世界の果てのその向こう

―序章―

第三話 世界の果て


 翌日、巫女さんに挨拶をしてから、俺たちは村を出た。街までの道のりは比較的平坦で、険しいのはそこを出てからだ。

「街を出てからは、修行の時間だね」

 村を出て少しした頃、不意にヒナタがそう言った。

「修行って、どこも険しいって話だったよね」

「確かに楽ではないですが、私たちならどうということはありません。あなたも一人で空へ行けようになれば、役に立つのではないですか?」

「険しい場所の方が色々とやれることも多いしね。もちろん、怪我をしたら困るから、無理のない範囲でだけど」

「わかった。頼むよ」

 ヒヨリと戦ったときに修行の必要性はよく理解した。彼女のように空中を飛び回る者を相手にするとき、ゆっくりとしか空へ登れないと、どうしても受け身の戦いになってしまう。

「そうだ。ついでに、ヒヨリにも稽古をつけてあげようか?」

「わ、私はいいです。お姉ちゃんみたいに才能があるわけじゃないし、これ以上は無理だと思いますから」

 慌てた様子で、大きく首を横に振って拒絶するヒヨリ。出会ったときから常に冷静な彼女にも、慌てることがあるのだと少し驚く。

「うーん、確かに空間凝結に関しては完成してると思うけど……ヒヨリ、カゲユキくんに負けたよね? それも油断が原因で」

 ヒナタの声は優しい。でも、ヒヨリを見る視線は鋭くて、俺にも厳しさが伝わってくる。

「それは、反省しています」

「相手がカゲユキくんだからよかったけど、そうじゃなかったら怪我どころじゃすまなかったかもしれないんだよ。世界の果てを越えた先……そこにはどんな危険が待っているかわからないんだから」

 怯えた様子のヒヨリを見て、不思議に思う。村に着くまでのヒナタの修行は、そこまで厳しいものではなかったと思う。両親の修行で慣れているというのも、少なからずあるかもしれないけれど。

 俺の視線に気付いたのか、ヒヨリが俺の疑問に答えてくれた。

「本気を出したお姉ちゃんは、少なくとも今のあなたよりも強いですよ。そして稽古のときはいつも、本気で戦うんです。あなたにやっている修行とは別物です」

「ヒナタの本気、か……」

 隣を歩く彼女を見ても、返ってくるのは微笑みだけ。敵に襲われるような危険のないこの世界。当然ながら、ここへ来るまで彼女の戦う姿を見たことはない。

 一度見てみたい、と思う。空間凝結の技術だけではない、武器や体術、詳細はわからないけれど、それらも駆使して戦う彼女の姿を。

「だめだよ、カゲユキくん。私とヒヨリの稽古は見せられないんだ」

 ヒナタはやんわりと拒絶する。ヒヨリを見ると、こうなることはわかっていたとばかりに、知らんぷりを決め込んでいる。

「どうして?」

「それは、その……わかるでしょ?」

「厳しい姉の姿を見られたくない?」

 真っ先に思いついた答えを口にすると、小さく首を横に振るヒナタ。それ以外に断る理由があるとすれば、何があるだろう。

 稽古があまりにも激しすぎて周囲に被害が及ぶ? 俺には別の修行があるからそんな暇はない? それとも稽古とは名ばかりでえっちなお仕置きをするだけ? どれも違う気がする。特に最後のは絶対に違うと思う。

「隠れて見に来るのもだめだよ、カゲユキくん」

「まあ、見てみたい気持ちはわかりますけどね」

 心を見透かされたような発言に、一瞬どきりとする。けれど、本当に見透かされたのだとしたら、この程度の反応では済まないだろう。

 ヒヨリの言葉から考える。見てみたい気持ちもわかるもの……女の子の身体で見てみたいもの。そこでふと、ヒナタと初めて出会ったときのことを思い出した。それに、昨日聞いたことを合わせると、答えに辿り着くのはすぐだ。

「ぱんつを見られたくない?」

 こくりと頷くヒナタ。彼女は常に、スカートの中が見えないよう、空間を凝結させて守っている。だが、本気で戦うときにまで、それを続ける余裕がないとしてもおかしくはない。

 彼女のことだから、実戦であれば躊躇などしないのだろうけど、ヒナタとヒヨリが行うのはあくまでも稽古だ。そこで、一旦進展は保留にしているとはいえ、好きな相手にぱんつを見せることなどできるはずもない。

 どう言葉を続ければいいのかわからず、以降の俺たちは言葉少なに街へと歩いていった。途中、いつの間にか稽古をすると確定していたことにヒヨリが気付き、どうにかヒナタを説得しようとしていたが、笑顔で一蹴されていた。

