「見覚えはあるけど、見慣れない海、かあ……」
夢の内容、思い出した記憶を彼女たちに話すと、すぐに秋奈さんがそう口にした。
「星内で海の見える場所、とくればここききほし地域と、私のあおほし地域だよね。すぐ北の頂点五地域だから、私が真っ先にここを訪ねたように……」
「多分、そうだと思う。姉上と、あの男が消えた場所は――あおほし地域だ」
可能性を考えれば簡単に辿り着ける結論。いくら姉上が強いといっても、幼い俺も一緒にどこか遠くの星外にいって、数日と経たずに帰ってくるのは無理だ。
「そ。私は枯葉くんが起きたら戻るつもりだったからいつでも迎えられるけど、君たちは準備があるでしょ? 君たち……というか、椿ちゃんに」
「そうだね。ここから先に踏み込むなら、五人でいった方がいい」
俺たちの前に現れたあめとゆき。目的不明の、実力未知数の敵。記憶の雲に覆われた真実に近付こうとすれば、きっと彼女たちはまた現れる。そんな予感――確信めいた予感が、俺にはあった。きっと秋奈さん、真冬さん、小夏さん、それに椿さんも同じ考えだと思う。
だから彼女は俺を届けてすぐに戻って、調べものを再開した。これから――もうすぐ起こるであろう何かに備えるために。
とはいえ、俺もまだ目を覚ましたばかり。椿さんにも伝えにいく時間が必要だし、そのもうすぐは明日以降になる。約束は明後日か明々後日か、全ては椿さん次第だ。
俺たちがあおほし地域を訪れたのは、それから四日後。そらほしの月第二週も半ばを過ぎて、第三週が目の前に近付いてくる頃だった。まだまだ気候は暖かく、寒さに変わるまではもう一、二週間はかかるだろう。
「私はさっぱりですが、あなたの記憶は思い出せた。浅海の手紙よりも、直接の衝撃の方が効果的ということでしょうか?」
合流した椿さんとの会話は、そんな言葉から始まった。あの衝撃で思い出せたのだとしても、あんな衝撃は二度とごめんだ。思い出しても痛みは蘇らないが、次にあめと戦うときには全力で警戒するとしよう。あれは、気合じゃ耐えられない。
「ようこそ! ここが私のあおほし地域だよ!」
到着してすぐ、迎えてくれた秋奈さん。真冬さんや小夏さんとは中央五角星の道で合流して、四人揃ってあおほし地域を訪れた。
「海……はまだ見えないか」
海も見えなければ、浜辺も見えない。代わりに見えるあおほし湖を眺めて、呟く。
「そうだね。だからきっと、お姉さんが消えたのはここじゃない。ということで海の見える場所に案内しようと思うんだけど……」
明るくそう言う秋奈さんの顔は、少し困った表情だ。
「ま、いけばわかるよ」
俺たちの疑問に答えるつもりはないようで、秋奈さんはさっさと歩き出してしまった。彼女がそう言うのなら、俺たちも従うとしよう。なんたって、あおほし地域の星頂は白樺秋奈。俺たちの誰よりも、あおほし地域には詳しいのだから。
そして程無くして、俺たち全員がその言葉の意味を理解することになる。
「はい、これがあおほし地域の海です!」
あおほし湖の近くにある、ちょっと高い塔のような建物に上って、秋奈さんはその海を――三方に広がる広大な海を示した。
砂丘から見慣れた海は、西側の――あおほし地域の方角に広がる海。星外の東に広がるのは湿原で、中央五角星の方向にはもちろん高い山々がそびえている。星外の全てが海というこの光景は、ききほし地域では絶対に見られないものだ。
そしてもう一つ、俺からするととても珍しいものがあった。……浜辺だ。
砂丘と同じ砂だけど、その砂は丘を作らず、真っ白で綺麗な砂が薄く広がっている。さすがに海と違って三方全てにとはいかないものの、ここまで広く浅い砂は、初めて見る。
「どう、枯葉くん?」
「ああ。これはいい景色だね。こんな塔みたいなところに上った記憶はないけど」
