静かな風が吹いていた。戦いが終わった精霊都市アルシィアで、眠っているのはピスキィとフィオネストの二人。都市に傷はついていない。フィオネストの体には多少の傷がついていたが、どれも軽い傷だ。
レフィオーレは自分とよく似ている少女、フィオネストの姿を目に入れる。知らない人。それなのに、どこか懐かしいような、そんな感じがした。
「久しぶりだね、スィーハ」
振り向いて、親友の名を呼び微笑むレフィオーレ。スィーハも優しい笑みで、同じく名を呼ぶ。
「久しぶり、レフィオーレ。すっかり元気になったみたいだね?」
「うん。三年振りだから、まだ慣れてないけどね」
戦闘中は夢中で動いていたから特に気にならなかったが、落ち着いて意識すると何となく変な感じがした。試しに手足をぱたぱたと動かしてみるも、動きに支障はないので、単なる気持ちの問題だ。
「再会を喜ぶのは構いませんが、それは後でお願いできますか?」
「ん、そうだね。わからないことだらけだし、話してくれる?」
「もちろんです。私が話せることは全て話しましょう」
チェミュナリアはレフィオーレに自分たちのこと、リシャのこと、これまでに起きた出来事などをかいつまんで話す。話せることは全て話したが、ひとつだけ話さなかったのはレフィオーレの過去、彼女が失った記憶についてだ。これだけはチェミュナリアが気軽に話していいものではない。
「さてと、ルーフェ、後はお任せします」
話すかどうか、話すとしたらどうやって伝えるか、その判断はルーフェに委ねる。ルーフェはやや迷った後、レフィオーレの真剣な表情を見て、全て話すことを決意する。話さなくても話は進められるが、話せることなら全て話してほしい、という意思は表情から容易に窺い知れた。
チェミュナリアとルーフェから全ての話を聞いたレフィオーレは、そっか、と小さく呟いてゆっくり目を瞑った。それが開かれたのは、たっぷり十秒も経った頃だった。
「おぼろげだけど、憶えてるよ。あの手を握ってくれた温もり、忘れてない。記憶の方は、ごめんね、聞いても何も思い出せないや。でも、その、お姫さまってことは、私、帰らなくちゃいけないのかな?」
瞳に不安の色を浮かべ、スィーハをちらりと見ながらレフィオーレは聞いた。それに答えたのは、ルーフェでも、チェミュナリアでも、スィーハでもない、もう一人の少女だった。
「その必要はありませんよ、レフィオーレ」
フィオネストはたおやかに体を起こし、優雅でありながら、微かな可愛さも見える柔和な笑みを浮かべてそう言った。服や体についた汚れを払い、十年振りに再会した妹の顔をじっと見つめる。
「これまで私一人でやって来たのです。帰りたい、というのなら構いませんが、帰らなくてはいけない、ということはありませんよ」
安堵の表情を浮かべるレフィオーレから視線を外し、今度はルーフェに目を向ける。
「また、こうしてあなたと話せる日が来るとは思っていませんでした。これほど嬉しいことはありません。この言葉、本当なら他の人に言いたいところですが……今はその時期ではありませんね」
「フィオネスト様。私も、嬉しいです。ただ……」
「リシャ、ですね。彼女のことを考えると、素直に喜ぶわけには参りません」
ルーフェとフィオネストの表情が暗くなる。その会話に、チェミュナリアとスィーハ、レフィオーレは不思議そうな表情を浮かべていた。それに気付いたフィオネストは、明るく笑って説明する。
「意識は眠ってはいましたが、体は私のものです。ですから、リシャが見たこと、聞いたこと、感じたこと……五感を通じて得られる情報は、私も同じように得ています。彼女の考えや記憶まではわかりませんが、何をしたかは当然わかっていますよ」
そこまで言って、明るい笑みを消し、フィオネストは恍惚な表情を浮かべた。声もほんの少しだけ上擦り、胸の前で両手の指と指と絡ませる。視線はスィーハ、フィオネスト、レフィオーレへと順に向けられる。
「スィーハの白く美しい肌の色、つつましくも可愛らしい胸とその先についた、愛でたくなるような桃色の突起、チェミュナリアの服の上からでもはっきりとわかる、引き締まって弾力がありつつも、ふわふわした柔らかさを残す程よい大きさの胸、そしてレフィオーレの穢れなき――と、これは後の楽しみにとっておきましょうか」
くすくすと笑うフィオネスト。一瞬、三人はぽかんとした表情をするが、すぐにスィーハとチェミュナリアは顔を真っ赤にして目を伏せる。レフィオーレは途中で切られたが、ある程度の内容は推測できたので、頬をほんの少し赤らめる。
ルーフェだけは慣れたもので、普段と変わらずフィオネストをうっとりと見つめていた。リシャを見ているときは必死に抑えていたが、フィオネストである今ならその必要はない。
