隣国との戦が終わってしばらく、落ち着きを取り戻した百合の国。軽く城下町を回り、戻ってきた明日花が見たのは、城の一室で小さな機械を動かすフィーリーの姿だった。長方形の小さくて薄い機械。遠くからでも、何かが浮かびあがっているような光が見える。
それが何かはわからない。しかし、よく似たものを明日花は元の世界で知っていた。
「なあ、フィーリー、それはなんだ?」
「もちろん、ゲーム機ですよ? 魔法機械は便利ですよね」
「やっぱりか」
「ええ」
「にしても、随分現代的というか、なんというか……」
明日花は苦笑のような微笑のような、微妙な笑みを浮かべる。この世界にも少しは慣れたつもりだったが、突然のゲーム機の出現には戸惑いを隠せない。
「なにを当たり前のことを。異世界へ行ける魔法を生み出したこの世界が、貴方の世界より文明レベルで劣っているはずがないでしょう」
「そりゃそうだけど」
「それに、言語も似ているのです。文化もある程度は似ますよ。ちなみに、このゲーム機は使用者の魔力で動くので、基本的に電池切れの心配はありません。僅かな魔力で蓄魔も可能です。その他諸々、貴方の国のゲーム機より遥かに高性能です。もっとも、アイディアという点では一概に言えないものもありますが」
「それって、この国で人気なのか?」
「この世界では一般的ですが、百合の国ではさほど。雲上の国が生み出した魔法機械や魔法道具の中で、有名なもののひとつですね」
「雲上の国、か」
隣国以外の国の名前を聞くのは初めてだった。どんな国なのか気になった明日花が聞こうとするより早く、メイドリーダーが口を開いた。
「雲上の国は、ちょうど今の時期、百合の国の近くを通りますよ。どうですか、この話題提供の巧みさ。褒めてもいいのですよ?」
「ただゲームやってただけだよな?」
「ええ。本来は二日前に伝える予定でしたが、忘れていまして。ゲームをしていたら思い出したので伝えておきました」
「おい」
「そして今日は、雲上の国から私たちの友人が訪れる日です。アスカ王、謁見の準備をしておいてくださいね」
「……了解」
不満はあったが、それを口にしている暇はない。謁見は王として今の自分にもやれる、数少ない仕事のひとつ。時間はなくとも、可能な限り準備は整えておきたかった。
(フィーリーたちの友人か……)
準備といっても服装の確認と、謁見室の確認くらいなものだ。それをこなしながら、やってくるという相手を想像する。男なのか女なのか、まあとりあえず女の子ではあるんだろうなと明日花は予想する。
そして約束通り、謁見室で待つ明日花の前に、その友人がやってきた。明日花がフィーリーから話を聞いてから、約三十分の時間が経過していた。
「アスカ王、ご紹介します。彼女が私たちの友人――天使です」
「ソラソノ・リリだ。君が、噂のアスカ王だね」
メイドリーダーに紹介されて、リリと名乗った少女は一歩前に踏み出る。そしてまた一歩、二歩と明日花の座る玉座へと近づいていく。明日花は彼女の行動に困惑しながらも、少女の姿を確認する。
明るい黄色の髪は、小さくぴょこんと撥ねたショートツインテール。天使の羽のようなそれをまとめる細長い黒のリボン。背は百七十四センチと、明日花より僅かに高い。ミドルスカートのひらひらした服で、胸の膨らみは小さい。暗い黄色の瞳が明日花をじっと見つめたまま、玉座に接近する。
そして何より特徴的なのは、背中に生えた白く綺麗な翼。
「天使……」
メイドリーダー、フィーリーの言った言葉を繰り返す。そしてその頃には、リリは明日花の目の前まで近づいてきた。
「さっきから人の体をじろじろと……」
「あ、すまない。珍しくて、つい」
明日花は玉座から立ち上がり、土下座とまではいかないが深く礼をして謝ろうとする。
「視姦した、と」
「え?」
「えい」
直後、彼女から放たれたのは鋭いローキック。バランスを崩しながらも、明日花は顔を上げて何が起こったのかを確認しようとする。
「ふっ!」
その顔を目がけて放たれるは、側面から襲いかかる強烈な回し蹴り。
白!