「あの海で泳ぎたい。みんなで。一応、枯葉も」
「泳ぎなら得意よ。でも水着はないから、枯葉くんにはちょっと刺激が強すぎるね」
微笑んで答えた俺の言葉に、小夏さんと真冬さんが続く。水着じゃなくて刺激が強い、つまり下着で、いや泳ぐということは服を全て脱いで……確かに想像するだけで刺激的な光景だ。
「枯葉くん、妄想してるところ悪いけど、水着ならここで買えちゃうんだなー。あおほし地域には海がいっぱいあるからね。海あるところに水着あり、どれも一級品だよ」
想像しただけで妄想はしてないと言いかけたけど、やめておいた。傍にいる女の子の裸を想像したという事実は、妄想と言われても仕方のないものだ。
「あの海は全部星外、じゃないんだったよね」
「うん。近海はあおほし地域の星内だよ。浜辺や崖で釣りもできるけど、船に乗って本格的な漁ができるのは星外になるね」
「船か……」
もちろんそんな記憶も俺にはない。星内であれば可能性もあるが、思い出した光景の足場は船の甲板ではなかった。浜辺か土か、それとも石か。それははっきりしないが、船の上ならもっと海が近いはずだ。
ただ、姉上と榛雷斗が船に乗った可能性は否定できない。海に消えたのなら、地上に手がかりが少ないのも納得がいく。
「じゃ、どこにいく? 五星学園や星寮には用はないよね? 部屋とベッドのお手入れはちゃんとしてるけど、おもてなしの用意はしてないよ」
「おもてなしを受けている時間なんてないよ」
「はい。浅海の手紙にも、そう書かれていましたから」
何てこともないように告げられたその言葉に、俺たちの視線が椿さんに集中する。
「今回の手紙は、とても珍しいものでして……」
その視線に気付いたのか、視線がなくても答えるつもりだったのか、椿さんは流れるように答えてくれた。
「手紙にはこうありました。『僕の今を知りたいなら、大怪我には気を付けて。でも椿ならきっと、心配は要らない。だから、この手紙は最後の手紙だよ』、と」
短い手紙。それ自体は何度かあったかもしれない。しかし、彼女の告げた手紙の文面は、明らかに……。
「答えに近付いてる」
「その前に、障害もある」
俺の言葉に、秋奈さんが笑顔で続く。そしてその障害が何か、答えたのは真冬さんと小夏さんだった。
「小さなゆきと」
「枯葉が脱がしたあめ」
「いや、別に脱がそうと思ったわけじゃ」
「そうですね。みなさん、気を付けてください」
俺の言葉は遮られなかったけれど、椿さんは否定もしてくれなかった。むしろこの流れだと肯定してることにならないかと思ったが、この四人にそれを言っても無駄な気がした。だったらいっそのこと、乗っかるべきじゃないだろうか。
「レインコートを脱がすと、防御力が下がったりしないかな?」
「どうだろうね。むしろ枯葉くんの防御力が下がらないかな?」
「水着とわかってれば問題ないよ」
「水着とわかってれば、服を脱がしても問題ない……枯葉くん、その言葉、嘘はないね? これから私たちがお姉さんたちの問題を解決したあと、みんなで海で遊ぼうよ! ってなったときに、私たちが水着だからって浜辺で服を脱いでも、枯葉くんは私たちから視線を外さないでいられるんだね」
秋奈さんの真剣な言葉に、他の三人の視線も俺を捉えた。
「みんな、か」
そこに姉上も入っているのだろうか。入っているのだとしたら、問題なんてない。
「お、なんか違う方向にいっちゃった?」
「みたいだね」
俺は苦笑する。彼女の真剣さもあったのだろうけど、やっぱり今の俺にとっての一番は姉上だ。そのためにここにきたのだし、それが解決するまでは彼女たちへの気持ちなんて何一つ定まらない。友人として、仲間として、好きになるかもしれない相手として、どんな可能性もあるけど、どれを選びたいかなんてわからない。
