緋色の茜と金のオルハ

五 北の森に住む魔女


 この日は雨だった。魂流図書美術博物館に全体としての休館日はなく、広場は常に開放されている。とはいえ広場は空の下。さすがに浴衣たちも、雨の中では広場に集まらない。五葉カフェには昨日も行った。学生に優しいリーズナブルなカフェでも、毎日は財布が辛い。

 というわけで、今日は各々が別行動をとっていた。茜は美術館や博物館を鑑賞し、オルハは彼女が変な動きをしないか、同じく鑑賞しながら監視する。浴衣は一人、雨の中を歩いて外の展示物を鑑賞していた。

 降るのは激しい雨ではなく、適度な雨は見慣れた展示物に変化を与えてくれる。雨の中でしか見られない姿を鑑賞するのに、最適な条件が整う日はとても少ない。

 館の外周を巡るように配置された展示物を順番に、ゆっくりと眺めていく。図書美術博物館が完成してから十五年、普段も人はそう多くないが、雨の日はもっと少ない。それだけに、一人でゆっくり鑑賞していても邪魔はない。

 いくつかの展示物を見たところで、浴衣は一人の人物に遭遇した。彼と同じく傘を差して、雨の日の展示物を眺めている様子。だが、浴衣が彼女を視界の端に捉えてから、彼女は一度も同じ展示物の前から動いていなかった。

 その展示物がよほど気に入ったのか、それにしてもほとんど方向を変えずに同じような場所から鑑賞している。浴衣には少々不思議に思えたが、鑑賞の仕方に決まりはない。

 浴衣が傍まで近付くと、その少女は緩やかに彼へ視線を向けた。傘に隠れてはっきり見えなかった、ロングストレートの美しい少女の顔が浴衣の目にはっきりと映る。

 身長差はほとんどないが、少女の方が僅かに高い。浴衣は直感的に年上らしいことを理解して、また同時に不思議な感覚を覚えた。

「こんにちは」

 浴衣が挨拶する。雨の中、この距離で目が合ったのだ。無言でも礼くらいはするし、もっと踏み込んで挨拶をしてもいい。

「雨降る中で、奇特な少年よの」

(よの?)

