緋色の茜と金のオルハ

一 緋色の茜


 浴槽に溜まったお湯が微かに揺れて、少しだけ浴室の床にこぼれる音が響いた。静かに脚を入れた少年は、ゆったりと脚を伸ばして疲れを癒す。彼にとって、大好きな至高の時間。

 言葉もなく、ただ心地好さに身を任せる少年の顔が、微かに変化する。何かに気付いたような、そんな表情を浮かべるが彼には違和感の正体はわからない。

 直後。

 浴槽に溜まったお湯が大きく揺れて、大量のお湯が浴室の床を流れる音が響いた。虚空から落ちてきた少女は、少年の体に覆いかぶさるように全身を重ねる。

 ここはお風呂場。大胆な入浴方法を披露した少女も当然、一糸纏わぬ姿で美しい素肌を晒して……はいなかった。爽やかな夏服をお湯で濡らし、肌に張り付いた衣服の重さに心地悪さを感じながら、全裸の少年と正面から向き合う。

「こんばんは」

 笑顔を見せて、少年に夜の挨拶をする少女。

「……こんばん、は?」

 少女の顔を見つめて、少年も同じく挨拶を返す。

「なるほどね。こんなところに落ちてくるとは思わなかったけど、この高さなら水の衝撃も少ないし、支えてくれる男の子もいる。とっても安全な場所だね」

 得心して頷く少女に、少年は彼女の重さと柔らかさを感じながら、状況の理解に努める。

「なあ」

「あ、ごめんね。色々聞きたいこともあるでしょ? でもとりあえず、ここを出てからにしてほしいな。濡れた服が肌に張り付いて気持ち悪いし、裸で気持ちよくしてるところにこんな美少女が現れたら、我慢できなくなったあなたに好きにされちゃうし」

「だったらどいてくれるかい? 母もいるから、俺が先に出ないと」

 今のところ少年には驚きばかりで、そんな気持ちはこれっぽっちもないのだが、彼も一人の異性を愛する男子高校生。この状況が長く続けば、彼女の言葉通りに我慢できなくなる可能性も否定はできなかった。だから、驚きが支配しているうちに冷静に判断する。

 少女は言われた通りに体をどけて、浴室の床に足を下ろした。靴ははいていないが、濡れた靴下が気持ち悪い。今にも脱ぎたそうな仕草を見せながら、少女が言った。

「挨拶するよ?」

 少年は微かに視線を向けたが、すぐに逸らして考えを呟く。

「タオルとかの準備もしないと、説明は……」

「挨拶するよ?」

「ここでされても困る……いや」

 二度目の言葉に少年は答える。考える邪魔をしないでほしいと注意するつもりだったが、そこでこの状況なら誤解はされないことに気付く。浴室に窓はなく密室に近い状態。入浴していたら突然女の子が落ちてきたと言っても、その言葉は嘘には聞こえない。むしろ下手にごまかして時間を稼げば、女の子を連れ込む時間と隙が生まれてしまう。

「挨拶はしてもらうとして、少し後ろを向いていてくれないか?」

「やだ、初めてが後ろからなんて……どきどき」

「君も見たくないだろ?」

「うん。私も年頃の女の子。同年代の男の子の裸には、興味津々だよ」

 少女は後ろを向く気はなさそうなので、少年は無言で浴槽から出て、なるべく少女を見ないようにしながら浴室を出た。タオルで体を拭くのもそこそこに、軽く腰に巻いて廊下を抜け、居間でくつろいでいる母を呼びにいく。

「母さん。来てくれないか?」

「んー? お風呂、壊れちゃった?」

「それよりもっと大変なことだ」

 首を傾げながらも少年の母はソファから立ち上がり、少年と少年の母は廊下を抜けて脱衣所へ向かう。少年が脱衣所の扉を開けると、下着姿の少女が待っていた。

(なんで脱いでるんだ!)

