翌朝。槍の領主の言葉通り、緑の傷は完治していた。
「緑、本当に大丈夫?」
食堂のいつもの席。和やかに朝食をとってから、水樹が心配そうな顔で聞く。
「大丈夫さ。受けてみてわかったんだけど、あの水の槍は見た目ほど強くないみたいなんだ」
緑と水樹は既に食事を終えているが、織乃は今日もプリンをスプーンですくっている。今日のプリンはサポートを受けずに作った、自慢の手作りプリン。普段より甘さ控えめ、それでいてコクがあり、量も普段の倍はある特製のプリンだ。
「そうなの?」
「ああ。単純に水だけなら、水樹の方が強いんじゃないかな?」
「え?」
水樹は戸惑いの表情を見せて、首を傾げる。織乃はプリンを一口。大きめな最後の一口を十分に味わってから、二人の会話に加わった。
「手加減してたようには見えない。つまり、本気を出してその程度」
「本気……じゃあ、つまり」
織乃の言葉で、水樹も理解する。それをはっきり口にしたのは緑だった。
「水の槍は奴にとって、補助みたいなものなんだろうね」
その言葉で会話は終わり、三人は丁寧に食器を片付け始めた。
「十日後は決戦ですね。みなさん、今日からはいつも以上に心を込めて訓練を……」
「睡蓮さん、やる気ですね」
今日の訓練を開始する前。エントランスのモニター前に集まった三人は、睡蓮を呼んで訓練内容について確認していた。モニターの先の睡蓮は、三人以上にやる気を見せていて、映った途端に話を始めていた。ちなみに、報告を受けた昨日からこの調子である。
「当然ですよ。影の兵士を束ねる存在と戦う機会が訪れたのです。何者かはわからなくとも、倒すことができれば人類にとっては今までにない大勝利です」
「そうね。兵士より強い影を倒すなんて、かの英雄もできなかったこと。私はどうでもいいけど、緑にとっては重要でしょう?」
「それは、はは……正直、俺も睡蓮さんの気持ちはよくわかるよ」
「あはは。今から倒せる前提で話すのは気が早いと思うけど、少なくとも引き分け以上には持ち込まないといけないもんね。次は見逃してくれないだろうし」
水樹の言葉に、他の二人が頷く。気が早くても、到達すべき目標は変わらない。なら今は、そこに到達するために訓練を続けるだけだ。
睡蓮はそんな三人を微笑みとともに少し眺めてから、昨日のうちに考えておいたという訓練計画を彼らに話し始めた。緻密にして、迅速に、高みに到達するための訓練。これまでの訓練や戦闘で得た情報を基に考え抜かれたもので、日数は五日分。
「残りの五日は?」
一通りの説明を受けてから、緑が素朴な疑問を口にした。
「五日間の訓練次第ですね。正直、敵は今のみなさんより遥かに強いです。普通に訓練しただけでは絶対に勝てないのは……ふふ、みなさんが一番わかっているんじゃないですか?」
その言葉は真実であり、槍の影と直接対峙した彼らが直感的に理解していることでもあった。
「さて、伝えることは伝えました。みなさん、早速訓練を開始してください」
三人は頷いて、伝えられた訓練を開始することにした。
施設の外、すぐ近くの開けた場所。織乃が漆黒の剣を生み出し、彼女に対面するのは緑と水樹の二人。最初の訓練内容は、二対一の模擬戦闘。特に順番は指定されていないが、緑は一日傷で動けなかったので、負担の少ない二人側に。
こういう形の模擬戦闘なら、今までの訓練でも何度かしている。しかし今日の訓練はいつもと少し違う。二人は全力で融和した欠片の力を使い、それを一人が相手にする。
第二訓練施設での訓練や実戦を経てやや変化はしているが、ほぼ拮抗した三人の実力。二対一では訓練になるのか不安を口にした彼らに、睡蓮はこう答えた。
「今のみなさんなら、きっと大丈夫です。影の融和を学んだことにより、個々の力も上昇しているはずですから。気合だけで力を高められるほど、影の力は甘くないですよ」