玉座ごと吹き飛ばされた明日花の意識は、そこで途切れた。
「……すまない、さっきのは冗談だ」
「いや待て! 思いっきり蹴ったよな!」
目を覚ました明日花が事情を説明し、リリから返ってきたのはそんな答え。
「ついでに王の強さを確かめようとしたのだけど、ここまで弱いとは……でも、気絶で済むくらいにしっかり手加減はしたよ?」
「本気だったらもっと強いのかよ」
「まあね。それより、許してもらえるかな?」
「それは、その、ええと……」
一瞬だけど、いいものも見せてもらったし、と言っていいのか明日花は迷う。代わりに口を開いたのは、後ろにいたフィーリー。微笑みながら、彼女は言った。
「白いぱんつを見られたから、むしろご褒美をありがとう、だそうです」
「そこまでの境地には達してねえよ!」
「なんだ、その程度でいいのかい?」
「その程度って、恥ずかしくないのか?」
「ふふ、リリの紹介は覚えているかい? これでも一応、天使と呼ばれる者。今日も空から降りてきた。空を飛んでいれば当然、下から見えてしまうものだ。もう慣れたよ」
「天使、か……フィーリー」
「天の力を使うもの――一般的には、天使。正確にはハネヒト族ですね」
明日花の質問に、予想していたとばかりにフィーリーは即答する。
「天の使いじゃなくてか?」
「ふう。世界が違えば略称も変わる、当たり前じゃないですか」
露骨なため息は気にしないことにして、明日花はリリに視線を移した。つまり、翼は生えているが基本的には自分と同じ、と考えていいのだろう。
「改めて、戸辺明日花だ。よろしく頼む」
「こちらこそ。百合の国の国民を大切にしてくれると期待するよ」
明日花とリリは握手をして、さっきの件は水に流すことを互いに承諾する。
「リリは、メイシアみたいな立場なのか?」
「ん?」
「違うよ? リリは私たちのお友達」
「政治とは一切関係ないですよ」
首を傾げるリリに代わって、メイシアとココットが答える。
「ああ。ボクはこの国が好きで、よく立ち寄るんだ。わざわざ降りて珍しいとは言われているが、百合の国にはそれだけの価値があるからね」
「へえ。そうなのか」
「ふふ、よかったら案内しようか? フィーリーたちも、深いところまではまだ案内していないだろう?」
「いいのか?」
彼女の時間を奪うことに対してと、王が来訪者に案内してもらうということ。二つの意味で問題はないのかと、明日花はそこにいる全員に尋ねた。
「ああ。ボクなら時間はあるし、気にしないでいいよ。さっきのお詫びとでも思ってくれないかな? それに、君のことは個人的によく知っておきたいしね」
「まあ、問題ないと思いますよ。アスカが王の威厳を大事にしたい、というわけでもないなら」
「そうか。じゃあお願いするよ」
「ふふ。では、二人きりで向かうとしようか。いざ、城下町へ!」
リリに手を引かれて、明日花は追いかけるように歩き出す。彼女には何か別の目的もあるように感じられたが、フィーリーも認めているし、不安はなかった。信頼に足る人物でなければ、わざわざ異世界から誘拐してきた相手を任せるようなことはできない。
城下町に出てすぐ、リリは明日花の方を向いて尋ねた。
「そういえば、君はボクより年上なんだよね?」
「そうなのか? フィーリーたちから?」
「ああ、手紙でね。ボクより二つ上だと聞いている」
「十六歳、か」
「そうなるね。アスカは王でもあることだし、城下でこの態度はまずいかな?」
「いや、そのままでいいよ。王って呼ばれるより気楽でいい」
「なるほど。まだ、慣れてはいないと。君が王になった経緯はよく知らないけど、まずは案内からだ。そういう話は、お互いをよく知ってからでないとね」
