駆け抜けせくすてっと

本編


第六話 頼られ日和

   ――水無月が近づく頃に(執筆者 土岐朱通)

「朱通先輩! 私に勉強を教えてください!」

 瑠美奈にそう頼まれたのは、ある日の放課後のことだった。後ろには一羽の姿もあるが、彼は特に何も言わないので瑠美奈一人の頼みらしい。

「なんで俺を名指しに?」

 後輩が先輩に勉強を教えてもらう、というのは不思議な話じゃない。けれど、他の三人を無視して俺を名指しした理由がわからなかった。もっとも、優弥は部活があるし、沙由は普段が普段だからおかしくはないから、残るのは文月だけだ。

 得意教科というのも一応あるが、俺も文月もどれかに突出するよりまんべんなくこなすタイプだし、一年生の教科ならどちらでも問題なく教えることができる。

「こういうのは男の先輩に教えてもらう方がいいシチュエーションだと思うんです」

「ふむ」

 ちょっと考えてみると、その気持ちはわからなくもない。俺に限らず、男なら大半が同じような状況なら男より女を選ぶだろう。瑠美奈の場合はその逆だ。

「朱通、保健体育は詳しくないよ」

「教科は?」

 沙由の一言には特に言葉を返すことなく、俺は瑠美奈に尋ねる。

「保健体育です」

 返ってきたのは予想外の答えだった。真面目にしているから特に変な意味はないとしても、どうしても反応が遅れてしまう。

「……じゃあ、僕は部活があるから。あとは二人でごゆっくり」

「私も優弥についていくね。部活の様子、見てみたいし」

 優弥は動揺して何か勘違いをしているようだけど、文月は違う。一羽の平然とした様子を見れば変な意味でないのは明らかで、それに普段の彼女が気付かないはずがない。

 とはいえ、俺の様子を見て楽しむのが目的ではなく、優弥で遊ぶのが目的だろうから気にしないことにする。前者の場合は沙由や一羽も連れ出さないと成立しないし、それ以前にここは教室だから他の生徒もまだ残っている。すぐに二人きりになるのは不可能だ。

「普通の保健体育でいいんだよな?」

「普通じゃないのもあるんですか?」

「一羽に聞けばわかる」

 名前を出されてびくんと身体を震わせる一羽。話題が話題だから当然の反応だ。

「僕より先輩の方が詳しいでしょう」

「どうかな。沙由の言葉に嘘はないぞ」

「僕だって、姉がいるからそんなに詳しくないですよ」

 二人の会話の意味がわからず、きょとんとしている瑠美奈。ここで追求されても困るので俺も一羽もそこで話を打ち切る。それと同時に、沙由が瑠美奈に耳打ちして、彼女の顔を真っ赤にさせていた。どうやら一足遅かったようだ。

「沙由、変なことは話してないよな?」

「うん。一般論を伝えただけ」

「ならいい」

 一羽はやや不満そうな顔をしていたが、もう取り返しのつかないことだからと諦めているのも表情から伝わってきた。もう一人の後輩はまだ頬を赤らめたまま動かない。

「瑠美奈、その状態でも聞こえてるよな?」

 なかなか戻らないのでそう問いかけて、瑠美奈の反応を見る。彼女が小さく頷いたのを確かめて、俺は言葉を続ける。

「俺は勉強を教える気はないからな」

「……そうですよね。保健体育なんて教えたら、変な気持ちになりますよね」

 沙由のせいで変な勘違いしているようだけど、予想できたことなので慌てることはない。

「赤点ばかりというなら考えてもいいが、そこまでじゃないんだろう?」

 瑠美奈は首を横に振った。彼女の代わりに、隣の一羽が中学時代の瑠美奈の成績を伝えてくれる。他の教科は問題なかったものの、保健体育の成績は一桁だった。

 思ったよりも深刻な状態らしい。俺も保健体育は得意というわけではないが、授業で習う程度の保健体育ならそれなりの成績だ。一年前に習ったことなら簡単というタイプの教科ではないけれど、教えるのが難しいわけではない。