 少年は驚きに声をあげそうになったが、咄嗟に平常心を保つ。少女はちょうどスカートを脱ぎ終えたところで、足を上げたまま二人の方に顔を向ける。

「初めては、見られながら?」後ろから母の声。

「そんな特殊な趣味はない」

 母の誤解を解いている間に、冷静な思考を取り戻す少年。確かに、呼んでくる間に黙って待っていてなどとは一言も言わなかった。濡れた服が気持ち悪いとも言っていた。だったら、少しくらい脱ぐのは自然な反応だろう。

「こんばんはー」

 挨拶しながらブラのホックに手をかけようとした少女に、少年はもう驚かない。

「それはあとだ」

「えー。特殊な趣味はないんでしょ? 興奮しても私は安全」

「説明」

 少年が一言。全てはそれからだという態度に、少女は首を縦に振る。

「私は未来からやってきました。そしてお風呂に!」

 とても簡単な説明に、少年は呆れた顔でさらなる説明を求めようとした。

「そうですかー。じゃあ、とりあえず替えの服は……」

(信じた!)

 自らの母があっさり信じたことに、少年は驚きの顔を見せる。

「はい。詳しい話は着替えてから」

「ええ。じゃあ、着替えまでそのまま待っていてね? 浴衣は……」

「浴衣ですか?」

「ああ、俺の名前だ」

 少女の疑問に、少年が答えた。

「ゆたか?」

「ゆかた」

 聞き間違いではないと、少年は繰り返す。

「ゆぎはらゆかた。お湯の湯に、木琴の木、川原の原に……浴衣の浴衣で、湯木原浴衣だ」

「浴衣は先に着替えておいてね。お風呂に入ってからでもいいけど……」

「この状況じゃ、気になりすぎて気が休まらない」

 少年の母が脱衣所の扉を閉めたところで、少年は少女の視線を気にしないようにしながら服を着ていく。幸い、さっきのうちに水気はとっておいたので、大事な部分をじっくり見られる心配はなかった。

 パジャマに着替えた少年――湯木原浴衣と、同じくパジャマの少年の母、その母から借りた可愛らしいパジャマを着た少女が、居間で向き合っていた。

 浴衣はセミショートの髪をしっかり乾かして、少女もセミロングの髪をさっと乾かしてまっすぐに下ろしていた。少女はお風呂に落ちてきただけなので、衣服はびしょ濡れでも髪はさほど濡れていない。長い髪でも時間はかからなかった。

 自称美少女で未来からやってきたという少女。その自称に自惚れはなく、改めて顔を見た浴衣は少し前のことを思い出す。もし彼女が服を着ていなかったら、理性は保てても別の部分が危なかったかもしれない。

「ひいろあかねです。ええと、緋色の研究の緋色に、茜の茜!」

「ゆぎはらまきよ。第六天魔王の魔に、姫百合の姫で魔姫です」

(シャーロック・ホームズと織田信長……)