彼女の言葉の意味を、唯一自身で確かめたことのある織乃が、最初に一人側につくのは自然な流れだった。
「じゃ、本気でやらせてもらうけど……緑、調子は万全?」
「ああ、心配はいらないよ。水樹!」
念のために再確認した織乃に、緑は元気に返事をする。
「うん。こっちも全力で、だよね!」
水樹は青の翼を広げて、一本の武器を作る。細長く変幻自在の水の槍。それを振るうのはもちろん緑で、基本的な槍の扱いは彼の実力次第。しかし、変幻自在な動きを実現するのは水樹の力であり、互いの息が完璧に合っていないと使いこなせない武器だ。
「へえ、まさに模擬戦闘ね」
「だろ? それじゃ、行くよ!」
突き出された水の槍の一撃を、漆黒の剣が軽くいなす。しかしそこで水は二股に分かれ、強烈な水流となって左右から織乃を襲う。
「確かに、この威力……水樹の方が上ね」
後方に回避しながら織乃が呟き、緑も笑顔を見せる。今の操作に緑は力を貸していない。ほとんど水樹一人で、これほどの威力になったのである。
「本当だ。やっぱり、これが本気じゃないんだね」
水樹はやや驚きつつも、戦うべき敵の底知れない力に苦笑する。
「次は……倍……いや、もっと!」
槍の先から放たれた十本の水流。それぞれの威力は先程と変わらない、緑と水樹の力を融和してこそできる攻撃。織乃は最初の牽制用と思われる、狙いの甘い二本は〈目〉で見て回避し、残りの八本に対しては剣を上に構えて対峙する。
大きく息を吸って、吐くと同時に一閃。
「はっ!」
軽く振り下ろされた一撃。影の武器は欠片の力が本質であり、重要なのは腕力ではない。漆黒に輝く剣は、織乃の持つ欠片の力によって研ぎ澄まされる。
集中とともに放たれた一撃は、彼女の前方から襲ってきた五本の水流、そして左右と上から包囲するように伸びてきた三本の水流を、一瞬で打ち消した。
「これは……」
「うそ……あたし、全力だったよ?」
「俺もさ。それを一撃、か」
感嘆の表情を浮かべながら、肩をすくめる緑。織乃の一撃で彼の持つ水の槍もぼろぼろになっている。すぐに修復も可能だが、その必要はないと彼は判断していた。水樹の方は、驚きで新たな水の生成を忘れているだけである。
「意外といけるものね。さすがに、後ろからも狙われたら無理だけど、前に比べても消耗は少ない。……まだまだ、実戦で使うには訓練が必要ね」
「次、すぐにいけるかな?」
落ち着く間もなく、緑が二人に聞いた。
「そうね。緑となら。水樹、一人で私たちの守りを破りなさい」
織乃は頷き、驚きの余韻がまだ残っている水樹を名指しする。
「え? あたし一人で? できるかな……ううん、やらなくちゃだよね。けど、緑の〈特別〉と織乃の〈目〉を、私の〈翼〉だけで、かあ。少し考えるね」
特別と目によって、守りに徹する二人に、彼女の翼だけで攻撃を通す。これまでの実力を考えたら不可能なことだが、織乃のようにこれまで以上の実力を発揮すれば話は別。問題は、ただ欠片の力を高めて放つだけではおそらく破れないこと。
(素早く風で……ううん、それとも炎で一気に……闇で包み込む? 雷で上から? 氷で一気に貫くか、足場……土で崩す、大量の水で押し流す……ううん、どれも足りない)
水樹は得意とする翼の力を一つ一つ確かめ、どうやったらいいかを考えるが、どれも二人の融和の前には届かないと判断する。元々回避に長けた織乃の目に、緑の特別が加われば守りは磐石。
「……なら、こうするしかないよね!」
既に構えて攻撃を待っている二人に、水樹は闇を放つ。視界を奪う暗き闇と、精神を蝕む闇の霧。もちろん、それだけなら二人の守りは破れない。だが、水樹が放ったのは闇だけではなかった。
闇の霧に隠れるように、緑と織乃に忍び寄るのは水の霧。織乃の剣と、緑の払った手で霧の多くは払われるが、僅かな霧と二人を包む闇は未だ残っている。
