リバーサイドカフェ川澄。いつもの修行場所に、今日はシララスが一人でやってきた。
「あれー、今日は一人? 女心がわからなさすぎて、ついに振られちゃった?」
一人のお客さんを、ウェイトレスのシズスクが出迎える。今日のカチューシャ飾りは一切れのアップルパイ。
「いや、今日は師匠が用事があるからって……というか、それどこで聞いた?」
「そんなの、様子を見てればわかるよ。シララスがヒミリクさんの機嫌を損ねるとしたら、それくらいしか思いつかないから」
本格的な修行を始めてから数日、シララスとヒミリクはトイレなどの時間を除き、宿以外で別行動はとっていない。シララスからの当然の疑問を、待っていたかのようにシズスクは即答した。
「おや、振られたのかいシララスくん?」
店の奥から、青年マスターレフフスが顔を出す。ベリーショート、シアングレーの髪は、毎日ドライヤーの熱で爽やかにセットされている。
「振られたのならいつでも僕の胸を貸すよ? さあ、飛び込んでおいで!」
両手を広げて待ち構えるレフフスに、シララスは呆れた顔で言葉を返す。
「振られてませんし、カウンター越しに飛び込む迷惑はかけません。それにどうせ胸に飛び込むなら、レフフスさんよりシズスクの方がましです」
「そうかい? はは、淋しいなあ。ところで、ヒミリクちゃんの用事はやっぱりあれかな?」
全て聞いていたのに一部しか聞いていないように振る舞ったことについては、シララスからは何も触れない。いつもの光景にウェイトレスのシズスクもにこやかにしている。
「多分、そうだと思いますけど……どれだけ待てばいいのかは聞いていません」
「じゃあその間、ましな方の胸に飛び込んでみる? いつでもいいよ、優しくぎゅーってしてあげる!」
「俺、まだ締め殺されたくない」
「やだな、そんなことしないよ。ヒミリクさんが来るまで、ずーっとしてるだけ」
「それはそれで、師匠が怖そうだからやめておく」
「ふーん、それくらいはわかるようになったんだー、シララスのくせに」
「……ココカゼコーヒーを一杯」
これ以上の会話は自分がどんどん不利になるだけだと、察したシララスは待っている間のコーヒーを一杯注文した。カウンターに座り、程無くしてコーヒーが手渡される。シズスクは奥に隠れていて、マスターのレフフスから直接に。
頼んだコーヒーを半分ほど飲み終えたところで、シズスクが奥から姿を現す。
コーヒーの九割を飲み干して、残り僅かになったところで、川澄の道に面する扉が開いた。扉を開けて入ってきたのは、ヒミリクともう一人の少女。
「待たせてすまない。カザミが数か月ぶりだからと、少しココカゼの様子を見たいと頼まれていた」
それが当たり前のように、困った顔は見せずにヒミリクはもう一人の少女、カザミを見る。
「わたくしは七十六日ぶりと申しましたが……ふふ、それもまたヒミリクらしいです」
柔和な笑みを浮かべて、カザミが答える。ロングストレート、ルビーブラックの髪は、一束だけサイドテールに束ねられている。
シララスにとっては初対面の相手。レフフスやシズスクにとっても非常に珍しいお客さんであり、三人の視線が集中する。が、カザミが注目したのはシララス一人だった。
「師匠、彼女がよく話して下さる?」
「あなたが噂の……ふーん」
「ああ。そうだな、初対面であることだし……カザミ」
ヒミリクは答えて、カザミに声をかける。声をかけられたカザミは小さく肩をすくめながらも、黙ってヒミリクに向き直った。
「今日は突然の来訪要請を承諾して頂き感謝する。ココカゼの心生み、ヒノミアリアクスの名とともに、末永き同盟を」
「こちらこそ、お招きに感謝致します。カカミの神代り〈かみがわり〉、カザミナシロの名とともに、末永き同盟を」
まっすぐに目と目を合わせて、二人の少女が言葉を交換する。
「で、そちらが……ご挨拶、してもらえますか?」
そのままカザミは視線を動かして、シララスを見る。