「わかった。今日は頼むよ」
肝心な部分を伝えなかったフィーリーに文句はない。彼女がそういうことを伝えるような少女でないことは、出会ったときから何となく理解している。
「お任せあれ。そうだね、まずは……」
リリは城の裏手に向かって城下町を歩いていく。
「あれ、アスカ王? またですか?」
「あ、リリさん。お久しぶりです」
「ふふ、久しぶりだね」
声をかけられた相手に、軽く手を振って笑顔を返すリリ。何度も来ているだけあって、顔は覚えられているようだ。城下町の住民は明日花よりもリリに声をかける者が多く、彼は黙って彼女の後を追いかける。
城の裏には大きな林がある。手入れは行き届いているとのことだが、林道が整備されているわけではない。迷って帰れなくなる可能性を考えると、明日花が一人で気軽に立ち寄れる場所ではなかった。
「ここの奥だよ。しっかりついて来てね?」
「了解だ」
林の中の比較的歩きやすい場所を進み、十数分後には林の奥に到達する。明日花たちの目の前に現れたのは、小さな湖と、一本の巨木。
湖は澄んでいて、巨木には木でできた一基のブランコがかけられている。静かな秘密基地のような空間、というのが明日花の第一印象だった。
「ここは……」
「ボクたちが幼い頃から、ここにはよく来ているんだ」
「俺に教えてよかったのか?」
「別に秘密でもないしね。さて、じゃあさっさと林を抜けるとしようか」
「え?」
明日花はさっさと歩き出したリリに首を傾げながらも、彼女の後についていく。疑問の答えは、歩き出してすぐにリリの口から明かされた。
「まずは、と言っただろう? ここを抜けると近道なんだ。気に入ってくれたなら、また帰りに寄ったときに落ち着こうじゃないか」
再び数十分後、林を抜けた明日花たちは城下町に戻った。林の裏の城下町。明日花も訪れたことはあるが、大きな通りが中心。リリが歩いてる場所は見覚えのない路地だった。
一軒の小さな喫茶店。
「着いたね。どうぞ」
リリが明日花を連れてきたのは、路地裏にあるそのお店だった。
「いらっしゃいませ。あら、リリに……王様?」
落ち着いた雰囲気の制服に身を包んだ、若い女性が明日花たちを出迎える。店内の雰囲気も落ち着いていて、席の数は少ない。他のお客さんは二人だけで、奥の席に座って珈琲を飲みながら雑談をしているようだった。
リリは明日花をカウンター席に案内する。慣れた様子で、常連であることは聞くまでもなかった。
「珈琲は飲めるよね? 砂糖やミルクはいるかい?」
「いや、ブラックでいい」
少しして、運ばれてきた珈琲を口に運ぶ。豆がどうのだとか詳しくなくても、美味しい珈琲だとはわかる味。リリも明日花と同じく、ブラックで珈琲を飲んでいた。
「マスター、彼が来てからの町の様子は?」
「今のところ、特に変わりはないですね。本人の前で言っていいのかわかりませんけど」
マスターと呼ばれた女性――二十代後半くらいの美しい女性だ――がちらりと明日花を見る。明日花は視線で、気にしなくてもいいと意思を伝えてみた。
「アスカ王がいれば、お祭りは盛り上がりそうだね、という人が増えているくらいのものです。特別な信頼もなければ、反感もない。いつもどおりですよ」
「平和で何よりだね」
「そうですね」
リリとマスターは親しげに微笑み合う。それから、リリがアスカの方を向いて言った。
「マスターは情報通でね。よくお世話になってるんだ」
「国に報告でもするのか?」
「いいや。単にボクの趣味さ。今は隣国と争っているけど、百合の国は女の子にとっては気楽に過ごせる国だよ。男の旅人には、少し危険な国だと思われてるみたいだけどね」
「別に、何もしなければ何もないんですけどね」