「な、ちょ、桃色って……え、それって!」
「ふわふわ柔らかい……ではなくて! あ、あなたは何を言っているのですか!」
「えと……よくわからないけど、なんか恥ずかしい気がする!」
「……あら? もっと直接的な表現がお好みですか? それとも、より官能的な表現か……そうですね、最近一部で流行の萌える表現もできますが、いっそ全てで表現しましょうか」
はぐらかすような回答に、真っ赤になったチェミュナリアが詰め寄る。スィーハとレフィオーレは照れた表情で、じっとフィオネストを睨みつけている。
「冗談ですよ。さすがに、今は全てで表現している暇はありません」
「そういう問題ではありません! あ、あなたは一体!」
「そう言われましても、仕方ないではありませんか。私はリース・シャネア国の姫なのですから。ねえ、ルーフェ?」
チェミュナリアの剣幕を物ともせず、フィオネストは騎士に同意を求める。
「はい。仕方ありません。……ただ、私としては少々、残念な気持ちです」
「仕方ないですね。ではルーフェ、今夜は私の寝室に……ああ、宿でしたっけ? まあいいでしょう。見知った人たちの前で、というのもたまにはいいかもしれません」
ルーフェは嬉しそうに頷き、フィオネストの側に半歩寄る。スィーハとレフィオーレは俯いたまま頬を赤らめ、何も言えずにいる。唯一食ってかかれるのはチェミュナリアだけだ。しかし、言葉を口にすることはできなかった。
「追求は後です」
チェミュアリアは眠っているピスキィに駆け寄る。ピスキィはうっすらとまぶたを持ち上げて、ぼんやりと上空を眺めていた。チェミュナリアの姿に気付くと、小さな笑みを浮かべて彼女を迎える。
「目を覚ましたのですね、ピスキィ」
こくりと頷き、ぼそぼそと小さな声で呟く。その声はチェミュナリアにしか聞こえない。
「そんなことはありません。むしろ、私の方こそあなたを傷付けて……いえ、とにかく、無事で良かったです」
チェミュナリアは泣き笑いで、ピスキィは満面の笑みで、二人は抱き合って喜びを分かち合う。背は同じくらいだが、ピスキィがやや浮いているので、自然ピスキィがチェミュナリアを抱きすくめる形となる。チェミュナリアはされるがままにピスキィの胸に顔を埋め、涙で彼女の服を濡らす。
「濡れて透けた薄布……。そして、精霊と人、生きる時を違えし二人の恋、ですか。良いものを見せてもらいました」
「……そこ、黙りなさい」
涙声のまま、できる限り鋭い声で後ろで変なことを言っている姫に注意する。
「ええ、言い終えたので黙りますよ?」
「ピスキィ」
チェミュナリアの言葉を合図に、細い風のような、それでいて実体のない風のようなもの――精霊の力がフィオネストに向けて放たれる。威力は低いが、しましまぱんつの力を引き出せないフィオネストの意識を奪うには充分な威力だった。
倒れるフィオネストを支え、お姫さまだっこの形で抱きかかえたルーフェが言う。
「失礼しました。私としたことが、再会が嬉しいあまり……普段ならある程度は自重して頂くよう、止めるのですが」
ただ止めるというだけなら疑念が残っただろうが、ある程度という言葉からそれが真実であるとレフィオーレ、チェミュナリア、スィーハの三人は理解する。
「ねえ、ひとつ聞きたいんだけど、いいかな?」
落ち着いたところで、三人が聞きたかったことをレフィオーレが率先して聞く。何についてかは、聞くまでもなかったのでルーフェは先に答える。
「皆さんが想像されているようなことはしていません。スィーハやチェミュナリアがされたことと似たようなことをするだけですよ。軽く触れられたり、言葉で責められたり……それ以上のことは、好き合った者同士でやるべきことです。私は姫の騎士として、フィオネスト様に身も心も捧げていはいますが、普通に忠誠を誓っているだけで特別な意味はありません」
ルーフェは至って冷静にそう言った。レフィオーレ、チェミュナリア、スィーハの三人は行き過ぎた想像をしていたことにちょっと恥ずかしくなるが、想像していた行為ではなくて安心する。そういう行為を否定する気は誰にもないし、むしろスィーハにとっては興味津々ではあったが、さすがに目の前でそのようなことをされるのは、経験のない彼女たちにとってはあまりにも恥ずかしすぎる。
その中でも、特に強く安堵の表情を浮かべたのはレフィオーレだった。記憶がないとはいえ、彼女はフィオネストの妹で、リース・シャネア国の姫。もしかすると、自分も幼い頃は平気でそういうことをやっていたのかと思うと、恥ずかしくなる。特に、幼い頃からというのがその恥ずかしさを倍増させる。
レフィオーレはひとまず安堵したが、やはり気になって念のため確認することにした。