「は、はい!」シララスは緊張しつつも言葉を続ける。「初めまして、カザミナシロ様。ココカゼの心生み、シキライラハスクです」
「初めまして。さて、挨拶も終わったところで……シララスでしたね?」
リバーサイドカフェ川澄を包んでいた空気がほんの少し変わる。真剣で儀式的な雰囲気から、儀式的が抜け落ちて、代わりに包むのは少々の緊迫感。
「あなたはヒミリクに恋愛感情を持っていますか?」
「はい?」
いきなりの予想外の質問に、シララスは当惑する。話題の中心であるヒミリクは静観していて、シズスクは楽しそうに様子を見守っている。奥へ向かおうとしていたレフフスも、興味深そうに聞き耳を立てていた。
「これはわたくしと、あなたのこれからの関係を決定付ける重要な質問です。答えなさい」
睨まれるように見つめられ、シララスは思わず首をすくめるが、答えるのは簡単だ。
「師匠は師匠です。恋愛感情なんてあるわけないですよ。ええ、絶対に」
シララスの答えに、カザミは黙って彼の目を見る。それから隣のヒミリクの様子を確認。呆れた顔でシララスを見ている同い年の少女の姿と、それを見ても無反応のシララス。
「嘘ではないようですね。でしたら、あなたとは仲良くなれそうです。ヒミリク、女心のわからない弟子を持つと大変ですね?」
「だから、私は弟子をとったつもりはないと、何度も言っているだろう。シララスが呼びたいからと師匠と呼ぶことは許したが、それだけなんだからな」
よくわからない非難をされていることに対して、シララスは助けを求めてシズスクを見る。
「いや、そこで私を見られても困るけど、ま、答えは正解だったよ? 『ええ、絶対に』っていう、余計な一言がなければ、ね」
「余計だったのか?」
「ん。最低」
「……その一言も余計じゃないのか?」
どこが問題だったのか、教えてくれたのには素直に感謝する。しかしそのついでに、蔑むような目と一緒に付け加えられた言葉に対しては、シララスも疑問を口にした。
「え? 普通に最低だと思ったから言ったんだけど?」
「そうなのか?」
「うん。蔑みの視線は余計だったけど」
「やっぱり余計なんじゃないか」
シララスはため息をつきながら、言うだけ言っておく。一言が余計と言ったのは自分だ。視線については何も言っていないのだから、幼馴染みは正しいのである。
少し時間が過ぎて。
カウンターに座り、頼んだココカゼコーヒーを口にするヒミリクとカザミ。ヒミリクがシララスの右隣に座ると、カザミは少し逡巡しながらも彼の左隣に腰を下ろした。その行動を意外に思いつつも、不満はないのでシララスは何も言わなかった。
「師匠、今日の修行は?」
コーヒーが空になる頃合を見計らって、シララスから尋ねる。
「ああ、すぐに始めよう。カザミ」
「ええ。ココカゼの新たな心生み、その現状をわたくしの目で確かめるとしましょう」
そうして始まった今日の修行。内容はいつも通り、心兵の扱いと戦い方を学ぶもの。違いはたったひとつ、カザミが川沿いから修行の様子を眺めていることだけ。
修行を終えて、再び川澄にて。
「やはり、まだまだ弱いみたいですね」
カウンター席に並んだ三人は、今度はコーヒーは頼まず会話だけをする。
「ああ、一度は実力の近いものと模擬戦をさせてやりたいのだが……」
「わたくしやヒミリクが相手では、ただの指導になりますね」
自分を間に挟んで交わされる言葉に、シララスは黙って耳を傾ける。自分の弱さはよく理解している。ヒミリクやカザミの強さも理解している。けれども、修行を始めてどれほど師匠に近づけているのかは、自分ではよくわからない。
「ところで、魔法はまだ教えていないのですか?」
「ああ、一度試しはしたが、それだけだ」
「特別に高い魔法の素質があるわけではない、と」
