飛都国

ウガモコモ篇


   リバーサイドカフェの戦い

 リバーサイドカフェ川澄。一人のマスターと、一人のウェイトレスがいる喫茶店に、今日もいつものお客さんが訪れた。ウェイトレスの飾りカチューシャには、一切れアップルパイ。

 道に面した扉を開けてやってきたのは、ウェイトレスの幼馴染みが一人。

 シララスは店内を見回して、誰もいないことからカウンター席に座る。

「あれ、今日は一人? ルーンカちゃんは?」

「宿でし――ヒミリクさんと何か話してた。多分、一緒に来るんじゃないか?」

「ふーん」

 素っ気なく答えたシズスクに、幼馴染みは何も言わない。本人たちがそれでいいようなので、ルーンカちゃんと呼ぶことにも口は出さない。

 頼んだココカゼコーヒーを半分くらい飲み終えたところで、再び道に面した扉が開いて、ヒミリクとルーンカが一緒に川澄に入ってきた。

「あ、ししょ――ヒミリクさん」

「うん。もう三日だが、まだ慣れないか?」

「そりゃそうですよ。師匠は師匠ですから」

「幼い頃はそうではなかったと思うが」

「でも、師匠の時間が一番長いです」

 あの日の戦いが終わったあとのことを、シララスは思い出す。それはこの場にいた誰もが知ることで、当然ウェイトレスのシズスクもその光景を目にしていた。

「シララス。今日から師匠と呼ぶことは禁止とする」

「はい?」

 そんな言葉に始まって、きょとんとするシララスに構わずヒミリクは続けていた。

「君はシァリに勝ったのだ。一対一でも私たちと肩を並べる力を得た以上、私が師匠と呼ばれる理由はない。これからはヒミリクと師匠はつけずに呼ぶがいい」

「……ししょ」

「次にわざと言ったら、君の幼い頃の話でもみんなに披露したくなるな」

「はい。でも、いきなり呼び捨てはないですし……」

 シララスは一旦は認めたものの、ヒミリク師匠から師匠をとってそのまま呼ぶわけにはいかない。例え力で追いついても、尊敬する人物であることは変わらないのだ。

「じゃあ、昔みたいに、ヒミリクにー」

「あー、そういえばそう呼んでたねー」

「懐かしいな。だが、当時は気にしなかったが、今の私はとても気にするぞ? 『にー』が何を意味する言葉か、当然わかっているな?」

「昔からししょ――えーと……ヒミリクさんはそんな感じでしたから、兄のように慕っていました」

 考えた末に落ち着いた呼び方でヒミリクの名を呼び、シララスは答える。

「少し淋しい気もするが……」

「じゃあ」

「師匠よりはしっくりくるな」

 今までずっとしっくりきていなかったことを白状され――渋々承諾したことから最初からわかっていたことではあるが――シララスは衝撃を受ける。

「まあ、呼び名は変われど修行は終わらない。心生みとして鍛えておかねばならぬからな」

 シララスがその衝撃から立ち直ったのは、ヒミリクが真剣な顔でその言葉を発するまで。

「――はい!」

 元気よく。いつもならこのあとに師匠と言っていたところだが、言わないように気を付けてシララスは答えた。

「ヒミリクにーもココカゼコーヒーでいいですか?」

「ああ、今日はそんな気分だ」

「……あれ?」

 シズスクの呼び方にあっさり答えた様子を見て、シララスは首を傾げる。

「彼女は兄と慕っているわけではないからな」

「はい、ヒミリクさん」

 ヒミリクがテーブル席に腰を下ろして、カウンターから出てコーヒーを届けたときには、シズスクの呼び方はいつも通りに戻っていた。

 そんな様子を楽しげに見守ってから、ルーンカはシララスの左隣の席に腰を下ろす。

「ルーンカは、ずっとここにいてもいいのか?」

 カカミコーヒーを指差して頼んだ少女に、シララスはコーヒーカップに手をかけながら尋ねる。返事を待ちながら口をつけて、一口飲んだところでルーンカは答えた。

「チカヒミに民はいない。シンイキは広げてる」

