何事もなく朝を迎えた。俺が目を覚ました頃には、隣にリリィロットさんの姿はなく、起きてみると朝食の準備をしている彼女の姿があった。ソファにはヒナタとヒヨリが並んで座っている。
「おはよう、カゲユキくん! そっちにいたんだね」
「リリィロットさんもそちらから出てきましたが……まさか」
「何もないって」
疑うヒヨリのいつもの姿に安心する。昨日のことを引きずっていないか心配だったけれど、無理をしているようには見えないから大丈夫だろう。
「ヒナタさん、ヒヨリさん、それとカゲユキ。朝食の準備、できました」
台所からリリィロットさんの声がした。
「今、カゲユキって」
「……呼び捨てでしたね」
「冗談はやめてくれませんかー」
「わかりました。カゲユキさんがそう望むなら」
「私、カゲユキくんのこと信じてるからね!」
「カゲユキのことですから、わかりませんよ」
両手を握って、じっと見つめて来るヒナタ。ヒヨリは冷たい目で俺を見ている。けれど、それよりも気になることがあった。
「なあ、ヒヨリ」
「なんです?」
「今、名前で」
「気のせいです。私があなたのことを名前で呼ぶなど、ありえません」
即答された。俺から顔を背けて、朝食の並んだテーブルへ向かう姉を追いかけるヒヨリ。俺は肩をすくめて、二人のあとを追いかける。
食事を開始してすぐ、隣のリリィロットさんが俺の耳元で囁いた。ヒナタやヒヨリに気付かれないよう、机の中央にある塩を取る動作に合わせてこっそりと。
「良かったですね」
何の、とは聞き返さない。聞き返す必要なんてなかった。
「リリィロットさん、両親のことで尋ねたいことがあります」
食事を終えて少し。ソファで休みながら、ヒナタが手を挙げてそう切り出した。
「なんでしょうか」
「形見だとかお墓だとか、そういうのはありますか?」
不安そうな声で尋ねる。この家の周囲にはそのようなものは見当たらなかった。
「ほぼ身一つで落ちていらしたので、形見はありません。ですが亡骸なら。神の墓として、特別な場所に安置されています。これから案内しようかと思っていたところです」
「お願いします」
ヒナタが立ち上がった。ヒヨリも姉に続く。
「ヒヨリさんも、よろしいのですか?」
こくりと頷くヒヨリ。無理をしているようには見えない。
「では、案内します。カゲユキさんはどうしますか?」
「ヒナタ、俺も行っていいかな?」
彼女たちが心配だからというわけでも、ここに一人でいるのが寂しいわけでもない。特別な場所ということに興味があっただけで、やや後ろめたい気持ちはある。
「もちろんだよ。興味、あるんでしょ?」
「私も構いませんよ。別に、そこに両親がいるわけでもないのですから」
二人の承諾を得て、俺も同行することになった。
家を出て、森の中を北へ抜けていく。十分ほど歩いただろうか。木々の間から、洞窟が見えてきた。入り口は小さめで、人が二、三人立って入れるくらいの大きさだけど、中の広さまではわからない。
入り口の前で、リリィロットさんは立ち止まる。ヒナタとヒヨリは不思議そうにしていたけれど、俺にはその理由がよくわかっていた。
「結界、ですか?」
「ええ。見えるのですか?」
俺たちの会話に、ヒナタは首を傾げ、ヒヨリは俺を訝しげに見つめていた。
「……ああ、そういうこと」
「つまらないです」
使い方から結界と呼んではみたけれど、なんてことはない。ただの空間凝結だ。世界の果てにあったものと同じような性質だけど、強度は比べものにならない。俺一人でも簡単に壊せると思う。
リリィロットさんは結界に手を当てて、軽く力を込めたかと思うと、凝結された空間は一瞬で消え去った。余計な手順を踏むことで、長く維持できるようにしているのだろう。
尋ねたいことはあったけれど、彼女はすたすたと歩いていってしまったので、その機会はなかった。洞窟の中、細い通路を抜けると、広い空間に辿り着いた。
「こちらです」
丸い部屋には、小さな盛り土が何十と並んでいる。人のものと思しき白骨が奥に見えるものもある。名前などを示すものはない。名前はわからない場合がほとんどだろうから、目印さえあれば彼女にとっては十分なのだろう。