試したときにヒミリクの口からも出た言葉だ。魔法は心域で扱える力の一つ。使い方は様々だが、その素質を確かめる方法は非常に簡単だ。ただ全力で、最大の魔法を放つ。それだけで使える魔法の規模がわかる。
時間をかければ誰でも数を用意できる心兵と違い、魔法は時間をかけても精度と工夫が極まるだけ。規模は広がらない。そしてその規模が極端に広くなければ、魔法を主体とした戦いは困難となる。
「特別に低いわけでもないのだがな」
シララスの魔法の素質は普通。戦いで使うには、まず心兵の扱いを上達するのが先である。
「なるほど。現状は理解しました。そうなると……やはり、そういうことですね?」
「ああ。シララスには、上を知ってもらおうと思う。二年前の春、三月の模擬戦は覚えているか?」
話を振られたシララスは、記憶を辿ってすぐに答える。
「はい。師匠とカザミさんの模擬戦が、カカミで行われた日ですね。ココカゼでも観戦することはできましたが……」
「うむ。確か、君もカカミに来ていたはずだな」
「戦いの内容も覚えています。凄い、の一言でした」
ヒミリクと一緒に心橋でカカミに渡り、遠くからの観戦。それでも、ココカゼから見るよりは遥かに近い。目を凝らせば、心兵の一体一体が見える距離だった。
「ああ。だが、凄いの一言で済ませてはいけない」
「どこが凄いのか、わたくしたちが解説してあげましょう」
「本当ですか! じゃあ、色々聞いてもいいんですね?」
左右の二人を交互に見て、嬉々とした表情でシララスが言う。
「もちろんだ」
「ヒミリクの頼みですから。それに、ふふ……」
微笑するカザミ。彼女の言葉の続きは気になったが、シララスは尋ねない。それよりも、これから聞きたいことを整理するのが先決だった。模擬戦の流れに沿って、順番に聞くために。
飛行都市国家カカミ。林と丘に恵まれた、神に深い信頼を寄せる国。ココカゼとは同盟の関係にある、同盟飛行都市国家。その戦いが行われたのは、カカミ神社――当代の神代りが鎮座する神社の神殿、それを囲む林の上である。
ヒミリクが心域を広げ、またカザミも神域を広げる。二人の心域と神域が混ざり合った空間で、ヒミリクは心兵を、カザミは神兵を生み出した。
ヒミリクが生み出した心兵は、五百を超える大軍。対して、カザミの生み出した神兵は、ほんの数十体。正確な数はシララスも把握していないが、その数はさして重要ではない。
心域には地上の地形が少なからず反映され、林が生い茂っている。ヒミリクの心兵は形を整えた地の鎧と、水を巻き込む風で地形に紛れるような姿。心兵の姿と能力に関係はないが、見た目による擬態は有効だ。
対するカザミの神兵は、小さな火を包む水の球の周囲に、地の欠片が荒れ狂うような風によって舞っている。林の中でも目立つその神兵の力は、ヒミリクの心兵一体よりも高い。彼女の好む少数精鋭の強力な神兵。
「では、始めるとしよう」
「ええ。いつでも来て下さい」
前線に配置されたヒミリクの心兵を通して、心域に声が響き渡る。心兵の知覚に声は含まれないが、風に乗せて声を遠くまで届けることは慣れた二人には容易なことだ。
林に隠れて、互いに相手の姿は見えない。力が高まれば必然的に大きな姿となる心兵と違い、年若い十五の少女たちの姿は、一本の樹があるだけでも隠れてしまう。距離がある間は、心兵の知覚を最大限に活用し、索敵に努めるのは心域における戦いの常道。
五百の手足と目と耳から、ヒミリクは瞬時に周囲の状況を把握する。カザミの目立つ神兵は最初にいた場所から殆ど動いていない。「いつでも来て下さい」――その言葉通りに。
ここまでは、戦いを観戦していたシララスにも理解できた状況。本番はこれからだ。
姿を晒しているカザミの神兵。それを左右から挟むように、ヒミリクは心兵を動かす。数は百体。五十と五十に分けて、全く同じ速度で進軍させる。林という障害物がまるでないような同調は、ヒミリクの正確な腕があってこそ。
その魔法が発動したのは、五十と五十、計百体のヒミリクの心兵が、カザミの神兵を目前に捉えたときだった。