 街で準備を整え、そこから北東、一番近いという世界の果てまで向かう。途中に深い谷があり、その先には人家もなく、小さな湖があるだけで誰も訪れないため、橋はかかっていない。

 とはいえ、それだけなら川を越えたときのようにやればいいだけ。今回は修行のため、ヒナタの力を借りず、自分一人でやることになったけれど、突破は難しくはない。

 ヒナタのようにぴょんぴょん跳んでいくことはできなくとも、手は他にもある。俺は谷から離れたところで反発力の高い空間を凝結させ、空へと跳ぶ。まだ安定させるのは難しく、高く跳びすぎたり、低く跳びすぎたりすることもあったけれど、無事に高いところまで登ることができた。

 あとはここから、ゼロ固定の空間を凝結させて、滑るように駆け下りていけばいい。時間はかかるが、安全な方法だ。

 俺がそうしている間に、ヒナタは川越えのときと同じように軽々と谷を越え、ヒヨリは得意の高反発でひとっとび。距離があれば勢いも自然と落ちるから、着地用に別の空間を用意する必要もない。

 それから数分後、俺も無事に谷を越えて先へ進む。

 ここからの道のりは短く、程なくして俺たちは小さな湖へ着いた。湖のほとり、そこからほんの少し北へ歩くと、そこには何もない空間が広がっている。

 世界の果て。

 俺たちの旅の目的地。

 小さい頃から見続けていた、憧れの場所。

 近くで見るのは初めてだから、感慨がないわけではない。実際、他の二人もじっと世界の果てを眺めるだけで、何も言葉を発する様子はない。

 俺も言葉を出せずにいるけれど、それは感慨に耽っているからではなかった。驚きや驚嘆、そして信じられないという気持ち。けれど、ここまではっきりと見えるものを疑うのは、自分自身を疑うのも同じ。信じる、しかないのだろう。

 遠くから、それこそ湖が見えたあたりからでは、はっきりとはわからなかった。けれど湖のほとりについてからは、はっきりとわかるようになった。それでも信じられず、信じるために近づいた。

「これが、世界の果てなんだね」

 ヒナタが小さく呟く。何を思っているのか、その真剣な表情を見れば察するに難くない。

「不思議ですね。本当に何もないです」

 ヒヨリは上下左右に、世界の果てを眺め回している。俺はそんな二人を尻目に、静かに世界の果てへと近づいていった。

「カゲユキくん、気をつけてね」

「大丈夫、軽く触れるだけだから」

 そうして俺は、世界の果てに触れてみた。押してみると、柔らかい空間にやんわりと押し戻される。とても複雑で、きっとヒナタにも再現できないであろう空間がそこにはあった。

「間違いない、か」

 凝結された空間は、そこだけでなく左右に広がり、空高くにも伸びている。これが世界の周りをぐるりと囲んでいるとすれば、それはとてつもなく広いものになる。その上、ここまで複雑に凝結され、長年の間、維持されているとなれば……空間凝結の達人が何十、何百と集まっても不可能だろう。

 ヒナタとヒヨリも、俺のあとに続いて世界の果てに触れている。軽く押したり叩いたりして試したあと、二人の視線は俺に向いた。

「ねえ、カゲユキくん。これってもしかして……」

「信じ難いけど、そのようだね。空間凝結だ」

 俺はその凝結された空間が広がっていることを二人に話した。

「そうなると、世界の果てを越えた事故、というのは……凝結された空間が綻びたことによるもの、と考えるのが自然ですね」

「同じ場所で繰り返されたのは、回復が完全ではなかったか、元々綻びやすい場所なのか、ってところだね」

「あいにく、その綻びは見えないけどね」

 空間は綺麗に、隙間なく凝結されている。高いところまでくまなく確認したわけではないけれど、ざっと見てそのような場所があればすぐに気付くはずだ。

「この場所で前に消えたのはどのあたりなんだ?」

「湖のほとりの高いところ、としか記録は残されていませんでした」

 ヒヨリが答える。

「カゲユキくん、見てきてくれる? 足場はヒヨリ、お願い」

「短時間でどこまで見られるかわからないけど、それで構わないなら」

「わかりました。お姉ちゃんは落ちてきた彼をお願いします」

 ヒナタが頷いたのを見て、ヒヨリが空間を凝結させる。

 俺はそれを全力で蹴り上げて、空高く飛びあがる。

 滞空時間を稼ぐ術はないので、確認できる時間は少ない。ピンポイントで見つけるのは難しい。けれど、ここまで全体が綺麗に凝結されているなら、おかしな部分があれば違和感には気付けるだろう。