もっとも、解決したら解決したで悩みそうなことではあるけれど……そんな平和な悩みなら、大歓迎だ。そんな平和な悩みを楽しめる解決があるなら、大満足だ。
俺たちは塔を下りて、一番広いという浜辺に向かうことにした。といってもどこが一番なのかは秋奈さんにも判断が難しいらしく、潮の満ち引きや、浜辺の横の長さや遊べる広さ、それらの条件を含めると、候補はいくつか見つかるという。
今回の基準は戦いやすくて、中央五角星を抜けてからそう遠くない場所。この条件なら、一番広い浜辺は一つに絞られる。彼女は迷わずそこに案内してくれた。
到着するまで三十分以上、思ったよりも近い場所にあった浜辺はとても広かった。この浜辺を歩くだけで、あおほし地域に入ってからここにくるまでにかかった時間の倍以上はかかるそうだ。
「大きな海だな」
見覚えはあるが、見慣れない海。ききほし地域からも見える海で、あおほし地域からも見える海。この浜辺から見える海は、そんな海だった。
けれど海は広くて浜辺も広い。具体的にここだと断定することはできないし、断定したとしても意味はない。思い出した光景の場所で姉上と榛雷斗が姿を消した、という記憶は思い出せていないのだから。大体の場所さえわかれば、きっと答えはあちらからやってくる。
しばらく、五人で並んで浜辺を歩き続ける。
奇襲には備えず、ただゆっくりとなるべく疲れないように。
砂を踏みしめる音。砂丘の砂とは似ているけれど、全く違う響きと感触。
そして俺たちは、見つけた。浜辺で向き合い、見上げ見下ろし佇む二人の少女を。
見上げるのは毛糸のコートに毛糸のマフラー。特徴的な服装の小さな女の子。見下ろすのは晴れた空の下にレインコート。特徴的な服装のスレンダーな女の子。
遠くに見える二人の少女。言葉は聞こえないし、顔も見えない。けれど、あめとゆきの他にあんな服装で、こんなところにいる女の子がいるだろうか。あるいは、あおほし地域で流行しているのかもしれないが、視線を送った秋奈さんは無言で首を横に振った。
近付いていくと、二人の声が聞こえてくる。会話。どうやら、何かを話しているようだ。
「あめ。私たち、見られてる?」
「ゆき。見せつけてあげましょう」
見上げる少女と、見下ろす少女の言葉。二人の顔が近付いて、ゆきの手はそっとあめのレインコートの上から胸の部分に、あめの伸ばした手はゆきの背中をそっと抱きしめて……。
「あれは! 枯葉くんを性的に興奮させて、戦意を喪失させようという作戦! 巧妙な作戦だけど、負けちゃだめだよ枯葉くん!」
「負けるも何も、放っておいたらやめるだろうし……」
そうして油断していると、ゆきの手はあめのレインコートのボタンを一つ一つ外して脱がしていき、あめの手は毛糸のコートの糸を解くように、ふわふわやわやわ抱きしめ続ける。
レインコートを脱がして水着姿になったあめ。その水着の下の紐に、ゆきはそっと手を伸ばす。応えるようにあめはゆきのマフラーを優しく解いて首を露わにさせて、今度はその両手を毛糸のコートの裾に……。
「いつやめると思う?」
「やめないね」
「枯葉の狙い通り」
「その方が燃えると言うなら、私は止めませんよ」
もしかして、あのコートは二人の力を抑えているもので、脱いだらもっと強くなるのかもしれない。そうなると今すぐ止めるべきだと思うのだが、ここまで見ていたら、もうちょっとだけ続きを見ていたい気持ちもよぎる。
「止めにこないよ、あめ?」
「今度は本気で潰す、ゆき?」
「二人とも、なんでここにいる? 俺たちに用があるのか? 君たちの用がなくても、俺たちには聞きたいことがある。その答えも、君たちは知っているはずだ」