 既に名乗りは終えている浴衣は、少女と母の名乗りを黙って聞いていた。少女の性格はこの短時間でも何となく理解したし、母もいつもこの調子だ。この程度では驚きはない。

「未来からやってきたって、どうして?」

 浴衣が聞いた。茜が虚空から落ちてきたのは自ら目撃した事実。未来からという彼女の言葉も、ある程度は信用できる。

「逃げてきたんだよ。私たちが生き残るために」

「たち?」

「うん。先に逃げたお父さんは、怪我もしてたから失敗して死んじゃったんだけど。私の作ったタイムマシンは、健康体じゃないと安定性に欠けるのが難点で」

 茜の視線が浴衣と魔姫の顔を順番に追う。その視線の意味をすぐに理解したのは、湯木原家母の魔姫だった。

「ゆすいさんは今ヨーロッパにいるのよ。油彩と水彩で、油水」

 小さく茜が頷くのを見てから、浴衣が尋ねた。

「君が作ったのか?」

「うん」

「逃げてきたって、悪いやつにでも追われて?」

「うーん、それは違うね。正義に追われて、悪が逃げたの。私、悪の秘密組織の一人娘だから。そしてお父さんは、悪の親玉」

 予想もしていなかった展開に浴衣はやや驚いたが、ここまでも予想外のことばかり。黙って彼女の説明を聞くことにした。

「それで壊滅させられそうになったから、最後の手段で過去に逃げてきたの。悪の親玉が死すとも、悪の頭脳が生き残れば問題ない。つまり、私がいれば大丈夫!」

「悪……」

 具体的にはと聞きたい気持ちを抑えて、まだ続きそうな話に耳を傾ける。

「で、未来で発明した悪いことするための道具を持ち込んで、ここから世界征服!」

「俺の家から始めないでくれ」

「未来の正義の味方ってね、本当に凄いんだよ。私の発明も凄くてね、悪の秘密組織を結成したときは世界はもらったーって思ったんだけど、そこに現れた正義の味方!」

(無視された!)

「それから私たちの長い戦いは始まったんだけど、残念ながら私たちは負けちゃって」

「正義の味方が現れる前に、過去を変えてしまおうと?」

「え? タイムマシンで過去なんて変えられないよ?」

「タイムパラドックスね」

「未来って、意外と近い未来なのか?」

「それはまだ、ひ・み・つ。私の部下になると契約書にサインをしてからだよ」

「そこはしっかりしてるんだな」

「あ、詐欺は専門外だから安心してね。契約書には一生私に尽くすことと」

「契約はしない」

 茜は小さく肩をすくめてから、話を戻した。

「えっとね、これが私のいた時間とするでしょ?」

 右手の人差し指を立てて、視線で示す。

「で、こっちが今のあなたたちがいる時間だよ」

 左手の人差し指を立てて、今度も視線で示す。肩幅ほどに離れた距離が、過去から未来への時間経過であるのだが、具体的な時間は口にされなかった。

「それで、私のタイムマシンがやったことは……これがこっちに、どーん!」

 右の人差し指を、勢いよく左の人差し指にぶつける茜。

「これで二つの時間は合体するから――といっても未来要素は私一人なんだけど――新たな時間に矛盾は発生しないってこと。そしてこの新たな世界で、未来の技術が大活躍!」

「少しいいかな? それはつまり、君は元の時代に戻れないってことか」

「そうなるよ。でも、未来にいたら秘密組織は壊滅するのを待つだけ。正義の味方によって滅ぼされるくらいなら、負けない手段を考える。悪はしぶといんだよ!」

「相手は正義なんだから、酷いことはされないんじゃないか?」

 浴衣の口から出た素朴な疑問に、茜は少し困った表情で答える。

「うーん、どうかな。正義の味方っていってもね、彼女たちが勝手に言ってるだけなの。確かにやってる行為は、私という悪の頭脳を筆頭とした悪の組織への対抗だけど、私たちと同じく彼らもどこからともなく現れたから」

「彼女に、彼?」

 今度の素朴な疑問には、茜は素直に微笑んで答える。

「あ、それは正義の味方のトップが恋人みたいだから。でね、その技術も凄いんだよ。私の発明は地球上の誰にも真似できない、凄い技術なんだけど、それとはまた違った凄い技術で対抗されちゃって。捕まったら何をされるかわかんないよ」

「法廷で裁かれるより、大変なことに?」

「え? あはは、やだなあ。私たちの悪いことを全部足したら、宇宙放逐の流刑は確実だよ」

「宇宙放逐って」

「未来における、お金のかからない死刑相当の最高刑だよ。未来でもそんなに宇宙開発は進んでないから、粗末な宇宙船に乗せて遠くへはっしゃー! ってね」

「ちっとも人道的じゃないな」

「でも合理的だよ? 開発は進んでないけど、安価で宇宙に飛ばす技術は発達したから。さすがに、月くらいは開発してるよ」

 確かに費用と効果を考えるなら、合理的ではあるのだろうと浴衣は理解する。

「ちなみに、これを考えて推進したのも正義の味方だよ。そういう考え方は、私としても共感できるんだ。もし別の出会い方をしていたら、仲良くなれたかもって思ってる。でもね、残念だけど私の手はもう血で汚れちゃってるんだよ」