 着地はヒナタが助けてくれる。俺は集中して世界の果て、そこに広がる凝結された空間を眺める。

 飛びあがった勢いが切れ、身体が落下を始める。ぎりぎりまで集中は切らさない。

 落ちていく身体は、地面に衝突する直前でふわりとしたものに受け止められる。ヒナタの凝結した空間だ。

「どうだった?」

 ゆっくりと地に足を下ろしながら、俺は答える。

「何となくだけど、変な感じはした。もっと上の方、かなり高いところに向けて、ほんの少しだけ空間が薄くなっているというか、ずれているというか……」

 見えた範囲でわかったのはここまでだった。

「もっと上……ですか。私やお姉ちゃんでも、あそこまで上がるのは大変なのですが」

 ヒヨリは俯いて、考え込むような仕草を見せる。けれど、すぐに顔を上げてきっぱりと宣言した。

「今日はここで野宿にしましょう」

「そうだね。色々調べると時間かかりそうだし、調べたところで終わりじゃない。打開策も見つけないと」

 詳しく調べるのはあとにして、俺たちは野宿の準備を始めた。体力があるうちに、休める場所を作っておいた方がいい。幸い、近くにある湖の水は澄んでいて、周囲に獣の気配もない。野宿をするには最適だ。

 ここまでの旅でも何度か野宿をすることはあったけれど、三人でのものは初めてになる。

 準備を終えた頃には日は暮れかけていて、今後の計画を立て終えた頃には、すっかり日が暮れていた。夜でも調べることは可能だけど、その後のことも考え、無理はせずに実行は明日ということになった。

 翌朝、俺とヒナタは上部の調査に向かう。

 川を越えたときのように、ヒナタに手を引かれて空へ。どれだけ高い場所にあるのかわからないので、無理をせずにゆっくりと登っていく。

 ヒヨリは下で昼食の準備中だ。それまでに調査が終わらないほど高い場所にあるのなら、一旦戻って別の手段を試すことになっている。

 ゆっくり見ていくと、昨日は何となくしかわからなかった違和感が、はっきりとわかるようになってくる。けれど、綻びは見つからない。

 ただ、ここまでの変化から、これだけは確実に言える。

「まだまだ上みたいだね。ヒナタ、急げるかな?」

「任せて。しっかり掴まっててね」

 指示通りに彼女の手をぎゅっと握り締めた直後、一蹴りで登る高さが倍くらいになった。凝結した空間の反発力はあまり変わっていないように感じるから、おそらく蹴り方を変えたのだろう。

「……見えてない?」

「見えていたとしても、この状況で見る気はないよ」

 蹴り方を変えただけでこれだけ高く上がれるということは、ヒナタが本気を出したということ。おそらくスカートの守りも消えているのだろう。

 俺の役目は世界の果てを見ることだから、見る気はないけれど、偶然見えないかなという期待はちょっとだけある。だが、それをわざわざ言うことはない。

 三十分、それとも一時間か、はっきりとはわからないけれどそれくらいの時間が経った頃、明確な変化が出てきた。ここまで綺麗に隙間なく凝結されていた空間が、歪んでいる。隙間がないのは変わらずとも、この変化は当たりかもしれない。

 それから数分、俺は声を出してヒナタを呼び止めた。

 上昇をやめ、足場を作って周囲を詳しく調べる。空間を凝結させているのはヒナタだ。これくらいなら俺にも可能だけど、意思疎通にかかる時間を足しても、速度と精度は彼女の方が遥かに上。

 程なくして、はっきりとわかる綻びが見つかった。

「そこにあるんだね」

「うん。でも、かなり小さい、ひびみたいなものだよ。突破するのは」

 言いながら、俺は刀の柄を握る。ヒナタが離れるのを確認してから、ひびの中心目がけて、居合い一閃。

 全力の一撃。けれど、凝結された空間に勢いは吸収されてしまう。やんわりと弾かれる力は少し弱いけれど、突破するにはより強力な一撃が必要だろう。

「一度、戻ろうか」

「そうだね。カゲユキくん、一気に降りるよ! まっすぐ落ちないと、場所がわかりにくくなっちゃうからね!」

 言うが早いか、俺の足元の空間凝結が解かれ、急速に落下していく。ヒナタがいるから安心とはいえ、急にされるとさすがに驚いてしまう。

 今回も難なく着地したところで、丈夫な枝を地面に突き立てて目印にする。

 ヒヨリが作った昼食を食べてから、俺たちは世界の果てを破る方法を相談し始めた。ちなみに昼食はシンプルなおにぎり。他にも食材は用意してあったのだけど、美味しかったので何も言わないでおいた。