「それでも、実際に何かしちゃって、大怪我をした人がいるからね。怖がるのも当然さ。ボクの国でも、男の人の半分は怖がってるよ」
「大怪我って、その、アレだよな?」
「そうだね。まあ、女の子だけの国と聞けば、よからぬ事を企んで、訪れる男も大昔にはいたということさ」
「千年くらい昔のことですけれどね」
「もちろん、建国したときからそのことは想定済み。でも、当時は魔法の発展もまだまだでね。同情はしないけど、その男はフェントゥーグを失ったのさ。死んだ方がましなくらいの激痛とともにね」
「それ以降もそういう人はいましたが、徐々に魔法も発展しまして。三百年前には痛みなく切り落とせる魔法を、全ての国民が習得するようになりました。今や、熟練者なら気付かせることもなく切り落とせるようになり、進歩したものです」
「なあ、その話、聞いているだけで怖いからやめてくれないか?」
確かにそんなことでもあれば、よからぬ事を企む男もやって来なくなるだろう。行動を起こして罪に問われる以前に、大事なモノを切り落とされるのだ。
「はは、すまないね。でも、君も覚えておいた方がいいよ? 王とはいえ、君も男だ。万が一でもあれば国民は容赦なく……」
「うん、知ってる。一番酷いのが城にいるからな」
真剣な顔で忠告するリリに、明日花は苦笑を浮かべて答えた。
「城? ええと、誰のことかな?」
リリは驚いた顔で、小首を傾げて尋ねる。その様子を明日花は意外に思いながらも、はっきりと答えた。
「メイドのリーダーさんだ」
「へえ、フィーリーが……なるほどね」
リリは納得したように頷いて、珈琲を一口。明日花も同じく珈琲を口に入れて、その反応の意味を考えていたが、答えは出なさそうだったのですぐに諦めた。
「じゃあ、マスター。また来るよ」
「ありがとうございました」
微笑むマスターと、落ち着いた声で挨拶する店員さんに見送られて、明日花とリリは喫茶店を後にする。
それから、リリはいくつかの店や、広場を明日花に案内した。どれも大通りから外れたところにあるもので、百合の国の裏側――というにはどこも平和なものだったが――を彼女は案内してくれたようだった。
二人が帰路に着いたのは、もうそろそろ空に夕日が見え始める頃。太陽が赤く染まる前に、明日花たちは再び林を抜けて、小さな湖と巨木の前に到着していた。
「ボクの案内、どうだったかな?」
「色々と興味深かったよ。この国についても、詳しくなれたと思う」
巨木を背に、湖の前で向かい合う王と天使。ブランコが風で微かに揺れて、小さな音を立てていた。
「それは良かった。それで、帰る前に君と少し話をしたいんだけど……いいかな?」
「もちろん。言われなかったら、俺から頼もうと思っていたところだ」
「じゃあ、君が王になった経緯から、詳しくお願いするよ」
「わかった。脚色なしに、ありのままを話そう」
明日花はフィーリーに誘拐され、脅迫され、渋々承諾して王となった経緯を、一切の省略なくリリに話した。といっても、一言一句まで完璧に再現できるほど覚えてはいないので、うろ覚えな部分もあったのだが、ニュアンスがしっかり伝われば問題ない。
話を聞き終えたリリは、軽く顎に手をあてて、目を伏せたまましばらく黙っていた。湖畔で綺麗な少女が考え込む姿は絵になる。想い人のいる明日花でも見とれてしまう程に。
「そうか。理解したよ」
顔をあげて、リリが口を開く。
「フィーリーも無茶な事をしたみたいだね。想い人のことを考えると、ボクとしてもちょっと文句を言いたくなるね」
「それについては、もうちょっと続きがあるんだけどな」
「ほう。聞かせてくれるかい?」