「ルーフェは私が小さい頃も騎士だったんだよね? その、もしかして私も、フィオネスト――えーと、お姉ちゃんとかお姉様とか言った方がいいのかな――ともかく、同じようなことをしてたのかな、リース・シャネア国の姫として」
「呼称は呼びやすいもので構わないと思います。記憶が戻っていないのですから。レフィオーレ様はフィオネスト様と違い、姫としての力を受け継いではいません。いないのであれば、リース・シャネア国の姫としての教育をする必要はありません。その代わりに、しましまぱんつの力を完全に引き出せたので、幼い頃はよく私たち騎士に混じって戦闘訓練に参加していました。もっとも、力が強すぎるため、相手をできるのは私しかいませんでしたが」
ルーフェは当時を懐かしむように、それでいて感傷に浸ることはなく淡々と話す。それを聞いてもレフィオーレは何も思い出せないが、とりあえずは心配していたようなことがなかったことに安心する。
会話が終わったのを確認して、チェミュナリアが三人に声をかける。
「そろそろ戻りましょう。暴走は止まったとはいえ、まだ影響は残っているかもしれません。見晴らしの良い平原と言えど、夜になると少々危険ですからね」
レフィオーレたちは頷いて、アルニス平原を北上し、パロニス王国へと戻る。ピスキィはふわりと浮きあがり、西へと飛んでいった。住み慣れた故郷、精霊国ピスキィへと。
「いいの?」
スィーハの問いかけに、チェミュナリアは即答する。レフィオーレとルーフェが話をしているときに、これからのことを決めていて、先に戻ってもらうことにした、という旨をチェミュナリアは告げた。
「私も今すぐに戻りたいところですが、休憩が必要ですからね」
回復の早い精霊の力と違い、ぱんつの力は一晩休まないと回復しない。大きな危険はなくなったとしても、小さな危険が重なれば大きな危険にもなりうる。常に万全の状態でいるに越したことはないだろう。
他にも、ピスキィの暴走が止まったことを、パロニス王国の女王に伝える必要もある。休まないにしても、パロニス王国へは寄らなくてはならない。
アルニス平原を、五人は歩き続ける。五人の顔ぶれは変わっていないが、前と同じ五人ではない。リシャの姿は――元々、リシャにあったのは意識だけだが――そこにはない。
パロニス王国に着き、女王に伝え、宿へ戻った五人はこれからのことについて話し合った。
「世界の危機はひとまず去りました。ですが、これで終わりではありません」
フィオネストが真剣な表情で言った。ピスキィの暴走は止まった。けれど、止まったからといって全てが元通りになるわけではない。特に今回、最も大きな影響を受けたのは、精霊国ピスキィだ。
「ええ。私にとっては、これからが本番です。いなくなった民を戻すのは簡単ではありませんが、姫として、やらなくてはなりません」
「チェミュナリアほどではありませんが、それは私も同じですね。目的があり、それほど長期間ではなかったとはいえ、姫と随一の力を持つ騎士が国を離れたのは事実。……色々、溜まっているのでしょうね。……あ、変な意味ではありませんよ」
「フィオネスト様?」
「……わかっています」
その後も何か続けようとしたフィオネストを、ルーフェが窘める。フィオネストは少々不満そうな顔をしながらも、諦めたようにそう言った。
「レフィオーレとスィーハはどうしますか?」
「ボクたちは旅に出るよ。元々、そのつもりだったしね」
「ちょっと遅れることになっちゃったけど、仕方ないよね」
レフィオーレは微笑む。遅れた理由は口にしなかったが、ここにいる誰もがそれを理解していた。
「それで、本当はフィーレット村からパロニス王国まで旅しようと思っていたんだけど……もうここまで来ちゃったから、順序は逆になるね」
「フィーレット村に戻ったら、少し休んで、南を目指すんだ。私たちの旅はしまぱん勇者とその仲間の、世界を救う旅なんだから!」
「……まあ、二人ほど足りないけど、ね」
その二人、チェミュナリアとルーフェを見て苦笑いするスィーハ。できるなら、四人で旅をしたい気持ちもあったが、それぞれに役割があるから無理強いはできない。何より、世界の危機を生んでいた、ピスキィの暴走は既に止めてしまったのだ。
だから、名目は変わらないものの、思っていたよりは気楽な旅になるだろう。それでも、南へ行くということは、険しいピスシィア山脈を越えるということであり、その南は何があるのかわからない未知の世界。気楽ではあっても、決して安全な旅ではない。
それでも、旅に危険はつきものだ。違うのは、それが大きなものであるか、小さなものであるかだけ。魔物の大群と戦うのも、小石に躓いて転びそうになるのも、どっちも危険であることに変わりはない。