「あなたの一撃でもその程度、となるとかなりの一撃が必要ですね」

「でも、ヒヨリならどうかなって俺は思うんだ」

「確かに、あなた以上の一撃は可能ですが……」

 超硬質と超高反発を使いこなすヒヨリ。俺の刀が弾かれた一撃。しっかり準備して放てば、より威力を高めることも可能だろう。

「私にはひびが見えませんよ。ピンポイントで狙えなければ、突き破るには足りないのでしょう? それにしても、破れるかどうか」

 確かにその通りだ。彼女の一撃は俺より強い。あの強度を考えると、それでも足りない可能性はある。そして当然、ひびに当てられなければ、ここで攻撃するのと大差はない。

 それで破ることができないのは、確認済みだ。念のためにと、昨日の夜にそれぞれが全力の一撃を世界の果てに放ったが、効果はなかった。

「それなら、三人でやればいいんじゃないかな。勢いが足りないなら、私が蹴る。ひびの場所がわからないなら、カゲユキくんが手を添えてあげればいい。簡単でしょ?」

「……それは、まあ」

「理論上は確かに、ですけど……」

 ヒナタがあっさりと口にしたことに、俺とヒヨリは即答できない。その方法は、三人が密着しないと実現できない。

「確実に、みんな一緒に越えることを考えても、その方がいいよね」

 俺はヒヨリを見て、ヒヨリは俺を見る。ヒナタは微笑みつつも、真剣な顔で俺たちを見ている。彼女の心の準備はできているみたいだ。

「ヒヨリ、俺に身体を預けてくれるか?」

 指示するだけでは正確さに欠ける。彼女の手をとり、支えなくてはいけない。

 行為自体はそう難しくないけれど、問題は気持ちだ。恥ずかしさが問題ではない。全くないと言えば嘘になるが、照れて躊躇するほどではない。

 問題は、信頼関係。ヒヨリが俺を信じて、体を委ねてくれないと作戦は成立しない。そして俺も彼女を信じることで、力加減を間違えることもなくなる。

「触れられることは構わないですが……」

 言いよどむヒヨリ。当然の反応だ。俺たちは出会ってから間もない。剣を交えたことで力は認め合えたけれど、それだけだ。心ではまだ、互いを信頼しきれていない。

 ここまでの旅で普通に会話できたのも、ヒナタがいたからこそだ。

「わかりました。あなたもお姉ちゃんの前では、変なことをしないでしょうし」

「二人きりでもする気はないんだけどね」

 ヒヨリの牽制に、軽く返事をする。

「それはつまり、私に女としての魅力は一切感じていないと?」

「そんなわけないさ、俺も男だよ。ヒナタには劣るけどね」

 初めての人が聞くと、喧嘩をしているように思われる会話かもしれない。けれど、今の俺とヒヨリにとっては、この距離感が一番しっくりくるのだから変えようがない。

「話はまとまったみたいだね。それじゃ、早速行こうか。一夜明けて心変わりしないとも限らないしね」

 俺とヒヨリは同時に頷いた。今回、すんなり話がまとまったのもヒナタのおかげだ。もし二人きりだったら、もっと時間がかかっていたことだろう。

 再び空へ向かう。ヒナタとヒヨリが先に行き、俺は彼女たちの凝結した空間を利用して、一気に飛びあがっていく。登るだけなら一人の方が身軽で動きやすい。

 ある程度まで登ったところで、先を行く二人と合流。ここからひびの見えた場所までは、速度を合わせて向かう。日はまだ高く、時間はまだ余裕がある。

 それから数十分。俺たちは目的の場所に到達した。広がる世界の果て、微かなひびの目の前に。俺の凝結したゼロ固定の空間に、三人が集まる。

 俺の役目はヒヨリを支えることと、足場の確保。

 ひびまでの距離、ヒヨリの凝結した空間の反発力、ヒナタの蹴り出す力、三人の重さ。それらを計算して最も適切な位置に、最初の足場を作る。複雑なので少し時間はかかるけれど、難しくはない。見えることを戦いに活かすためには必要なことだから、剣や拳の修行をするかたわら、こちらもしっかりと学んでいた。

 ヒナタの蹴り出す力は、今日登るときに見ただけで情報は少ないけれど、角度ではなく速度に影響する要素なので、誤差の範囲内に収められる。

「足場はできたよ」

 準備ができたことを示し、ヒヨリが空間凝結する位置と角度、蹴り出す位置を指示する。二人は頷いて、問題がないことを示す。

「できました」

「よし、それじゃくっつくよ」

 蹴り出すヒナタが一番後ろに立ち、一番前のヒヨリを支える俺に、後ろから抱きつく。

「せぇ……のっ!」

 掛け声とともに、ヒナタが高反発の空間を蹴る。

 飛び出してすぐ、ヒヨリが超硬質に空間を凝固。両手で持つ長槍の形をした、一点突破のみにこだわった鋭利な武器だ。

 彼女の腕を両手で支え、ひびへ向けて穂先がまっすぐ向くようにする。抵抗はなく、すんなりと成功。

 最大限の威力を発揮するためには、事前に凝結させるのではなく、飛びながら衝突する直前に凝結しなくてはならない。僅かな差ではあっても、破壊すべきものの強度を考えると油断はできない。