心兵が一歩踏み出した地面が僅かに陥没し、直後に激しい熱風が吹きつける。撤退しようとするヒミリクの心兵を遮ったのは、噴き上げる水の壁。
神代りの持つ力を直接的に作用させ、心域で放たれる計略――それが魔法だ。
それにしても、ここまで大規模で、大量の心兵を巻き込むような奇跡を起こせるのは、ココカゼ周辺ではカザミだけ。ココカゼの心生みにも、マコミズの真者〈まこともの〉にもここまでの力を発揮できる者はいない。
動きを止めた心兵に降り注ぐは、鋭く尖った氷の雨。地に突き刺さった氷柱からは細かい雷が走り、心兵の足元で炸裂する。百の心兵は、そのたった一つの魔法で戦う力を全て奪われてしまった。
「あ、いいですか?」
見事に自分の計略が決まった局面。回想を語るのに熱が入っていたカザミは、ほんの少し不満そうな顔をしながらも、シララスの声で言葉を止める。
「この計略を真似したいというなら、無理ですよ? あそこまでの威力と精度、自慢ではないですがわたくしでないとできませんから」
「そうじゃなくて、師匠に聞きたいことがあるんです」
「ん? 私にか?」
予想外のタイミングで飛んできた質問に、ヒミリクが小さく首を傾げる。
「はい。なんであんな、見え見えの罠に引っかかったんですか?」
「私の戦い方は知っているだろう?」
「そうですけど……」
ヒミリクの戦い方をシララスはよく知っている。自分が目指すべき憧れとして、思い出すまでもない程に。
「そのために余計な罠を排除した」
「にしても、百も使う必要はあったんですか?」
「ふむ……ああ、そうだな」
シララスの疑問を理解して、ヒミリクはより詳しい解説を加える。
「カザミの戦い方も知っているだろう?」
「はい。少数精鋭の神兵と、魔法を組み合わせた……それが?」
「では、君がカザミの立場になって魔法を仕掛けるとしたら、どう仕掛ける?」
「それは、ええと……あらゆる可能性を想定して、複数の場所に」
「そういうことだ」
話を終わらせたヒミリクに、シララスは考え込む。隣ではカザミが微笑んでいて、視線を動かすとシズスクまでくすくすと笑っている。これは何としても、自力で答えたい。
「……あ。どの罠が本命か……カザミさんの居場所を探るために、あえて多くの心兵を向かわせたんですね」
「わたくしの仕掛けた魔法の規模が一つわかれば、全体に仕掛けられた魔法も類推できる。実際、百の心兵が襲われた場所は、他の心兵の視界内でした」
シララスが理解したのを見て、カザミが口を開いた。戦いの続きだ。
百の心兵が倒れた直後、ヒミリクは再び百の心兵を今度は固めて、ある一点に向かわせる。先程の仕掛けで推定した、カザミのいそうな場所。それが正解か外れかは、彼女の神兵が守りを固めたことと、百の心兵が突如空から落ちてきた大雷と、林を巻き込んで起きた大爆発によってすぐに判明した。
爆発に紛れて林の影に姿を隠したカザミを、ヒミリクは見逃さない。通常ならありえないであろう、爆発の中心地。そこに僅か一瞬前まで、カザミはいたのだ。
もしそれをヒミリクが見逃していたら、彼女はより多くの心兵を失った状態で、カザミの神兵と戦うことになっていただろう。そうなれば勝敗は、また違うものになっていた。
「一気に決めるとしよう。ここからは、私の見せ場だ」
「ふう……さすが、ヒミリクですね。お相手しましょう」
自らの位置を完全に特定されたカザミは、その声に答えて足を止める。数十の精鋭神兵と、三百を超える心兵の戦いは、木漏れ日の差す小さな空間で始まった。
あらゆる策略を駆使しての正面突破――これがヒミリクの戦い方である。
勝つだけなら、三百の心兵で包囲してしまえば、新たな計略を仕掛けたところでカザミの神兵には勝ち目はなかった。守りの薄いところを突かれて、将であるカザミへの攻撃を許していたことだろう。そしてまた、それだけの時間もヒミリクには用意されていた。
