世界は一つではない。それを知る者は、この世界にも、どの世界にも多くはない。
だが、時折、人は世界を越える。それが自身の身に起こる者は、どの世界にも多くはない。
世界を越えて、世界を越えた者に出会い、人は世界が一つではないことを知るのである。
探偵の視点
この世界は平和だ。これからの世界も平和であるために、僕にはやらなければならないことがある。世界で起こる大きな事件に関わることはできない。でも、この国、日本の一つの街で、やれることもある。どんなに大きな事件も、最初のきっかけは小さいものだ。一人の人間が動き、集まり、小さな事件が大きな事件になっていく。
小さいうちに、事件を防ぐ。そうして恐ろしい事件を止める。それなら、この都宮市〈みやみやし〉にいても関わることができる。
「で、今日も事件は起こらない、と。探偵さん?」
「残念だが、全てが理想通りにいくわけではない。起こった事件に気付けるかは、また別の話だ」
肩を並べて――というには十センチほどの身長差はあるが――歩く少女は、いつもの楽しそうな顔で僕をそう呼んだ。
共に制服を着ているが、彼女の制服は中学校のもの、僕の制服は高校のもの、放課後の帰り道を歩く僕たちの関係は、幼馴染みといったものでもない。
「ところで、昨日のプリキュアの話だけど」
「ああ、よもやあの展開であそこまで苦戦するとは……」
彼女との出会いは簡単に話せるものではないが、日曜朝の変身ヒロインが好きな者同士として、僕たちは繋がることになった。男としてプリキュアを見る者は少なく、女の子でも中学生になっても見続けている者は多くない。僕と彼女が同志となるのは自然なことだった。
楽しく感想を語り合う隣の少女の名は、鈴鳴木立〈すずなりこだち〉。
恐ろしい事件を解決せんとする探偵の名は、弦楽奏水〈げんがくそうすい〉。
二人は変わらぬ日常として、帰り道を歩く。そう、事件が起こるまで、日常は変わることはない。道を歩く僕たちの目の前に、大きな暗闇のような空間が現れるまでは、その日常は続いていた。
警戒する。咄嗟に動いた体は木立をかばおうとしていたが、同じく警戒を強めたらしい彼女は、軽く指先を揃えて臨戦態勢を整えていた。木立がああするなら、僕はスマートに「変身!」と叫びそうな構えをするべきなのだろうか。
しかし、彼女の警戒はやや的外れだ。確かに得体の知れない何かが、そこにはある。闇を潜り抜けてきた人影は、鞘に収まった立派な剣まで携えている。完全に姿を現したときには闇は消えて、鞘から抜いたら今すぐに人を斬れそうな武器を持つ少女がそこに立っていたが、彼女に敵意がないことは人と気付いた時点でわかっていた。
「お前は誰だ? 僕たちは何を見た?」
だからといって、動揺がないわけではない。こんなことは、探偵としての技能を日々鍛えている僕にとっても、予想外の出来事だ。あいにく、ファンタジー探偵になるための修練は積んでいない。
少女は僕の質問には答えず、しかし声には気付いていて、きょとんとした顔で僕たちの方を見つめ返した。
「君たちは悪人、ではなさそうだね。私はシルフィム・グランクランツェ。見ての通り、悪を斬る剣士だ。何を見たかという質問には、私も答えを持っていないよ」
シルフィムと名乗った少女は、笑顔で鞘から剣を抜いてみせた。確かに鋭く人が斬れそうな剣だが、見ての通りと言われてわかるほど剣士を生で見た経験はない。
身長は僕と同じ――いや、僅かに高いか。体躯は細身で、脂肪は少なく筋肉がよくついているようだ。本物の剣を扱うだけの鍛え方はしている、といったところか。服装は赤い装飾が目立つが、比較的質素なもので、大きな防具も見えない。当てられる前に斬る、そういうタイプの剣士らしい。
「ねえ、奏水。これってもしかして、私――!」
「あれが変身ヒロインの類いに見えるなら、お前とは道を違えることになるな」
「だよねー。マスコットかイケメンだったらよかったのにー」
真っ先に臨戦態勢を整えていたと思うが、もしマスコットにいきなり殴りかかったら、相手も他のパートナーを探すのではないだろうか。隣のわかりやすい気配が動かなかったのは、さすがに剣に対して動くのは反撃のリスクが高いと判断したからだろう。
「私にも色々わからないことがあるんだ。そこで君たち――」
「きゃー! 男狩りよー!」
「うっひょー! 女は蹴散らせ、男は浚えー!」
シルフィムが言いかけたとき、男狩りの襲来を知らせる女性の声が耳に届いた。直後に、道を疾走する男狩りの声と、姿が目に入る。見た目はかなりの美男子だが、口にする言葉や行動は男にとって危険な生物――それが男狩りである。