「なら仕方ないな、教えよう」

「じゃあ私にも数学。それと化学に物理、あとは……」

「瑠美奈には教えると言ったが、沙由には言っていない」

「わかってる。冗談」

 あくびをしながら沙由が言った。沙由の成績は中の上で結構いい方だから、俺が教えなくても問題ない。ほぼあり得ないことではあるが、もう少しやる気を出せばさらに上だって狙えるだろう。

「でも私も一緒に教えたい。一人だと瑠美奈が危険」

「ああ、誰かさんが変なことを吹き込んだせいでな」

「でも、密室で二人きりなわけじゃありませんし、朱通先輩もさすがに……」

 真面目な顔をして瑠美奈が言う。とりあえず、彼女の誤解を解いておかないと話が進まなそうだ。一羽はまた自分に矛先が向くことを警戒しているのか、さっきから我関せずの態度を決め込んでいる。

「でも気をつけてね。瑠美奈を狙ってるのは朱通だけじゃなくて、他にもいるかもしれない」

「……そこで僕を見ないでくれるかな」

 視線を向けられた一羽は、そもそも僕は一緒に教えてもらうわけじゃないし、と疑いの目を避けるのに便利な言葉を口にする。そこで何かを思い出したように、瑠美奈は沙由に視線を向けた。

「そうですね。気をつけます」

「うん、そうした方がいい」

「俺は狙ってないからな」

 誤解を解くのために口にした言葉だったが、瑠美奈から返ってきた反応は意外なものだった。

「それはそれでショックです。というか、私だって本気で襲われるかもしれないなんて思ってるわけじゃないですよ」

 笑顔を見せる瑠美奈。勘違いをしていたのは最初だけ、いやそもそも最初から勘違いなんてしていなかったのかもしれない。ふと沙由を見ると、彼女も小さな笑みを浮かべていた。それで理解する。瑠美奈の行動は沙由の入れ知恵に違いないと。

 とはいえ、追求したところで面白そうだったからと答えられるだけだし、特に不利益を被ったわけでもないからら、あとで念のため確認するだけにしておこう。

 沙由はたまにこういう行動をするのはわかっていたが、どうやら俺も疑いをかけられてちょっと動揺していたようだ。ふと、前に抱きついたときのお返しかとも考えたが、あのときの沙由の様子だとそれはないなと思い直す。

 こうして俺は瑠美奈に保健体育を教えることになった。今日は用事があるとのことで、教えるのは今度の休みの日、場所は夕吹市にある一番大きな図書館に決まった。

 そして休みの日。天気は晴れていて、これから崩れる心配もなし。出かけるにはもってこいの一日だ。十時に図書館で直接待ち合わせをした俺、沙由、瑠美奈の三人は、図書館内の向かい合って座れるスペースを目指す。

 その途中、沙由が離脱した。自分は勉強を教える側でも教えられる側でもないからと、何か読む本を持ってくるという。

「早速ですけど、わからないところ聞いていいですか?」

「ああ、俺が答えられる範囲なら」

 先に席に着いた俺たちは、沙由の到着を待たずに勉強を始める。聞かれない間は暇だから、俺も何か本を選んでおけば良かったかと思ったが、教科が教科なので、瑠美奈の質問が止むことはほとんどなく、その心配は不要だった。

 数十分後、じっくり本を選んだ沙由が何冊かの本を手に戻ってきた。そんなに読めるのかと思ったが、何冊かは保健体育に関する資料のようだ。もっとも、普通の保健体育には必要ない範囲に触れている本ばかりなのはタイトルからも明らかだったので、無視して質問に答えることに集中する。

 瑠美奈も一瞬タイトルに目にやったが、首を傾げるだけですぐに質問を再開した。彼女にはタイトルだけでは何のことかわからなかったらしい。

 そうして勉強を続けて一時間ほど経過した。瑠美奈はまだ質問したいことがあるようだが、疲れたのか質問のペースが少し落ちてきている。俺は休憩することを提案したが、もう少しで終わりますから、と瑠美奈は休憩する気はないようだ。