残りを彼らが払う前に、二つの霧とともに放たれた三つ目の攻撃――小さな氷の粒が彼らの足元に集まり、二人が闇を払った瞬間に結晶化する。
「……おっと」
「なるほどね。でも、これだけじゃ……」
他の放たれた力がないことは、織乃も緑も気付いていた。気付いたときには対処が間に合わないこともわかったので、問題となる次の攻撃への守りを固める。
「ふふん。あたしが残ってるよ!」
声が聞こえたのは、斜め上の上空。黒と青と水色の翼。三対六枚の三色の翼を背に生やした水樹が、二人に向かって急降下していた。
「はあっ!」
足を封じられて回避のできない織乃に、水樹は空から拳を叩きつける。斜めに鋭く、上方から放たれる拳。織乃も剣を構えるが間に合わず、その間に緑は氷を溶かしていたが、彼が織乃と合流した頃には既に水樹は空へ飛び、次の一撃を放っていた。
「炎雷――風土っ!」
単純につなげただけの、単純な攻撃。赤、黄、白、緑。四色の八枚翼を広げ、前方に拳を突き出す水樹。空からは激しい雷が煌めき、地面からは土の槍が四方から、横からは烈風が襲いかかり、隙間を埋めるのは熱き炎の波。
四つの放たれた力は緑と織乃の身動きを完全に封じ、それらが収まるのを待つように水樹は翼をはためかせて静かに地上に降り立った。
今度は追撃はしない。追撃の必要はなかった。二人の身動きを封じた水樹の攻撃は、あえて彼女がそうしたものだから。直撃を狙えても、模擬戦闘の訓練で狙う必要はない。
「あは、上手くいってよかった」
「さすがね、やるじゃない」
「はは、成功してくれてよかったよ」
水樹の成功を二人も喜ぶ。特に安心した表情を見せたのは緑だった。
「ふふ。そうね。まだ緑には防げないでしょうし」
「ああ。でも、俺もすぐに追いつくさ」
仮に水樹の狙いが外れて、二人に直撃したとしても。織乃が二人の融和を防いだ力を――最大の力を発揮すれば防ぐことは可能だった。自分のときと状況を同じにするためというのも一つの理由だが、大きな理由はもうひとつあった。
「さて、俺のときも抑えてくれるのかな?」
「もちろんよ。でも、抑えるというより……」
「だね。全力でやると、干渉しちゃうと思う」
「そうか。さすがというべきか、なんというか……ま、今は追いつくことに集中しないとね」
三人が個々の力を高めた次の訓練内容は、融和の訓練だった。それも初歩的な、彼らが既に到達しているはずの融和を目指す訓練。説明を受けたときには、織乃でさえも理解できないでいたが、二人が高まった力を示した今ならはっきり理解できる。
緑だけはまだ完全に理解してはいなかったが、それも時間の問題。この後、二人に追いつくように、そして休んでいた一日を取り戻すように、高まった力を示したときには彼も完全に理解していた。
新たな融和の訓練に当てられた期間は、今日も含めた二日間。睡蓮の予想は正確で、難なく訓練を終えられたのはここまでだった。ここまでが順調なのではなく、ここまでは予想通りの結果。三人は改めて睡蓮の能力に感心するが、感心してばかりもいられない。彼女が予想できたのは十日間の訓練の内、前半の五日のみ。後半の五日こそが訓練の本番なのだから。
それから二日の訓練を無事に終えて、残りの三日――さらに高まった個々の力を確認し、より高度な融和を目指す基礎訓練の繰り返しだった――も問題なく終了した。
彼らとしては予想を覆すような結果を目指していたが、終わってみれば最後まで睡蓮の予想通りの日数が経過していた。時間にしてもほぼ予想通りで、数分早かったのは誤差の範疇であろう。
「みなさん、よくやり遂げましたね」
五日目の訓練を終えた夜。エントランスのモニターの前。睡蓮の言葉に三人は微笑みを見せるが、満面の笑みではない。この五日で彼らの実力は相当向上したが、それでも槍の影と戦うには力不足。残りの五日も同じような訓練をしていては届かないし、それどころかもっと長く訓練を続けたとしても、おそらく敵わない。