「おっ! いい男発見! うひょひょ、浚ってやるぜー!」
どうやらそのいい男というのは、僕のことらしい。僕が防衛の構えをとるより早く、その声が耳に届き、体が動いたのが見えた。
「悪人だな。斬る!」
「へっ? うっぎゃー!」
女は蹴散らせの宣言通りに、僕たちの前にいたシルフィムを蹴散らそうとした男狩りの胴体は、すれ違いざまに振り抜かれた彼女の剣によって真っ二つにされていた。臓物やら何やらが周囲に飛び散ることはなく、ただ血飛沫だけが彼女の剣と道を赤く染めていく。
あまりにも鋭い熟練された剣技は、半端に中身を潰してしまうことはなく、全てを一刀両断にしていた。
「うわ……」
「ひゃあ……」
突然の出来事に、僕と木立はそれしか言えない。
「話の続きをしようか。君たち――」
「ああ、まずは家に来てくれ」
一人だけ平然とした顔のシルフィムに、僕はそう言った。僕たちは動かなくなった男狩りの体を横目に、一人の見知らぬ少女を連れていつもの帰り道を歩くのだった。
シルフィムを連れて僕の家に着いた。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい。あら、今日は木立ちゃんだけじゃないのね。そちらは、どの世界の女の子かしら?」
普段と変わらず出迎える我が母、弦楽叶絵〈かなえ〉はシルフィムを一目見て、興味深そうにその姿を眺めていた。
「悪人を問答無用で斬っても許される世界の女の子だよ」
それ以上は何も言えないし、何も知らない。帰宅後の整理を済ませて、奥にある僕の部屋でシルフィムを待つ。軽いシャワーで彼女の体についた血を落としてもらわないと、僕たちも彼女も困るだろう。剣の方はわからないが、道中に簡単な手入れをしていたようだ。 元の服装で僕の部屋にやってきた彼女に、まず最初に聞くべきことを聞く。
「どうしていきなり斬りかかったんだ?」
「悪人は斬って、殺す。そうすれば改心するだろう?」
「殺して、改心?」
彼女に嘘をついている様子はなく、それが当然といった顔をしている。現れ方からこの世界の常識が通じない存在、別の世界の人間であると推測は立てたが、なぜそうなったのかを考えるのはあとだ。
「ああ。蘇生魔法があれば、殺しても生き返るだろう?」
「わあ。魔法だって奏水!」
「驚きだな。で、シルフィムは?」
どうやら彼女はファンタジー世界の住人でも、蘇生魔法が使えるファンタジー世界の住人らしい。殺しても生き返るのであれば、確かに殺すことに躊躇がなくてもおかしくはない。
「ふ、私も治癒魔法は使えるぞ。蘇生は無理だが」
「よし。じゃあこの世界では斬るのは禁止だ」
シルフィムの顔が険しくなった。しかし、鞘に刺さった剣の柄に手をかけるようなことはなく、僕たちに危害を加える様子は見られない。
「この世界には蘇生魔法はない。死んだらそれまでだ」
「ふむ。そうか……」
まだ全てに理解は及んでいないようだが、ひとまず納得はしてくれたみたいだ。 今回は男狩りだから警察沙汰にはならずに済んだものの、普通の悪人を斬っていたら、騒ぎになるのは避けられなかっただろう。
ただ、それにしては少し不思議なことがある。僕たちが家に着くまで、体に新鮮な返り血をつけながら、剣を持って歩いていたシルフィムに出会った人たちは、誰一人として驚きもしなかった。コスプレか何かで、本物ではないと考えたにしても、注目さえしないというのは何かがおかしい。
正確には、何人か注目している男もいたが、彼らの注目はシルフィムの美しい容姿に対してのものだろう。
「木立。彼女の剣についてだが」
「うん。びっくりするよね。本物だもん」
帰り道に交わした会話で、僕と木立の二人は違和感に気付いている。それから、僕たちの他に彼女に対して、何らかの反応を示したものといえば――一人だけ、いた。
現れる瞬間を目にしたからなのか、それとも別の理由なのか、それはわからない。とにかく呼んで聞いてみるべきか、そう考えていると木立の声が部屋に響いた。
「シルフィムさんはどうするの? 事情はわからないけど、その様子だと、自分からこの世界に来たわけじゃないんだよね?」
「ああ、偶然と言っていいだろうな。そういう現象があるという噂もなかったし、だが、ここは私のいる世界とは違うらしい。さて、どうしたものか」
シルフィムは困った顔で、一旦言葉を止めた――止めざるを得なかったのだろう。
