緋色の茜と金のオルハ

二 金のオルハ


 翌朝。湯木原浴衣は胸のあたりに重さを感じて、ぼんやりと目を覚ました。

「おはよう浴衣くん」

 横から聞こえてきた女の子の声。彼は耳元で笑っている茜を見た。髪の毛は小さなリボンでサイドアップテールに結ばれている。これが普段の髪型で、普段の少女に浴衣は言った。

「これ、何かな?」

 彼の体の上に乗っていたのは、小さくて白い何か。何かとしか形容しようがない、何かである。クッションのような柔らかさなのに、ずっしりとした重さを感じる白いもの。

「『ホワイトふんわり身体測定器』だよ。あと五秒で終わるから待っててね。いざというときのために、浴衣くんの身長体重性的な弱点その他諸々を、ほんの一分で全て解析しちゃう優れもの! 未来ではこれで盗んだ知識を使って、偽の浮気をたくさん生み出して離婚率を飛躍的に高めようとしたんだけど、正義の味方に邪魔されてむしろ愛が深まる結果に」

 解説している間に五秒は過ぎて、茜は小さくて白い何かを回収する。野球ボールくらいの大きさの中に何が詰まっているのか。不思議に思って浴衣が聞こうかどうか迷っていると、彼の目の前でさらに不思議なことが起こった。

 茜がスカートの中にそれを軽く放り投げると、白い何かは落ちることなく消えていた。

「今、何したんだ? ホワイトやんわり……うん?」

「ふんわりだよ。言いにくいなら『ホワふわ』でいいよ」

「ホワふわがスカートの中に消えた」

 指示された略称をすぐに覚えて、浴衣が改めて尋ねる。

「女の子のスカートの中は秘密がいっぱいだよ。まあ、マジックみたいなものかな? 量子的に分解保護してやんわり理論を応用した未来技術! 理論、説明する? この時代だと、小学校卒業くらいの知識は必要だよ」

「小学校でいいのか」

「うん。大体足し算とか引き算の組み合わせだよ。やんわり理論はその名の通り、やんわりしているから。五十時間かかるけど、学校大丈夫?」

「さて、起きるか」

「基礎だけなら五時間で」

「遅刻どころじゃないな」

 浴衣はベッドの上で体を起こして、茜を追い出してから着替えを済ませる。

「学校には?」

 登校時間。ソファに座ってくつろいでいる茜に、浴衣が言った。静かな朝の家。湯木原家では朝にテレビはつけない。それどころか、昼や夜もあまりつけることはない。

「じゃあなんでテレビ?」

 食事前にその話を聞いた茜が質問すると、

「それ」

 浴衣がローテーブルに乗せられた数台のゲーム機を指差した。

「あ、これ置きっ放しなんだ。エロゲーマー浴衣くん」

「そういうのは十八歳未満お断りだ」

「三年後には、浴衣もめでたく仲間入りー」

「しても親の前ではやりたくない」

「そうねー。恋人や夫婦ならそのままできるけど……」

 そんな会話があってから、スコッチエッグにジャムトースト、紅茶に旬の野菜が並んだ朝食が終わり、登校時間がやってきた。

「ついてはいかないよ。外までお見送りと、学校までお出迎えをするだけ」

「それはそれで少し困ることがあるな。それと、放課後はすぐに帰らないよ」

「可愛い幼馴染みでもいるのかなー。子供の頃に結婚の約束をして、大きくなったら俺と一緒にエロゲみたいなえっちをしよう、だなんて……きゃっ」

 照れた表情を見せる茜の発言の大半は無視して、浴衣は答える。

「可愛い幼馴染みまでは正解だ」

「エロゲみたいなえっちは経験済み?」

「いやしてないし。そもそも子供の頃にそんな知識はない」

「浴衣くんが子供の頃、魔姫さんは大人。エロゲはあったはずさ。そして君がそれを見つける可能性は存在したんじゃないかな、ワトスンくん」

(延原謙訳か……)

 ワトスンの呼び名から彼女が読んでいたホームズの訳者を推察する浴衣。だがここに、ワトスンなる人物は存在しない。

「そうなのかい? ホームズくん。でも私の息子がそんなことをしたとは……」

(乗ってきた!)

 本当に気が合うらしい母の瞬時の対応に、浴衣はこれをどうしたらいいか考える。考えて考え抜いて、登校時間なので無視して学校へ向かうことにした。

「あ、待ってよー」

 廊下を歩いて少ししたところで、気付いた茜が浴衣を追いかける。ホームズワトスンごっこに盛り上がっていて、気付くのになかなか遅れたようだ。

「シャーロキアンに怒られないか?」

「ホームジアンには怒られるかもね」

「日本なら大丈夫、か」

「ワトスンを女の子にしちゃう国だよ」

 そんなゲームもあったな、と浴衣が思っている間に廊下は終点。玄関に到着。

 玄関の外で待ち構えていたのは、一人の女の子。ついさっき話に出てきた、ロングポニーテールの可愛い幼馴染みである。

「ゆかたん、おっはよー!」

 浴衣の姿を見つけた途端、勢いよく抱きついてくる女の子。ほんの少し見上げる形で、浴衣を見上げた視線はすぐに後ろの少女に気付く。

「……誰あの子?」

 すぐに浴衣の体から離れて、女の子は茜の正面に立つ。身長差は浴衣相手より小さいので、あえて見上げることはせずにまっすぐに見る。

「初めまして、緋色茜です。緋色の研究の緋色に、茜の茜。あなたが幼馴染みの女の子?」

「こんどうおるはです。3八金に藤井システム。羽織を逆さに、金藤織羽」

(ホームズに穴熊で対抗……)