「明日からは別行動、だね」
レフィオーレのその言葉で、会話は終わった。
その夜、約束通りフィオネストはレフィオーレ、チェミュナリア、スィーハが見ている前でルーフェの服を脱がす。上半身のふくらみを優しく撫でられて、ルーフェは恥ずかしそうにしながらも艶のある声で喘いだ。
残りの三人は照れながらも、黙ってそれを許し続けた――わけではなく、確かに軽く触られる程度ではあるが、ルーフェの反応は三人が想像していた行為を彷彿とさせるようなものだったので、さすがに恥ずかしいと三人がかりでそれを止めることになった。
ルーフェは、「このままでは我慢できなくて切ないです。少し触られて火照った体を鎮めさせて下さい」と三人に頼んだが、そんな表現で頼まれても、当然聞く耳は持たれなかった。
そして翌日、五人は宿の外で別れることになった。レフィオーレとスィーハはパロニスの城下町へ、ルーフェとフィオネストは西門からフィーレット村、リース・シャネア国へ、チェミュナリアは南西門から精霊国ピスキィへ。
別れる間際、フィオネストがスィーハを呼んで耳打ちする。
「レフィオーレのこと、よろしくお願いしますね」
それを言うためになんで耳打ちしたのかと疑問に思ったが、それはすぐに氷解する。
「でも、いくら好きな相手と二人きりだからって、いきなり襲ったりしてはいけませんよ? そんなことをしたら、お姉様も混ぜてもらいたく――ではなくて、許しませんよ?」
リシャの五感を通じて得られる情報は、フィオネストにも伝わっている。当然、あのときのこともフィオネストが知っているのは、少し考えればわかることだった。
「うん、気をつけるよ。お姉さんでも、レフィオーレの体は自由にさせたくないからね」
言い直した部分は無視して、最初の本音の部分に対してスィーハは小声で答える。
「では、あなたの体をレフィオーレと一緒に好きにするのは構わない、と解釈してもよろしいですね?」
「……それもだめ。ボクだってレフィオーレだけのものになるんだから」
レフィオーレと似ているフィオネストにそんなことを言われて、一瞬それも悪くないかという考えが頭をよぎったが、スィーハはきっぱりと否定した。
フィオネストはスィーハから少し離れ、ちらとレフィオーレを見る。レフィオーレは暇つぶしにソードレイピアを抜いて素振りをしていた。そして再びスィーハを見て、にこりとして言った。
「あの様子では、それ以前の段階でも一苦労でしょうね」
「うん。ボクもそう思うよ」
ひたすら素振りを続けるレフィオーレに、呆れたような笑みを浮かべてスィーハも同意する。もちろん、その苦労にはレフィオーレだけでなく、スィーハ自身の勇気も必要となるが、それは些細なことのように思えた。
「二人とも、どうしたの? 暇なら一緒に鍛錬しようよ」
レフィオーレの言葉に、スィーハとフィオネストは顔を見合わせて苦笑する。レフィオーレは首を傾げるが、またすぐに素振りを再開した。
「……では、私はそろそろ行きます。レフィオーレ、スィーハ、パロニス王国を回り終えたら、是非私の国にも来て下さい。まだ人はほとんどいないでしょうけど、その姿を一度見てもらいたいのです。そして、旅が終わったらもう一度、今度は人で賑わう、本来の精霊国ピスキィをお見せしましょう」
自信に満ちた表情で、チェミュナリアはそう言って、南西の門へと歩き出す。
「フィオネスト様、私たちもそろそろ。国の様子も確かめたいですし、その……」
「わかっています。二人きりになったら、誰も邪魔する者はいませんものね」
ほんのりと顔を赤くするレフィオーレとスィーハを尻目に、ルーフェとフィオネストは並んで西門へと歩き出す。
「ボクたちも行こうか。パロニス王国は広いからね」
「うん。スィーハと一緒の旅、やっとできるね」
レフィオーレとスィーハは、パロニス王国の城下町を北へと歩き出す。
五人はそれぞれの目的へ向かって、歩き出した。その方向は今は別々でも、またいずれその道が交わることもあるだろう。また、今は交わっている二人が、別の道を歩むことになることもあるかもしれない。
だけど、五人にはひとつだけ確信できることがあった。この別れは一時的なものであって、そのうち必ず再び会うことになるだろうと。それもきっと、長い年月が経ってからではない。一年と経たないうちにその機会は訪れると、何となくそう思えた。
根拠のない確信、だけど、そうならないはずはないと信じられる何かがあった。それが何かはわからないが、強いて言うなら、そう。
しましまくだものしろふりる。四つのぱんつが互いを求め合う――そんな表現が、五人にとって最もしっくりくるものだった。
第一章 大陸北部精霊記 了