見つめ合っていたあめとゆきがこちらを向いた。軽蔑するような視線も、受け入れよう。秋奈さんの楽しげな視線と、真冬さんの冷たい表情に涼しげな視線、小夏さんの無表情でも熱のこもった視線に、椿さんの興味深そうな視線……こっちは全部受け入れたら疲れそうだ。
「潰されるくらいの実力なら、潰しちゃおうか」
「そうするべき。それが私たちの優しさ」
あめとゆきの二人は、体もこちらに向けて言葉を告げた。一人はレインコートを脱ぎ、一人はマフラーを外し、正直少し目のやり場に困るが、これも俺の望んだ敵の姿だ。
「彼のを潰されると、私が少し困るからさせないよ」
煌くショートツインテールがロングツインテールに。真冬さんが俺を守るように一歩前に出て、樹氷を片手にゆきに突き出す。
「私たちも前みたいにはやられない」
ぴょこんと煌く髪の毛が十数本。小夏さんは気体と液体の入り混じった流体玉を前方に十数個生み出して、あめの方向に緩やかに動かす。
「枯葉さん、道はお願いします」
「ああ。蛇くらいなら、俺がどうにかする」
椿さんの言葉に答え、俺も帯を外して鞘刀を構える。煌く髪は長髪に、椿さんの髪は変わらないけれど、彼女が力を使うのは誰かが傷ついてからだ。
「私はいつでも動けるようにしてるね。みんなの背中は私が守るよ」
ショートポニーテルが煌きロングポニーテールに。秋奈さんは最後方で待機して、全員の戦いの準備は整った。
波の音。
少しだけ大きい波が打ち寄せて、それが引いたとき――波が引き切る前に、あめとゆきは動き出した。
無数の雨粒を飛ばして小夏さんを狙うあめ。その射撃は甘く、多くの雨粒は小夏さんには当たらずに浜辺に落ちる。だが、それでも彼女に届く雨粒は数重にも届く。
自身の流体玉よりも多いそれに、小夏さんは丁寧に流体玉を操って受け止めていく。それも流体玉の端の方で、玉が壊れないように最小限のダメージで。雨粒が撃ち落とされて攻撃が止んだとき、それが彼女の反撃の瞬間。
「食らえ!」
「速くて、強い。素晴らしい攻撃」
正面から、いくつかは上下左右に変化して襲いかかる流体玉を、あめは踊るように回避していく。そして一つが直撃しそうになった瞬間には、流体玉は弾けて消えていた。咄嗟の防御。それも予想していた、完璧な対応。
その間にゆきに駆け寄っていた真冬さんは、突き出した樹の枝の先から鋭い氷を氷脈のように伸ばして、そのうち最も太く鋭い氷がゆきの胸を貫こうとする。
「せいっ!」
「……はしっ」
軽い声でゆきはそれを掴み、掴んだ氷は瞬間的に溶けていった。
「ふふ……言葉だけは聞いていたけど」
「これがゆきの雪溶け……掴みさえすれば、ううん」
側方から襲いかかっていた残りの氷脈がゆきの体に触れた瞬間、みるみるうちに氷は溶けて水になり、滴り落ちていった。掴んだときほどの速さはなかったが、樹氷がゆきを傷付けられなかったことに変わりはない。
「……この通り」
「凄いね。でも、無敵の守りじゃない」
真冬さんの顔に浮かぶのは笑顔。ここからでは正面からは見えないが、側面から見てもわかるほどの大きな笑顔だった。
「あめ」
「うん。そろそろ……ゆき」
ゆきが飛び退いたのに合わせて、真冬さんも警戒して半歩飛び退く。二人の間に少しの雪が積もり、積もった雪はかまくらの形を成した。
「真白き蛇――登場」
そしてそのかまくらの口から、何匹もの雪蛇が這い出てくる。毛むくじゃらの部位は両腕と両足、そしてさらに胸部と腰部、毛むくじゃらの鎧のようなものも真白き体に纏っていた。
「透色の蛇――出現」
あめの言葉とともに、最初に放った雨粒が溜まってできた小さな水溜まりの全てから、雨蛇が昇竜のように姿を現す。短くも硬そうな二本角に、長く鋭い二本の牙。尻尾にはなく前方に特化した毛むくじゃらの部位が、透色の体から生えていた。
「……なんだよ、あれ」
