヒミもこのままでは負けるとわかっているはずだ。あるいは、そう考えさせること自体がチカヒミの作戦なのか。優勢に手を緩めれば、大逆転を狙う一手が用意してあるのかもしれない。

 だが自分にできるのは、全力で戦うことだけ。罠が仕掛けられていようと、構わず突き進めばいい。それが作戦であり、チカヒミの将を倒さねば勝利は訪れないのだから。

 前の戦いと違い、ココカゼ、カカミ、マコミズの守りは万全。彼も自分の力を全て、攻めることだけに使うことができる。そしてそれは、彼の力を最も高く引き出せる状況であった。

 リバーサイドカフェ川澄。シララスはいつでも戦える状態で待機しながら、未だ現れないチカヒミの将を無言で待っていた。

 マコミズの城。クゥラは多くの真兵を城内外に配置して、どこからチカヒミの将が現れても困らないように警戒を続けていた。

 カカミ周辺の神域。カザミは難なく二十人の一般将を全て倒してから、チカヒミの次の動きを注意深く見守っていた。

 彼ら三人の前にチカヒミの将が現れないということは、それだけヒミリクとシァリの進攻が成功しているということ。チカヒミも防衛に将を集中させて、彼らの方に将を回す余裕はないのかもしれない。

 せっかくの機会に、戦うことがないまま全てが終わってしまうかもしれない。せめて一般将の一人くらいとは戦ってみたいと思うシララスだったが、残念に思うのも笑い話にするのも、全ては戦いが終わってからだ。この油断を、敵は待っているのかもしれないのだから。

 クゥラも、カザミも、決して油断はしない。自分たちの役目は守り。攻めている二人が決着を付けるまで、その役目を果たすのみ。誰一人油断なく戦えば、きっと勝てると信じて。

「さすがですね。未だ疲弊する様子を見せませんか」

 チカヒミの強き将がヒミリクに言葉を投げかける。彼から声をかけたのは初めてで、ヒミリクは躊躇することなく応じる。

「当然だ。そろそろ、君も本気で戦ってはどうだ?」

 二人の周囲に他の将はいない。あるのはいくつかの雪山だけ。地には芳しい花が咲き、柔らかい雪が花を飾る。それだけチカヒミの奥まで進攻したという証拠だ。

 ヒミリクの心兵は半分の五百程度まで数を減らしてはいるが、対峙するチカヒミの強き将のシンペイはそれより遥かに少ない五十体。一般将のシンペイに紛れ込ませて消耗を抑えていたとはいえ、元々用意していた数が違うのだ。

「……そうですね。ここまで来れば、もういいでしょう」

 強き将は目深に被っていたフードをめくる。おもむろに、見せつけるように。

 ショートストレート、リーフブラウンの髪。現れた顔は少年の顔。若い声に相応しい、若い男の顔。彼は慇懃に深く礼をして、顔を上げるとともに名乗った。

「ユテドヨピヒと申します。ユーヒとお呼び下さい、ヒノミアリアクス様」

 名乗った強き将――ユーヒに、ヒミリクは少しの間を置いて答える。

「それなら、私もヒミリクで構わない。そうだ、ついでに……」

 言葉の途中で、ユーヒは微笑を浮かべた。と同時に、ヒミリクの背後から突如チカヒミの将が現れる。数は十。それもシンペイを多く率いて、戦う準備は万全だ。

「……ふ」

 彼の真似をするように、ヒミリクも微笑んだ。

 ユーヒは怪訝な表情を浮かべる。そしてその顔は、すぐに驚きの色に染まった。伏兵の出現を予見していたかのように、ヒミリクは的確に心兵を操り、現れたチカヒミの将を――将だけを狙って一斉に動かしていた。

「ついでに、彼らの名前も教えてもらえないか?」

 その質問にユーヒが答えるより早く、ヒミリクは現れたチカヒミの一般将を八人も倒していた。残った二人の一般将は健在で、シンペイを操り応戦しているが、指揮能力と数の差を覆す力はなかった。