だが、彼女は全ての心兵を正面から、カザミの神兵にぶつけて戦わせた。
炎を纏って体を低くし、地を駆けるヒミリクの心兵。それを煌めく水の刃で、風が吹き飛ばすようになぎ倒していくカザミの神兵。時間とともに倒れていく心兵の数は、明らかにヒミリクの方が多い。しかし、同じ時間でカザミの神兵も一体、二体と少しずつ倒れていた。
最後に残ったのは、カザミの神兵が一体。対するヒミリクの心兵は、三十五体。いかにカザミの神兵が精鋭といえど、正面からぶつかって勝てる相手ではない。
「ふふ、これは厳しいですね。さあ、いつでも来て下さい」
「そうしたいところだが……その前に、それをどけてもらおうか」
小さな流星が飛来し、ヒミリクの心兵と、カザミの神兵の中間に生える一本の樹に直撃する。瞬間、流星を巨大な氷が包み込み、無数の小さな輝きとともに砕け散った。
「あら、残念」
「さあ、始めるとしよう」
カザミが仕掛けた最後の計略、魔法を打ち砕いたのは、同じくヒミリクの魔法だった。攻撃に反応して、広範囲を包み込む氷は、包み込んだ全てを巻き込んで激しく砕け散る。その範囲には残った全ての心兵と、神兵が含まれるが……カザミの神兵であれば、僅かに耐え切れるであろう絶妙な威力であった。
無論、いかに精鋭の神兵でも、そこまで弱ってしまえばヒミリク自身で相手をすることもできる。だが、相手は神兵だけではない。生身での実力は互角のカザミもいるのだ。二対一になれば、どちらが勝つかは明白である。
そして現在の状況も、どちらが勝つかは火を見るより明らか。正面から水流の槍を突き出して、疾風の速度で襲いかかるヒミリクの心兵を、カザミの神兵は硬き岩盤の壁で受け止め、烈火の如き拳で反撃を加えたが……心兵を残り十体まで削ったところで、その力は失われた。
「わたくしの負けですね。ふう……ヒミリクには敵いません」
「そうだな。今日のような模擬戦では、何度やっても私が勝つだろう」
カザミが白旗を上げて、自ら広げた神域を消滅させる。残ったのはヒミリクの広げた心域のみとなり、こうして模擬戦の勝敗は決した。
「さすが師匠ですよね。本当に、鮮やかな勝利でした!」
喜々として賞賛するシララスに、微笑みを返すヒミリク。
「ヒミリクですから当然でしょう。わたくしはヒミリクにだけは勝てませんから」
それに笑顔で同調するカザミ。彼女の目はじっとヒミリクの顔を見つめていた。
「模擬戦でなければ、また違う結果もあるだろう」
「実戦でも同じじゃないんですか?」
「ふふ、そうですよ。ヒミリク相手に、わたくしがえげつない計略を使うなど、ありえませんから。他の者であれば、容赦はしませんが」
「……えげつない?」
訝るようなシララスの視線に、カザミは満面の笑みを返して、疑問の言葉に答えたのはヒミリクだった。
「まさかとは思うが、シララスはあれがカザミの全力だと思ってはいないだろうな?」
「はい。模擬戦ですから、多少は手加減もしているでしょうね」
本当の戦いであれば、もっと強力で確実な計略を仕掛けて、包囲されても戦えるだけの神兵を用意しているはずだ。万が一にも、負けることのないように。
「多少、か」
「ふふ、わたくしも見くびられたものですね。もっとも、わたくしにも神代りとしてのイメージがありますし、ヒミリク以外には見せていないですから、仕方ないのでしょう」
「まだ凄いことができると? あのときと同じ戦況でも?」
「はい。例えば……心兵を無視して、直接敵将を魔法で狙ってしまえば、おしまいです。どれだけ心兵で守りを固めようと、一網打尽にするほど強大な魔法で」
「うむ。私はあの時点で、カザミの視界に入っていた。狙われたらひとたまりもないな」
「魔法で咄嗟に抵抗はされるでしょうけど、戦況は大きく変わります」
「まあ、実戦であれば、私も易々と視界に捉えられるようには動かないが……シララス、耐えられると思うか?」
