「二〇〇五年八月十一日付け、○○新聞朝刊。八月十日早朝太平洋沖で船が座礁し、沈没。死傷者数十名の中で、死者は一名。岡野銀、二十二歳。現在警察は、事故の原因を解明するため捜査中――と。そして、続報はなし。当然か」
太平洋を臨む場所に位置する白い建物――五階建ての病院である。その屋上で、美沙はぽつりと呟いた。
「短い記事だったから、もう覚えちゃったよ」
無風の屋上。ぽつぽつと言葉を紡ぎながら、美沙はポケットに手を突っ込んだ。
「それで、唯一の遺品はこの手帳」
美沙が取り出したのは、紺色の手帳。しかし、表紙をめくるとそこには日記と書かれているから、日記帳として使われていたのだろう。
彼女は紺色の日記帳をぱらぱらとめくり、あるページを探していた。
「ここだ」
探していたページを見つけると、美沙は呟いた。日記帳として使われていたその手帳は、罫線が入っているだけの簡素な作りである。だからこそ、日記帳として使われたのだろう。
「二〇〇〇年 八月十日
今日は不思議な一日だった。なんでかって、昼間にちょっとおかしな少女に出会ったからだ。車椅子の少女で、何というか、可愛かった。彼女の瞳に宿っていた――ああ、こんなんでいいのかな。始めてだからよくわからないな。まあいい。ともかく、彼女が道路を走る車の中に突っ込もうとしたんだ。車椅子のまま勢いよく、自殺をしようとしていたのだろうか。それで、俺は何となく助けていた。恨み言を吐かれたけど、一応病院まで連れていった。脚を骨折しているような感じだけど、それで自殺するか、ふつー? しないよなあ。彼女の名前は高山美沙。やっぱり可愛い」
美沙は小さな声でそれを読むと、一息ついて蒼天を眺めた。八月だというのに、太陽の陽射しはそれほど強くない。この病院のある場所が日本最北端の北国なのだからそれも当たり前だ。地球温暖化が騒がれていても、それは変わらない。
「ちょっとおかしな少女、ねえ」
美沙は呟くと、日記帳に視線を落とした。慣れた手つきでページをめくり、あるページに目を留めるとその手を止めた。
「二〇〇一年 八月十日
驚いた。
また彼女に会うことができるなんて。そして、また彼女の自殺を止めることになるとは。でも、あまり話すことはできなかった。とりあえず得た情報を書いておく。彼女の歳は、俺と同い年。彼女の脚の怪我は、どうやら精神的なものらしい。彼女は認めていないようだけど、医者がそう言っていたのだとか。それにしても、やっぱり可愛いな」
そのままぱらぱらとページをめくりながら、美沙は微笑みを浮かべた。
「なんか、私のことが増えてる気がするんですけど」
紺色の日記帳には、確かに美沙のことが何度か書かれていた。可愛いあの娘に会いたい、来年も会えるかな、また自殺しようとするのかな。
そして、二〇〇二年五月三日のページで、彼女は再びページをめくる手を止めた。そのページに日付は書かれていないが、前のページが二日だったからそう考えて間違いないだろう。
「……なんでだよ。聞いてねえ。父さんが借金? 父さんが、逃げた? 母さんが自決した? 知らない。そんなの、知らない。俺は知らない。俺は、知らない」
美沙はか細い声で呟くと、ゆっくりとした手つきでページをめくった。次のページに書かれていた日付は、八月十日。明記はされていないが、文面から推測すればそれ以外の日はありえないだろう。
「今日も、彼女は来たのかな。自殺、止めなくちゃならないよな。でも、さ。俺だって色々と忙しくて、行けないよ。行けないんだよ……」
美沙は目線を日記帳からそらしたが、それは空や海ではなく、見えにくいはずの陸地へと向けられていた。遠くにある、彼女が何度か自殺を試みた道路へ。昔はその道路の先にデパートがあったのだが、今はない。そして、住居も昔より減っている。何でも、地盤に問題があると昨年騒がれたためにそうなったらしい。
「次のページ、っと」
美沙はページをめくり、ゆっくりと読みあげた。
「二〇〇三年 八月十日
彼女はいなかった。来なかった。来られなかったのかもしれない。自殺、したのかな。俺が行かなかったから。いやだ、いやだよ、もう人が死ぬのはいやだ。親も死んで、バイトで生計を立てていて、それでも今は楽しんでやっている。それを彼女に話したかったのに。元気付けたかったのに。祖父や祖母が助けてくれて、借金を返せたことも。その二人も、去年の冬に病気で亡くなったことも。でも、彼女はもういない。俺は一人になったのか? いやだ、いやだ、いやだ! 彼女がいるのかどうかはわからない。けれど、明日行こう。彼女の入院している病院に」
無言でページをめくる。ゆっくりと、屋上の端にある柵に寄りかかりながら。
「二〇〇三年 八月十一日
よかった。彼女は生きていた。でも、俺が話しかけても何も答えてくれなかった。帰りに医者に聞いたんだけど、去年の八月十日、昼間から外へ出かけて夜に帰ってきたそうだ。自殺はしていなかったんだ。俺を待っていたのか? そう、なのか? 俺が行かなかったから、いけなかったのか? でも、俺だって話した。あったことを、全て話したんだ。来年、またあの場所で待ってるって、伝えておいた。会えるかどうかはわからない。けれど、会いたい。