明日花は戦場となった平原で想い人――澄川夕衣と再会したことを話す。ついでに、ハイリエッタのことや、三人のメイドたちのこと。この国で王となってから起こった出来事を、かいつまんでリリに伝えた。
「なんだ、だったら問題ないじゃないか。乗り越えられる障害だね」
「あれ?」
「どうしたんだい?」
一転して笑顔を見せたリリに、明日花は大きく首を傾げて疑問を口にする。
「それだけなのか?」
「うん。普通のことだろう?」
「普通って……ああ、でも、君はフィーリーたちの友人だったよな」
「そうだね。でも、アスカは誤解してると思うよ」
「誤解?」
「うん。ボクが言ったのは、ボクたちにとっての普通じゃない。この世界にとっての普通さ。君の世界ではどうなのかわからないけど、この世界の人なら、それくらいは誰でも平然とやってのけるよ? フィーリーほどの無茶をする人はあまりいないけどね」
「誘拐や脅迫を平然と……」
「そこだよ。フィーリーの言葉を思い出してごらん? 君の国では犯罪でも、君の世界の人たちは、この世界の人を裁けない。つまり、この世界にとっては罪でもなんでもないんだよ。誘拐も脅迫も、異世界人である君に対してはね」
「それ、大丈夫なのか?」
「もちろん、最低限の法はこの世界にもあるさ。異世界人であれば何をしてもいいわけじゃない。ただ、今回の場合は伝統だからね。特例として許されるってわけさ。これが、異世界から生け贄を、みたいなものだったら問題だけど、そうじゃない」
リリは真剣に、明日花の目を見つめて話し続ける。明日花も目を逸らさず、彼女の話をよく聞いていた。この世界についての知識。しっかり覚えるだけの価値は十分にある。
「そうだね。ボクの国の話をしようか。雲上の国――雲の上、飛行船の中に少数の天使たちが暮らす国さ。雲上で魔法研究を行い、その技術を地上に還元する。飛行船も開発した魔法技術の一つだね」
「研究国家ってところか」
「そうだよ。そして、その研究による成果。それを色々な国に提供して、その権利料だけでボクたちは裕福に暮らしているのさ。過去の研究者の遺産――現代の研究者の成果は、未来の子孫への遺産となる」
「気楽なもんだな」
「気楽なものだよ。とはいえ、研究者以外もじっとしていると退屈だからね。外敵が現れたときのために戦闘技術は身につけている。そしてボクは、その中でも一番の実力者。国では指南役も担っているんだよ。そんなボクでも、気軽に百合の国に遊びにいける。研究者の防衛隊なんてそれっぽい名称はついてるけど、暇つぶしの延長だね」
「いい加減だな!」
「その通りさ。雲上の国はいい加減なんだよ。良くも悪くも、ね」
「大丈夫なのかよ、この世界」
「ふふ。いい加減なのは、百合の国や雲上の国だけじゃないからね。ほとんどの国がいい加減なら、世界は回るものだよ。緩やかだけど、確実にね」
「そういうもんか」
「そういうものだよ」
リリは微笑を浮かべて、小さく肩をすくめる。
「他に戦争している国はないのか?」
「あるよ。どこもかしこも、戦争ごっこだよ。血で血を洗うような戦は、神話の時代よりもずっと昔の話さ。きっと、神様がこういう世界を望んだんだね」
「神様……」
「神話、聞いたことないなら、話そうか? といってもたくさんあるけど、やっぱり全ての始まり、世界に伝わる創世神話がいいかな。全部話すと長いから、細かい部分は省かせてもらうけど」
「聞かせてくれ」
リリは頷いて、ゆっくりと場所を移動する。湖を背にして、彼女は目を瞑って静かに語り始めた。風が一瞬やや強く吹いて、木々の葉が擦れる音が風に乗って届く。
「数多ある世界の一つ、その中の一つの星、トゥーグリッサ。大昔の誰かが名付けた星の名前。その星の始まりに、二人の女性がいたんだ。フェンとクレア。彼女たちは互いを愛し合い、子を成して、世界に人が増えていった。こんな感じの神話だね」