「いや、無理ですね。シズスクならともかく」
「ちょっとー、私はそんなに丈夫じゃないんだけど? 心域じゃ避けられないし、そもそも心域に入れないし」
シズスクの不満に、シララスは小さく肩をすくめる。
「でも一応、ここも心域の中だろ? 入る手段はあるかもしれない」
「んー、それとこれとは別じゃない?」
ココカゼの飛行都市国家をまるごと覆うように、心域は常に広げられている。誰あろう、ヒミリクによって。同じようにカカミの飛行都市国家にも、カザミが神域を広げている。
「まあ、別だろうな」
「別でしょうね」
しかしその心域は、あくまでも敵の侵入を防ぐための非常に薄いもの。ごく弱い力を持つ索敵用の心兵が動くのがせいぜいで、心生みや神代りだとしても戦える空間ではない。だからこそ戦闘の際は、毎回別の心域を広げるのである。
「その辺、よくわからないんですけど。心網や心船は誰でも使えますよね?」
飛行都市国家から空に下ろして、雲の下にある神の大地から食糧を捕らえるための網――それが心網だ。ときどき雲の切れ間から見える神の大地は何もない草原のように見えるが、心網を下ろせば野菜や果物がよく採れて、ときどき鳥や魚も引っかかる。
飛行都市国家でも小さな鳥や魚は獲れるが、一匹で何百人分もの食糧となる大きな鳥や魚が獲れるのは、神の大地だけである。
「修理できるのは俺たちだけみたいですけど」
その心網は誰でも使うことができる。しかしそれを修理できるのは、心生みであるヒミリクやシララスだけ。最近心域を広げられるようになるまで、それらの修理がシララスの主な仕事であった。
「ふむ。そういえば、ココカゼの心域は私の役目だからな。理論は説明……していなかったか」
「本来であれば、第一に学ぶことでしょうけど、ココカゼにはヒミリクがいますからね」
「心船かあ……あれ、私も乗ってみたいんだけど、シララスのことは放っておけないし」
「川澄はいいのか」
ウェイトレスらしからぬ発言に、シララスは反射的に突っ込みを入れる。
「うん。そもそも私がウェイトレスやる前は、レフフスさんが一人でやってたんだし、問題ないよ」
傍にいるマスターに確認もせずに断言する。レフフスを見ると、否定はしないというような表情を浮かべていた。
「ねえシララス、その辺のこともうちょっと調べてさ、私もシララスの心橋が使えるようにできないかな? カカミ観光してみたい!」
「無茶言うなよ。そりゃ、心橋を使った方が遥かに速いけどさ」
飛行都市国家間を移動する手段は、二つ存在する。一つは心橋を使った、直接の移動。生み出した心橋を渡れば数十歩で目的の飛行都市国家に移動できるが、それを使えるのは生み出した者か、生み出す力を持つ者だけ。ココカゼでいえば、心生みのシララスとヒミリクしか使うことはできない。カカミであれば、神代りのカザミがそれにあたる。
そしてもう一つが、誰でも乗れる心船。速度は遅いがカカミまでなら、数日もあれば移動可能だ。もっとも、心船は僅か二隻しかなく、カカミにある神船も同じく二隻。観光して往復するとなると、短くとも十日はかかるだろう。三分の二以上を、移動期間として。
「じゃあ、小さいのでいいから心船作れない? 十年も修理してたんだから、この中ではシララスが一番詳しいと思うけど」
「ふむ、それができるなら私も興味深いな。何分、私は一度や二度、装飾を修理したに過ぎないからな。機関部には触れたこともない」
興味を示したヒミリクの言葉に、シララスはカザミと顔を見合わせる。
「無理だな。飛行速度に関わる機関部分は修理したけど、それ以外――船体そのものは壊れたことがないんだ。速度は落ちても沈むことはない、凄く丈夫な船だよ」
「わたくしも考えてみたことはありましたが……そこまでやる必要もなかったですからね」