ちょっと恥ずかしいけど、いいよな。……なんだか俺、彼女のことが好きになってるみたいだ。彼女はどうかわからないけど」
「ばか、それは私もだって」
怒ったように鋭い声で言ったが、それを聞く者は誰もいない。紺色の日記を左手に持ち、美沙は伸びをした。そして、またページをめくる。
「――うん」
もちろん、そこに書かれていた日付は、二〇〇四年八月十日。彼女は口に出さず、目でそれを追っていった。
二〇〇四年 八月十日
今日は彼女に会うことができた。性懲りもなく、また自殺しようとしていたけど。でも、よかった。今日は楽しかった。たくさん話せたし、本当に楽しかった。来年、彼女に会ったときに、言おう。まあ、別に結婚を申し込むわけじゃないし。付き合ってくれ、だけだし。彼女も笑っていたから、嫌いというわけではないよな。恋愛感情かどうかはわからないけど。
「恋愛感情以外に、何があるのよ」
美沙はページをめくりながら、ため息混じりに呟く。
「二〇〇五年 八月十日」
それだけ言って、一旦深呼吸をする。そして、日記に書かれていた文面を読み始める。
「帰らなくちゃ、いけないんだよな。彼女に会いに行かなくちゃ、言わなきゃいけないんだけど……」
その文章は、それまでの文章とは違い乱れた字体だった。それも当然、この日の日記は、船が揺れている中で書かれていたのだから。
「聞こえてくる。『座礁した!』『逃げろ!』『沈没するぞ!』大体理解はできた。それもそうか。俺は今、荷物の下敷きになってるんだし、逃げられないや。痛くはないけど、泳げないからな。死ぬ、のか? ……やっぱ、そうだよな。
船員が助けに来た。でも、どうしよもなくて、それでも諦めようとしないから、次第に人が集まって来る。船員だけじゃなくて、乗客も。俺を助けようと必死だ。でも、無駄だ。この荷物はびくともしない。何かはよくわかんないけど、重すぎる。このままじゃ、沈没して、みんな死んでしまう。逃がしてやらないと。
船員が聞く。『君、大丈夫かい?』。だから、俺も答える。『苦しくはありません』『何を書いているんだ?』『遺書、になるのかな』『――絶対に、助けてやるからな』。俺は一瞬目を瞑り、会話を打ち切った。
これは、遺書だ。船員たちに渡して、持ち帰ってもらおうと思う。俺は物をあまり持たない性格だから、他に遺品がないんだよな。ともかく、これは遺書――ラブレターかもしれないな。まあ、どっちだっていい。
君は、読んでるかな? 何度も自殺しようとした、君は。俺は、君のことが好きだ。付き合うなんてことはできないけど、約束して欲しいことがある。脚を直してくれ。心の問題なら、きっと直せる。君なら、大丈夫だ。俺が保証する。歩けるようになって欲しいんだ。そして、俺のことは忘れてくれ。これは海に捨てたって構わない。歩けるようになったらだけどな。
とにかく、生きてくれ。君には生きて欲しいんだ。まあ、君は俺のことが好きじゃないのかも知れないけど。君のことが好きだから、生きていて欲しい。俺が死んでも、生きていて欲しいんだ。
さよなら、美沙」
「……ばか」
それ以降は、空白が続くのみ。呟いた彼女はポケットからペンを取り出して、キャップを外す。そのキャップは、海の中へ。
「私も、好きだったよ。大好きだった。だから、歩けるようになるために、がんばったんだよ?」
ペンを走らせるのは、二〇〇五年八月十日のページ。その空白行。綺麗な字体で、言葉にしたことをそのまま書き綴っていく。
「でもね。でも、ね。生きてくれ、は守れないよ。ごめんね、銀。でも、ひとつだけ言わせて。私のこと、もっとたくさん名前で呼んでくれても良かったのに。日記でも、滅多に書かれていなかったし。名前で呼んでくれないから、これを見るまでずーっと片思いだと思ってたんだよ?」
美沙の頬に、暖かい液体が流れて、それがゆっくりと頬を伝い、彼女の肩に触れる。
「じゃあ、今から会いに行くね」
ペンを海に投げ捨てて、紺色の日記帳を閉じる。それを大事に握り締めて、美沙はゆっくりと柵を乗り越える。そして、空をじっと見つめていた。
無風の屋上に風が流れて、彼女の頬を伝う暖かい液体が舞散る。空気に触れて、次第に暖かさを失っていくが、屋上の地面についたときにもまだ冷えてはいなかった。そのまま数分、美沙は空を見つめ続けていた。それから、海に目をやる。ポケットから取り出したハンカチで涙を拭いて、静かにまぶたを閉じる。
「さよならじゃないよ。今年も、会えるんだから。いつもと違う場所だけど」
風が止んだその瞬間、高山美沙の身体は宙に浮いた。スカートがはためくのも、風で髪が乱れるのも気にせず、岡野銀のいる海に向かって、ゆっくりと落ちていく。
それでも、紺色の日記帳だけは離さない。
着水する直前、彼女の口が僅かに動いた。声にはならなかったが、その口の動きは確かにこう言っていた。
――好きだよ、銀。