「……凄く気になることがあるんだが?」
「フェンが攻めで、クレアが受けだよ。それで、男っぽいものにはトゥーグを、女っぽいものにはリッサと何となくつけるようになったと言われているね」
「そうなのか。って、そうじゃなくて!」
「違ったかい?」
「男、いなかったよな?」
「うん」
「なんで子供ができるんだ?」
「ええと、魔法であれをこうして……さすがに、口にするのは恥ずかしいよ」
リリは微かに顔を赤らめる。その表情を見て、明日花は何となく意味を理解する。
「この世界では、女の子同士でも子供が作れるのか?」
「魔法があればね。ちなみに、男の子同士でもできるよ」
「万能だな魔法!」
「そもそも、それができないなら、女性だけの国なんてどうやって維持するんだい?」
「外から男を……」
「魔法でフェントゥーグを処理するのに?」
「するわけないな。なるほど、だから百合の国か」
「ふふ、世界は違っても、百合の文化は同じみたいだね」
明日花は驚きながらも、理解して納得するのに時間はかからなかった。世界が違えば常識も変わる。それはリリの話を聞いている途中で、既に理解していた。
「さて、話はこれでおしまいだ。帰ろうか?」
「待ってくれ、リリ」
湖の端を離れて歩き出したリリに、明日花が声をかける。リリは足を止めて、顔に疑問を浮かべながら振り向いた。
強い風がブランコを大きく揺らし、小さな音を立てる。二人の視界の端で緩やかに揺れ動き、小さな音が繰り返されていた。
出会ってすぐに回し蹴りを食らい、百合の国を案内してもらって、湖のほとりで話を聞いて、彼女のことはだいぶ理解できた。蹴られたときは迷いが大半を占めていたが、今はもう迷いはない。
「君に頼みがあるんだ」
「ボクに?」
「リリ。俺に仕えてくれないか?」
「……は?」
一瞬の間を置いて、リリが呟いた。ぽかんとした表情で、明日花を見つめる。
「ボクが、君に? 何をする気だい?」
「変な目的じゃないさ。今日一日、一緒にいてわかったんだ。君は、少なくともフィーリーより話がわかる。君が側にいてくれると、きっと助かると思うんだ。俺のために、近衛兵として仕えてくれないか?」
「ふむ」
「近衛兵の確保は、ココットからも頼まれてるんだ。どうかな?」
「なるほど。うん、いいよ」
リリは笑顔を見せて、大きく頷いてみせた。
「そうか……って、随分あっさりしてるな」
言葉を尽くすまでもなく了承したリリに、明日花はやや拍子抜けする。
「この国は好きだからね。君も、どうやら心配はないようだ。断る理由はないさ。国でやることもあるからすぐにとはいかないけど……三日後には戻ってくるよ」
リリは言うと、翼を大きくはばたかせて、湖の上へと舞い飛んでみせた。夕日が彼女の翼と湖を照らす。彼の世界での天使を思わせるような幻想的な光景に、明日花は見とれていた。が、リリが空高く飛び立とうとしたのを見て、慌てて声をかける。
「今すぐ行くのか?」
「ああ。近衛兵として仕えるなら、急いだ方がいいだろう? 前の戦いは不完全燃焼だったみたいだから、もうそろそろハイリエッタも、あちらの軍師も動く頃だ。もっとも、君の想い人次第ではゆっくりしてもいいかもしれないけど……どう思う?」
「夕衣のことだから、恥ずかしさはもう克服してるだろうな」
「なら、予定通りだ。それじゃ、三日後に!」
「ああ、待ってるぞ」
翼を大きく広げて、リリは木々の間を抜けて空を飛んでいく。爽やかな風が葉を擦れさせる音を聞きながら、明日花は彼女の姿を、小さくなって見えなくなるまでずっと眺めていた。