 チカヒミの飛行都市国家に残ったのはルーンカとユーヒの二人だけ。その二人も今はココカゼにいて、部屋の余っている温泉宿でシララスやヒミリクと一緒に暮らしている。

 そうである以上、チカヒミには最低限のシンイキを広げて、ココカゼ、カカミ、マコミズとは別の方角からの侵入者がいないか警戒していればいい。やっていることは神殿都市にいたときと同じだが、戦いが終わったことでルーンカの負担はだいぶ軽くなった。

「それでも……」

 ここにいる間は、名目上は捕らえられた将という形での滞在となる。シズスクやレフフスのように、事情を理解している者は他にもいるので、生活に支障はないが……。

「んー、それにシララスもいるしねー。はい、カカミコーヒー」

 悩んだ顔の幼馴染みに助け舟を出したのは、コーヒーを届けにきたウェイトレス。

 ルーンカは小さく頷いてから、コーヒーに息を吹きかけて冷ましながら飲み始める。

「どういうことだ?」

「好きな人がいる場所ならそれでいいってことじゃない? もう、言わせないでよ」

 照れた表情で答えたシズスクに、「なんでシズスクが照れるんだ」と言いながら、隣のルーンカの様子を見る。首を横に振って否定する様子はなく、どうやらその通りらしい。

「毎日温泉」

 ルーンカが呟いたのはたったそれだけ。果たしてどっちの気持ちが強いのか、シララスに尋ねる勇気はなかった。

 数分後。

 川に面した扉が開いて、やってきたのはクゥラだった。

「こんにちは」

「いらっしゃい。今日も来るなんて、クゥラちゃんは積極的だね」

「戦いも終わって真橋ですぐに来られるようになりましたから」

 ウェイトレスの笑顔に笑って答えて、カウンター席、シララスの右隣に腰を下ろす。髪はストレートに下ろして、普段のクゥラである。

「マコミズのことはいいのか?」

 こうしてクゥラは毎日川澄にやってきている。真者としての修行はここでもできる――むしろルーンカもいるここの方が適しているくらいだ――とはいえ、毎日来ていてもいいのか。シララスが尋ねると、クゥラはマコミズコーヒーをウェイトレスに頼んでから答えた。

「国にはお兄様もいますし、お父様やお母様もいますから」

「そっか。……ん?」

 クゥラの言葉をふと疑問に思って、シララスは考えてから浮かんだ問いを口にする。

「戦いに倒れたって話じゃなかったか?」

「はい。夫婦喧嘩という本気の戦いの中で倒れましたが、二人とも生きて城にいますよ? 友好飛行都市国家には詳しく伝えていなかっただけです」

「なるほどな」

 今でもココカゼとマコミズの関係は、ヒミリクとシァリの関係から友好飛行都市国家という扱いだ。シララスとクゥラは同盟を結んだが、二人の関係は国家とは独立している。

「ココカゼの先代は?」

「ああ、あの人には色々教わったけど、戦いについては何も。料理の仕方や掃除の仕方、そういうのを教えてもらっただけだ」

 今もどこかで暮らしているのだろうが、どこで暮らしているのかは詳しく知らない。

「カカミの先代には色々教えられましたね……ふふ、それはもう色々と」

 いつの間にかやってきていたカザミは言うと、迷うことなくヒミリクの向かいに座って、テーブルを挟んだ相手を微笑んで見つめていた。

「いつの間に」

「外にいましたけど?」

「クゥラが来たときには?」

「はい。神橋も見えていたので、ほんの少しの……それより」

 一口飲んだコーヒーカップをカウンターに置いて、クゥラは横にいるシララスを見た。

「これからはクゥリットとお呼び下さい、と言ったはずですが」

「言われたけど、確かそっちで呼ぶのは……」

「心より親しい者である証拠です」

「ほぼ告白に近いよな?」

「そうですね。でも、シァラーゼお兄様の許しは得ましたから」

 クゥラは微笑む。シララスはその微笑みを可愛らしいと思いながら、さすがにそこまで踏み込む勇気はなかった。ふと視線を感じて左を向くと、ルーンカがじっと彼を見つめている。