槍の影に勝つ力を得るには、地道な訓練だけでは届かない何か。それを得なくてはならないと、ここにいる誰もが――モニター越しの睡蓮も含めて――理解していた。
「やっぱり、みなさんにはもっと仲良くなってもらわないといけませんね」
「睡蓮さん、冗談のつもり?」
唐突な、それでいていつもと変わらぬ彼女の言葉に、織乃が呆れた顔で尋ねた。
「私は真面目ですよ?」
笑みを浮かべながらも、睡蓮の目は真剣そのもの。彼女の目を見て、三人は顔を見合わせる。
「残りの五日、予定通りに訓練内容はみなさんにお任せします。今日までと同じような訓練をするのも、より激しい訓練をするのも、お休みするのも自由です」
「お休みって……正気?」
怪訝な視線を織乃が露骨に向けても、睡蓮は笑顔を崩さなかった。
「でも、激しい訓練をしたからといって、正直……」
「それは、認めるしかないわね」
しかし、緑の言葉には素直に頷く。
「五日もあれば、たっぷり遊べるね。あたし、考えとくよ!」
「いや、さすがにずっと休むのは」
緑は睡蓮の顔を見る。彼女はまだ笑顔のままで、そうしたいのならそうしてもいいという答えを無言で伝えていた。
「俺としては気になるし、織乃もそうだよね?」
だから緑は彼女に頼らず、自分の言葉としてもう一人の意思を確認する。
「そうね。せめて三日といったところかしら。でしょ、緑?」
「そうだね。けど、織乃は二日だと思ってた」
「あら、当然よ。二日じゃ水樹の計画に問題が出るでしょうから」
微笑を浮かべて織乃は水樹を見る。水樹も微笑で返し、一人首を傾げるのは緑。
「だよね。緑ー、細かい予定はまだだけど……決まってることだけ伝えておくね」
「決まってること?」
鸚鵡返しに緑は言った。
「うん」
対して水樹は笑顔で返し、織乃と軽く目を合わせてから再び口を開いた。
「明日はあたしとデートで、明後日は織乃とデート。これが緑の予定ね?」
「ええと、睡蓮さん?」
緑は困った顔で、モニター越しの相手を頼る。
「よかったですね、緑くん」
「いやそうじゃなくて」
しかし返ってきた答えは水樹の提案を認めるもので、彼は別の言葉を求めた。
「私は既に、みなさんに自由を認めています。恋愛も自由です」
「恋愛って、水樹」
今度は提案した本人に確認する緑。
「織乃はわかんないけど、あたしは……あ、続きは明日ね」
水樹は織乃を横目に、少しも悩む様子を見せずに答えた。
「私は明後日まで答えないから」
緑に視線を向けられるより早く、織乃が言った。仕方なく緑はモニター越しの人物、連崎睡蓮を頼りにする。
「緑くんが休んでいる間、水樹ちゃんと織乃ちゃんは仲良くなりましたからね。緑くんとも同じことをして仲良くなろう、ってことじゃないんですか?」
「それは……まあ、ちょっとは感じてますけど」
元々、女の子同士で隣の部屋。水樹と織乃が仲良くなりやすいのは当然で、それは緑が休んでいる間にも継続していた。五日間の訓練中も緑はそれを感じていた。今の三人の関係を表す図形は、二等辺三角形。緑は大事な頂点だが、二人との距離は若干離れていた。
「解決ですね」
「そういうことにしておきます」
緑もようやく諦めて、水樹の提案を呑むことにした。けれど、先に夕食の準備に向かう二人を見送ってから、モニターに映る相手にどこまで助言をしたのか尋ねるのは忘れない。結果、最後まで助言はしていないことは確認できたので、緑も二人を追いかけることにする。
そんな彼の背中に向けて、睡蓮が二言。
「でも、一番興味があるのは緑くんでは? 美少女二人、さらにモニターの先にはとっても綺麗なお姉さんまで……特に最後は若い少年には」
「否定はしませんけど、モニターの先は無関係です」
背後からかけられた声に緑は振り返らずに答えて、三言目は最後まで言わせなかった。