 悲しそうな表情をわざとらしく見せた茜に、浴衣は冷静に返す。

「自分の意思でやった女の子の言う台詞じゃないよね?」

「エラギャップ?」

 時代を示すEraに、ずれを意味するギャップ。意訳するなら、時代間の感覚のずれ。

「人も殺したのか?」

「そう。私の手は血で汚れてるんだよ。実験や狩りで、鳥とか獣とかをたくさん殺したよ。人の血は怪我の治療をしたときに触ったくらいだよ」

 確信をついた質問に返ってきたのはそんな答え。浴衣がほっとした表情を見せたのも一瞬。「人は私が悪いことをする大事な相手だから。いなくなったら意味がないでしょ? 私は人の世界を征服したいんだ。地球を支配したいんじゃないんだよ」

「悪いことはしてるんだな」

「最初から言ってるよ?」

「ああ。そうだった」

 逃げてきたことや未来の話で忘れかけていたが、最初から彼女はそう言っていた。

「ということで、ここから始めるので泊めてください」

「部屋は二階の、浴衣の隣でいい?」

「いや、母さん」

「んー? 妹ができたみたいでいいでしょう? この家、浴衣に妹や弟がいつできてもいいように、子供部屋は三部屋作っておいたのに、ねえ?」

「ねえ? と言われても困るな」

「浴衣くん。そこは、だったらもっと子作りに励んでって言う局面!」

「言えるか!」

「甘いわよ浴衣。私と油水さんが励まなかったとでも……」

「答えないでくれ。それに聞いたのは俺じゃない」

「むう」

「むー」

 どうやらこの二人は気が合うようだ。そのことに気付いた浴衣は、これ以上の抵抗はしても意味がないと悟る。

「俺たちに危害を加えないと約束してくれるなら」

 まっすぐに茜の目を見て、浴衣は言った。

「契約書を用意してもいいよ? 私は一人で未来からやってきた。あなたは大事な男の子。新たな悪の秘密組織を作るには、子作りもしないといけないんだよ」

「避妊具ならあるけど……私と油水さん、まだ現役だから」

(この会話には加わらないようにしよう)

「若いですよね。お世辞じゃなくて、二十代に見えますよ」

 茜の言葉通り、浴衣の母の湯木原魔姫の見た目は非常に若く美しい。

「三十六歳よ。油水さんは三十五歳。現役」

 最後の一言で露骨に視線を向けられたが、浴衣は無言で答えた。

「浴衣くんも格好いいですよね。もらってもいいですか?」

 外堀から埋めるつもりか。浴衣は会話に加わることなく、事態を静観していた。

「茜ちゃんはいくつ?」

「十五歳です」

「浴衣と同じね。見ての通り、浴衣は美少年だけど」

「む」

 さすがに恥ずかしい話になりそうだったので、浴衣は母に視線を送る。が、そんな視線程度で止まる相手でないのは彼も承知の上だった。反射的な行動である。

「浴衣は美少年だけど」

「好みは人それぞれだ」

「そうそう。浴衣はその好みが問題なの。可愛くて優しい女の子に告白されても、断るような息子を落とせるかしら?」

「その具体的な好みは?」

 茜の質問に魔姫はにっこりと笑い、浴衣は首を横に振って答える。

「魚しか愛せない、それとも爆発萌え……」

「未来にはそんな性的嗜好があるんだな」

「現代にも探せばいるんじゃないかしら?」

 一呼吸。

「落とし方はゆっくり考えます。私は別に、子作りさえしてもらえれば恋をしてもらう必要はないんだけど……どう?」

「どうもしない」

 努めて冷静な浴衣に、茜も今日は諦めて肩をすくめていた。


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