すいすずユズリ

八話 小さな風の囁き


公園に吹く風

 その日の放課後、私は妹たちと別れて一人で帰宅していた。片手には小さな買い物袋を持って、真っ直ぐに家への道を歩く。中には駅前の電器店で買った電池と電球が入っている。今朝、出かける前にユズリに頼まれたものだ。時刻は夕方。暗くなるにはまだ早いとはいえ、結構な遠回りになるので妹たちは先に帰した。

 途中にある小さな公園を横切れば、もうすぐ神社の鳥居が見えてくる。小高い丘とジャングルジム。砂場にブランコ、それにいくつかのベンチがあるだけの簡素な公園。家から遠いわけではないが、私たちにとっては神社の境内が遊び場だったので、遊ぶために訪れたことは一度もない。しかし、ちょうど駅前と神社の間にあるので、こうして横切るのは何度も経験している。

 この時間、子供の姿は見えない。学校の近くにあるわけでもないのだし、近くに住宅街があるわけでもないから、いつものことだ。

 中央にある小高い丘を迂回しようとしたところで、強い風が吹いた。私は思わず目をつむり、風が止むのを待つ。突風が過ぎ去った小高い丘をふと見上げると、てっぺんに一人の子供が立っていた。

 突然現れたその子供に対して、驚きはしない。遠目に見るその子の身長は百四十センチ程度。丘の裏にいたら気付かなくて当然だ。

 パーカーに短パンという元気な男の子といった組み合わせだが、パーカーには可愛らしい猫の絵柄が描かれていて、短パンもファッショナブルな印象を与えるもの。間違いなく男の子だ、と断定できるようなものではない。

 髪は流れるようなセミロング。顔立ちも中性的で、可愛いとも格好いいとも表現できるようなものだった。

 その子は、見上げる私をじっと見つめ返していた。だから私も無視してさっさと帰ることはできず、彼または彼女に視線を向け続けていた。その子の纏う雰囲気に何かを感じたのもあるのかもしれない。

 少しすると、その子は悪戯っぽい笑みを浮かべて、丘の上から私に声をかけてきた。

「こんにちは。そんなにボクを見つめても、何も出ないよ?」

「わかっているさ。それより、君は?」

「……ふむ。そうだね、試してみるかい?」

 その子は丘を駆け下りてきて、一瞬のうちに私の前に立った。風のように速く、下り坂だから速いといった程度ではない。それを見て、私は確信する。

「君は」

「はい。どうぞ、っと」

 私が口を開くのと同じくして、すっと私の手を握って、自らの胸に優しく押しつける彼女。鈴と同じくらいのとても小さな膨らみの感触が、私の手にはっきりと伝わってきた。

「どう? これでわかったでしょ?」

「ああ。君は若き神、なんだろう?」

 別に触らなくてもわかったのだが、面倒なので言わないでおく。彼女は僅かに目を見開いて、微笑んでみせた。それはそうと、誰かに見られたら困るので、そろそろ手を離してほしい。

 もっとも、触ったことで補強されたのは事実。和神町に生まれる若き神は、特にはっきりとは明言されていないが、全て女神であると推測されている。

「予想外だね。……どうしよっかな」

「そうだな。まずは手を離してくれないか」

「了解。ボクは構わないんだけどね」

 ようやく手を話してくれた若き神に、私は尋ねる。

「君の名を教えてくれないか? 私は湖守礼人。名乗るまでもないと思うが、一応、礼儀として」

 目の前の若き神が、私のことを知らずに現れたとは思えなかった。目の前にいるのは、ユズリやヒサヤのように、降臨したばかりの若き神ではないのだから。

「ボクはホカゼ。若き風の神。この地に降臨したのは、一年くらい前になるかな?」

 若き風の神。先程の駆け下りる様子、そして現れたときの突風から何となく想像はついていたが、やはりそうだったか。

「それにしても、若き神だとわかるなんてね。神社の息子は伊達じゃない、という言葉じゃ説明がつかないけど……ま、ボクにとっては好都合かな」

「若き神の知り合いは二人ほどいるからな」

「そっか。二人、か。君も仲良くしてるみたいだね」

 本来、神は柱で数えるもの。その神を人と数えるのは、少なくともこの和神町の人にとっては、若き神との親しい証拠になる。神社に伝わるいくつかの文献にもそういう描写があったし、実際にユズリやヒサヤと出会って実感した経験もある。

「用件、聞いていいかな? 妹たちを待たせたくはない」

「おっと。すまないね、早速始めよう」

 若き風の神――ホカゼは肩をすくめて、一瞬だけ微笑んでみせてから、真面目な顔で用件を話し始めた。

若き風の神の支援

「といっても、どこから話したらいいか……若き神だと気付かれるのは想定外だったからね」

 ホカゼはそよ風で自らの髪をふわりと舞い上がらせながら、視線をさまよわせる。

「うん。じゃあ、真っ直ぐに白状しよう。ボクの降臨に出会ったのは、渡美々奈という、恋する女の子だった」

「美々奈が?」

「そう。ああ、でもあまり深く聞かれても答えられないよ? 君が毎晩、誰のことを考えて来るべき日への予行練習をしているのか話してくれるなら、考えるけど」

「先に進めてくれ」

 私に答える気があるかどうかはともかく、おそらくこの様子だとよほどの情報を渡さないと、詳しくは話してくれないのだろう。それとわかっていて、進んでリスクを背負うような馬鹿な真似はしない。