心船や神船は新造できない。しかし、ココカゼやカカミの人口上、二隻もあれば輸送能力で困ることはない。過去には他にも研究していた心生みや神代りがいたかもしれないが、シララスとカザミにはそこまでの熱意はなかった。
「そうなの? じゃあ、空から落ちないようにしてる心網と同じってこと?」
「多分」
「おそらくは」
シララスとカザミが同時に、曖昧に答える。飛行都市国家の端から人が落ちても、見えない網によって受け止められ、神の大地へと落ちることはない。しかし、あくまでもその感触から心網と同じものとされているだけで、実際に心網かどうかはわかっていない。
誰でも使える心網は目に見えるし、修理も必要とする。しかし落下を防ぐ心網は目に見えないし、破れることもない。その性質が全く違うのである。
「そっかー、残念」
ここでようやくシズスクは諦めたようで、彼女が諦めたことでヒミリクも興味を失った。そしてそのまま話も終わり、彼らは少しして川澄から帰宅するのだった。
「カザミさんは、このまま帰るんですか?」
並んで歩き始めてすぐ、シララスが尋ねる。並びは一番左にシララス、中央にヒミリクが並び、カザミはぴったり彼女の隣にくっつくように並んでいた。
「何を馬鹿な。ココカゼに来て、このまま帰るなんてありえません」
空には夕陽が見えていて、もうすぐ夜が訪れる。しかし、神橋が使えるカザミならすぐにでもカカミへと戻れるから、大きな問題はない。
「ヒミリクと一緒に温泉に入ってから、帰ります。あなたは……」
「あ、いつものように後でいいです。ごゆっくりどうぞ」
一人が二人になろうと、自分たちの住む宿の温泉は広い。それで時間が二倍になるわけでもないので、シララスも行動を変える必要はないと判断する。
「ふむ。いつもより少し長くなると思うが……構わないか?」
もちろんですと言うように、シララスは大きく頷く。
宿に到着。
部屋に戻るシララスと別れ、ヒミリクとカザミは並んで温泉への廊下を歩んでいた。カザミは手に何も持っていないが、ここも一応は温泉宿。温泉利用者用の手ぬぐいやバスタオル、ついでに浴衣と必要な物は一通り揃っている。
ココカゼには温泉は数多あり、設備も明らかに他の温泉宿の方が整っているため、普通は心生みと特に縁が深い者、神代りであるカザミや、マコミズの真者が利用するものだが、川澄から近いこともあってシズスクもたまにやってくる。
「こうしてヒミリクと一緒に入るのも久しぶりですね」
「数か月――七十六日ぶりだったか?」
「いえ、前回は時間もなくて別々に入ったので、百六十一日ぶりです」
「ああ、そういえば……それにしても、よく覚えているな」
「あなたたちココカゼの民と違って、わたくしたちカカミの民には温泉は特別ですからね」
「ふむ」
そういうものかとヒミリクが納得したところで、二人は温泉前の脱衣所に到着した。脱衣所で並んで着ていたものを脱ぎ、月と空の見える露天風呂へと向かう。
「久しぶりの温泉、やはり最高ですね」
遠くカカミは見えないが、カカミのある方角を向いてカザミが呟く。
「ならば、もう少し離れた方がゆっくりできるのではないか?」
透き通る温泉の中、ヒミリクとカザミは肩を微かに触れ合わせて浸かっている。そこまで小さい温泉ではないのだが、昔からこうして入っていたのでカザミが近づいてきても、ヒミリクも自然と対応する。
「ふふ、ヒミリクと一緒だからこそ、最高になるのでしょう? それとも迷惑ですか? わたくしたちも成長しましたものね」
「いや、そうではないが……まあ、カザミがいいなら良しとしよう」
ヒミリクにとっても、カザミと一緒に入るのは心地がいい。普段は一人で浸かり、たまにシズスクもやっては来るが……彼女にとって、一番気心の知れた相手はカザミなのだ。
ヒミリクのエメラルドピンクの髪は、月夜の中で濃い色彩を描く。
カザミは綺麗な結びでタオルを巻き、ルビーブラックの長い髪を結い上げている。
そして月がやや傾くまで、二人はゆっくりと温泉を楽しんでいた。