 真面目だなと思う反面、普段からこの調子なら保健体育だけでなく、他の科目の成績も良くなるのではないかと思う。もっとも、この状況だからこそ集中できるというのもあるし、誰かのように面倒だから普段は手を抜いているわけでもないだろう。

 それでも集中できるコツを教えれば変わるかもしれないが、俺はそんな方法を知らないので教えることはできない。そもそも、そんな方法が確立されていたら、日本中の勉強で悩む学生たちの間で自然と広まって有名になっているはずだ。

 そしてペースが落ちながらも、なんとか全ての質問を終えた瑠美奈は大きく息をついた。それを見て、俺も力を抜く。

「ありがとうございました。これで何とかなりそうです」

「どういたしまして。これくらいならいつでも、とは言わないが」

「わかってます。私も何度もこんな疲れるようなことしたくないです」

 初歩的な質問からやや難しめの質問まで、一時間以上にもわたって続けていたのだからそれは当然だろう。答える側の俺だってもう少し続くようなら、こちらから休憩したいと言いかねないくらいだったのだから。

「……終わった?」

 沙由が顔を上げて聞く。読書に集中していたのか、やや遅れて勉強が終わったことに気付いたようだ。俺たちが答えると、沙由は本を開いたまま返事をする。

「いまいいところだから、私はまだ読んでるけど、二人は?」

 再び本に顔を戻して、沙由は俺たちの答えを待つ。帰るにしても、どこかで昼を食べるにしても、まだ時刻は十一時半だ。空腹なら早めでも問題ないが、そこまでお腹はすいていない。

 瑠美奈も同じように思ったのか、俺たちはもう少し図書館にいることにした。様々な種類の本があるから時間を潰すのは容易だ。

 適当な本を選んで読んでいると、時間はあっという間に過ぎていった。

「朱通、お昼ごはん」

「高いのはおごらないぞ」

 沙由がこう言うのは、家に親がいなくて一人で料理を作るのが面倒なときだ。何度もあることなのですぐに反応したのだが、瑠美奈にはそれが凄いことのように見えたようで、羨ましそうな視線を俺たちに向けてくる。

「先輩、私も一緒にいいですか? 一人で食べるのも寂しいですし」

「家はいいのか?」

「はい。元々外で食べる予定でしたから」

 言って瑠美奈は財布を見せる。おごってください、というわけでないなら特に断る理由もないので、俺はすぐに承諾した。沙由はじと目で俺を見ているが、あれはお腹がすいたから早くしての合図だ。

 俺たちは近くのファストフード店に向かう。沙由はいつものようにハンバーガーとポテト、ドリンクを注文する。俺と瑠美奈もそれぞれの食べたいものを注文した。といっても、主にハンバーガーの種類やポテトのサイズが変わる程度だが。

「朱通先輩、いつもこうだと大変じゃないですか?」

「そうでもない。ちゃんとお礼はもらっているからな」

 そうでなければそれなりの頻度でおごるなんてことはしない。これのおかげで、普段はやる気を出さない沙由のやる気を引き出すことができるのだ。普段はともかく、いざというときにはかなり役立つ。

「うん。体で払ってる」

「そうですか。大変ですね」

 ポテトをつまみながら平然と受け流す瑠美奈。だが、周囲の人には誤解を生みそうな発言なので、そういう意味じゃないからな、と言っておく。

「違ったんですか?」

「……言って正解だったみたいだな」

「私もこの程度のお金でそんなことしない。せいぜい……ううん、言うのはやめておく」

 瑠美奈は誤解が解けたようだが、このあとに沙由が何を言おうとしていたのかはわからないようで、首を傾げて俺に視線を向けていた。とりあえず俺は、沙由の力を借りた場面をいくつか挙げて答えることにした。また変な誤解をされたら厄介だ。