「枯葉くん、斬れる?」
「鎧は反則じゃないのか……隙間があれば何とかなるけど」
真白き体も、透色の体も、見えている部分はある。しかしあの毛むくじゃらの部位の数、受け止めて、かわして、反撃の一手で簡単に斬れる相手じゃない。
そしてそれらの全ては、真冬さんと小夏さんを無視して――俺たちの方に向かっていた。
「秋奈! 大丈夫?」
「枯葉くん、椿ちゃん! 私もそっちに――」
「や、二人は前に集中して! 背中、守るって言ったでしょ?」
慌てて振り向いた二人に、秋奈さんが元気に答える。俺は守るとは言っていないが、彼女が守るなら俺は彼女を守るだけ。
角をひっかけるように世界に刻み、僅かに動きを止めた隙を狙って俺が鞘刀を振るう。数が少なければそれだけで全て倒せるが、この数を相手にするにはそれだけでは厳しい。
「真冬」
「うん。すぐに戻ってくる」
俺たちの苦戦を察したのか、小夏さんが流体玉を壁のようにして守り、真冬さんが後ろに戻ってくる。秋奈さんはまた口を開こうとしたが、二人の意図に気付いたのか開きかけた口を閉じていた。
「枯葉くーん! 受け止めてー!」
「え? ちょっと、強引な!」
飛びついてきた真冬さんを、慌てて抱きとめる。まっすぐ走りつつ、樹氷で近くの雪蛇と雨蛇を蹴散らしながらの突撃。そして抱き留めた俺の胸に、彼女の柔らかい色々が触れる。
「私を見てね。ちゃんと、逸らさずに」
「……わかったよ。恥ずかしさなんて、もう振り切れてる!」
そもそもあめとゆきが脱ぐ姿を見てしまった時点で、もう羞恥心なんて麻痺している。だから俺は抱きついた真冬さんをじっくり見て、抱いた欲望を、性の欲望を視線に込めた。
「……うわ」
「その、思ったよりも性欲が凄い、みたいな反応やめてくれるかな?」
「あはは、でも事実だし……」
さすがに恥ずかしくなったので、軽く突き飛ばすように真冬さんを離す。彼女はそれでも全くバランスを崩すことはなく、優しくちょっとだけ妖艶な微笑みを俺に向けた。
彼女の髪が煌いて、ロングツインテールの上からさらに髪の毛が伸びてくる。二つのツインテール、ダブルツインテールとでもいうべき髪は、鮮やかで艶やかに煌いていた。
「じゃ、君の性欲――ぱわーにかえて!」
その間に俺たちを囲んでいた雨蛇と雪蛇を薙ぎ払うように、真冬さんは長い樹氷を一回転させる。伸びた氷の穂先が届くものにはそれが当たり、守りを固めた雪蛇の毛むくじゃらの腕と鎧を貫いて斬り払う。
同時に伸びていた氷は振り回す衝撃で砕けて、遠くにいた雨蛇の牙の隙間から透色の体を貫いていく。
背後から近付いていた雨蛇は秋奈さんが止めるまでもなく、樹氷で牙を受け止めてそのまま押し返す。折れた牙が浜辺に落ちる頃には、雨蛇も粒となって浜辺に落ちていた。
「なんて威力だ……」
「私の癒しは要らないでしょうか?」
「まだだよ二人とも、油断しちゃだめ」
そう言う秋奈さんも少し余裕の表情である。たった一振りで殆どの雨蛇と雪蛇を薙ぎ払い、残ったものも毛むくじゃらの部位などものともせず、それごと樹氷が貫いていく。俺の鞘刀や、秋奈さんの世界に刻む力では受け止めるのが精一杯のそれを、いとも簡単に。
「私も、負けられない!」
あめとゆきの二人を相手にする小夏さんも、真冬さんの活躍に奮起するように髪を煌かせていた。他よりも少しだけ太い触角みたいな毛が撥ね伸びて、頭上に少し大きな流体玉のようなものが浮かぶ。
「ゆき。合わせて」
「あめ。合わせる」
二人の言葉が重なって、水着のスレンダーなあめとマフラーのないゆきが駆けていく。襲いかかる流体玉は雨粒が砕き、正面を避けて飛ぶものは二人の周りに降る雪に触れると溶けて消えてしまう。
いくら少し大きな流体玉とはいえ、あれに勝てるのだろうか。そう思っていたが、小夏さんは迷わずにそれを彼女たちに向けた。