「一年くらい前だったかな。春に吹く一際強い風とともに、ボクはこの地に降り立った。場所もそう、ちょうどこの公園でね。ほら、そこに大きな木があるだろう?」

 ホカゼは視線を動かして、私の斜め後ろにある木を示す。神木よりは小さいが、確かに大きな木がそこにあった。

「ボクが降臨したのは夜でね。美々奈はその木の下に立っていたのさ。ぼんやりと北西の方を眺めて、じっと立っている女の子がね」

 北西といえば、ちょうど和神神社のあるところだ。

「なんでそんなところにいたのか、わかるかい?」

「……そうだな」

 私は少し考える。ここから神社までは十分ほどで、南西の高校や東の駅までも同じくらいという中間点にある。近所であれば立ち寄ることも考えられるが、部活の終わりに別れた彼女は、東の校門を抜けて右――南の方角に帰っていった。どこに家があるのかはわからないが、公園とは逆の方向であるのは間違いない。

「神社に行こうか迷っていた、か?」

 私は答える。その情報に、彼女の私への気持ちを足すと、その結論に達するのに時間はかからなかった。

「正解! 君は美々奈の家を知らないけど、美々奈は君の家を知っていた。ま、不思議なことではないだろうけど」

 高校で有名というわけではないが、和神神社の息子であることはクラスメイトには知られている。そして和神町の住人であれば、神社の場所を知っているのは当然。特に調べる必要もないから、敏感な妹たちに気取られることもなかったのだろう。

「といっても、毎日そこにいたわけじゃないから、それはちゃんと伝えておくよ。その日は必死に勇気を振り絞って、神社へ行こうとしていたそうだけど、当時の彼女にはここまでが限界だったみたいだ。ふふ、このあたりは詳しく聞いていないし、聞いていたとしても話すのはやめておくけどね」

 ホカゼは微笑を浮かべて、小さく肩をすくめてみせた。

「さて、ともかくだ。ボクはそこで美々奈と出会った。若き神と人との出会い。言い伝えでなくとも、実際の経験者である君には、その意味を説明する必要はないね?」

「ああ。だが、いいのか?」

「よくないね。でも、ボクが怒られるだけなら些細な問題さ」

 苦笑を浮かべつつも、自信満々な顔でホカゼは言った。

「彼女はボクにこう願ったのさ。『私に告白する勇気をください』、とね。そしてボクはその願いを叶えるために色々と手伝いをしたんだよ。神といっても、まだまだ若いボクらには、じゃあどうぞと『勇気』を与えるようなことはできないからね」

「ひとつ聞いていいかな?」

「答えられる範囲なら」

「その勇気を与える行為に、一年もかかったのか?」

 私の質問に、ホカゼは首を横に振る。

「いいや。それは一月くらいで済んだよ。一年かかったのは、彼女自身の問題さ。美々奈が願った言葉と、君に対する態度を考えれば、すぐにわかるんじゃないかな」

 美々奈の願いは、『告白する勇気を』得ること。そして実際に、彼女は先日、ラブレターという形で私に告白をした。しかし、未だに返事は求めて来ない。かといって、告白だけすればそれで満足といった感じでもなかった。

「返事をもらう勇気はない、ということか」

 そこまで考えれば、彼女の言う通りに結論はすぐに出た。

「そう。その通りだよ」

「となると、ホカゼ。君が今ここにいるのは、願いとは別ということか」

「うん。趣味みたいなものだね。短い期間で済む願いだったから、そんなに親しくはなっていないし、自由気ままに過ごしても問題はなかったんだけど……やっぱり、告白する有気を与えた彼女がどうなるのか、見届けたいと思ってね。

 ふふ、まあそれにしても、告白するまでにここまで時間がかかるとは思ってもいなかったけどね。それでもまだまだ始まったばかり。気まぐれな若き風の神として、願いを叶えたら自由に暮らそうと思っていたんだけど……残念ながら、その計画は完全に崩れちゃったのさ」

 残念と言ったホカゼの顔に、悔やんでいるような色は見えない。一年の間に何があったのかは知らないが、その間に色々あったであろうことはその顔を見ればわかる。

「それじゃ、ボクの話はここまでだ。あんまり話すと怒られちゃうし、何より……」

「ああ、それ以上は私と美々奈の問題だからな」

 わかっているじゃないか、とでも言いたげな笑みを浮かべて、ホカゼは現れたときと同じように、強い風とともに何処かへと消えていった。

 私はほんの少しだけその名残を味わってから、公園を抜けて神社への道を歩き出した。遅くなって妹たちを心配させるわけにもいかないし、自慢の夕食を作ってくれているユズリにも悪いから。余裕を持って買い物を済ませて作った時間は、若き風の神との会話でほとんど消費してしまっていた。


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