 食事を終えた俺たちはそれぞれ帰路に着くことになった。といっても、沙由と瑠美奈はその辺の店を見て回るというので、直接家に帰るのは俺一人だ。

 帰る途中、一羽の姿を見かけた。隣には一音もいたので、姉弟でどこかへ出かけているのだろう。距離も離れていたので声はかけなかったが、俺の姿を見つけた一音がこちらに駆け寄ってきたので、近づいたところで挨拶することにした。

「一羽から聞いたよ。両手に花のデートだって?」

「だとしたら、今一人でいる俺は二人に振られたってことになるな」

「本当にそうだと面白いんだけど、どうせ違うんでしょ?」

「ああ。当然だ」

 一音は落胆のため息をつくが、予想通りの結果だったのですぐに立ち直った。その頃に、急がずに歩いてきた一羽が到着する。

「朱通先輩は一人ですか?」

 着いて早々、軽く挨拶をしてから一羽が言った。一音との会話がどうでもいいことだと遠くからでもわかったのは、さすが弟といったところか。

「見ての通り。瑠美奈か沙由に用事があったのか?」

「一羽に告白する勇気なんてないと思うけど……」

「いえ、用があるのは朱通先輩です」

「一羽、お姉ちゃんは理解あるよ」

「一音はいいのか?」

 さっきまで何か言い続けていた一音は、俺たちに無視され続けたせいか、つまらなそうな顔をして黙ってしまった。

「はい。たまたま出かける用事が重なっただけですし」

「そうか。用件は?」

 聞くと、一羽は参考書を探しているとのことだった。やや専門的なもので、一音に聞いてもわからなかった。そしてその姉に俺を頼ればいいと教えられたそうだ。正直、その手の分野は俺より沙由の方が得意だが、よく一緒にいるだけあって俺もある程度の知識はある。

 一羽の探している参考書は俺も知っているものだったので、どこにあるかすぐに教えることができた。一羽は感謝の言葉を述べると、すぐに教えた書店へと早足で向かっていった。

 売り切れている可能性もなくはないが、わざわざ言う必要はないだろう。残された一音は自分の目的地へと向かわず、じっと俺を見つめていた。

「どうしたんだ?」

「朱通くんって、意外と優しいよね」

「そうか。それで?」

「それに見た目も悪くない。少なくとも三回は告白されたのは知ってるけど、なんで付き合わないの?」

 その情報をどこで仕入れたのかは聞かないでおくことにしよう。それくらいなら普通に調べても得られる情報だ。実際に告白された回数を完璧に言い当てられたら、普通じゃない方法を使っている可能性も考慮しなければならないが。

 俺は一音の質問にどう答えようか少し考える。何となくそういうのに興味がないから、というわけではないのだが、そのまま答えると誤解を招く可能性もある。

「私の推測では、沙由ちゃんがいるからというのが有力なんだけど」

「なんだ、わかってるじゃないか」

「そりゃね。新聞部二年のエースだし。でも、それが保護欲なのか恋愛感情なのか、それともその他の感情なのかはわかんない」

「恋愛だけはないな」

 とりあえずそれだけを否定しておいて、俺は考えてみる。沙由がいるから付き合わない、という場合、沙由への感情はどう表現するのだろうか。保護欲、というほど保護しているわけでもないし、何と言えばいいのか。やがて、俺はもっとも適切であろう表現に辿り着いた。

「幼馴染みゆえの腐れ縁、みたいなものだな」

「なるほどね。家族的な感覚?」

「だろうな。兄と妹なのか、姉と弟なのかはわからんが」

「そう。ありがとね。それじゃ、私はそろそろ行くから」

 言うが早いか、一音は俺に背を向けて歩き出した。その後ろ姿を眺めながら、俺はもう一度沙由との関係について考えてみる。しかし当然ながら、結果は全く変わらなかった。

 今後、それらが変わることがあるのだろうか。もしあるとしても、これだけは確信を持って言える。どれだけ変わっても、沙由との距離が大きく離れたり、縁が切れたりするようなことはないだろうと。

      ***

 ――皐月の終わりは何事もなく。平和に水無月へと流れゆく。


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