「……やり、ますね」

 ユーヒは驚きを隠せない。隠さなかった。ここで無駄な虚勢を張ったところで、狙いが読まれていた事実は変えられないのだ。

「雪山に隠し、さらに魔法で隠し、気配も消す――見事な作戦だが、私が気付かないと思っていたのか? こういう罠にかけては、とても上手な者が身近にいるのでな」

「カザミナシロ様、ですか。これは、少々分が悪いですね」

 ユーヒは全てのシンペイをヒミリクに向けて、自身は後退を始める。一般将を倒すために分散した心兵を、一点突破で着実に撃破し数を減らしていく。

「少々、で済む状況ではないさ。ここまで来れば、もうそろそろだろう」

 笑顔を見せたヒミリクの視線の先、シンペイに応戦するだけで追ってこない彼女が見ていたものに、ユーヒも視線を向ける。そして、気付いた。

 彼が後退しようとしていた方向の左前方、ずっと遠くで、戦いが起こっている。その戦いの相手が誰であるのか、考える時間は要らなかった。

「マコミズの真者――シァリィグラーゼ様のご到着、ですか」

 呟きは風に乗って、ヒミリクの耳にも届く。届けられた呟きに、僅かだが嬉しそうな色が混じっていたのを彼女は不思議に思った。

「嬉しそうだな? 君はもしや、戦闘狂というやつなのか?」

 無理に追いかけずとも、シァリと合流すれば勝利は確実。挟撃を狙うには逃げ場が多く難しいが、ユーヒに二人から逃げ切る圧倒的速度があるわけでもない。

 だから尋ねる。尋ねる時間は十分にあったから。そう、時間はまだ、残されていた。

「いいえ、違いますよ。ただ、そうですね……伏兵はまだ、終わりではないだけです」

「……ふむ。確かに、そのようだが」

 ヒミリクからは右前方にある、雪山の上にチカヒミの将が一人立っていた。フードを目深に被り、長いコートに身を包んだ、一人の将。ヒミリクとユーヒの視線がシァリに向いていた間に、その将は雪山の裏から現れていた。

 しかしここは心域。ヒミリク本人の視線が向いていなくとも、心兵の知覚ですぐに気付くことができる。

「シンペイも率いず、たった一人の……」

 シァリが到着するまではまだ少しかかる。その間に、再び尋ねようとしたヒミリクの言葉は、途中で止まる。開いたままの口を閉じて、真剣に見つめる視線の先。

「そう、一人です。ですが……」

 ユーヒの言葉は聞き流す。雪山の上に立っていたチカヒミの将。彼、あるいは彼女の周囲には、瞬時に数百のシンペイが生み出されていた。そしてその姿に、ヒミリクは言葉を失う。

「一般将などでは、ありませんよ? そもそも……」

「……そういうことか。シァリ、ここからが本番のようだ」

 最後の声を風に乗せて、ヒミリクは現れたシンペイ――目深に被ったフード、身を包む長いコート――チカヒミの一般将の姿をした、数百のシンペイを目に焼き付けた。

「チカヒミにいるのは強き将が二人。ただそれだけです」

 風に乗った声を耳にしたシァリも、気を引き締めて一般将を――一般将と思っていた一体のシンペイを蹴散らしていく。将が倒れてもなお、周囲のシンペイは倒れない。それこそが、真実の証明であった。

 ヒミリクはまた、雪山の上を見る。現れたシンペイの中心、フードを目深に被ったその顔を見るために。その視線に気付いたのか、立っていた強き将はフードをめくる。

「……可愛らしい少女だな。シララスがいたら驚くだろう」

 ショートのさらさら流れるような、アクアホワイトの髪。

「我が妹が見ても、動揺していたかもしれん」

 迅速にシンペイを撃破し、合流したシァリが言葉を繋ぐ。

「初めまして」

 少女は一言、雪山から見下ろす二人に声をかけた。優しく、柔らかな微笑みと一緒に。そして、もう一人の少年――ユーヒには視線で合図を送る。

「ここまで話したということは、おわかりですね? この戦いは、私たちの勝利です。ヒノミアリアクス様、シァリィグラーゼ様――降伏して下さい」

 ヒミリクとシァリは顔を見合わせる。それから、戦わずに降伏を勧告してきた将を見る。

「ユーヒと言ったな。私は君に負けるとは思えないのだが……」

 代表して口を開いたヒミリクに、ユーヒは大きく頷いてみせた。

「そうかもしれません。ですが、ルーミャンピカ様の前に、あなたたちは勝てない。大きな失敗をした作戦の中、どこまで戦えるというのですか?」

 これに答えたのは、シァリだった。

「我らを甘く見ないことだ」

「……ん」

 それに答えるような、ルーンカの呟き。直後、降り注いだ氷の岩にシァリは意表を突かれる。咄嗟に生み出した燃え盛る火炎の大剣で薙ぎ払ったものの、続いたのは水に流されて襲ってくる彼女のシンペイ。

 気付いたヒミリクが救援に心兵を向かわせようとするが、そちらにもルーンカはシンペイを動かしていた。雪の中を潜らせて、現れたシンペイはヒミリクよりも小さなシンペイ。それでも、戦うための力は強く込められている。ちょうど、コートを脱いだチカヒミの一般将――を装っていたものであったが――と同じくらいの身長だ。

 シァリの真兵を足止めするのは、ユーヒの操るシンペイ。彼自身の力は、彼も認めるようにルーンカに劣る。だが、サポートをするだけなら十分な強さでもある。

 話している間にも、ルーンカは戦いの準備を着実に進めていた。それも一瞬で勝負を決めるような、大胆で緻密な作戦。

 正面から戦えば勝てる――ヒミリクはそう考えていた。追い詰めれば、あとは正面から戦うしかない。多少の策略なら、見破ればい。

 多少の劣勢であっても、自らが戦線を切り開けばいい――シァリはそう考えていた。強き将さえ倒せば、どれだけ多くのシンペイがいても勝負は決する。

 だが、合流した時点で既に勝負は決していたのだ。作戦の失敗……それが意味するのは、残した戦力の大いなる不足。強き将が二人いる。そんな想定は、作戦を立てたカザミも、作戦通りに動いていた五人の誰もが、想定していなかった。

 たった一つの、致命的な失敗。その失敗がもたらした結果は――大敗。

 此度のチカヒミとの戦いは、チカヒミの勝利で終わった。


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