「神の亡骸はこの洞窟にて、祀られています。人として見るなら、風葬ですね。この洞窟は自然の神々の影響を受け、風葬に最も適した場所である……と、伝えられました」
話しながら案内するリリィロットさん。立ち止まると、目の前には二つの盛り土が。奥には白骨が二人分。ヒナタとヒヨリの両親のもので間違いないだろう。
「この骨格は……ヒヨリ、わかる?」
「私の知識はそこまで深くありません」
「あっさりとしてるね」
昨日の様子との違いに驚いて、思わずそんな言葉が口から出てしまう。
「覚悟はできていた、と言いました。あれは、その、突然すぎただけです」
「生きているかどうかは半々、そう思っていたからね。でもさすがに、こんなにすぐにわかるなんて予想はできなかったよ」
「確認が済んだのなら、そろそろ戻ってもよろしいでしょうか。ここは長い間、生きた人がいるべき場所ではないとされているのです」
「はーい。ヒヨリもいいよね?」
「はい。構わないです」
リリィロットさんに促されて、俺たちは洞窟を出た。入り口付近で再び彼女は立ち止まり、結界のあった場所に手をかざし、力を込めて結界を張る。
「では、戻りましょう」
歩き出す彼女に、後ろから尋ねる。
「今のって、空間凝結ですよね?」
リリィロットさんは振り返らず、淡々と答える。
「ええ。あなた方と違い、私にはあの程度が限界ですけれどね。これでも、先代や先々代よりは上手なのですけどね。歴代の神寄人の中でも、トップクラスなんですよ」
小さく肩をすくめるリリィロットさん。それきり会話はなく、俺たちは無言で家まで歩いていった。
戻ってすぐ、リリィロットさんが話を切り出す。
「あなた方はこれからどうするのですか? 神寄人の役目には、神を迎えて帰還までの寝所を用意する、というものもありますので、一応、ここで暮らすことも可能ですよ」
「それはカゲユキくんが決めます。私とヒヨリは目的も達成しちゃったし、いやじゃなければどこにでもついていくよ」
「旅に出たい、と言いたいところだけど……まずは、近くの街に行ってみて、この世界のことを知るところからかな。怪物とやらの話も聞いておきたい」
言って、リリィロットさんを見る。昨日は途中で話が中断されたから、怪物について尋ねる時間はなかった。
「そうですね。では、街へ案内しましょう。怪物ならおそらく、街へ向かう途中に出くわすと思います。あなた方も弱くはないと思いますが、怪物は危険な存在です。戦うのはなるべく避けて、逃げることを優先して下さい。どれだけ凶暴な怪物でも、戦意を見せなければ、しつこく追いかけてくることはありませんから」
真剣な表情で忠告するリリィロットさんに、俺たちは頷いた。
リリィロットさんの後に続き、森の中を南へ進む。街へと続く道だけど、ここには彼女しか住んでいないからか、特別に整備されているわけではない。それでも、他の場所へ向かう道よりは開けていて歩きやすい。
少し歩いたところで、茂みから何かが飛び出してきた。狐、だろうか。
やや薄い毛色の狐は、俺たちの目の前に立ちはだかるようにして動かず、じっと睨みつけている。
「気をつけてください。あれが、怪物です」
「あれが?」
狐そのもののその姿に、怪物と言われてもピンと来ない。
「狐で怪物、ですか」
ヒヨリが呟く。その言葉を聞いて、何となく思い出すものがあった。昔読んだ本の中に、そのような怪物が描かれていた気がする。
狐は俺たちを見つめたまま動かない。威嚇はなくとも戦意は隠さない。俺たちが動くのを待って待機しているのだろう。
「ファルフォルです。一体ならさほど強くはありませんが、仲間を呼ぶ可能性もあります。ここは迂回したいところですが……」
リリィロットさんも気付いているのか、困っているようだ。
「倒して駆け抜けた方が楽、かもしれません。できますか?」
「じゃあ、俺が行くよ。ヒナタとヒヨリはリリィロットさんを」
「ん。がんばってね、カゲユキくん」