 想像もしていなかった少女の反応に、浴衣はほんの少し驚いた表情をみせる。しかし、それよりも凄いことが最近二つも起きていたので、このくらいは慣れてしまった。

「もっとも、それは私も同じよな。この出会いも運命の導きにありて、しかし結ばれる運命にはあらず。それも当然よの、湯木原浴衣よ」

 優しく柔らかな笑みで、少女は浴衣を見つめていた。

「あなたは? なんで俺の名前を?」

 浴衣は驚きながらも、冷静に尋ねる。名前を知っていたのは驚きだったが、未来からやってきた茜や、異銀河人だったオルハに比べれば小さなことだ。

「まがりまい。馬を狩る、魔の衣――それが私の名よの」

「馬狩?」

「うむ。馬狩魔衣よな。雨音で聞こえなかったかの」

 独特な話し方で惑わされそうになるが、二度も聞けば聞き間違いでないと確信できる。

 馬狩といえば、同じ苗字を持っていた人間を一人だけ知っている。父と母の馴れ初めを聞いた際に出てきた、母の旧姓と全く同じ苗字だった。

「ほほう……聞き覚えがあるかの?」

「そりゃもちろん。偶然じゃないよな?」

 名前を知っていることからも、確信を持って浴衣は尋ねた。

 魔衣は大きく頷いて、言う。

「運命よの。初めまして、弟よ。私が姉だ」

 今度はさすがに浴衣も驚いて、言葉を失う。その反応は予想していたうちで、魔衣は笑顔で少し待って、まだ硬直していることに気付くと彼女から続けた。

「私の弟は十五歳と聞いている。間違いないよの」

「ああ」

 浴衣は生返事。いきなりの姉宣言に、まだ思考が追いつかない。

「私は十六歳だ。姉と弟、問題はなかろうの」

「うん。いや、でも証拠には」

「ほう?」

「父さんや母さんに隠し子がいた、ってことになるのか?」

「ならぬの。姉とは言ったが、正確に表現するなら異母姉弟よの。浴衣の母君には妹がいることは知っておろう? それが私の母君、馬狩魔理だ」

「初耳だ」

「うむ?」

 魔衣はほんの少し笑顔を薄めて、首を傾げる。この答えは彼女にとってやや予想外であった。

「両親が駆け落ちした、ということは知っておろうな?」

「何度も聞いた」

 子供の頃に俺からしつこく尋ねて、とまでは伝えない。今は不要な情報だ。

「魔女の話は聞いておらぬか?」

「全く」

「そうかの。そうよな……少し私の目を見てもらえぬか?」

「目を?」

 言われたままに浴衣は、姉を名乗る魔衣の目を見つめる。

「昨日、オナニーはしたかの?」

(いきなり何を!)

「今は色々あって、してない」

(って、答えた!)

 無意識に口から出てしまった答えに、浴衣は驚きの表情を浮かべる。

「今のが魔法よの。さて、私たちの父は旅先で出会った、ということは聞いておろうな」

「え? ああ、うん」

 今度は無意識に何かが出てくることなく、浴衣は安心して答える。

「そこで母さんと出会って、恋をして、駆け落ちしたって」

「うむ。その恋なのだが、湯木原油水――私たちの父君は、姉妹二人と恋をして子作りをしたよの。しかし馬狩の家は、北の森に住む魔女の一家。無闇に血を広めぬため、隠れ住んでおったのだ。結果、浴衣を身に宿した魔姫は油水と駆け落ちして普通の人間として暮らし、私を身に宿した魔理は一家に残ることとなった。けれどそれは、悲しい結末にあらず。全ての事情は聞いておらぬが、こうして姉と弟が出会えたもその証拠であろう」

「そんなことが……」

「ほう、もう信じるよの?」

「ああ。おかげで納得したことも一つある」

 未来からやってきた茜に全く驚かなかった母の態度。それも今聞いた事情があったからだとすれば、とても自然な反応に思えた。

「では、お姉様大好きと愛の言葉を告げるのを許そうぞ」

「いきなりそれは」

 生き別れたわけでもなく、生まれる前に別れた姉。大好きまでの感情は早すぎる。

「姉さん……と呼ぶくらいなら」

「名前で構わぬぞ。魔衣さんと呼ぶがよかろう。呼んでくれ」

「魔衣さん」

 姉と言われても実感がない。この呼び方の方が気楽でいいと、浴衣はすぐに呼んだ。呼ばれた魔衣は満面の笑みで頷き、浴衣に背を向けて歩き出した。雨の中、傘をくるくる回している様子から嬉しさが伝わってくる。

「北の森って? 今はどこに?」

 浴衣はゆっくり姉を追いかけて、質問する。展示物の並ぶ一本道。魔衣が去った方向は浴衣の進行方向だ。

「おっと、忘れていたよの」

 魔衣は足を止めて、上半身だけ振り返って弟に答える。

「私は今、握清神社で巫女魔法の修行をしておる。北の森は、北の森よの。日本の北のどこかよな」

「うん、覚えたよ」

 そのまま今度こそ去っていくのかと思いきや、また何かを思い出した魔衣は全身で振り返った。今度は彼女から質問する。

「浴衣はこの街の七不思議を知っておろうな。私は修行の一環で調べていて、図書美術博物館を訪れたよの。広場にある彫像の下に秘密基地がある……知らぬかや?」

 浴衣は曖昧に頷いて答えた。七不思議の噂は確かに知っているが、詳しい内容はよく知らないし、七不思議のいくつかを聞いたことがあるくらいだった。

「そうかの。では、また会おうぞ弟や」

 再び魔衣が背を向け歩き出すと、彼女の姿は雨霧に霞むように消えてしまった。今のも魔女の魔法なのだろうかと思いながら、浴衣は展示物の鑑賞を再開する。

 その日、帰宅して今日の出来事を母に話したところ、北の森に住む魔女の一家や、姉の存在に馴れ初めの真実……全てを魔姫は笑って認めた。

「なんで秘密に?」

 隠していた理由も浴衣が尋ねると、

「話しても、男の子の浴衣に魔法は使えないから。がっかりするかなー、と思ったの」

 返ってきたのはそんな軽い答えだった。


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