 そして、ひびに衝突する。

 俺たち三人の全力を合わせた一撃。衝突した瞬間から、勢いは吸収されつつあるけれど、弱まるだけで止まりはしない。

 このまま。このまま止まらなければ突破できる。

 どんどん弱められる勢いに心配になりながらも、突破できることを信じて待つ。

 もう少しで完全に止まる。そう思った瞬間、急に抵抗が消えた。ひびのあったところを中心に、周囲の凝結された空間が一瞬で消し飛ぶ。俺たち三人どころか、小さな家ならまるごと一つくらい入るほどの空間が、そこに生まれた。

 勢いは消えていない。俺たちはそのまま、世界の果てを突き抜けていった。

 広がるのは空。他には何もなく、ただ落下していくだけ。勢いが残っているうちはゆるやかだったけれど、まっすぐ落ちるまで時間はかからなかった。

 五分、十分とただ落ちていく。密着した体は離さない。

 世界の果てのその向こうには何もなく、ただ落ちるだけなのか。いや、そんなはずはない。俺たちの後ろには、大きな柱があり、その上には俺たちが今までいた大地がある。

 世界の中心で見た、神の柱。それがあるということはこの下に何かがなくてはおかしい。

 もっとも、それが本当に神のものであるとすれば、俺たちには想像もつかない謎の力で支えられていて、同じ力で永遠に落ちるだけの、異空間となっている可能性も否定はできない。

 大地が見えなくなり、柱だけになった。他に何もない空間。俺たちは落ちていくままに、体を委ねることしかできない。

 そうして、何分経っただろうか。何十分、もしかすると数時間経っているかもしれない。こうしていると、時間の感覚がよくわからない。

 だが、ずっと下に大地が見えたのは見間違いではない。まだぼんやりとしか見えないけど、大きな森林が広がっているように見える。果てを探して周りを見渡す。ヒナタやヒヨリも同じようにしている。

 見渡すかぎりの大地や海、山々に森林、川。そして、俺たちの後ろにあるのと同じような柱が何本も。それらが果てなく広がっている。世界の果てなど、見えはしない。

 視力の限界、光の届く距離。見えないところには、光なき闇が広がっているのだろうか。それとも、果てはないのだろうか。疑問は尽きないが、考えるのはあとだ。森林が間近に見えるところまで、俺たちは落下している。

 森林に突入する前に、ヒナタが空間を凝結させて木々への衝突を避ける。地面に衝突する直前に、もう一度。いつもよりも柔らかく包み込むような空間で、俺たち三人の体は受け止められた。

「ちょっと真似てみたけど、やっぱり難しいね」

 世界の果てに広がっていた空間。それに近づけたようだけど、いつものヒナタのよりちょっと柔らかいだけで、同じと呼ぶにはほど遠い。

「では、すぐに離れてください」

 ヒヨリが言った。

「離して、じゃないんだね」

 苦笑しながら、俺たちは密着していた体を離す。まだ凝結された空間からは降りずに、体勢を整えてから地面に降り立つ。何の変哲もない、ただの土。歩きやすそうな固さだ。

「これからどうしようか?」

 木々の隙間から、暮れなずむ空が見える。野宿の準備はあるけれど、見知らぬ世界、初めての土地の森林では、未知の危険があるかもしれない。

 人家を探す、にしてもあたりには木が広がるだけ。下手に動いてもすぐに夜が訪れ、視界も狭まる。今日はこの場でじっとしていた方が懸命かもしれない。

「今日はここで……」

 続きを言おうとしたところで、がさがさという音が聞こえた。何者かの気配も感じる。人か獣か、俺たちは警戒を強めて、背中合わせに周囲を見張る。

 音が近づいてくる。俺たちはその方向を注視しつつ、囮の可能性も考えて、他の方向への警戒も緩めない。

 がさり、と大きな音を立てて目の前の茂みが払われた。そこから出てきたのは、一人の少女だった。俺と同じくらいの身長で、胸もヒナタやヒヨリより大きいから、年上だろうか。落ち着いた暖かそうな服装をしている。ショートボブの茶色の髪がさらさらと揺れ、同じ色の瞳は俺たちをじっと見つめている。