「守りなら、お姉ちゃん一人で十分です。私はサポートに入ります」
「そうか。わかったよ」
文句はないのですぐに認める。周囲に他の敵の気配はないし、守りを固める必要はないだろう。あの狐――ファルフォルとやらが二人でないと倒せないかどうかはともかく、一人で戦うよりも安全なのは間違いない。
俺が前に進むと、狐は地面を蹴って空へ飛びあがった。空中からの突進かと思ったけれど、そいつは斜め上ではなく、真上に跳んでいた。
そのまま、空中を飛び回りながら俺たちを翻弄し、固めた毛を飛ばしてくる。
俺とヒヨリは近くに固まり、余裕を持って空間を凝結させて、攻撃を防ぐ。ヒヨリに比べれば、速度も遅いし威力も低い。
「あれは……」
「あなたも、読んだことがありましたか」
「まるでヒギツネ――いや、そのもの?」
飛狐。空を飛び回り、固めた毛で地上の旅人に襲いかかる怪物。古くからある、絵本や小説説の中にたまに登場する怪物に、そいつ――ファルフォルはそっくりだった。
「試してみる、かな。ヒヨリ、とどめは頼むよ」
「わかりました。ですが、無理はしないでくださいね」
俺は頷いて、目の前の空間を凝結させる。反発力を高めた空間。まだ修行途中だけど、あの速度ならどうにかなる、と思う。
俺は空に飛び上がり、攻撃を防ぎつつ近づいて、ファルフォルの後ろを取る。反発力の制御はまだ難しくて、思ったより時間はかかったけどどうにかなって良かった。
「ここだ!」
狙うはしっぽ。そこに全力の拳を叩きこむ。まだ空中で刀を振り回せるほど慣れてはいないから、今の俺の精一杯だ。
たったの一撃。けれど、その一撃でファルフォルは地面に落下していった。
「ヒヨリ!」
「言われなくても」
超硬質の剣を手に、間合いを詰めて、ヒヨリはファルフォルを斬る。
小さな悲鳴とともに、ファルフォルの体は砂のようにさらさらと溶けて、消えていった。
「ここまで同じ、とはね」
ちょっと手間取りながら着地した俺は、言った。しっぽを攻撃すると空を飛び回る力を失うという弱点、そしてさらさらと砂のように消滅する消え方。どちらも、本に書かれていたのと同じだ。
それでも、ただひとつだけ、本に書かれていないこともあった。
「カゲユキくん、今のはやっぱり?」
「うん。空間凝結、だね。多分、俺たちと同じだと思う」
本にはいかにして空を飛び回るのか、その原理は書かれていなかった。けれど、俺にははっきりと、ファルフォルが凝結された空間を蹴って、飛び回っているのが見えていた。
だからこそ、修行途中の俺でも容易に背後をとることができたのだ。もしあいつが、謎の力で縦横無尽に飛び回っていたら、簡単にはいかなかっただろう。
「話はそれくらいに。悲鳴に気付いて、仲間が来たら厄介です」
リリィロットさんの言葉に、俺たちはその場を後にした。そのまま森林を抜ける直前まで何事もなく、無事に進んでいたのだけど、最後には敵が待ち構えていた。
「待ち伏せ、か」
「さっきの悲鳴はちゃんと聞こえてたみたいだね」
出口まであと少し、というところで数体のファルフォルが待ち構えていた。見える範囲だけでも五体。気配を含めると、十体近くはいるかもしれない。
「ファルフォルの悲鳴は、私たちには小さいですが、彼らにとっては遠くまで聞こえるものです。普通なら、気付いたらすぐに襲いかかってくるのですが、ここまで群れるとは……」
すぐに襲いかからなかったのは、俺たちの人数と実力から、二、三体では勝てないと悟ったからだろう。だから群れて襲いかかってきた。リリィロットさんの言葉にはまだ続きがありそうだったけれど、それを聞く時間はなかった。
ファルフォルたちの群れが地面を――地面に凝結させた空間を蹴って、空に飛びあがったからだ。俺たちも素早く交戦する態勢を整える。
なるべく戦いを避けてとは言われたけれど、周囲の気配の数から、無傷で逃げるのは難しいだろう。
「リリィロットさんは……」
柄に手をかけながら、振り向いて聞く。
「すみません」
その一言で彼女が戦えないだけでなく、攻撃から身を守ることさえ困難なことを理解する。