「朝から抱きついて胸を押しつけて……あ、ごめんなさい」

 茜は微笑んで織羽の胸を見つめて言った。

「なっ!」

 織羽も同じく茜の胸を見て、反撃する。

「私も胸がないけど、茜さんだって大したことないじゃないですか。中途半端な小ささで、極端に小さい貧乳の方が需要があるんです。それに浴衣には貧乳が似合うんですよ?」

「着物の浴衣と、浴衣くんは別だよ?」

「それが何か? 着物の話ですよ」

 にやりと笑う織羽に、茜は微笑みを絶やさない。遊んでいるのか本気なのか、浴衣には判断しかねるが、とりあえず言うことは一つだった。

「織羽、遅刻するからそろそろ出よう」

「はーい。ゆかたん!」

 腕に抱きついてきた織羽に抵抗せず、浴衣は学校へと向かう。後ろにいた茜は黙って軽く手を振って、二人を見送っていた。

 魂流市立握清高校。魂流市握清町――浴衣たちの暮らす街にある高等学校。学力やスポーツは並の中堅校ながら、美術や音楽の教育水準は高い。その理由は……。

「図書美術博物館?」

 平然と迎えにやってきた茜に、浴衣が告げた行き先の名が繰り返される。もちろん隣には織羽もいて、当然彼女の行き先も浴衣と同じだ。

「正確には、魂流図書美術博物館。十五年前に完成して、生まれた頃からあるんだ。なかなか居心地がいい場所で……」

「私とゆかたんは、いっつも二人でそこにいるんですよ。二人で!」

「ちなみに付き合ってはいない」

 握清高校から図書美術博物館までは、徒歩七分。広い道を三人並んで歩きながら、会話が続く。織羽は浴衣の左隣にぴったりくっつき、茜は彼女を挟んで並び歩く。

 十五年前の図書美術博物館の完成と、二十年前の握清コンサートホールの完成。この二つが完成することがきっかけで、握清高校の美術や音楽の教育水準は高まった。

「可愛くて優しい女の子に告白されて、断った……」

「あ、それ私じゃないですよ。それと、私のせいでもないです」

 茜の呟きに織羽がすかさず答える。立ち位置の優位性から、余裕の態度である。

「ゆかたんは……あ、その前に一ついいですか?」

「ん。なんでもいいよ」

「ゆかたんを狙っていますか?」

「子作りさせてもいい相手とは思ってるよ」

「なに言ってるんですか変態」

 容赦ないなあと思いながら、浴衣は黙って歩く。幸い自分を挟んでの会話ではないので、この位置なら巻き込まれず傍観できる。

「子供を作るのは生命の本能。それに私には、やらなきゃいけないこともあるんだよ」

「やらなきゃいけないこと?」

「そう。でもちょっと長くなるから……」

 図書美術博物館はもう彼らの視界に入っている。話の続きはついてからすることになり、並んだ位置は変わらないまま三人は歩いていく。

 魂流図書美術博物館の入館料は無料。図書美術博物館の各施設に繋がる広場で、話の続きは始まった。広場の中央には大きな彫像。それをゆるく囲むように、いくつかの噴水やベンチが並ぶ。他の来館者もたまに通るが、開けた場所なら遠くの人も視界に入る。風向きと声量に気を付ければ、秘密の話をするにも悪くない。

「……そしてここから世界征服!」

 最後の一言だけ少し声を大きめにして――もちろん近くに人がいないのを確認して――茜は昨日の夜に、湯木原親子にしたのと同じ説明をした。

「悪の秘密組織……正義の味方……ふーん」

(やっぱり信じないよな)

 我が家の母が特殊なだけだと、浴衣は聞いた単語を繰り返す幼馴染みを眺めていた。

「ゆかたんの前に現れたのは事実なの?」

「この目で見たのは、間違いないな」

「そう。ゆかたんが見たなら、嘘じゃないんだね」

(信じたみたいだ)

 しかし浴衣もこれには驚かない。昔から織羽は、幼馴染みの自分を信頼していた。もちろん自分も、幼馴染みの織羽のことは信頼している。多くを知り合う幼馴染みである。

「もう一度、あなたの目的を聞かせて?」

 ただほんの少しだけ、浴衣は今の幼馴染みの雰囲気を不思議に思う。昔から自分に対して積極的で、可愛い幼馴染み。それでいて恋心はどちらにもなく、仲良く過ごしてきた。彼女の色んな姿は見てきたはずだが、今日のような姿は初めて見るような気がした。