「見とれている場合ではありませんよ」

「あのな」

 確かに彼女は綺麗だけれど、別にそういう意味で見ていたわけではない。ヒヨリを横目に睨むと、わかっていますとばかりに、肩をすくめていた。

 緊張感がないなと思うけれど、そうなるのもわかる気がする。目の前の少女に、俺たちへの敵意は感じられない。けれど、念のために刀の柄を握る手はそのままに。

「あなた方は、上から来たのですね」

 小さいけれど、はっきりとよく通る声で少女は言った。

「着いてきてください。私の家へ案内します。詳しい話はそこで」

「だってさ。どうする?」

「ここで野宿するよりは、いいと思うよ」

 ヒナタの問いかけに、俺は即答する。ヒヨリも頷いて、同意を示した。世界の果てのその向こうには、どんな危険があるかはわからない。けれど、彼女がその危険であるようには思えなかった。

「こちらです」

 少女は一言そう告げると、茂みの奥へ歩き出した。俺たちは彼女の後ろをついていく。

 茂みを抜け、木々の間を歩き、しばらくすると小さな家が見えてきた。丸太で作られた家。小さいとはいえ、家であることに変わりはない。少女が一人で住むには大きい家で、俺たち三人を泊めるくらいの広さはありそうだ。

 彼女の他に住んでいる人がいなくて、承諾されたらという前提ではある。けれど、光のあまり届かない森林の中にあり、すっかり日も暮れたこの時間。その家から光は漏れていない。

 少女は家の扉の前に立ち、鍵を開ける。一人で住んでいるのはほぼ間違いなさそうだ。

 玄関からすぐの広い部屋に案内される。居間であり、来客用の部屋でもある、といった印象だ。三、四人は座れそうな長いソファが二つ、向かい合うように置かれていて、少し離れたところには四人掛けの椅子と机があり、奥には台所が。ソファの向こう、仕切りの奥には大きなベッドが二つある。扉は玄関を除くと二つだけ。並んでいるところをみると、奥にはトイレや脱衣所、風呂場があると見ていいだろう。

 彼女の他に人が住んでいるような気配はないが、一人で暮らすには椅子や寝具の数が多すぎる。宿屋であるのなら、出会ったときに何か言ってもいいはずだ。

「好きなところにどうぞ。飲み物を用意します。水でいいですね」

 俺たちが頷くと、彼女は食器棚からコップを取り、壁際にある水差しから水を入れた。ゆっくり休むより、話すことを優先したい。それを汲んでくれたのだろうけど、準備が良すぎるようにも感じられた。慣れているのだろうか。

 水を一口飲んでから、俺たちは話を切り出す。色々と尋ねたいことはあるけれど、まずはこれからだ。

「ありがとう。俺はクサナギカゲユキ」

「私はムラクモヒナタ」

「妹のヒヨリです」

 俺たちが自己紹介をすると、少女は俺たちの顔を順番に、ゆっくりと見てから言った。

「リリィロットと申します。コノエリリィロット」

「コノエさん、と呼べばいいですか?」

 ヒナタが聞くと、コノエさんは首を横へ振った。

「リリィロットでお願いします」

「リリィロット……」

 俺は呟いた。聞こえない程度の小さな声にしたつもりだったけど、その呟きはリリィロットさんの耳にしっかり届いていた。

「聞き慣れない名前で、不思議でしょうね。ご安心ください、少々時間はかかりますが、すべて説明しますよ。それが私の――一族の役目ですからね」

 笑顔こそないものの、優しい声でリリィロットさんは言った。

「一族?」

 ヒナタが尋ねる。リリィロットさんは頷いて、言葉を続けた。

「カミヨリビトの一族、です。空から降りてきた神に寄り添い、対等に接することができる一族。それをこの世界では、神寄人と呼ばれています」

「神、というのは?」

 俺の質問に、リリィロットさんは微かに笑みを浮かべて答えた。

「それはもちろん、あなた方のことですよ。神様?」

「カゲユキくん、そうだったの?」

「方にはヒナタも含まれてるからね」

「突然、神と言われても困りますね」

「でしょうね」

 リリィロットさんはさらりと言い放つ。

「大地にそびえる柱の上には神が住まう土地があり、そこから神はたまに降りてくる。その神と接するのは特別な人間でなければならない。それが神寄人――地方によって、呼び名や役目は多少変わりますが、神という一点においてはどこも変わりはありません」