そこで気付く。その玉は風のようには姿を変えず、水のような柔軟さもない。流体玉と見た目や色合いは似ているが、違う何か。
雨粒を貫き、雪溶けにも耐え、それはあめとゆきの体に直撃した。
「――剛体玉。私の、もう一つ」
しかし、直撃を受けたあめとゆきは足を止めただけで、吹き飛ばされることはない。顔には笑顔。効いてはいるはずだが、勝負を決める一撃には程遠い。
「二人は強い……」
「でも、三人は?」
左右に分かれたあめとゆき。小夏さんの剛体玉も流体玉も追いかけるが、それ以上の反応であめとゆきは走り出した。いくら強力で速度もある遠距離攻撃でも、放たれるのが遅れれば動く相手には当たらない。
「ふう……私はまだやれるよ」
樹氷を構えた真冬さんが二人の前に立ちはだかるが、あめとゆきは合流せずに左右に広がって駆け抜ける。彼女の樹氷が届くのはどちらか一人。二人は防げない。
僅かに早いあめに向けて動き出した真冬さんに、あめは水の塊をぶつけるように弾けさせる。そしてそこに映るのは、世界の時。雨が降り流れていく時に、俺たちがくる前からここにいたあめとゆきの姿が無数に映る。
「これは……ごめん。なるべく全部狙ってみるけど!」
樹氷が砕くのはあめの見せた幻。もし彼女があめを止めたとしても、ゆきはこちらに向かってくる。とにかく俺たちが対処しなければならないのは、小さな毛糸の少女だ。
「俺だって、簡単には!」
鞘刀を受け止めたゆきは、雪溶けの力も使わずに力で押し返してくる。その小さな体のどこにそれだけの腕力があるのか、いや、これは俺の星頂の力が、彼女の力に及ばないだけ。俺たちの戦いは、腕力勝負で決まる戦いじゃない。
「く……この!」
「枯葉くん! 助けたいけど……無理っぽいよ!」
視線だけを向けると、秋奈さんは世界に深く刻んで真冬さんをかいくぐってきたあめの突撃を受け止めていた。
俺も、秋奈さんも、必死に力を振り絞って耐える。
「秋奈さん! 君はもっと力を出せないのか?」
「出せるけど、出しても止める時間が伸びるだけだよ! 枯葉くんこそ! それ、抜き身にしたら強くなるんじゃないの!」
「いや、これはただ――ぐぅっ!」
限界だった。鞘刀を持った腕をゆきのもう一本の腕で弾き上げられ、彼女の体当たりが俺の体を吹き飛ばす。見た目からは想像できない、強烈な一撃。毛むくじゃらの部位の衝撃よりも遥かに強い、それでも何とか鞘刀は落とさないように耐え抜いた。
「ええいっ!」
「か弱い一撃。迎撃は全力で」
刻まれた世界を通り抜けて、接近したあめに秋奈さんが蹴りを放つ。だがその蹴りはあめの遅れた蹴りに軽々と弾かれ、より鋭く放たれた次の蹴りで強く腹部を蹴り抜かれていた。
「ったあ……痛いよ枯葉くん!」
慌てて飛び退いてはいたが衝撃をどこまで軽減できたのか、吹き飛ばされた秋奈さんの体は俺の背中に衝突した。これもなかなか痛かったが、ゆきの体当たりに比べれば大したことはない。
「二人とも、大丈夫ですか。安心してください。時間は十分に稼げました」
椿さんは右手を俺に、左手を秋奈さんに。左の長いサイドテールが煌きつつ、そちらもほんの少しだけ伸びたような感じがしながら、アシンメトリーテールを生み出す右の髪の毛も煌きながら伸びてくる。
「ああ……」
「……うん。みたいだけど」
稼いだ時間で、あめには小夏さんが、ゆきには真冬さんが背後から攻撃を仕掛けていた。さすがにこの距離ではあめとゆきも二人を無視して俺たちを狙うことはできず、対処せざるを得ないだろう。だが二人の動きには、どこか余裕があるように見えた。
それもそうだ。この配置、小夏さんが全力で流体玉や剛体玉を放てば、外れた玉が俺たちに当たる可能性もある。同じく真冬さんも、樹氷を振り回せば俺たちにも届く近距離。