「カゲユキくんはリリィロットさんをお願い。ヒヨリは隠れているのを倒してきて。あそこにいるのと、出てくるのは私がまとめて相手をするよ」
「了解」
「わかりました」
空中を飛び回る相手。一体ならともかく、多数ともなれば俺には荷が重い。勝てないことはないけれど、時間をかければかけるほど危険が増す。
ヒヨリが木々の間に消え、ヒナタが空を見上げる。俺は彼女の前に空間を凝結させて、ファルフォルの群れが飛ばしてくる攻撃を防ぐ盾とする。
「ありがと。それじゃ、さっさと片付けてくるけど……あんまり見ないでね」
「そうもいかないんだけどね」
リリィロットさんを守るためにも、敵の動きを見ないわけにはいかない。当然、ヒナタも目に入るだろう。俺が答えると、ヒナタは表情を崩して言った。
「だよね」
攻撃が緩んだところで、ヒナタは空へ向かう。スカートをはためかせ、翻しながら飛びあがっていく。短いスカートの中には、白いものがはっきりと見えた。
「気持ちはわかりますが、その」
「すみません」
リリィロットさんに言われて、俺は守りに集中する。遠くで聞こえる悲鳴は、おそらくヒヨリが倒したファルフォルのもの。
ヒナタは空を飛び回るファルフォルの群れに、一人で立ち向かう。最初は五体だったそいつらは、今では七体に増えていた。俺たちが逃げないのを見て、伏兵は最低限で十分と判断したのだろう。
緩急をつけながら空を飛び、攻撃をひらり、ひらりととすり抜けていく。盾を作るまでもなく、相手の動きを見て、飛び回るだけで回避できるように足場を作っている。
ファルフォルの群れに近づいたヒナタは、華麗な動きでしっぽを蹴る。綺麗なだけでなく、反発力も利用しつつの重い蹴り。
そのまま落下する相手を追わず、残る敵に近づいては蹴り、別の敵に近づいては蹴りを繰り返す。凝結する空間の位置、反発力、敵の動き、それらを全て計算して、最短の距離で空を飛び回り、駆逐していく。
最初に落下したファルフォルが、意識を取り戻し立ち直ろうとするのとほぼ同時。
ヒナタは地上に舞い降りた。
柔らかく凝結された空間を利用しての着地には、その表現がふさわしい。地上を駆けて、空へ逃げようとするファルフォルを蹴り飛ばす。その体は消えるより早く、他のファルフォルに当たり、巻き込んでいく。
ヒナタの蹴り技に翻弄され、倒れていくファルフォルたち。空へ逃げるのをやめた、一体のファルフォルフォルがこちらへ突進して来た。
と同時に、他のやつらより回復力に優れているのか、一体のファルフォルが空へと飛ぼうとする。
「甘い!」
「逃がさないよ!」
俺たちは同時に叫んだ。
俺は向かってくるファルフォルを見据えて、抜刀。力を込めた一撃で切り伏せる。
ヒナタは凝結させた空間を蹴り、一飛びで逃げるファルフォルに追いつき、身体をひねって鋭い蹴りを放つ。しっぽではなく、背中を狙った一撃。落下することなく、そいつの体は砂のように消えていった。
「そちらも無事に終わったようですね」
ヒナタが着地した頃、後ろの茂みの中から顔を出して、ヒヨリが言った。
「そっちも無事みたいだね」
周囲に敵の気配はない。他のファルフォルや、別の敵の気配も感じられない。
「二人とも、大丈夫だったー?」
駆け寄ってくるヒナタに、俺たちは頷いて無事を示す。
「あなた方は強いのですね」
リリィロットさんは声にいくらかの驚きを含んで、そう言った。微笑みながらの一言だったけど、すぐにその笑みは消え、真剣な表情に変わる。
「ですが、過信はしないでください。この世界にはもっと強い怪物もいます」
「……リリィロットさん?」
彼女の忠告はもっともだ。けれど、その忠告は俺たちだけに向けられているものとしては、力強すぎるような気がした。
「なんですか?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
「そうですか。では、街へ向かいましょう。話したいこともあります」
ヒナタとヒヨリも怪訝そうな顔をしていたけれど、俺たちは深く突っ込まなかった。