 そこまで言い切ると、一息おいてからリリィロットさんは尋ねてきた。

「あなた方は、神ですか? 神として降りてきたという自覚はありますか?」

「そんなの、あるわけないよ」

「だよね。そもそも、降りてきたっていうより……」

「落ちてきた、ですからね」

「そうでしょうね。あなた方は神であり、神ではない。ただ、柱の上に住んでいるだけの人でしかないことは、よく知っています」

「じゃあ、なんでそんな話を?」

 反射的に尋ねると、答えはすぐに返ってきた。予想通りの反応だったのだろう。

「よく知っているのは、私たち神寄人だけです。少なくとも、この世界に住む人の大半は信じていますよ。けれど、真実を知らせても無用な混乱を招くだけ。神は神である、それを伝え守ることこそが、神寄人の真の役目なのです」

 彼女の話に嘘はないと思う。矛盾もない。けれど、ひとつ気になることはあった。最も重要な情報が欠けている。

「でも、どこがどうなって神様だ、なんて話になったの?」

 ヒナタが言った。そう。仮に空の上から落ちてきたといっても、姿形が違うわけでもなく、言葉が通じないわけでもない人を、いきなり神などと思うことはないだろう。

 彼女との会話内容から、神寄人であるリリィロットさんだけが特別で、俺たちと話ができるということはないはずだ。

「もっともな質問です。理由は二つありますが、わかりやすい方から説明しましょうか」

 言い切ると、リリィロットさんは自分の目の前にあるコップを手にとって、俺たちに向かって水をかけてきた。咄嗟に空間を凝結させて、濡れるのを防ぐ。ヒナタは水を弾くだけではなく、受け止めてから器用に動かして飲んでいた。

「いきなり何を――」

 俺がリリィロットさんを睨み、言葉を言い切る前に鋭い声が飛んできた。

「それです」

「それ?」

 俺とヒナタは声を揃えて、疑問を口にする。ヒヨリも顔に疑問を浮かべたけれど、すぐにそれは考えるような表情に変わり、数秒後には手を叩く音が聞こえた。

「なるほど。そういうことですか」

 どういうことだろう。俺たちの動作におかしなところは何もなかったはずだ。水をかけられそうになったのだから、それを防ごうとするのは当然。あのくらいの量の水なら、最善は目の前の空間を凝結させ、遮断すること。

「そう。この世界に住む人なら、普通は避けようとする」

「ああ、そっか」

 ぽん、と手を叩くヒナタ。俺もそこまで言われて、彼女の言いたいことが理解できた。

「空間を凝結させるなんて芸当、とても普通の人間にはできない。それを平然とやってのけるような人を目にすれば、反応は大きく二つに絞られます。人を超えた存在――神と呼ぶか、人を外れた存在――怪物と見るか。ですが、後者はありえませんでした」

 俺たちがどうしてか尋ねるのを待たずに、リリィロットは言葉を続けた。

「地上に怪物は既に存在します。そして、彼らはその怪物から私たちを守ってくれました。それを怪物の仲間などと呼ぶことなど、誰ができるでしょうか。もっとも、この話は私が生まれるよりも、先代が活躍していた時代よりもずっと昔、初代の神寄人の時代の話ですからどこまでが真実かはわかりません。

 怪物についてはあとでお話します。それより先に、もうひとつの理由を説明しましょう。気になるでしょうけど、説明にも順序というものがありますし、急ぐことでもありません」

 リリィロットさんはそこまで言い切ると、俺たちの反応を待った。俺たちが頷き、話の続きを促すと彼女は再び口を開いた。

「それ以来、何度も神は空から落ちてきました。それでも、人はそれを神と呼び続けた。多くの者に会えば気付いてもおかしくないのに、呼び続けられた。なぜなら、その神たちの多くはは人と関わることがなかったから。できなかったから」

「待って……待ってください!」

 ヒナタが呼び止めた。リリィロットさんも今回は予想外だったのか、少し驚いたような顔をしていた。

「どうしました?」

「あの。私たちは――正確には私と妹は、ですけど。両親を探しにここに来たんです」

 ヒナタの言葉に、リリィロットさんは再び驚きの表情を見せる。先程よりも大きく、誰にでもはっきりとわかるような驚き。

「そうですか。あなた方は、事故で偶然落ちてきたわけではない、のですね」

 こくりと頷く。ヒヨリを見ると、小さく俯いて震えているようにも見えた。衝動的に、そっと彼女の手に俺の手を重ねると、一瞬だけ睨まれたが文句は言われなかった。

「はい。それで、その。私たちの両親が事故にあって、ここに落ちた……と思うのは、五年前なんです」

「ちょうど。先代が亡くなり、私が神寄人を引き継いだ頃ですね。一人でするのは初めてでしたから、よく覚えています」

「する……って、それは、やっぱり」

 リリィロットさんは小さく、けれどはっきりと頷いた。落ちてきても、関わることがなかった。できなかった。それが意味することは、ひとつしかない。

「この森林の中に私たち神寄人が住まうのは、ここに神が落ちてくるからです。柱から北に離れた位置にあり、木々が神を迎えて優しく受け止める、とされていますが、人が空高くから突然落ちて、無事でいられる可能性はとても低いものです。一代の神寄人が、一生のうちに一度出会えるかどうか……その程度です」