「世界征服」

「平和な地球を乱す悪の秘密組織として?」

「未来の技術で簡単に! この時代なら、正義の味方もまだいないでしょ?」

「ふーん……」

 静かに相槌を口にしてから、織羽は一度浴衣に視線を向ける。その視線に込められた意味だけは、幼馴染みとしてすぐに理解できた。

「何か驚くような話か?」

「さすがゆかたん。少し推測も入るけど、私ね、その正義の味方を知ってるんだ」

「本当に? 織羽ちゃん、場所がわかってるなら教えて。今のうちに倒すから!」

 前のめりになって悪いことを予告した茜に、織羽は彼女を横目に冷笑を返した。三人並んでベンチに座っての会話。座り位置はここまでの歩き道と同じく、浴衣の左隣に織羽、そのまた隣に茜。

「残念だけど、あなたには倒せない。私とゆかた――浴衣さんの平穏な暮らしを邪魔しようというなら、全力で砕き潰す」

「え? まさか、織羽ちゃん!」

「私たちはかつて遠い銀河から、地球にやってきた人間。きっと、その正義の味方の先祖。金藤織羽――オルハの名は生まれた星の人名。私はそれくらいしか知らないけれど、あなたの悪を砕く技術は持っている」

「うわあ……」

 茜は驚いた顔で、浴衣に視線を向けた。

「ちょっと浴衣くん。幼馴染みがこんな女の子なら、先に言ってよ! むう……知ってれば闇討ちして私の邪魔をできないように、あんなことやこんなことを……」

「俺も知ったのは今日が初めてだ。というか信じるんだな」

「浴衣さん、信じられない?」

「信じる前に、その浴衣さんというのが気になる」

「家ではいつもこう。ゆかたんは演技」

「それもそれで寂しい」

 浴衣の言葉に、オルハは微かに悲しい表情を浮かべてから、考えた言葉を口にする。

「演技は性格だけ。ゆかたんでも浴衣さんでも、大事な幼馴染みという気持ちは同じ。安心して、学校では元通り。素を見せるのは、浴衣さんだから」

 見つめるようなオルハの眼差しに、浴衣は大きく頷いて言った。

「だったら、気にならないな。織羽のこと、教えてくれないか?」

「……オルハの呼び方が少し気になる。気のせい?」

「これくらいは許してくれないか?」

 漢字をイメージして言おうと、他星の言葉をイメージして言おうと、音声としては全く変わらない。しかしその微妙なイメージにもオルハは敏感で、浴衣は少し驚きつつも妥協を提案した。幼馴染みが嘘を言っていないことはわかっても、まだ実感がないのだから。

「説明したら、大丈夫?」

「保証はできないけど、努力する」

「彼女の前で話すのは……いえ、話すことで抑止できるかも」

「ふ、できるものなら!」

「ややこしくするなら、俺も敵に回りたくなる」

「努力する」

 落ち着いたところで、オルハは語り始める。

「私たちの生まれた星は、遠い銀河にあった。私は知識でしか知らないけど、先祖の話は伝わっている。そこから超文明――地球の文明からするとだけど――で、私たちはやってきた」

(異なる銀河の人間か……異銀河人と呼ぼう)

「生まれた星は寿命で滅びて、どこかに移住するしかなかった。そして長い旅を経て、私たちの先祖が到着した惑星が地球。確か、二百年から三百年前のこと。私たちは惑星の原住民との戦争も覚悟していた。種の存続のために」

「言葉も通じなければ、宇宙からの侵略者にも見えるな」

「そう。だけど、地球の文明レベルは低すぎた。私たちがやってきたことにも気付かないくらいに。未確認飛行物体――UFOとして目撃された程度で、争いは起きなかった。だから私たちは平和に暮らして、それもずっと続くと思っていた」

 オルハは未来からやってきた少女――茜に視線を向ける。

「未来では、平和を脅かす巨悪が誕生して、表に出ることになったようだけど」

「出なくてもよかったんだよ?」

「私は正義の味方じゃない」

「私だって、まだ悪いことしてないよ?」

 茜とオルハが睨み合う。これは間に入らないと長引きそうだと、浴衣が動く。

「茜、それに織羽も、仲良くしてくれないか?」

「……呼び方が気になる」

「だめか?」

「別に、だめじゃない。ただ、なんでもない」

 ちょっとだけ変な気持ちになる。その言葉はオルハの口から出ることはなかった。

「うーん、それにしても困ったなあ。とりあえず浴衣くんを仲間にして、じっくり征服していこうと思ったのに」

「口から出すな」

「浴衣さんを狙うなら、容赦なく砕き潰す」

(ま、ゆっくりやるとしますか)

 今度の思考は口から出さずに、思うだけにした茜。だが流れと表情から、彼女が何を考えているのかはその場にいる二人にもばればれだった。


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