だが、俺たちの体力が回復されても、宵闇の光は消えていない。秋奈さんは二人の敵を逃がさないように後方の世界を細かく刻み、俺は鞘刀を守りの構えで前方に出している。それはあめとゆきの襲撃に備えたものではなく……。
「小夏ちゃん!」
「真冬さん!」
「今です!」
俺たちの声に、小夏さんは複数の剛体玉と多数の流体玉を、真冬さんは樹氷を突き刺し氷脈のような穂先を、後方にいる俺たちに当たるのも構わずに全力で放った。
「あめ。あの人たち、強引」
「強引でも、決定的。痛そうだよ、ゆき」
どれがどこに当たって、どれをどうかわしたのか、それさえも俺の目には判別できないくらいの衝撃が瞬く間に色んなところで起きて、数瞬後には吹き飛ばされたあめとゆきが、俺たちの前に転がってきた。
「きゅう……」
毛糸のマフラーのないゆき。毛糸のコートが少しめくれて、小さくて可愛らしい足が覗いている。あの下はどうなっているのだろう。あめのように水着なのだろうか。
「……ぱたん」
水着の紐が解けそうで解けなさそうなあめ。レインコートでない彼女を間近で見るのは二度目になる。しかしあのときと違い、今回の彼女には急所を蹴られることはなさそうだ。
「枯葉くんがえっちなことしようとしてる。枯葉くんがえっちなことしようとしてる」
「なんで二回言うんだ」
「二人いるから、二人分だよ」
秋奈さんの微笑みに、俺は苦笑して呆れた顔を返す。倒れている可愛い女の子が二人。その状況にはどきどきするが、どう見ても二人は倒れたふりをしているだけだ。『きゅう……』とか『……ぱたん』とか、可愛らしい台詞を口にするだけの余裕だってあるのだから。
そもそも今回の勝利は俺一人の力じゃない。俺一人の力だったらえっちなことをするのかと言われたらそうではないけど、多分ここで俺が何かをしたら、手痛い反撃が待っている。
「花咲落葉と、浮貝浅海」
「……それから、榛雷斗」
ゆきとあめは倒れた姿勢のまま、三人の名前を順に口にした。話してくれるということは、負けは認めてくれたのだろう。
「ほしぐも」
「ほしぐも」
あめとゆき、二人の言葉は少しだけずれて重なる。
「ほしぐもが知っているのか? 姉上のことも」
「浅海のことも?」
俺と椿さんの言葉に、あめとゆきは平然と立ち上がって頷いた。そして二人は踵を返して、浜辺を歩いて去ろうとする。今までのように一瞬で消える力が残っていないのか、本気で負けたのに去り際だけを決めるのは二人の美学に反するのか。
それを俺たちは問うこともなく、彼女たちを追いかけることもなかった。
二人の背中が小さくなるが、浜辺は広い。なかなか姿の消えない二人の姿をずっと眺めることはせず、程々に小さくなったところで真冬さんが口を開いた。
「それにしても、あれだけの性欲視線を私にぶつけたのに、まだえっちなことしようなんて」
「枯葉の性欲は凄い」
「それが枯葉くんだから」
「そうなんですね。私たち四人をまとめて相手もできるのでしょうか」
「……さて」
疲れてるから流していいか、とは言えなかった。椿さんに癒されているから、俺の体には怪我一つない。流れ玉となった流体玉や剛体玉、樹氷の氷脈は痛かったけれど、その痛みも全て癒されている。
だからここはちゃんと、否定するべきことは否定しておこう。
「性欲はなくても、女の子の体には興味がある。それは認めるけど、断じてえっちなことをしようなんて考えてはいない」
したらどうなるんだろう、とは考えたけど。それは口には出さなかったが、どうやら女の子たちにはお見通しのようだった。秋奈さんの優しい表情、真冬さんの暖かい笑顔、小夏さんの無表情を極めたような無表情、椿さんの優しい視線……それらがはっきりと伝えてくれた。