「私はどうしたら人を斬れる? この世界で、その手段は?」
「えー、そうだなあ……」
だが、どうやら悩みの内容は僕の想像とは違ったらしい。探偵としては悔しいが、探偵は人の心を読むだけではない。僕は心理学で犯人を突き止めるタイプの探偵ではないのだ。
「私は剣士だ。人を斬れないのであれば、つまらない」
昔の武士みたいな言葉だが、役に立てないではなく、つまらないと言う。彼女が悪人を斬るのは正義感が強いからではなく、斬る相手を探したら悪人に行き着いた、ということのようだ。 木立にも答えが出せないようなので、僕としてはまず当面の問題を尋ねてみる。
「寝る場所はどうする? 食べ物は?」
「ああ、それなら、奏水の母君にずっと家にいてもいいと言われたから、そのつもりだったのだが……君としては問題があるのかな?」
「木立。僕はちょっと母さんと話してくる。シルフィムの相手はお前に任せた」
呼ぶも呼ばないも、まず話さねばならない事情ができた。僕はそれだけ言い残すと部屋を出て、リビングにいるであろう我が母を探そうとしたのだが……。
「……あ」
扉を開けたところに、聞き耳を立てている我が母の姿があって、手間は省けた。
「ごめんね、奏水。まだあなたには話せないの。けど、大丈夫、部屋は余ってるし、お父さんの残してくれたお金はたくさんあるから、生活に心配はいらないわ」
我が父は僕が小さい頃に、若くして亡くなっている。その顔や性格を覚えていないわけではないし、有名なマジシャンとして大活躍していた姿も覚えている。我が母は我が父のアシスタントとして、同じステージに立っていて、二人とも憧れを僕に与えてくれた。
「思春期の男子に相談の一つはしてほしいものだが」
同い年くらいの女の子と同居というのは、僕でも気にせずにはいられない。
「心配は無用よ、奏水。してもいいし、邪魔はしない」
何を、とは問うまでもない。しかし、相談があったとしても、我が母のことだ。僕が全力で反対でもしない限り、結果は同じだっただろう。そして僕には、全力で反対する気はない。思春期の男子として、一つ屋根の下で綺麗な女の子と暮らすというのを、何としても拒絶したいという強い意志はないのだ。
「よかったね、シルフィムさん。それじゃ、明日は私たちと一緒に街を歩いてみない? 今日でもいいんだけど、色々お勉強しないとだし」
「そうだな。この世界の最低限の知識くらいは、覚えておこう。私に蘇生魔法が使えたなら、ここまで悩むこともなかったのだが……仕方ないな」
「蘇生魔法が使えても悩んでほしいが、仮定の話は無駄だ。探偵として、この世界の犯罪についての知識はよく理解している。ちゃんとついてこい、シルフィム」
「ああ、教えてくれ、奏水。……ところで、探偵とは何だ?」
色々と教えるべきことはあるが、最低限なら一日あれば問題ないだろう。これまでの情報から推測するに、シルフィムの世界とこの世界の違いは、治癒魔法や蘇生魔法の有無によるところが大きい。世界の作りや文化から全く違うのでないなら、共通した部分も多いだろう。そうでないとしても、教えていれば相違点に気付くことができる。
これはシルフィムにとっても、僕たちにとっても、必要なお勉強なのである。
シルフィムも綺麗だが、木立も可愛い女の子だ。昨日のお勉強には途中まで木立も参加していて、その中で僕たちの年齢の話も出た。シルフィムは十六歳、僕が十五歳、木立が十三歳であり、年上ではあるが一年先輩程度の差であることが判明した。
つまり、僕たちは歳の近い男女三人であり、その中に男は僕一人。僕たちの暮らす都宮市の宮丘町は、市立の小中高がある若者の多い街。周囲の視線が集まりやすいのは承知の上だったが、その中に一人だけ、大人が混じっているのが目に留まった。
若い男だが、背は低く目測では百五十五センチ前後。そして、その視線は僕たちだけでなく、道を歩く全ての人々に向けられていた。ただ、やはり剣が気になるのか、シルフィムに対してだけは他より多い注意を払っている。
だが、彼は何もすることはなく、しばらくしたら姿を消した。何かをするつもりなのは明白だが、今はまだ時ではない。そういった様子で、その男は去り際にほくそ笑んでいた。
敵の蠢き
姿を消した男は、剣を持った少女を見て、驚きと期待を胸に抱いていた。ほくそ笑んで姿を隠した路地裏で、男は静かに独り言を口にする。
「あれは違うね。でも、やるね!」
テンションの高いその声は、路地裏の外にいた人の耳にも少し届いていたが、その意味を理解できたものはいなかった。
一段落