「告白?」

「されてもないのに、いやするべきなのかもしれないけど」

「……む。そうですね、確かに正式にそういったことはしていませんが、それはルーンカさんだって曖昧では……」

 ルーンカは黙ってシララスの肩に手を触れて、こちらを向かせてから笑顔を見せた。

「好き。……したよ?」

 目の前でされた告白の言葉。シララスは困った顔で、誰に助けを求めるべきか迷う。

「わー、シララス良かったねー。全く、こんなに可憐な幼馴染みがずっと傍にいたのに、見向きもしないで新しい女の子にばかり構って……ひどいよ、シララス」

「……は? まさか」

 助けを求めることなど忘れて、カウンターの裏で淋しそうな表情をしているシズスクの顔を見る。幼馴染みの視線が向いたことに気付いて少ししてから、シズスクは明るく笑った。

「あ、ごめん。私は特にそういう気持ちないから。二人だけで我慢しなさい」

 左を見ると、ルーンカが小さく頷いていた。

「そうですよ。……その、私も好きなんですから、シララスさんのこと」

 右から聞こえてきたのは、疑いようもない告白の言葉だった。

「なあ」

「あ、そだよ。今度やろうかなーって私から提案したの」

 シズスクは幼馴染みに笑顔を見せて、そのときのことを思い出す。クゥラとルーンカも、ぼんやりとそのときのことを思い出していた。

 ココカゼの温泉宿。

 透き通る温泉の露天風呂には、四人の少女が入っていた。

 リバーサイドカフェ川澄のウェイトレス、シズスク。ココカゼの心生み、ヒミリク。マコミズの真者、クゥラ。チカヒミのメガミコ、ルーンカ。

 しかし、このうちヒミリクは日常としてお湯に浸かっているだけで、三人の少女がしている会話には加わっていなかった。その内容は耳にしつつも、ただ見守るだけ。

「で、二人はいつからシララスのことを好きになったの?」

「いつからと言われても……」

 ルーンカは曖昧な表情で首を横に振る。

「全く、シララスも二人の女の子を押し倒して、それで気がついたら好きになってたなんて、もしかしてそのとき何かされた?」

「いえ、特には。それに私の場合は引き倒したのであって」

 ルーンカもゆっくりと首を横に振る。

「ふーん。まあいいんだけどねー」

「シズスクさんは、どうなんですか?」

「え? それ聞いちゃう?」

 体を浮かせてクゥラとルーンカがシズスクに寄る。肌には衣ひとつなく、興味津々といった様子で視線を向けられては、シズスクも素直に答えるしかない。

「何もないよ? ただの幼馴染み」

 にっこりと。素直に答えても何ら支障はないから、シズスクは素直に答えた。

「本当?」

「本当ですか?」

 ルーンカとクゥラの声が重なっても、シズスクは動じることなく大きく頷いた。

「川澄のウェイトレス、シズンスォスクスの名とともに、心より誓います」

「シズスクさん」

 ルーンカも納得した表情を見せる。

 意志を示すための正式な名乗り。それが持つ意味は、ココカゼ、カカミ、マコミズ、チカヒミのどこにおいても変わらない。

「それはそうと、少し変わっていますね」

 ルーンカは小さく頷いて同意を示す。

「あー、みたいだね?」

 シズスクは微笑みながら答える。必要な場面がなかったので、こうして長名〈ちょうな〉を口にするのは久しぶりだ。幼馴染みや彼の元師匠にも不思議がられたものだ。

 名前は心に浮かぶもの、とココカゼでは言われている。カカミでは神が知らせるもの、マコミズでは真に生まれた象徴、チカヒミでは女神の告げるもの……などと言われているが、その名が生まれた際に決まるという点は共通している。