 柱の北、というのがちょっと気になったけれど、今は尋ねるときではない。

「そう、なんだ。じゃあ、やっぱりお父さんとお母さんは……」

「予想は、していました。覚悟は、できて……」

 ヒヨリの言葉はそこで途切れる。俯いて、俺たちから顔を隠す。

「リリィロットさん。今日はもう休んでいいですか? 私はともかく、ヒヨリは辛いでしょうから」

 ヒナタも辛くないはずがない。けれど、姉として妹を守らないといけないという気持ちが、それを上回っているだけだろう。

「わかりました。案内します」

「あ、カゲユキくん。柱のことは聞いといてね。それじゃ」

 ヒヨリを胸に抱きかかえながら、ヒナタは案内されたベッドへ歩いていく。

「ああ。任せといてよ」

 俺にはそう答えることしかできなかった。今の彼女たちに、かけられる言葉なんて思いつかなかったから。

 戻ってきたリリィロットさんに、柱のことを尋ねる。俺たちは柱の東にある世界の果てを破ってきたのに、ここは柱の北だという。それでは方角が合わない。

「先代の頃に落ちてきた一家は、南から落ちたと言っていました。先々代、もっと前まで遡ると、北や西という話もあります。ですが、落ちてくる場所は全てここでした。上空の風がそうしているのか、それとも未知の大きな力が働いているのか、理由はわかっていません」

「けれど、事実は変わらない、か」

「はい。不満ですか?」

「いや、それだけわかれば十分だよ」

 世界の果てそのものが、とても人間業とは思えないものだったのだから、それくらいのことが起きても不思議ではない。

「ところで、あなたの目的はなんなのですか?」

「俺は世界の果てのその向こうが見てみたかった、それだけだよ。彼女たちと一緒に旅をすることになったけど、まだそんなに親しくはない。慰める言葉も思いつかないくらいにね」

 俺は自嘲気味に、そう口にした。もっと仲間として、または恋人として、とにかくどんな形でもいいから、より強い信頼関係があれば、きっと彼女たちにかける言葉も見つけられたんだと思う。今からでも、彼女たちに何かしてあげられたのだと思う。

「そうですか。あなたがそう言うのなら、否定はしません」

 リリィロットさんは淡々と答えた。

「ですけれど、あなたが手を添えたことで、ヒヨリさんの震えが止まったように見えたのは、私の見間違いではないと思います」

 俺は言葉を返せず、黙ることしかできなかった。

「ところで、ベッドの問題なのですが」

「ベッド?」

 急に話が変わって、俺はぽかんとしてしまう。

「はい。この家にベッドは三つしかありません。来客用の大きなベッドが二つ、一つの部屋にあり、その部屋には今、ヒナタさんとヒヨリさんが一緒に寝ています。もう一つは私の部屋。ここからは見えませんが、そこに。こちらも大きなベッドで、二人並んで寝られます」

「それで?」

「どうしますか? ヒナタさんたちのいる部屋には行きにくいでしょう?」

「そうだね。それじゃあ俺はここで……」

「大事な客人に、こんなところで寝させるわけにはいきません」

「でも、ベッドは三つしかないんだよね」

「ええ。ですが言いましたよね。二人寝られると。私、寝相は悪くないですから。あなたに問題がなければ、私の部屋で寝てもらおうと思っています」

 今度は別の理由で黙ってしまう。同じベッドで寝てもいい、とリリィロットさんは言った。スペースはある、と。けれど、そういう問題ではない。

「カゲユキさんはいくつですか?」

「この前、十五になったばかりだけど」

「私は十七歳です。大人です。心配は要りませんよ」

 一体何の心配なのかわからない。いや、何となく想像してしまったことはあるけれど、なかったことにする。なかったことにしないといけない。

「どうしますか? 早く決めないと、続けますよ」

「一緒に寝させてください」

「素直でよろしい。では、案内します」

 リリィロットさんは確かに大人だった。まあ、ベッドは広いっていうし、一緒に寝るくらいなら問題ないと思う。ヒナタやヒヨリの反応が心配だけど、状況が状況だから仕方ない。

 ベッドに入るとき、リリィロットさんがなんかもぞもぞ動きながら、ほんの少しだけ布団をめくってきたけれど、暗いのでよく見えなかった。どうせ、見えたところで普通にパジャマか何かを着ているだけだと思う。確認はしていないので真実はわからないけれど。


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