 とはいえ、その名は国によって一定の法則があり、長名ではない短名〈たんな〉もその法則に従って自然と決まるが、シズスクの名はココカゼの民としては特殊といえる。

 ちなみに、川澄マスター、レフフスの長名はレムフルフナスクという。

「ふむ。私から見ても、昔から二人は仲の良い幼馴染みだったな」

 のんびりと会話を聞いていたヒミリクが、ぽつりと言った。

「そうですよねー。ところでヒミリクさんは、カザミさんとはどうなんですか?」

「どう、と言われてもな。仲の良さなら君たちにも負けないぞ」

 あっさりと答えたヒミリクに、シズスクはそれ以上は尋ねない。多分、この手の感情が一番読めないのは彼女だ。川澄のウェイトレスとしてずっと見てきて、シズスクはそれをよく理解していた。無意識なのか、意識してなのかさえわからないのだ。

「ま、そういうわけだから、ちゃんと告白しといた方がいいよ? シララス逃げるから」

「はあ……逃げますか」

「逃がさない」

 呆れた顔のクゥラに、真剣な表情のルーンカ。気持ちを同じくする二人は、彼の幼馴染みの言葉でこうして結託していた。

「シララスも大変だね」

 その言葉は、温泉で呟いた言葉と同じ。表情も同じ微笑みだが、向ける相手が傍にいるのかいないのかが大きな違いだ。

「うん?」

「恋の戦いが始まってるよ? まあ、別にシララスが二人とも幸せにするって言うなら、私は応援するけどさー、どう?」

「どう、って言われても」

 左右の二人は告白はしたが、答えは求めてこない。それでもシララスがずっと答えないでいたら、本当にシズスクの言う通りの戦いが始まるであろうことは、さすがのシララスでもわかっていた。

「あちらもあちらで大変ですが、こちらも大変なんですよ」

 四人の会話をテーブル席から眺めていたカザミが、正面でアップルパイを食べているヒミリクに向けて言う。ウェイトレスのシズスクは彼らに付きっきりだが、マスターのレフフスには余裕がある。

「何がだ?」

「告白しても気持ちがわからない人が目の前にいますから」

「ああ……そう言われてもな」

 ヒミリクはアップルパイを一口食べてから、言葉を続けた。

「私がそういうのに疎いのはよく知っているだろう。それに、本気かどうかわかりにくいカザミにも問題があると思うぞ?」

「それもそうですね。ふふ、まあわたくしはヒミリクと一緒にいられればそれでいいので、少しずつ気持ちを確かめるとしましょう」

「うん。そうしてくれると私も楽だ」

 自分の気持ちも大事だが、それより大事なのは恋する相手の気持ち。カザミは美味しそうにアップルパイを食べて、コーヒーを飲むヒミリクを、柔らかな表情で眺めていた。

「そういえばさ」

 少し離れた席の様子をしばらく見てから、シズスクは言った。

「このカチューシャ、覚えてる?」

「ん? ああ、そういえば……」

「昔シララスにもらったカチューシャだよ。それを毎日、私はつけているの。どう? 勘違いする?」

「気に入ってるだけだろ?」

「ん」

 二人の関係はいつまでも幼馴染み。シズスクにはその気もないし、シララスにもその気がないのだから、当然の帰結である。

「プレゼント、ですか」

「ほしい」

 が、その言葉をきっかけにクゥラとルーンカが呟いた。ほしいと言われても、簡単にあげられるものではない。そもそもシズスクへのプレゼントだって、どんなきっかけであげたのかさえ覚えていないのだ。あげた物であることは、覚えていたけれど。

 リバーサイドカフェ川澄では、今日も平和に時間が過ぎていく。

 チカヒミとの長い戦いが終わり、終わらせた彼らに与えられた落ち着きの時間。それもまた永遠に続くものではないのだが、しばらくはこの和気藹々な時間が続いていくのだった。


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